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【要約と感想】スピノザ『国家論』

【要約】国家権力を語る際には、哲学者のように夢見がちな空想ではなく、経験と実践を第一にリアリスティックに考えましょう。『エチカ』で示したように人間の本性を捉えれば、人間というものは理性というよりは欲望と感情で動くものです。だから、人間の欲望と感情のメカニズムを踏まえて制度を組み立て、運用しないと、国家は滅びます。
 人間も含めたあらゆる個物は自然の法則に従い、生まれ持った欲望と力を自由に使います。しかし人間は協力したほうがより安全で文化的に生活できるので、自由に使えるはずの自然権を抑制するようになりますが、人々が相互に援助して作る権力とはそういう安全にお墨付きを与えるべき役割を持っています。ゆえに国家権力は人々より強力な力を持ちますが、人間の自然(つまり自由)に反してまで権力を行使することはできません。
 国家の形態には君主制・貴族制・民主制の3種類がありますので、人間の本性と自然の法則を踏まえ、それぞれの形態で具体的によりよい国家の制度と運営の在り方を考察します。(未完)

【感想】本文でも明確に言われているように、本書の総論は『エチカ』の欲望論・自由論に『神学・政治論』の自然権論・国家論を掛け合わせて成り立っている。スピノザの他の本と比較して、とてもとっつきやすい。一方、各論に入ってからは、ところどころ見るべきところはあるものの、現代の政治学の水準から見ると物足りない感じは否めない。マキアヴェッリを高く評価しているところがあって、空想論ではなくリアリスティックに現実政治を観察しているスピノザの姿をうかがい知れるのがおもしろいくらいか。
 しかし本書は、当時のオランダが置かれた状況を視野に入れると、とたんに抜き差しならないものに見えてくる。本書に限らず、『エチカ』にせよ『神学・政治論』にせよ、単に学問としての学問ではなく、現実と切り結ぶ意志が明確にあったのだろう。未完のまま終わってしまって、スピノザの民主制論が読めないのが残念だ。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約論
 本書には『神学・政治論』と違って社会契約論が見当たらないという評価があるらしいが、個人的に思うところでは、確かに「契約」という言葉そのものは出てこないけれども、スピノザ流社会契約論の一端はしっかりうかがえるように思う。

人類に固有なものとしての自然権は、人間が共同の権利を持ち、住みかつ耕しうる土地をともどもに確保し、自己を守り、あらゆる暴力を排除し、そしてすべての人々の共同の意志に従って生活しうる場合においてのみかんがえられるのである」第2章第15節

 まずスピノザにとっての「自然権」は、特に人間に限ったものではなく、無機物ですら「自分を維持しようとする傾向」として持っている。だから上記に引用したところで「人類に固有なものとしての自然権」とわざわざ言っているのは、人類には他の個物と異なる理性があって、その理性によって相互に自然権を抑制し合うことを想定しているからだ。それを踏まえれば、あえて「契約」という言葉を使っていなくても、何らかの合意を経て社会が形成されたとみなしているということで、まったく問題ないだろう。

【個人的な研究のための備忘録】有機体論
 国家を人体の比喩として理解するような表現がたくさん見られた。

「人間が共同の権利を持ちそしてすべての人々があたかも一つの精神によってのように導かれる場合においては(後略)」第2章第16節
国家の体躯あたかも一つの精神によってのように導かれねばならず、したがってまた国家の意志はすべての人々の意志とみなされなければならぬから(後略)」第3章第5節
「国家の権利は、あたかも一つの精神からのように導かれる多数者の力によって決定される(後略)」第3章第7節
「要するに王は国家の精神として、またこの会議体は精神の外的感覚あるいは国家の身体として考えられるべきである。」第6章第19節
「このようにして統治権すなわち国家は常に一にして同一なる精神にあることができるのである。」第7章第3節
「国家の外形は常に一にして同一でなければならず、したがって王は一人にして一系、統治権は不可分でなければならぬ。」第7章第25節

 国家を人体の比喩で捉えることはもちろんプラトン『国家』以来の西洋哲学の伝統で、スピノザに限った話ではない。ここにも見られるということだけ押さえておく。

【個人的な研究のための備忘録】立憲主義
 立憲主義的な表現が見られる。

「思うに国家の諸基礎は王の不変の決定とみなされなければならず、したがって王の役人たちは王が国家の諸基礎に矛盾するようなことを命じた場合は、その命令の実行を拒んでこそ真に王に服従することになるのである。」第7章第1節

 ここで言う「国家の諸基礎」が現在の憲法に当たる。憲法に反する命令は君主でも行えないという立憲主義が示されている。

【個人的な研究のための備忘録】大学
 思いがけず、大学に関する記述があったのでサンプリングしておく。

「国費によって建てられる諸大学は精神を涵養するためによりはこれを抑制するために設立される。しかし自由国家にあっては学問ならびに技芸は、公然と教師として立つことを希望者の誰にでも許し、しかもそれをその者の費用その者の責任において行わせる時に最も繁栄する。」第8章第49節

 スピノザは国立大学を保守的・国権的な立場を擁護するものとして捉える一方(実際伝統的に高位聖職者養成機関として機能してきた)、私立の教育機関の自由な活動が学問や技芸を発展させると考えているようだ。そもそも考えてみれば、スピノザ自身も大学にポストを得て活動したわけではなく、レンズ磨き(?)などをしながら自由な学究生活を続けていた。デカルトもそうだ。いま自分は「費用」を出してもらってのうのうと研究しているわけだが、自活しながらやっていた人たちには頭が下がる。

【個人的な研究のための備忘録】マキアヴェッリ
 マキアヴェッリに対して好意的な表現がある。スピノザに限らず、マキアヴェッリを権謀術数の徒ではなく、共和制の擁護者として考える立場は根強くある。『君主論』だけでなく『ディスコルシ』とか『フィレンツェ市史』などを見ると、確かに共和制にシンパシーを感じているだろうと思える。スピノザも共和制に共感する立場としてマキアヴェッリを評価しているということだろう。

「マキアヴェリはおそらく、自由な民衆が自己の安寧をただ一人の人間に絶対的に委ねきることをいかに用心しなければならぬかを示そうと欲したのである。」第5章第7節

スピノザ/畠中尚志訳『国家論』岩波文庫、1940年

【要約と感想】國分功一郎『スピノザ―読む人の肖像』

【要約】スピノザの思想はしばしば難解と言われますが、人生や歴史的背景を踏まえ、最新の研究動向をふんだんに盛り込んで、すべての著書に目を配って全面的に解説します。
 最初の本はデカルト哲学の解説本ですが、スピノザはデカルト哲学体系に不満を持っていて、特に方法論を全面的に修正します。デカルトとは異なる総合的方法を準備するために、次の著書『知性改善論』で能動的な実践に導く発生的定義に取り組みますが、不十分なまま未完に終わります。続いて『エチカ』のプロトタイプともみなされる『短論文』では「力」の観点にたどりついていますが、こちらも出版されません。
 主著『エチカ』では、神を含めたすべてを「原因」からの発生的定義で幾何学的に記述し、「目的論」を完全に排除します。精神や延長は神の無限の属性の一つで、個物は神の様態です。「結果」とは個物が「力(コナトゥス)」を発揮した「表現」であり、その「変状」の過程に「自由意志」が介在する余地はありません。客観的な善悪などはなく、個物の「力」を増す組み合わせが善で、減らす組み合わせが悪です。だから「力」を表現する「欲望」の在り様こそが個物の本質ですが、それを「意識」して神の本質とシンクロさせたときが至福であり、自由です。
 『神学・政治論』では旧約聖書の荒唐無稽なデタラメさを言語分析と自然学的な観点から逐一批判しつつ、宗教の現実的機能は否定しません。政治論的には「法=lex」と「自然権=jus」の違いを踏まえた社会契約論的な記述がありますが、自然権の放棄を主張しない(というかできない)ところがホッブズやルソーとの決定的な違いです。

【感想】該博な教養を背景として丁寧な読解に基づいた明快な構成と明晰な文章で、よく分かった気になる。とても勉強になった。読み込みすぎていて、「意識」の説明のあたりはスピノザの意図を超えているような印象が無きにしも非ずだが、優れた「原理」というものは有益な知識を次々と産み出す生産的なものだとデカルトも言っているので、この「意識」に関する議論は少なくともスピノザの原理から必然的に生成された知見ということで問題ないのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格の完成
 「完全性」に関する言及があった。

完全であるとは完成しているという意味であり、そして完成しているとはもともと、人間が何かの制作を企て、その企てを成し遂げた場合を指していたのだろうとスピノザは言う。つまり完全性とはある人の意図した目的が達成されたことを指していた。言い換えれば、完全であるとか不完全であるなどと言えるのは、その意図された目的が知られている場合に限られていたということだ。」279-280頁
「スピノザはそれに対し、それ自体において見られた事物という観点を導入する。事物はそれ自体で見られる限り、完全でも不完全でもない。或る事物が不完全と言われるのは、「それらの物が、我々が完全と呼ぶ物と同じようには我々の精神を動かさないからであって、それらの物自身に本来属すべき何かが欠けているとか、自然があやまちを犯したというためではない」。したがって、或る意味で全てのものは完全である。」281-282頁

 この「完全性」とか「完成」の議論からただちに想起するのは、教育基本法の第一条に「教育の目的は人格の完成」と規定されていることだ。目的論を排除し、完全性概念にまとわりつく偏見を批判するスピノザからすれば、二重に間違っている規定ということになるだろうか。制定過程を振り返ってみれば、この教育基本法第一条「人格の完成」の規定にこだわったのは、カトリック教徒でもあり、さらには法学者として「自然法」の普遍性を唱える時の文部大臣、田中耕太郎であった。あらゆる面でスピノザと相性が悪いのは当然なのだろう。
 ともかく、スピノザの観点を踏まえて教育基本法第一条「人格の完成」というものを考え直してみると、まず何らかの模範(イデア)に向かって子どもの教育を行うべきだという話にならない(それは子ども固有のコナトゥスに反する強制になる)し、そもそも教育という生成的な営みを「目的」から組み立てるなという話になるだろう。あるいは、子どもには子どもとして「それ自体で見られる限り」の完全性が既にあるのだから、完成しているものの「完成」を目指すのはまったく意味が分からない。このスピノザの観点は、子どもの権利条約や子ども基本法によって子どもにも大人と同様の権利(jus)があることが改めて確認されたことと響き合う。そんなわけで、子どもを「人格が完成されていない者」と決めつけるカトリック的現行教育基本法はスピノザ的には何重にも間違っているし、子どもの権利条約にも噛み合わないので、スピノザ風に目的論ではなく生成的に書き直してみると、たとえば、「教育の役割は、各個人のコナトゥスを活性化し、それぞれの完全性を増すこと」とでもなるか。

【個人的な研究のための備忘録】自然権と社会契約論
 『神学・政治論』に現れる社会契約論について、かなり突っ込んで議論を展開している。

「良心と意識の無区別は、前章で扱った、ホッブズによって指摘された法と権利の無区別ともある程度重なることになる。権利(jus)の届く地点が法(lex)の覆う領域の外にまで及ぶことが着想すらされない場合、つまり、人の為しうることは社会的規範によるその既定の内に収まっていると当然のように想定されている場合、権利と法は特に区別される必要がない。」295頁
「だとすると、以上のスピノザの思想は、ロックが説いたような、意識をその根拠とするいわゆる近代的個人を前提としない仕方で世俗的な国家や政治社会を捉える可能性と必要性を示していることになる。」296頁

 教育学的には、なかなか示唆するところが多い指摘だ。というのは、著者は議論を世俗的な国家や政治社会に限っているが、教育学者の私はここの記述から、「学校」や「教室」という、ある意味では一つの社会と呼べる空間をすぐさま想起する。で、子どもというものは「未だに近代的個人」となっていない存在であって、ロックやルソーのように「近代的個人を前提」とする仕方では社会(学校や教室)を構成できないわけだが、スピノザのように「近代的個人を前提としない仕方」であれば子どもを構成員とする社会における「権利」というものを捉えられる理論的可能性が生じるからだ。
 そもそも、どうして赤の他人である教師が赤の他人である子どもに対して言うことを強制的に聞かせる「権力」が生じるのか、その権力の源泉はどこにあるのか、という議論が教育法学で連綿と続けられており、戦前であれば「特別権力関係理論」、戦後であれば「国民の教育権論」が唱えられてきた。国民の教育権論の構造は、大雑把には、親の持つ教育権が「信託」されることによって教師に権力が生じると説く。ポイントは子どもにはもっぱら「学習権」が認められるべきで、それは放棄も譲渡もできない天賦の権利だとされていることだ。つまり、国民の教育権論の構造では、子ども自身が権利を放棄したり譲渡したり信託したりする社会契約論にはなりようもない。ところがスピノザのように「近代的個人を前提」としないかたちで社会の成り立ちを捉えると、ひょっとしたら子ども自身の「自然権をそのまま」にする形で学校や教室という社会を成立させる理屈が立つのかもしれない。

【個人的な研究のための備忘録】有機体論
 有機体論について、気にかかる記述があった。

「この引用箇所は、多数者をまるで一人の人間に準えるかのようにして、国家の権利は、あたかも一つの精神からのように導かれる多数者の力によって決定されると述べている。」388頁
「『国家論』は多数者というアクターに注目した。だが、そのアクターを精神の概念と結びつける時、言い換えれば、指導層がまるで国家の精神のように存在していて、それによって動かされる国家の身体が多数者であるかのような話になる時には、必ずこの特殊な言い回しが現れているのである。」389頁
「つまり、『国家論』では、国家が精神と身体の隠喩で国家が語られるときには、その隠喩性を強調する表現がしつこく繰り返されている。」390頁
「したがってスピノザの国家理論はどちらかと言えば、有機体論的図式に近い。確かに、国家は統治権に基づいて導かれねばならない――あたかも一つの精神によって導かれるかのように。この言い回しを多用する『国家論』は、確かに、国家を一つの生き物のように分析している。」392頁
「この言葉のラディカルな含意を次のように定式化できるであろう。人間を国家のように考えることはできないし、国家を人間のように考えることもできない。」393頁

 私も昔から「有機体論」の表現に注意を払ってきたつもりで、スピノザ『国家論』に連発される有機体論的表現にも着目せざるを得ない。そういう関心から言うと、本書の行論には疑問なしとしない。第2章第6節の「国家の中における国家のように」という表現は、有機体論とは関係ない文脈で突如として挿入されている。確かに「人間を国家のように考えることはできない」と言っているが、「国家を人間のように考えることもできない」とはどこにも書いていない。しかもスピノザは、「精神」を持つのは人間に限らないと主張した哲学者である。国家が「精神」を持っているとさらっと書いていても、何の違和感もない。本書は、少々読み込みすぎているような印象がある。

國分功一郎『スピノザ―読む人の肖像』岩波新書、2022年

【要約と感想】アウグスティヌス『神の国』

【要約】「地の国」と「神の国」があります。アッシリアやローマなど人間が自分の知恵と才覚で治めていると思い込んでいるのが「地の国」で、一方、三位一体の神を信じて帰依する人々が集うのが「神の国」です。「地の国」は最後には滅び、「神の国」には真の浄福が訪れます。
 それを証明するために、間違った考えを持つ人々を次々と全方位に論破します。まずはローマ市民が信仰する多神教、続いてストア派やエピクロス派や新アカデミア派などの哲学者たち、さらに一番てごわい新プラトン主義、イエスをキリストと認めようとしないユダヤ教、そしてカトリックの教義に逆らう異端者たちをことごとく論破します。
 主な論点は、多神教の非合理性、ダエモン論、自由意志/因果論、天使論/悪の由来、幸福論、イエスの神性と受肉/三位一体の認否、旧約聖書の象徴的解釈、新約聖書のカトリック的解釈などなどです。

【感想】「地の国/神の国」と二項対立を設定し、あらゆるものや事象を二項対立の観点から迷いなくズバズバ切り分けることで、極めて分かりやすい論理構成になっている。何の迷いもなく確信を持って言い切ったら説得力が生じるという典型的な論理のように読んだ。
 ただし、ある論理が無謬であることをその論理の内部から証明することは論理的に不可能であり、したがって論理全体の整合性を内的に担保するためには必ず何らかの「特異点=物語」を必要とするし、無謬であることを証明するためには必ず「外部」を請求することとなる。本書は「特異点」を「聖書の無謬性」、「外部」を「復活の奇跡」として設定している。この2つの物語・設定に対して「ちゃんちゃらおかしい」と思う立場からは、本書全体が荒唐無稽なタワゴトにしか見えなくなる。実際、カトリック信者以外には、荒唐無稽だろう。たとえば仮に同じキリスト教徒であっても、プロテスタントから見たら、ちゃんちゃらおかしい(特に旧約聖書の象徴解釈)のではないだろうか。アウグスティヌスを扱った概説書をいくつか読んでみたが、この荒唐無稽な部分は、例外なく完全に無視されている。無視するしかないのも、分からないではない。しかしこの「バカバカしい子供じみた奇跡を信じる」という「特異点」がなければアウグスティヌスの思想体系そのものが成立しないことは、肝に銘じておかなければいけないと思う。その大事な要点に正面から突っ込まず、合理的に容認できるところだけ都合良く掬い取ってくるような研究というものは、あまり意味がないようにも思うのだ。(まあいちおう、17世紀の人文主義者モンテーニュがアウグスティヌスの語る奇跡を荒唐無稽に見えると断じた上で、しかしそれを単純に否定し去るのは人間の側の無知と傲慢に過ぎず、いったい誰がアウグスティヌスより鋭敏な精神を持っているかを考慮して軽はずみな真偽の判断は保留するべきだと言っていることにも触れておこう。『エセ―』第1巻第27章。)

 とはいえ、荒唐無稽だからといって読む価値がないかというと、即座にそう邪険にする必要もない。論理の整合性を保つために「特異点」を必要とするのは特に本書に限った話ではない。逆に「特異点」さえ客観的に特定して押さえておけば、あるいは特異点を特定するようなメタ的な視点を伴えば、本書の論理体系=世界観に呑み込まれることなく、楽しく読みこなすことができるというものだ。そう思って読めば、本書全体を貫く敬虔で誠実な姿勢は、たとえば実質的には著者が伝えたいだろう「霊」の概念を確かに漲らせていて圧倒的な迫力がある。すごい。本書全体に漲る「霊」の概念に対しては、個々のエピソードが荒唐無稽かどうかに関わらず、ある種の尊敬の念と畏怖の感情が湧いてくる。これがアウグスティヌス個人の「人格」の力というものだろう。「何を言っているかではなく、誰が言っているかが重要だ」ということをまざまざと見せつけるような本なのかもしれない。こんな凄い人が言っているのだから信じてもいいかな、と思わせるような。そしてそれは本書最大の特異点とも響き合う。「何を信じるかではなく、聖書が言うことを信じる」という。で、いったんこうなると、もはや外部が存在しない絶対無謬の無敵論理になって、二度と論破されなくなるわけだ。

 また一方たとえば、著者の知的な批判精神は形式的にであれ当時の哲学全般に対する確かで鋭い批判となっている。的確に相手の痛い要点を突いてくる哲学批判に対しては、謙虚に耳を傾ける価値がある。おもしろい。
 具体的には、キケローのストア派的な論理やエピクロスの快楽論、さらには新プラトン主義の論理をばったばったと斬りまくる。自由意志と運命論の関係、時間論等については、近代以降にカントがアウグスティヌスの立論をおさらいするような形で再論することになるだろう。さらに新アカデミア派の懐疑論に対する反駁は、あたかも近世デカルトの「我思うが故に我あり」を先取りしたような論理だ。というかデカルトのほうがアウグスティヌスをパクったのだろう。(※改めてデカルトを読んだところ、この見解の相似について当時の人々もすぐに気がついたようで、デカルト本人にも様々な照会があったようだが、どうもデカルト本人はアウグスティヌスの所論を本当に知らなかったようだ。パスカルも『幾何学的精神』で言及している。)
 哲学批判に当たっては、「神の国/地の国」の二項対立が極めて有効に働く。特に論理の焦点となるのは「幸福論」の位置付けに思える。ギリシア・ローマの諸哲学は、一方で理念として「神の国」を仰ぎながら、幸福論の次元においては「地の国」に足を着けたままでいる。だから著者は、その引き裂かれた矛盾を突いていくだけでよい。そういう意味ではむしろ唯物論(デモクリトスやエピクロス)に対する切れ味はかなり鈍い。無神論に対しては批判のとっかかりがまるでない、というところではある。著者もそれは十分に自覚しているようで、本書では意図的に無神論者を相手にしていないように見える。逆にいちばんカトリックの立場に近い新プラトン主義者を説き伏せることには、極めて多大なエネルギーを割いている。
 こういう著者にかかれば、ローマの多神教のバカバカしさは、本当にバカバカしく見えてくる。多神教をバカにする論理はそのままそっくり日本の八百万神にも当てはまってしまうのが悲しいところではあるのだった。

 しかしそうなると最大の問題になるのは、「神の国」と「地の国」を橋渡しする「中間=メディア」の扱いになる。もし仮に「神の国」と「地の国」が完全な二項対立で、お互いに重なるところがまったくないのであれば、お互いに干渉することが不可能なのだから、そもそも議論する意味が前提から崩れる。だから二項対立図式を維持したままで、それでも相互に干渉することを可能にするためには、「中間=メディア」が絶対に必要になる。哲学史的には、ソクラテスがこの中間物を「エロス」に比定した(饗宴)ことは有名で、プラトンや新プラトン主義もその考えを基本的に引き継ぐ(というか饗宴に描かれたソクラテスの考えはプラトンの創作である可能性が高い)。しかしアウグスティヌスは、これを徹底的に批判する。なぜなら、カトリックにとって「神の国」と「地の国」を繋ぐものが「イエス・キリストの受肉の奇跡」に他ならず、ここが信仰の最大の特異点だからだ。絶対に譲るわけにはいかない。だからアウグスティヌスは中間物としての「ダエモン」を徹底的に、完膚なきまでに批判する(ダエモンとは、ソクラテスが言うところのエロスにあたる)。現代の我々の目から見れば、なんでそんなに熱心にダエモンを批判しなければいけないのか、まったく理解しがたい。しかしカトリックにとっては、この論点こそが天王山なのだ。「受肉という奇跡」を受け容れられるかどうか(そしてそれはユダヤ教とキリスト教を鋭く峻別する決定的なポイントにもなる)。現代の我々はともすると一笑に付してしまう話ではあるのだが、先入観を排除してよくよく考えてみると、この「受肉」という概念は極めて奥が深い。カトリックの教義に帰依するかどうかは別として、一生懸命に向きあってみる価値はあるように思うのであった。

【今後の個人的な研究に関するメモ】
 さすがに「ペルソナ」や「三位一体」に関する言及が豊富な本だった。納得するかどうかはともかく、カトリックの公式見解として味わっておきたい。

「このばあい、神ご自身のペルソナが、もちろんご自身の実体によってではなく――神の実体は死すべき者の視覚にはつねに見られないままであり続ける――、創造者の下に服する被造物を媒体とする確実なしるしによって明らかとなったのであった。」10-15

「したがって、わたしたちが神について語るばあい、二つの、または三つの神々を語ることがわたしたちにはゆるされていないように、いま述べられたような仕方で、わたしたちは二つの、または三つの始原を語るわけではない。わたしたちもそれぞれについて、すなわち、御父について、御子について、聖霊について語るとき、それぞれが神であるということを認めているのであるけれども、だからといって、サベリウスの異端説のように、御父が御子と同じであり、聖霊が御父および御子と同じである、とはいわない。わたしたちは、御父は御子の父であり、御子は御父の子であり、聖霊は御父と御子の霊であるが御父でも御子でもない、というのである。」10-24

「それというのは、単純な善から生れたものはそれと同じように単純であり、それがそこから生れたところのものと同じであるからである。この両者を、わたしたちは父と子とよぶのであり、そしてこの両者は、その霊とともに一なる神である。この父と子の霊は、聖書において、その名のいわば固有の意味で聖霊とよばれる。」11-10
「それゆえ、本質的に、真に神的であるとところのものが単純であるといわれるのは、それらのものにおいて、性質と実体とが別のものではなく、またそれらのものが、それら自身以外のものにあずかることによって、神的であったり、賢明であったり、至福であったりするのでもないからである。なるほど、聖書において、知恵の霊は、それ自身のうちに多くのものをもつゆえに多といわれているが、しかし、聖霊は、それがもつところのものであるとともに、一なるものとして、そのもつところのものすべてである。すなわち、多くの知恵があるのではなく、一なる知恵があるのであって、そのうちに、可知的なものの、いわば無限のしかも知恵の霊にとっては有限な宝があり、そしてそれらの可知的なもののうちに、その知恵を通じてつくられた可視的で可変的であるもののすべての不可視的で不変的な観念があるのである。」10-11

「それゆえ、各々の被造物について、だれがそれをつくったか、なにによってつくったか、なにゆえつくったかと問われるとき、わたしがさきにあげた三つの答え、すなわち、「神が、みことばによって、善なるがゆえにつくった」という答えに立ち帰ってみるのに、神秘的な深い意味において、三位一体――父と子と聖霊――自体がわたしたちに暗示されているのか、それとも聖書のこの箇所において、そのように解することを妨げるなにかが起こるのか、それは簡単に論じ去れない問題であり、また一巻によってすべてをせつめいすることを要求されてはならない。」11-23

「わたしたちはこう信じ、こう確立し、こう忠実に述べ伝える。父はみことばをお生みになった。みことばというのは万物がそれによってつくられた知恵であり、独り子である。一なる父が一なる子を、永遠なる父が等しく永遠なる子を、最高の善なる父が善なる子を生みだされたのである。そして聖霊は、父の霊であると同時に子の霊であり、聖霊は父と子とも実体を同じくし、それに等しく永遠である。この全体は、それぞれの位格の特殊性のゆえに三位でありながら、分かたれない神性のゆえに一なる神であり、それと同じように分かたれない全能性のゆえに一なる全能なものである。しかしそれにもかかわらず、その一々についてたずねてみても、その各々が神であり、全能と答えられるのであり、他方、そのすべてについていっしょに考えてみると、三なる神があるとか、三なる全能なものがあるとは答えられはしないで、一なる全能な神があるとこたえられるのである。このばあい、三なるものにそれほどまでに分かたれない統一性があり、そしてこの統一性がそのように述べ伝えられることを要求したのである。さて、善なる父と子との聖霊は、父と子との両者に共通であるゆえに、父と子との両方の善性とよばれて正しいかどうか、わたしは軽率な判断を早急に下すことをさし控えるが、しかしそれにもかかわらず、聖霊は両者の聖性である――といっても両者の性質であるのではなく、聖霊もまた実体であり、三位一体における第三の位格である――となら、いうことをはばからないであろう。わたしがこのような考えを抱くようになるのは、おそらく、父も霊であり、子も霊であり、また父も聖であり、子も聖であるが、それにもかかわらず、第三の位格は、実体的なしかも両者と実体を同じくする聖霊として、本来の意味において聖霊とよばれるからであろう。」11-24

わたしたちは、わたしたち自身のうちに神の像を、すなわち、かの最高の三位一体の像を認める。その像は、神と等しくはなく、いや、神とははなはだしく異なり、遠くかけはなれ、神と等しく永遠ではなく、一言でいえば、神と実体をおなじくはしないけれども、それにもかかわらず、神によってつくられたもののうち、それよりも本性上、神に近いものはなにもないのである。そしてその像は、なおその上に、神に似てもっとも近くなるように、なおつくりかえられて完成されるべきである。すなわち、わたしたちは存在し、わたしたちが存在するということを知り、わたしたちがこの存在し、知るということを愛するのである。」11-26

 そして「人間の完成」に関して、有機体理論が随所に示されていることもメモしておきたい。そしてその論理自体は聖書そのものに示されていることも記憶しておきたい。

「一つのからだには多くの肢体があるが、すべての肢体が同じはたらきをしていないように、わたしたちも数多いが、キリストにおける一つのからだであって、おのおのはたがいに肢体であるからである。そしてわたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物をもっているのである」。これこそが、「数多いが、キリストにおける一つのからだ」であるキリスト者たちの犠牲なのである。」10-6←「ローマ人への手紙」12の3-6

「他方、他の者たちが「天に属する人」と名づけられるのは、かれらが恩寵をとおしてキリストの肢体となって、キリストがかれらと共に、あたかも頭と身体のごとくにひとつとなられるからである。」13-23、3-241

「だからして使徒パウロは、「わたしたちは多くいても、一つのパン、一つのからだである」といっているのである。」17-5←「コリント人への第一の手紙」10-27

「というのは、正しい比によって調整された多様な音色の和合というものは、調和のとれた多様性のうちに共に融合されて、よく秩序づけられた国の一性を暗示しているからである。」17-14

「それからこの地上で四十日間弟子たちと共にすごされ、かれらの注視のうちに天にのぼられて、その十日後に約束しておられた聖霊をおくられたのであった。当時、信じていた者たちへの聖霊の到来についての最大の、そしてもっとも重要なしるしは、かれらのだれもがあらゆる民族の言語で語ったということである。そのようにして、カトリック教会の一性がすべての民のうちに存在するであろうこと、そして、そこからしてすべての言語で語るであろうこと表示しているのである。」18-49

「ここで、全き人とは何を意味するかをわたしたちは知るのである。すなわち、かしらと身体とが一つになり、そして、それらは然るべき時に完成されるであろう。肢体は日々にこの身体に加えられ、教会が建てられるのである。この教会については、「あなたがたはキリストのからだでり、ひとりびとりはその肢体である」といわれ、また、他の箇所では、「教会であるかれのからだのために」といわれ、さらに他の箇所では「わたしたちは多くいても、一つのパン、一つのからだである」といわれている。そして、身体を建てることについて、ここではこういわれている。「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせる」。それからわたしたちが引用したことばが加えられて、「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致とかれを知る知識の一致とに到達し、全き人となり、キリストの満ちみちた年の大いさにまで至る」云々、といわれている。ここにいわれている大いさと身体について、いかに理解すべきであるか、かれは説明している。すなわち、「万事において成長し、かしらなるキリストに達するのである。かれによって全身が結ばれ、すべての節々の助けにより組み合わされ、それぞれの部分は分に応じてはたらき」といっているのである。
それゆえ、それぞれの部分に大いさがあるように、そのすべての部分から成る身体全体にも「キリストの満ちみちた年の大いさ」といわれている満ちみちた大いさがあるのである。この完成については、使徒はキリストについて述べた他の箇所でもいっている。「そして神はかれ(キリスト)を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」。」22-18←「コリント人への第一の手紙」12-27、「コロサイ人への手紙」1-24、「コリント人への第一の手紙」10-17、「エペソ人への手紙」1-22、「詩編」112-1

「そこでは、劣った者がすぐれた者をうらやみ、天使たちが大天使たちをうらやむことはない。だれも受けなかったものを受けようとはおもわないが、すでに受けた人とはかたい絆で結ばれているのである。ちょうど、身体においても、指は目になろうとはのぞまないがごとくである。それぞれが全身の肢体において結ばれて、調和のある結び付きのうちに包含されているからである。したがって、人が他の人より少ししか賜物を受けていないとしても、それ以上はのぞまないという賜物もまた受けているのである。」22-30

 まあ、エヴァンゲリオン「人類補完計画」とか、あるいは『地球幼年期の終わり』や『ブラッド・ミュージック』に描かれているように、個々人の境界線が融解して一つの有機体になったときが「人間の完成」というイメージである。この「完成」というイメージが、はたして教育基本法第一条の「人格の完成」にどこまで投映されているか。

 またあるいは、近代の民族国家(nation-state)は、国家を文字通り「身体」として表現してきた。特にドイツ国家学(あるいは官房学)は、国家を「君主を頭部、国民を肢体」というように、露骨に身体になぞらえて描写してきた。日本にはシュタイン等を介してもちこまれ、「国家有機体説」として影響力を持った。さてところが一方、本書では、アッシリアやローマなど「地の国」はそもそも「国家」としての体をなしておらず、それに対して本当に「国家」と呼ぶにふさわしいのは「神の国」だけだと言うのだが、その根拠こそがまさに上に引用した「キリストを頭部、教会を肢体」という有機体イメージであった。論理構成そのものは、近代の国家学とまったく変わりがない。さらにそこにアウグスティヌスが言う「神は命の命」などという言辞を組み合わせると、19世紀の「生命主義」の思想とも考え方がオーバーラップしてくる。そう考えていくと、民族国家(nation-state)の実質的な誕生は確かにフランス革命以後19世紀初頭あたりであるとしても、実は必要な素材は既にアウグスティヌスの段階で揃っていたようにも見えてきてしまうわけだ。ドイツ国家学者は、アウグスティヌスの論理そのものを換骨奪胎して、「神の国」の構成を「地の国」に当てはめた、ということかもしれない。あるいは中世においてはそれらの資源をカトリック教会が独占していたが、宗教改革以降に各種素材が俗世国家へと払下げされて馴致された、ということなのかもしれない。

 さて、そしておそらく著者自身が本当にいいたいことではないだろうけれども、するっと当時の教育の様子が分かるようなエピソードを書いているのもメモしておきたい。

「愚かさと無知そのものが小さからざる罰である。それを避けるために、子どもたちが苦痛にみちた罰によって技能や学問を学ぶことは当然であると考えられているほどである。それに付随する罰は苦痛にみちたものであるので、かれらによっては、しばしば学ぶことよりも、むしろ学ぶことをかれらに強制するところの罰を甘受したいと思うほどである。
もしも死を堪え忍ぶか、ふたたび幼児になるか、という選択に直面するなら、身震いして恐れ、死を選ばない者がだれかいるであろうか。じっさい、幼児は笑いと共にではなく涙と共にこの世の生をはじめるのであって、このことはある意味で、どんな悪に出会わねばならないかを無意識のうちに予告しているのである。」21-14、5-309

「じっさい、小さい子どもたちに、その愚かさを抑えるためにわたしたちが用いるさまざまな恐怖は何であろうか。教育、教師、棒、皮ひも、枝むち、その他すべての強制手段は、聖書が教えるように愛する子の横腹を打って、かれらが粗暴なまま成長するのを抑えるためであり、また、強情を張って教育をまったく受けつけない、あるいは、ほとんど受けつけない、といったことをなくすためである、
これらの罰はすべて、わたしたちがその悪を伴ってやって来た無知をとり除き、邪悪な欲望を抑制するためでなければ何であろうか。わたしたちは、想起するためには労苦をもってするが、忘れるためには労苦はなく、学ぶためには労苦をもってするが、無知でいるためには労苦はなく、活動的であるためには労苦をもってするが、怠惰でいるためには労苦はない、というのは、どういうことであろうか。ここからして、わたしたちの損なわれた自然本性が、いわば自分の重みにしたがって傾いて落ちていくのは何に向かっているのか、そして、そこから解放されるためにはどれほどの助けが必要であるか、が明らかとなるのではないであろうか。怠惰、無気力、怠慢、無関心、――これらはたしかに労苦を逃れようとする悪徳である。労苦は、わたしたちにとって有益であるときでさえ、それ自身は罰だからである。
しかし、年長者は、罰なしにみずから欲するところのことを少年に教えられないとしても――年長者が欲するところのことは少年の益になることはほとんどないのであるが――、それ以外にも、人類はどれほど多くの、そしてどれほどきびしい罰によって苦しまされていることであろうか。」22-22

 アウグスティヌスによって教育や学校とは、本質的に「罰」なのであった。おそらくその考え方は西洋中世を通じて変わらないのだろう。

アウグスティヌス『神の国(一)』服部英次郎訳、岩波書店、1982年
アウグスティヌス『神の国(二)』服部英次郎訳、岩波書店、1982年
アウグスティヌス『神の国(三)』服部英次郎訳、岩波書店、1983年
アウグスティヌス『神の国(四)』服部英次郎訳、岩波書店、1986年
アウグスティヌス『神の国(五)』服部英次郎訳、岩波書店、1991年