【要約】トマス・アクィナスの思想について、従来はその論理的な側面ばかりに注目が集まっていましたが、その魅力は、実は「感情論」によく現れています。トマスの感情論を具体的に検討することで、それが徹底的に「肯定」の精神に基づいていることを解き明かします。すると最終的には、カトリックの根本原理である「善の自己伝達」=「愛の共鳴」が明らかになります。
【感想】個人的な感想では、ヨーロッパ思想家の「論理的な面」にばかり日本人が注目するのは、特にトマス・アクィナスに限った話ではない。古代のプラトン(饗宴やパイドロス)にしろアリストテレス(弁論術)にしろ、近代のアダム・スミス(道徳感情論)にしろデカルト(情念論)にしろ、西洋哲学は常に「情念=パッション」を思考の対象としてきた。それを見逃してきたのは、日本人の側の問題だ。要するに、感情論について西洋から学ぶことはないとたかをくくっているというだけのことだ。
しかし情念論がヨーロッパの思想家にとって極めて重要なのは、それがイエス・キリスト論に直接的に結びついているからだ。具体的には、「神は情念を持つのか?」という問題に明確な解答を用意しておく必要があるわけだ。そしてもちろん神が情念を持つはずはないという結論は最初から決まっており、その結論を成立させるために生じる多種多様な矛盾を丁寧に整理しておかなければならない。特にイエスが十字架にかけられた時に嘆いたり悲しんだり苦しんだりするなど明らかに情念を表現しており、一般キリスト教信者にとってはそれで何も問題ないわけだが、哲学者・神学者の方はそういった聖書の情念表現と「神は情念を持たない」という命題を両立させなければならない。明らかに矛盾する課題を達成するための前提として、「情念」を徹底的に分析しておく必要が生じてくる。
本書も、まず前半では人間のレベルで「情念」を取扱ったあと、後半で「神の情念」の問題に突入する。神の情念というテーマが、近年の研究でも大問題になっている様子がよく分かる記述になっている。で、それは、カトリック信者ではない私からすると、あらかじめ決まっている結論に着地するために飛躍が甚だしいアクロバティックな理屈を恣意的に言い放っているようにしか見えないわけではあるが、「そういう考え方もあるのか」と理解するぶんには吝かではない。実際、特に「受肉」に関する論理については、眼鏡っ娘を理解するために極めて有益な示唆を与えてくれる。伊達に何百年も論理を鍛え上げてきているわけではない。勉強になる。
【この論理は眼鏡っ娘学にも使える】
本書は神学という学問の意義を次のように説明する。
「神学という学問は、狭い意味での信仰者のみにとってしか意味を有さないのではなく、人間に関する普遍的な洞察を与えてくれるもう一つの「光源」ともなりうるのだ。」p.146
ここの文章に出てくる「神」という言葉を全て「眼鏡っ娘」に置き変えると、私が常に言っていることとほぼ同じ内容になる。私は常々「眼鏡っ娘が分かれば世界が分かる」と言い続けてきたわけだが、その理屈は、こういうことなのだ。
■山本芳久『トマス・アクィナス―肯定の哲学』慶応大学出版会、2014年