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【要約と感想】ジャック・アタリ『教育の超・人類史』

【要約】人類は長い間学校ではなく家庭や職場を通じて知識を伝達してきましたが、500年前の印刷術普及と宗教改革によって知識が社会に広がり始め、120年ほど前から学校による知識伝達が当たり前になりました。
 しかし過去の教訓から考えれば、教育によって社会を改善できると考えるのは幻想に過ぎず、さらに現在はテクノロジーの発達によって急速に状況が変わりつつあり、根本的に考え方を改めないと人類は滅びるでしょう。

【感想】著者出身のフランスの事情だけやたら解像度が高く、他の地域についてはスカスカだというツッコミは置いておいて。まずは女性に対する教育と子どもに対する虐待について全時代・全地域に渡って丁寧に目配りしているのは、ものすごく感心した。素晴らしい。逆に、従来の教育通史がこの問題にいかに無関心だったかが浮かび上がる。
 また、過去の教育から引き出される教訓については、教育学を専攻する者からすれば苦々しい話ではあるが、なるほどと思わざるを得ない。理想的な教育を行ったからといって、理想的な社会になるわけではない。教育にはできないことがたくさんある。
 勢い、悲観的なディストピアに説得力が出てくる。そして現実世界の動きを見ていると、悲しいことに、預言が当たりそうな雰囲気が漂っている。
 まあ私がいくら心配したところで現実は変わらないので、まずは自分にできることをできる範囲で丁寧にやっていくしかない。幸いなことに、著者が示す明るい未来の可能性に関わる仕事に、私も参加できそうではあるのだ。

【要確認事項】
 古代を持ち上げて中世を下げている。これは中世を暗黒時代と決めつける古臭い歴史観のようにも思えるが、大丈夫か。

ローマ時代の記述に続き「ところが、教育の普及はまもなく崩壊した(ただし、ユダヤ人社会は除く)。その後、世界で大衆の教育レベルがこの程度にまで回復するのには一五〇〇年以上を要した。」74頁

 一方、商業が発達したオランダやイタリアでは世俗的な教育が発達しているような記述がある。経済史や教育史の専門家はもうちょっと慎重な書き方をしているように思うが、ここまで断定的に言いきって大丈夫か。

「一〇世紀以降、フランドルの港町の商人や貴族は、「子供は純真な存在」と考えるようになり、子供の教育に熱心になった。なぜなら、読み書き算盤の能力を必要とする仕事が急増したからだ。(中略)仕事に忙しい商人は、自分たちの知らないこれらの知識を(将来の従業員に)教える学校を必要とした。つまり、聖職者がラテン語で祈りを唱える小教区学校の出番ではなくなったのだ。」107頁

 印刷術により知識普及の質と量が格段に上がったことはマクルーハン以来の常識ではある。が、中世の書物の価格が「家一軒分」というのはハスキンズが引用する史料に出てくるくらいだと思うのだが、何の根拠があって言っているのか。まあ中世の書物の価格について具体的に言及するものは少ないので、ありがたく参照させていただくが。

印刷術の登場によって「書物の価格は急落した。手書きの本の価格は家一軒分だったが、キケロの著作の印刷版の本の価格は、すぐに教授の一か月分の給料と同じくらいにまで下落した。」137頁

 私の理解では、デューイは『学校と社会』で「人格」という概念を前面に打ち出すような話をしていないが、著者は何を見てそう言っているのか。

「一八九九年、当時のリベラリズムに触発された心理学者ジョン・デューイは『学校と社会』を出版し、シカゴ大学内に実験学校を設立した。デューイの考える学校のおもな役割は、子供が「人格」を養うこと(完全な自己実現に導く習慣と美徳を身に付けること)だった。」300頁

【個人的な研究のための備忘録】学校教育
 教育史では常識に属するが、人類の長い歴史の中で学校教育という形式は例外的だ。常識が示されたテキストということで、いちおうサンプリングしておく。

「社会を機能させるのに必要な知識の伝達は、世界中で何千年もの間、一九世紀中頃までは、おもに学校抜きで、学校外で、さらには学校に反して行われてきた。学ぶ時期は子供時代であり、これは現在も変わらない。学びの場は一般的には家庭であったが、多くの子供が職場で学んでおり、女子は学ぶ機会を持たなかった。学びの場では虐待が横行していた。」19頁
「今日、われわれが「学校」と呼ぶ施設は、各種教会の神官や権力者に仕える高官の養成を除き、ほとんど何の役割も担っていなかった。」75頁

ジャック・アタリ/林昌宏訳『教育の超・人類史』大和書房、2024年

【要約と感想】J.L.アブー=ルゴド『ヨーロッパ覇権以前』

【要約】16世紀以降に西ヨーロッパはアメリカ大陸からの収奪によって原始蓄積を進めることでグローバルな世界システムの覇権を握りましたが、それはヨーロッパの科学や技術や思想や文明にアドバンテージがあったからではなく、ただそれ以前の13世紀から存在した世界システムの衰退による権力の空白にたまたま便乗できただけです。
 13世紀には西欧―東地中海ー中東ーインドー東南アジアー中国の各サブシステムが連動して各地域を結ぶ交易が活発に行われ、資本主義的な流通・金融・生産様式が発達しました。モンゴル帝国の覇業によって、中央アジア内陸ルートの終着点である中国北部と、紅海・ペルシャ湾を経由するインド洋ルートの終着点である中国南部が繋がり、世界システムが駆動するようになりました。しかし14世紀半ば以降はペストの流行やモンゴル帝国の衰退に伴って世界システムに綻びが生じ、元を引き継いだ明にもインド洋海上交易ルートを確保する経済的余裕がなく、インド洋海上ルートに権力の空白が生じ、そこに西欧がつけ込みました。

【感想】まあ、広域的な統一権力が成立すると国家が積極的に関与しようがしまいが流通や金融取引のコストとリスクが下がって交易が盛んになり、都市後背地の商品作物生産とマニュファクチュアも発達するという、言ってみればそれだけの話を、世界的規模で地政学的な知見も絡めながら展開したからおもしろく読める本になっているのかな、と思ってしまった。本書でも言及されているように、紀元前後のローマ帝国と漢帝国のように東西に広域権力が並び立った時にはシルクロードを通じた交易が栄えた。本書が扱う14世紀には、モンゴル帝国が中央アジアと中国北部さらに中国南部を広域支配し、ムスリムがエジプトからペルシャまでを広域支配したことで、政治的安定を背景に交易が栄えた。またたとえば江戸時代の日本は幕藩体制による広域的な政治的安定を土台として商品経済が発達した。海賊や山賊の恐れがなければ流通のコストが下がり、ルール違反者を取り締まる治安が良ければ金融のコストが下がる。戦争がなければ商品作物の生産力やマニュファクチュアが発達する。広域的統一権力は、民兵を取り締まり、治安を強化し、戦争を起こさないことで、経済を発展させるための土台となる。
 しかしその広域統一権力による平和と安全を土台とした経済発展が永久に続くことはない。なぜなら、商品経済の進展に伴って地域ごとの役割が固定して格差が拡大し、矛盾が看過し得ないところまで拡大したところで広域統一権力の破綻が起きるのは必定だからだ。もちろん21世紀の現在は、大方の世界システム論者が予見したとおり、パックス=アメリカーナが破綻しつつあるところ、ということになるのだろう。やれやれだ。

【個人的な研究のための備忘録】ルネサンス
 本書の趣旨からいえば脇筋のテーマになるのだが、ルネサンスに関わるイタリア諸都市の位置づけについてメモしておく。

「南ヨーロッパは、北西ヨーロッパが被った世界からの分離や再結合の過程を経験することはなかった。暗黒時代に北西ヨーロッパではたとえ光が消えたとしても、イタリアでは光が灯りつづけていたのである。」58-59頁
「もしこの定義を使うとすれば、ジェノヴァとヴェネツィアの都市国家(フィレンツェや他のイタリアの内陸商業都市は言うまでもなく)が、多少のちがいこそあれ、十三世紀までにはほぼ資本主義国家であったことに、疑う余地はほとんどないだろう。」155-156頁

J.L.アブー=ルゴド『ヨーロッパ覇権以前(上)』岩波現代文庫、2022年<2001年
J.L.アブー=ルゴド『ヨーロッパ覇権以前(下)』岩波現代文庫、2022年<2001年

【要約と感想】橋場弦『古代ギリシアの民主政』

【要約】紀元前5世紀以降にアテネを中心として東地中海に広がった民主政は、かつてはローマ帝国による支配後(2世紀半ば)に衰退したと思われていましたが、碑文調査など最新の実証研究によってその後に成熟していたことが分かりました。本書では民主政の要件として(1)広範囲の参政権(2)一人一票の原則(3)最高意思決定機関としての民会(4)役人抽選制(5)市民裁判権を挙げ、アテネを中心に民主政の実態を解説します。アテネの民主政を支えたのは、地域共同体レベルで民主政の精神と制度が根付き、人々が考え方と運用に習熟していたからです。プラトンやアリストテレスなどの権威的著作者による「衆愚政」とのレッテル張りによって現代知識人の間でも民主政に対する固定観念は根強いのですが、古代民主政とは思想として理論化されたり著述されたりするものではなく、実際に生きるものであり、一つの共同体をみんなで平等にわかちあうものです。

【感想】30年以上前に世界史で習った知識とはずいぶん異なっていて、教養は定期的にアップデートしておくべきだ、と改めて実感したのであった。陶片追放やソクラテス裁判の意味など、勉強になった。
 プラトンやアリストテレスは知的エリートとして、クセノフォンは軍人エリートとして、それぞれ民主政に対して批判的な姿勢を示している。キレッキレの君主が統治すれば下々の者は幸せになれる的思考は、いくら田中芳樹が批判しようが、根強く人々を捉えている。ただソクラテスに関しては、確かに「人々を導く教育」に関しては衆愚観を隠さないものの、それは一般の人々をコケにしようというよりはソフィストたちを批判する際の視点であって、政治の場面では民主政を遵守していたし、実際に国法には最後まで従った。本書は「有罪票を投じたアテナイ市民の立場に立てば、この判決はけっして不条理なものとは言えない」(168頁)と言うが、それはない。「〇〇の立場に立てば、不条理ではない」というのは、形式論理的に当たり前の話で、陰謀論だってなんだって正当化できてしまう。何も言っていないに等しい。たとえば「プラトンの立場に立てば、民主政を批判するのは不条理ではない」となる。お師匠さんを殺されたわけだから。
 ソクラテス裁判の判決は、民主政にあっても間違いなく不条理だった。民主政だって無謬ではない。ただし民主政以外の政体だったとしたら、ソクラテスは100回くらい有罪になっていただろう。僭主に奴隷に売られてしまったプラトンを見よ。ソクラテス裁判を不条理だと認めたからと言って、民主政を排除するという話にはならない。我々がどんなに愚かだろうと、実際愚かなのだが、民主政を成熟させていくしかない。民主政の良いところは、科学の手続きと同じく、「かつての過ちを認められる」ところにあると思う。「無謬」を主張する者ほど信用ならない。

橋場弦『古代ギリシアの民主政』岩波新書、2022年

【要約と感想】井上文則『軍と兵士のローマ帝国』

【要約】ローマ帝国はローマ軍でもっていたと言っても過言ではありません。ローマ共和政は紀元前2世紀半ばに属州を得てから統治の在り方が大きく変化し、軍では従来のアマチュア的な市民軍からプロの職業軍人へと変わります。アウグストゥス帝に至って給料制の常備軍となりますが、経済的背景にはシルクロード貿易を通じた関税収入があります。しかし2世紀の大規模な疫病と対外戦争を経て、機動軍の創設や能力主義的な人材抜擢など軍の在り方が大きく変わり、属州出身者も軍で出世するようになって、軍の実力を後ろ盾とした軍人皇帝が続出します。属州防衛のために東西を分担して統治するようになりますが、本格的にゲルマン移動が始まると、経済圏が崩壊して西ローマ軍の質と量が劣化し、軍にも異民族を大規模に取り入れるようになります。最後は異民族に滅ぼされます。

【感想】ユーラシア大陸全体の動向を視野に入れて分析し、シルクロードの交易による収入がローマ帝国草創期の常備軍を支えたと主張するのは、なるほど、説得力を感じる。アンティオキアやアレキサンドリアの地政学的な重要性がとてもよく分かる。

 一方気になるのは、ピレンヌテーゼではゲルマン民族移動などたいしたことなかったとみなしているのに対して、本書は教科書通りゲルマン民族移動をローマ帝国衰亡の原因として当然視しているところだ。異民族の侵入に対して属州の人々が反抗しなかった理由として、本書は軍隊の駐留形式(民家に分泊)を挙げているけれども、ピレンヌだったら「そもそも大したことがなかったし、異民族の方がローマ文明に同化した」と言うところだろう。
 ピレンヌの主張の肝は、仮にローマ皇帝が廃位されて政権が変わったとしても、文化的には旧来のローマ的生活を問題なく引き継いでいるというところだ。そういう観点からは、一般市民から切り離された軍隊がどれだけ変化あるいは衰亡しようと、一般市民のローマ的生活には何の影響も与えないということになる。確かに476年に政権としての西ローマ(および軍)は滅びたかもしれないが、ローマ的生活が終了するのは6世紀にイスラム勢力がシリアとエジプトを抑えて西地中海の交易システムが崩壊した時だ。アレクサンドリアから地中海を通じてもたらされる物品が途絶えると、古代ローマ的生活は崩壊する。
 そういう観点からは、本書もシリアとエジプト(あるいはヘレニズム世界)の地政学的な意義を極めて大きく見積もっているところは印象的だ。従来の通説的な見方では、世界の境界としてユーフラテス川が自明視されていたが、それは「ローマ帝国」を実態視する故の錯誤に過ぎず、本質的な境界線は西ローマと東ローマの間にあると言う。西ローマは地中海世界(現代で言うヨーロッパ)で、東ローマ以東はヘレニズム世界だ。つまりビザンツ(東ローマ)はヨーロッパに近いのではなく、ヘレニズム世界に近いということだ。この視点は、「ローマカトリック=ラテン語世界/ギリシア正教=ギリシア語世界」のあまりの違いを考える上では、極めて有効に働きそうだ。たとえば、文化的にはラテン世界ではキケロ的な雄弁術の伝統が前面に出て来るのに対し、ビザンツではギリシア語的な神秘主義の伝統が前面に出て来る、ということになるか。

井上文則『軍と兵士のローマ帝国』岩波新書、2023年

【要約と感想】アンリ・ピレンヌ『ヨーロッパ世界の誕生―マホメットとシャルルマーニュ』

【要約】ヨーロッパの歴史において、ゲルマン民族侵入はこれっぽっちもたいしたことがありません。ドイツ人たちはゲルマン民族の力を不当に過大評価しすぎていますが、完全に間違いです。ゲルマン民族はヨーロッパの文化の発展に対して微塵も貢献していません。ゲルマン民族は単に移動してローマの文化に染まっただけでした。ローマ時代に発展した行政・司法・経済・文学などはゲルマン民族侵入後もそのまま保たれ、学校制度や識字能力も失われていませんでした。たとえば具体的にはメロヴィング朝にはローマの経済・精神生活が色濃く残っていました。
 ところがカロリング朝に入ると、まったく様相が変わり、ローマの経済・精神生活は見る影もなくなります。というのは、勃興したイスラム教が地中海を封鎖したことによって古代以来の通商ルートが完全に失われ、ローマ文化を維持するために不可欠だった商品の流通が途絶えた上に、人や情報の交流も断絶したからです。教育は行われなくなり、リテラシーも失われました。西ヨーロッパは商品経済から土地中心経済へと急速に衰退し、教育や行政に教会の聖職者が入り込んできます。カール大帝の戴冠とは、古代ローマ文明が完全に失われ、政治・経済・宗教・教育の閉じたシステムとして中世ヨーロッパが誕生したことの象徴です。

【感想】個人的には、納得感が半端ない。バラバラなピースが全部びしっとあるべきところに嵌まり込むような爽快感を覚える快作だ。具体的なバラバラのピースとは、地中海貿易、ゲルマン民族大移動、西ローマ帝国滅亡?、ボエティウスの学識、学校と識字の消失、ビザンツ帝国の役割、ルネサンスに至るイタリア半島の文化的意味、カール戴冠の意味、中世ヨーロッパにおける教会権力といったところだ。これらの諸要素を見事に一つの世界観に収めてみせる理屈には惚れ惚れとするしかない。まあ、もちろんドイツ人は納得しないだろうし、なるほど細かい実証レベルの話も含めて賛否両論もあろうかというところだが、このピレンヌテーゼに対して個人的には賛の側につきたい。

【個人的な研究のための備忘録】識字と教育
 ヨーロッパのリテラシーと教育を考える上で看過ならない記述が大量にあった。

「東方から運ばれて来た、消費量の大きいもう一つの商品はパピルスであった。当時未だ羊皮紙は高級品として特別の目的に使用されるに過ぎなかったから、この日常一般の筆記用紙を、帝国全域に向けてエジプトが独占的に供給していたのである。ところでゲルマン民族侵入の後にも、侵入前と同様に、文字を書くことは西方世界全体で行われていた。それは社会全体に欠くことのできない要素であった。国家の司法活動、行政活動、いな敢て言えば国家の運営そのものが文字を不可欠の前提としていたのであり、それはまた社会的諸関係についても妥当することであった。」134頁

 ローマ時代にあんなに栄えていた雄弁術なども含めたリテラシー(及びそれを支えた教育システム)がどのように失われたかは、実はあまりよく分かっていなかった。472年の西ローマ帝国滅亡に伴って文化も同時に失われたかと思いきや、どっこいボエティウスのような知識人がしっかり育っていたりする。ボエティウスがいるということは、6世紀の段階ではまだ教育システムやリテラシーは失われていなかったとみなすしかない。ピレンヌの言うことには合点するしかない。

「いわばかれ(エンノディウス)は、神聖な雄弁術の教師にありかわった修辞家であった。かれの叙述から知られるところでは、ローマでは依然として修辞学の学校が大繁盛をしていた。」167頁
知識人と学生たちの憧憬の的であったコンスタンティノープルの影響を見逃してはならない。この都市には就中有名な医学校があったらしく、トゥールのグレゴリウスの著作の多くの個所からそれを立証することができる。」172頁
文法および修辞学を授ける学校で教養を積んだ元老院貴族の階級が、高級役人の高級源であった。カッシオドルスのごとき、またボエティウスのごとき人物の名前を想起するだけで充分である。そしてこうした人物の死後も、文運の衰退にもかかわらず、同様の状態が続いたのである。」190頁
「こういったすべての役人たちのために学校があったことは明らかである。(中略)ランゴバルド王国においてさえ、学校が存続していた
 西ゴート王国では、文字を書く能力がきわめて広く普及していたから、国王は法典の写本の代価を公定したほどであった。このように読み書きの能力は、行政に関与するすべての人々の間ではごく日常的な事柄だったのである。」192頁

 そんなわけで6世紀にはまだ学校システムが存続し、リテラシーも広範に維持されていたわけだが、7世紀半ば以降にイスラム教が西地中海を封鎖することで既存のシステムが崩壊する。

(イスラム帝国による地中海封鎖に伴って)「学校はそれ以来教育を弘めることをやめてしまった。」336頁
「商業が衰退してしまい、その結果、土地が嘗てないほど経済生活の本質的な基礎になった、と。」357頁
「教養のある人士がもはや聖職者の間にしか求めることができなかったことも事実である。あの危機の間に役人の教育が途絶えてしまったからである。宮宰からして読み書きの術を心得ていなかった。民衆の間に教育を普及させようとしたカール大帝の理想家肌の努力も成功を収めず、宮廷学校の生徒の数も少かった。聖職者と学者が同義語である時代が始まりつつあった。最早ラテン語を解する者の殆どいなくなった王国で、その後の幾世紀にもわたり行政事務にラテン語を用いることを強制した教会が、重要な地位を占めるようになったのはこのためである。この事実のもっている意味をとっくりと考えてみる必要がある。この事実には測りしれない意味がある。ここに出現したものこそ中世の新しい特徴なのである。即ち国家を自分の影響の下におく宗教的階層である。」370頁
「これに対してイタリアではラテン語の存続はより完全なものであった。しかもローマやミラノでは、孤立しながらも若干の学校が引き続いて存続していた。」377頁

 世俗的な教育システムが崩壊し、リテラシーが失われ、教会が知識を独占する。地中海との人・モノ・金の流通が途絶した西ヨーロッパの経済と文化は一気に衰退していくが、一方でイタリアへの影響は限定的だったとのことだ。ビザンツ帝国との関係が大きな意味を持つということだろう。そしてこの流れはシチリア王国などを経て、大雑把にはフィレンツェ(ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョ)にも引き継がれていくと考えていいのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】ローマ皇帝
 この流れを踏まえると、800年のカール戴冠の歴史的意味も明確になる。

「嘗てのローマ帝国の称号とは異なり、カールの皇帝称号は何らの世俗的な意味あいも持つものではなかった。カールの即位は何らかの帝国的な制度を背景にもつものではなかった。ローマの保護に当たっていたパトリキウスが、一種のクーデターによって教会を保護する皇帝になったのである。」324頁

 西ヨーロッパ(フランク王国カロリング朝)は7世紀半ばに途絶した古代ローマ帝国の文化を復活させることを完全に諦め、あるいは忘却し、新たな経済圏の構築を始める。カール戴冠とは、その断絶を象徴する出来事だ。これ以降は、アルプスを南北に繋ぐルート(後の神聖ローマ帝国)やベルギー・オランダなどの低地地方、ノブゴロドから黒海に抜けてコンスタンティノープルに至るルートなどが重要な地政学的意味を持つことになるだろう。

アンリ・ピレンヌ、増田四郎監修、中村宏・佐々木克巳訳『ヨーロッパ世界の誕生―マホメットとシャルルマーニュ』講談社学術文庫、2020年<1960年