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【感想】劇団四季『パリのアメリカ人』

劇団四季『パリのアメリカ人』を観てきました(7/26、於KAAT)。

視覚的な表現が極めて高度で、とても楽しく観ました。バレエを主軸とした華麗でダイナミックなダンスと、鏡のようなアナログ装置にプロジェクションマッピングのような最新技術を加えた背景美術が見事で、眼を離す暇を与えてくれませんでした。

話は恋愛の五角関係です。一人の女性を三人の男性が好きになり、そのうちの一人を別の女性が好きになるという関係です。両想いの組ができなかったら悲惨な結末を迎えてしまう設定であります。
話の作り方はオーソドックスで、アリストテレス『詩学』が言うところの「認知と逆転」を効果的に組み込んでいます。気がついたところでは、「認知と逆転」が三個所に配置されていました。まず三人の男性が一人の女性を愛していたことが分かるところ、次に同じプロジェクトに関わっていたことが明らかになるところ、そして隠れてパフォーマンスをやっていたとことが両親に見つかるところ。それぞれ、ダンスを織り交ぜながら見事に「認知と逆転」が表現されていたように思いました。

物語の背景は第二次世界大戦直後のフランスです。ビシー政権とかマジノ線とか、独仏戦争に関わる用語が飛び交います。まあ、予備知識がなくても分かるとは思いますが、知っているとよりリアルなのは間違いないところです。
個人的に気になったのは、リズが「アルザス」にいたという情報です。アルザスは、周知の通り、フランスとドイツの間で何度も取ったり取られたりした因縁の地です。アルザス語はどちらかというとドイツ語に近い言語です。日本人なら簡単に見過ごすところですが、フランスやドイツの人が見ると、なにか含むところを感じる絶妙な設定なのかもしれません。

で、そういう背景と筋を運びながら観衆の感情を動かしていく演劇なわけですけれども。不覚にも(?)自分自身の感情が激しく動かされてしまったので、個人的なことですが記しておこうかなと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今の妻と結婚する前、とても好きになった女性がいました。ほぼ一目惚れで一発でやられていましたが、人柄やこれまでの人生を知れば知るほどますます好きになっていくのでした。こんなに一人の女性を好きになったのは生まれて初めてのことで、自分でも信じられないくらい積極的にアプローチをかけました。彼女からは「ぐいぐい来る人」なんて言われましたが、こんなにぐいぐい行ったのは生まれて初めてのことでした。ジェリーがぐいぐいアタックしているところでは、ついかつての自分の姿を思い出してしまったのでありました。まあ、あんなに華麗なダンスはもちろん無理ですが。
ぐいぐいアタックの甲斐が実ったのかどうかは分かりませんが、告白が成功して、つきあえることになりました。めちゃめちゃ有頂天。リズにOKされて川に落ちてしまうジェリーの気持ちがよく分かるのです。有頂天なのです。とても楽しい時間でした。犬を連れて成田山でウナギを食べたり、荒川巨大貯水槽を見学したり、浮世絵の展覧会に行ったり。今の妻には恐縮ですが、とても楽しい時間だったのでありました。
が、残念ながら、理由は私のほうでは未だに分かっていないのですが、彼女から別れを告げられることになりました。往生際悪く、恋人じゃなくていいから顔を見たいと頼みましたが、もう二度と会えないと釘を刺されました。心臓が止まるかと思うほどの大ショックでした。
劇中で「二度と会えないけれど、思い出は消えない」というような歌がありました。この劇ではしっかり会えるんですけれども、私は今のところ会えておりません。二度と会えないんでしょう。二度と会えないって、そう思うだけで涙が出てきます。悲しいのです。そして確かに、思い出は消えないのです。
もちろん今の妻は心から愛しているのですけれども、でもかつての恋の思い出も確かに残っております。消えません。「二度と会えないけれど、思い出は消えない」。劇で泣いたというよりは、自分の失恋経験を思い出して、ホロリとしてしまったのでした。元気にしてるかなあ。こちらは今は、とても幸せであります。

【要約と感想】小林標『ローマ喜劇―知られざる笑いの源泉』

【要約】演劇とは時代の雰囲気を反映する総合芸術であって、観客の反応を抜きにして語ることはできません。ローマ喜劇とは、外来のギリシア演劇を受容して独自の展開を見せた総合的な芸術運動と把握して初めて理解できるものであって、単にテキストだけを解釈するのでは見失うものが多いでしょう。具体的には、たとえば「プロロゴス」の在り方を見ることによって、ローマ時代の芸術運動の一端を伺うことができます。そしてその時代に寄り添う芸術運動の在り方は、まさに日本の演劇運動を理解する上での参照軸となり得るものです。

【感想】事前に想像していた内容とかなり違っていたのだが、それもまたタイトル買いの醍醐味ではある。ローマ時代の特徴を理解しようと思って手に取ったものの、本書は歴史よりも「演劇」の在り方のほうに軸足を置いていた。史料に即してストイックに語るというより、現代日本の演劇の在り方や演劇運動の意義等と往還しながら、普遍的な芸術精神に訴えつつダイナミックに二千年以上前の演劇の真の姿を再構成しようとしているのだ。実際に演劇運動の渦中にいたであろう人だからこそ、歴史の論理ではなく演劇の論理からかつての在り方を再構成できると確信しているのであろう。素人目にもかなり大胆に見える仮説を、そうとう自信を持って展開している。そんなわけで、ナルホドと思う一方で、「でも仮説だよな・・」と思う私も同時にいる。
あるいは一般的に、情報の受け手の素養が時代の空気を決めるという観点から言えば、演劇に限らず、「表現」全般に敷衍できる話かもしれないとも思った。たとえば、ローマ時代の劇作家がプロロゴス(前置き)において状況をでっちあげて観客の同情を誘う在り方は、インターネット上でのテキストの流通に対しても一般的に見られる現象だ。twitter等で、自分の発言に注目を集めようとしてありもしない状況をでっちあげることは、もはや日常的な光景となっている。われわれは、情報の受け手と想像される得体の知れないものに対して必死になって状況を捏造し続ける「情報の発信者」なのであった。

小林標『ローマ喜劇―知られざる笑いの源泉』中公新書、2009年

【感想】青年劇場「キネマの神様」

青年劇場の「キネマの神様」という演劇を観てきました。原作は原田マハの小説です。

*以下、ネタバレを含みますので、劇を見たり本を読んだりする予定がある方は、見ないようにしてください。

 

 

見たあと、とても幸せな気分になれる作品でした。それぞれ問題を抱える登場人物たちが、協力して一つのプロジェクトを成功に導いていく過程で、自分自身の問題を解決していくという筋書きです。登場人物たちの問題が複雑に絡み合うため、筋書きそのものは単純ではないのですが、一つのプロジェクトが成功に向かって行く柱が分かりやすく、最後まで作品世界に入りこんで楽しむことができました。

登場人物たちが抱える課題とは、
(1)アラフォーのヒロイン:思い込みが激しい性格が災いして、長く勤めた会社を退職。
(2)ヒロインの父親、ゴウちゃん:ギャンブル依存症で多額の借金を抱えている上に、心筋梗塞で倒れる。
(3)名画座の主:時勢の流れに逆らえず、名画座を畳まなければならないと思い詰める。
(4)映画雑誌の編集長:夫が自殺し、ひきこもりの息子を抱えている。
(5)ひきこもりの息子:ひきこもっている。
という具合なわけですが。

こういう問題を抱えた登場人物たちが、協力して「キネマの神様」という映画評論サイトを立ち上げ、自分の持ち味を存分に発揮していきます。それぞれの持ち味がチームの中でがっちり噛み合って、奇跡的な成功に向かって行きます。きっと誰か一人が欠けただけでも、この成功はもたらされなかっただろうなと思います。一つのプロジェクトを成功させようと全員が真剣に取り組むからこそ、お互いの持ち味を尊重し合い、自分の能力を最大限に発揮して、チームが一つに固まっていくのだなと思いました。

ゴウとローズ・バッドが論争のやりとりの中から友情を紡いでいく過程も、とても刺激的でした。最初はゴウを見下していたローズ・バッドが次第に相手の人格を尊重し始め、最終的にかけがえのない友情を築き上げていく展開には、ついホロリとしてしまいました。
お互いの人格を認め合えないまま相手を罵って一方的に勝利宣言して終わる昨今の不毛なtwitter的論争と比較した時に、なんと奇跡的な「論争」でしょう。こういった論争を成立させるためには、どうしても「映画を愛している」という共通項が存在しなければならないのでしょうけれども。愛している映画の前では、自分のプライドなんて、ちっぽけでつまらないものなわけですから。
ローズ・バッドは、ゴウの映画批評に対して「人間性が表れている」というような意味のことを言いました(正確な表現は忘却)。私も本の感想などいろいろなことを書き散らかしている身ではありますが、ちゃんと私の文章に私の人間性が表れているかどうか。まずは「自分自身に嘘をつかない」という意識を徹底しなければいけないなと、劇を見ながら思った次第です。

要所要所で織り交ぜられる細かいギャグも効果的で、最初から最後まで集中して見られる舞台でした。とてもおもしろかったです。

■青年劇場「キネマの神様

【感想】青年劇場「きみはいくさに征ったけれど」

青年劇場の演劇「きみはいくさに征ったけれど」を観てきました。とても良かったです。

タイトルにある「いくさ」の話がテーマの演劇と思い込んで劇場に入ったけれども、実際のテーマは、現代の若者が抱える様々な葛藤でした。家族関係や学校や進路の問題に直面して「生きる意味」について悩み、多様な人間関係の中で成長していく若者の姿が、真正面から描かれていました。

教育学に関わる者としては、「いじめ」の描かれかたにも注意を惹かれました。主人公の若者は、いじめに遭っていることを家族に訴えることができないのですが、その描かれかたが繊細で丁寧であったように思います。他人の心を思いやる力があり、相手の立場になって考えることができる人間だからこそ、いじめに遭っていることを打ち明けられないという。勇気がないとか、そういう問題じゃないんですね。周りの大人がどうサポートしてあげられるかが極めて重要であるように思いました。

で、周りの大人の代表である先生の描かれ方には、なかなか切ないものがありました。最初に出てきたときは、形式主義的で権威主義的な、単にテンプレの嫌な奴という感じでした。が、中盤以降では血の通った人間として描かれており、見終わった後となっては、いちばん意外なキャラクターとして印象に残りました。先生の人格が丁寧に描かれていたからこそ、主人公の優しさも説得力あるものになっていたように思います。
情熱と理想に溢れていた彼でしたが、臨時任用を6年も続けている間、だんだん知らず知らずのうちに熱意が削れていき、最終的にはいじめを見逃す事なかれ的な対応に終わります。彼本人の資質や能力の問題ではなく、本来持っていたはずの情熱と理想を削り落としてしまうシステムの問題だったわけです。彼が臨時任用を6年も続けているという設定を鑑みて、情熱と理想が削り落とされていく過程がリアルに分かってしまうだけに、とても切ない思いで観ていました。彼が単なる悪者で終わらず、立ち直るきっかけを掴むことができて、本当に良かったです。

幽霊として登場した詩人・竹内浩三のキャラクターは、たいへん魅力的でした。人気があるのもよく分かります。彼のキャラクターが明るくて前向きで、お芝居全体の雰囲気を底から支えてくれるおかげで、深刻になりそうなテーマにも関わらず楽しく観られました。実際に彼の詩を読んでみようと思いました。

見終わった後も、余韻が残るいい演劇でした。ぜひ若い人たちにも観て欲しいと思います。(東京公演自体は明日で終了ですが、各地を回ることになると思います。)

【感想】青年劇場「あの夏の絵」

昨日、演劇を観てきました。青年劇場「あの夏の絵」です。

心が揺さぶられる演劇でした。
広島の原爆をテーマにした劇で、現代の高校生が被爆者の証言を元に絵を描くという筋立てです。高校生たちが自分の抱える困難を自分たちの力で乗り越えていく姿、そしてそれに刺激を受けて大人たちも変わっていく過程に、引き込まれるわけですが。

原爆投下という事実を客観的に読んで理解するという作業では体感できないような生々しさは、さすが演劇の力でした。おそらく現代高校生の主観的な視点から出来事を捉え、理解しようと努力し、彼らの言葉で再構成して、自分の言葉として語り直すというプロセスが、とてもリアルだったのだと思います。役者さんは、キャラクターの個性が際立つ、迫真の演技でした。迫力がありました。そして観客としても、客観的な歴史的事実として把握するべきものではなく、自分の言葉で再構成して語り直すべきものとして見えてきます。

僕が思い出すのは、僕の故郷がかつて「ソ連の核ミサイル第一攻撃目標」だったことです。僕の家から直線距離にして1kmくらいのところに米軍の通信基地がありました。高さ250mの鉄塔が8本、田んぼの中に聳え立っていて、東京から故郷に帰るときに新幹線の車内からもよく見えました。新幹線の車窓から鉄塔が見えると「帰ってきたなあ」と思ったものです。夜は鉄塔に明かりが灯り、どこかから帰るときは瞬く赤い光を目印にしていました。地平線が見えるほど田んぼ以外に何もなかったので、どこからもよく見えました。雷は必ずその鉄塔に落ちたので、子供の頃は雷が鳴っても怖くありませんでした。

その鉄塔から、アメリカ軍は超短波通信で原子力潜水艦に指令を送っていました。逆に言えば、その基地さえ最初に潰してしまえば、原子力潜水艦に指令が伝わらず、ミサイルが発射されないというわけで、ソ連はその通信基地を核攻撃第一目標に設定していたのです。その事実を僕が知ったのは小学3年生の頃でした。NHK特集で、核戦争の恐怖というような番組をやっていて、何気なくテレビを眺めていると、レポーターが「ここがソ連の核ミサイル攻撃第一目標です」と言います。「どこだろう、かわいそうに、一番最初に死ぬんだ」などと思っているうちに、画面が切り替わって、なんのことはなく、家から直線距離1kmくらいの鉄塔が映し出されたわけです。

次の日、さっそく図書館に行って、核ミサイルが飛んできたときの対処法を調べました。子供心に、穴でも掘って隠れられるかと思ったわけですが。で、分かったのは、水爆の着弾地点から1kmくらいだと、人間は熱風で蒸発して消えてなくなるということでした。ものすごい恐怖が背筋を駆け上ったのを覚えています。不幸なことに、家は小牧空港に向かう飛行機が上空を通過するルート下にあったので、頻繁に「ゴー」という音が鳴りました。そのたびに「ミサイルじゃないか」と不安に駆られて、しゃがんだのでした。それがミサイルだったら、どっちみち蒸発するだけなので、しゃがんだところでどうしようもないのですが。

幸いなことに、実家近くの米軍基地は、現在は既に撤去されていて、十分の一サイズの鉄塔の模型だけが公園に残されています。もはや原子力潜水艦に指令を送るのは軍事衛星の役目となり、地上にある通信施設はお役御免となったわけです。うちの故郷は、もうミサイルの恐怖とは無関係の、のどかな田舎町になりました。戦争になった時、真っ先に頭の上からミサイルが降ってくるのは、僕ではなく、別の誰かになりました。僕が子供の頃に感じた恐怖を、今は代わりに別の人が抱いているわけです。

で、僕は恐怖から逃れられて、それでいいということになるのだろうか、とも思うわけです。あの恐怖を他人に肩代わりさせて満足というのは、何かが間違っている気がしてならないのですが、具体的にどうすべきかはよく分かりません。どうしてもどこかの誰かが引き受けなければならないものなのかもしれません。とはいえ、恐怖を他人に肩代わりさせることに居直っている人々の声が胡散臭く聞こえるのは、どうしようもありません。

演劇「あの夏の絵」を観た帰り道、そんなことを思ったのでした。