【要約と感想】諏訪哲二『学力とは何か』

【要約】「ゆとり教育」のせいで学力が下がったのではなく、学力が下がったから「ゆとり教育」に切り替えなければならなかったのです。ゆとり教育を批判した新自由主義の人々は、「学力とは何か?」ということを真剣に考えたことがないから無責任なことが平気で言えます。人格的な基盤ができていないところで、学力向上などありえません。

【感想】教育に関して、古来から「自由」か「強制」かで議論が繰り返されてきている。しかしある種の教育学は、教育のことを「自由への強制」と把握している。ここが、法学や経済学など他の人文社会諸科学では扱わないし扱えないだろう、教育学固有の領域となってくる。本書も、教育を「自由への強制」と捉える教育哲学ないしは人間観を共有している。だから、新自由主義のような単細胞(あるいは粗雑な個人主義)の世界観に対して極めて批判的となってくると同時に、単純な「強制」という立場にも与さない。

筆者の主張は、「学校」と「塾や予備校」を比べるなかで、二項対立的に鮮明に現れる。二項対立をまとめると、以下のようになる。

 学校塾や予備校
育成する学力みえない学力見える学力
育成の対象生活知識
働く場所無意識頭脳
育成の方法迂回路最速で最短
社会原理贈与交換
形式共同体から個人への強制個人の自由意志で成立
目的国民形成・市民形成専門技術・進学教育
内容ミニマムエッセンシャルマキシマムエッセンシャル
人間観合理的な人間を構成する営み合理的な個人がすでにいる

学校は、ただの生物学的なヒトを「合理的な個人」へと、つまり「人間」へと育てる営みである。自分の意志をもたなかったものに、意志を持たせる営みである。それは教育基本法第一条に明記されているように、「人格の完成」を目指す営みである。
一方、塾や予備校が行う学力向上は、既に「合理的な個人」となった人間が自分の意志によって市場に参加することで成り立つ。この市場における交換には、もともと「合理的な個人」が前提されている。逆に言えば、「合理的な個人」が存在しないとき、この市場における交換は成立しない。
要するに、塾や予備校は、学校によって「合理的な個人」が作られた社会にタダ乗りすることで成り立っている。人格の土台を作ってくれる学校がなければ、塾や予備校は成り立たない。新自由主義者はこの論理を完全に見誤っている、と筆者は主張する。
ここから、筆者の「ゆとり教育」の理念に対する肯定的な評価も出てくる。学力向上を主張する人々は、学校が果たしている人格形成の機能を無視ないしは軽視している。学力向上は、人格形成の基盤があって、はじめて成功する。「ゆとり教育」とは、学力形成の基盤となる人格形成をしっかり行おうとした試みであると、筆者は捉える。

ということで、筆者は典型的な「近代主義者」と言える。学校の役割とは、まず近代社会に必要な「合理的な個人」を作ることだと考えている。で、いったん「合理的な個人」さえ完成させれば、あとは個人の自由にまかせればよい。これは、教育を「自由を強制する」ような営みだと捉える、教育学としては比較的スタンダードな「近代主義」的教育観と言える。
が、これに対して「成熟した近代」(by宮台真司)のような世界観・歴史観もある。成長途上の未熟な近代であれば、近代社会を完成させるために、学校が「自由を強制」しながら「合理的な個人」を作る必要があったかもしれない。しかし「成熟した近代」になってしまえば、「合理的な個人」など存在しなくても世界は平気で回るようになり、強制的に「合理的な個人」を作る装置である学校は必要がなくなる。筆者が危惧するように子どもたちが「できなくなったのではなく、やらなくなった」のが事実だとしても、それは地域や家庭が市場の論理に組み込まれたせいではなく、「成熟した近代」に突入したからなのかもしれない。まあ、実態としては同じことを言っている可能性は高いのだが、近代の基盤が掘り崩されたと否定的に見るか、あるいは近代が成熟して次のステージに移ったと肯定的に見るか、世界観が異なっているわけだ。
そう見立てると、筆者の怒りは的が外れていることになりかねない。近代が終わりかけているにも関わらず、「近代主義者」が近代(その未完のプロジェクト)を続行させようとしていることになるからである。「人格の完成」という近代のプロジェクトは、「成熟した近代」にはもはや必要ない理念かもしれないのである。

「学力とは何か?」という問いの本質は、「近代」という時代をどう理解し、「学校」の歴史的役割をどう見定めるかにあるのだった。この課題に対する洞察を欠いているとき、「学力とは何か?」という問題に本質的な解答は与えられない。

諏訪哲二『学力とは何か』洋泉社、2008年