目次
「人文主義」とは何だったか
ルネサンス人文主義とは何だったのか。この問いに対して、「古典好きの教養人たちの運動だった」と答えるのでは、あまりに浅い。また逆に、「キリスト教に対する反乱だった」と言ってしまうのも、やはり乱暴である。むしろ人文主義の本質は、神学を正面から否定することではなく、キリスト教世界の内部に、神学だけではないもう一つの知の中心を据え直したところにあった。そこでは神の奥義ではなく、人が人としてよく語り、よく判断し、よく生きるための学が前景に出る。その看板が、「studia humanitatis」であった。
この「humanitatis」という言葉は、近代的な意味での「人類一般」や「人間そのものの研究」を意味していたわけではない。むしろそれは、人を人間らしくする教養、陶冶、言葉づかい、判断力、徳の教育を指していた。だが、ここにこそ決定的な転換があった。なぜなら、その「人間らしさ」の模範として人文主義者たちが読み直したのは、キリスト教徒ではなく、ギリシアやローマの異教徒たちだったからである。キケロ、セネカ、プラトン、さらにはギリシア語そのものまでが、「誤りを含みつつも、人を高める教師」として復権する。こうして、真理や徳の担い手は、もはや教会の内側だけに限定されなくなる。
もちろん、当の人文主義者たちは、必ずしも自分を反キリスト教だとは思っていなかった。多くはむしろ逆で、古典を用いることによってキリスト教をより純化し、より深く理解し、よりよく語ろうとした。異教古代は「隠れ蓑」ではなく、まずは「利用可能な遺産」として入ってきたのである。しかし、ここに一つの危うさが潜んでいた。異教の哲学者や詩人たちが、単なる準備学ではなく、ほとんどキリスト教徒に近い徳と理性を備えた先行者として読まれ始めたとき、キリスト教だけが真理の唯一の器であるという感覚は、必然的に薄くなる。人文主義は表向きには教会の敵ではなかった。だが、その方法そのものが、教会の自己理解を静かに揺らしていた。
この緊張を最も鮮やかに示す人物が、アウグスティヌスである。彼は人文主義にとって、最大の味方であると同時に最大の障害でもあった。味方であるのは、彼自身がキケロや新プラトン主義を通じて高みに引き上げられ、異教の学知の中にも真理の断片があることを認めていたからだ。異教の金銀を奪って神のために用いよ、という彼の比喩は、人文主義者たちにとってまことに便利な免罪符になった。しかし彼は同時に、きわめて重要な一線を引いていた。プラトン派は高いことを語りうる。だが、受肉したキリスト、十字架、へりくだり、救済への道はそこにはない。異教哲学は神を垣間見せても、そこへ至る道を与えない。ここでアウグスティヌスにとって決定的なのは、「理性」ではなく「信」である。しかもそれは、単なる命題の承認ではなく、キリストという仲保者に身を委ねることであった。
ところがルネサンス人文主義は、このアウグスティヌスの二段構えのうち、前段だけを大きく育て、後段をしばしば弱めた。すなわち、「異教にも真理はある」という部分は熱心に受け継ぎながら、「しかし道そのものは信にしかない」という断絶の感覚を後景に退けていったのである。すると何が起こるか。異教古代は、キリスト教の前座ではなくなる。理性と教養によって人はかなりのところまで到達できる、という感覚が生まれる。信は出発点ではなく、完成や浄化として位置づけられ始める。ここに、アウグスティヌス的な恩寵の鋭さを鈍らせる力が潜んでいた。
しかし、人文主義者たちは一枚岩ではない。この危うさに気づいて立ち止まる者もいれば、気づきながら先へ進む者もいた。ペトラルカは前者に属する。彼は古典愛に駆動されながらも、そのまま古典へ身を預け切ることができない。彼の内面には常にアウグスティヌスがいて、人文主義が開いてしまう深淵を見張っている。哲学の目的は抽象知ではなく、魂の世話であり、古典は人を高めても最後の救済線には届かない。彼は人文主義の創始者でありながら、その最も危険な含意を全面展開するところまでは行かない。いわば彼は、アウグスティヌスに叱られながら人文主義を始めた人である。
これに対してヴァッラは、はるかに危うい。しかもその危うさは、異教復活を叫ぶことによってではない。彼はもっと深い場所を掘る。すなわち、キリスト教と異教の境界を支えていた神学的語彙、権威、方法そのものを、言語と本文の側から崩しにかかる。スコラ学のラテン語を人工的で不自然だとみなし、古典ラテン語と生きた言語使用を基準にして概念の足場を問い直す。ここでは、問題はもはや「異教に惹かれるかどうか」ではない。恩寵や信仰すら、権威づけられた術語の中ではなく、言語、歴史、本文批判の法廷で語られるべきものになる。ヴァッラは恩寵を否定するとは言わない。だが、恩寵を語る舞台装置を総入れ替えしてしまう。その意味で彼は、ペトラルカよりもはるかに深く、中世世界の床板を抜いている。
こうした流れを遠くから眺めると、ダンテの位置がいっそう鮮やかになる。ダンテもまた古典を深く愛した。ウェルギリウスは彼にとって最大級の導き手であった。だが、それでもなお、古代とキリスト教のあいだには最後の門が残る。異教は尊敬され、抱きしめられる。けれど救済の中心には入らない。ダンテは古代を愛しても、最後の一線では越えないのである。これに対してルネサンス人文主義は、その門前に立ち、あるいは門の敷居を低くし始める。異教徒たちも、かなりのところまで来ていたのではないか。そう思い始めたとき、門はもはや絶対の境界ではなくなる。
ルターがこの流れを警戒したのも、よく分かる。彼は理性一般を否定したのではない。だが、理性が神学の核心に、すなわち救済や神認識の領域にまで入り込み、自力到達の楽観を生むことを激しく警戒した。だからこそ、彼にとってエラスムスとの論争は、単なる自由意志の技術的な争いではなく、人文主義そのものがどこまで救済論に入り込めるかをめぐる争いでもあった。古代のアウグスティヌス対ペラギウスが、16世紀には、教育・修辞・聖書解釈・人間形成を巻き込みながら、ルター対エラスムスとして再演されたのである。舞台装置は新しいが、争点の芯は古い。人は自力でどこまで行けるのか。恩寵はどこから不可欠になるのか。
だから、ルネサンス人文主義の本当の新しさは、「異教を復活させた」ことにはない。そうではなく、異教古代のうちに、キリスト教世界と連続しうる理性、徳、教育、文体の規範を見いだし、それを正統な学知として承認してしまったことにある。神学の外に、しかしなお全面的な反宗教ではない形で、「人間一般の理性」が活動する部屋をつくったこと。それがstudia humanitatisの意味だった。その部屋は当初、教会を豊かにするために増築された。しかし一度つくられてしまえば、そこは教会だけでは閉じきれない空間になる。人文主義とは、その静かな増築であった。そして、その増築がやがて、信仰と理性、異教とキリスト教、恩寵と教育のあいだの壁そのものを薄くしていったのである。
要するに、人文主義は反キリスト教ではない。けれど、ただのキリスト教内部運動でもない。それは、キリスト教世界の内部に生まれた、キリスト教を相対化しうる知の形式だった。異教を愛することは、もはや外部への逸脱ではなくなる。むしろ、理性を持つ人間であるかぎり、誰もが触れうる普遍的な真理と徳の領域があるのではないか、という問いが、そこから静かに立ち上がる。その問いの始まりに、humanitatis という看板が掲げられていたのである。
「雄弁術」とは何だったか
もし現代人が「雄弁術」と聞けば、たいていはまず警戒する。うまく喋る技術、相手を言い負かす話法、政治家や広告屋の操作術。せいぜい「プレゼン力」くらいの意味にしか取られない。しかし、ルネサンス人文主義がクインティリアヌスに見たものは、そういう末梢的な技法ではなかった。そこでは雄弁は、考えたことを飾って外へ出すための包装ではなく、人が人として完成していく過程そのものに属していた。なぜならhumanitas自体が、単なる知識量でも内面的な「人格」でもなく、よく語り、よく判断し、よく公共世界に関わることのできる人間のあり方を意味していたからである。studia humanitatisが文法・修辞・詩・歴史・道徳哲学を核とし、「神のことを知る学」ではなく「人が人としてよく生き、よく語り、よく判断するための学」として立てられていた以上、雄弁はその中心から外れようがなかった。
ここでクインティリアヌスが決定的だったのは、彼が修辞を単独の技法として扱わなかったことである。彼の教育論は、幼年期から成人までを視野に入れ、文法、読書、模倣、作文、朗誦、判断、道徳訓練、人物形成を一つの連続体として組み立てていた。つまり「うまく話す人」を作ろうとしたのではなく、「よく生きることができ、その生を言葉として公に担うことのできる人」を作ろうとしたのである。ルネサンス人文主義者にとって、これほど都合のよい古典はなかった。プラトンは高すぎ、アリストテレスは強すぎるが、そのままラテン語学校の教本にはなりにくい。だがクインティリアヌスは、ラテン語で、しかも学校でそのまま使えるかたちで、人間形成の全体図を示してくれる。だから彼は、現代人の感覚よりはるかに中心人物になった。
この点が見えにくいのは、近代以後の私たちが「思考」と「表現」を別物だと感じているからでもある。まず頭の中に本当の考えがあり、それをあとで言葉に乗せる。言葉は中身の外側にある伝達手段にすぎない。そういう感覚に立つと、雄弁はどうしても二次的なものに見える。しかしクインティリアヌス的世界では、そうではない。人は、よい言葉の中でこそよく考える。読むこと、写すこと、模倣すること、暗唱すること、朗読することを通じて、判断力そのものが形づくられる。だから雄弁とは、できあがった判断を飾る技術ではなく、判断そのものを公共的なかたちへ鍛え上げる訓練だったのである。現代ふうに言えば、彼は「コミュニケーション能力」を重視したのではない。「思考が共同世界の中で成立する」という事実そのものを重視したのである。
さらに言えば、ここでの雄弁は「勝つための言葉」でもない。もちろん法廷や政治の現場で、説得は重要だった。だが人文主義者が魅かれたのは、勝敗以前のもっと深いところである。人が公共の場で語るとは、自分の欲望を吐き出すことではなく、言葉を通して自分を秩序づけ、他者と共有できる世界を作ることだ、という感覚である。だから雄弁は、倫理から切り離されたテクニックではありえない。クインティリアヌスの魅力はまさにここにあった。彼は、文法家、修辞家、教師を分けない。よい言葉、よい読書、よい判断、よい人物形成は、同じ一本の線の上にある。ルネサンス人文主義者たちが彼に見たのは、「話し上手の作り方」ではなく、「公的人間の作り方」だった。
この意味で、現代の序列とルネサンスの序列は、かなり違う。私たちはたいてい、「誰がいちばん深く考えたか」で哲学者や思想家の大きさを測る。だがルネサンス人文主義は、少しちがう尺度を持っていた。つまり、「誰がいちばん人を作れるか」「誰が古典を通して判断力と公的徳を養う教育を設計できるか」である。その基準に立つと、クインティリアヌスは「理論的に最も深い哲学者」ではなくても、きわめて巨大な存在になる。彼は思想体系の創始者ではないかもしれない。だが、人を形づくるカリキュラムの設計者としては、プラトンやアリストテレスに劣らぬ、あるいは学校教育の現場ではそれ以上に重要な古典になりえた。
そして、ここにhumanitasのローマ的な癖がよく表れている。ギリシア的なpaideiaが、魂の形成や教養そのものに重心を置くのに対して、ローマ的humanitasは、そこに「公」の手触りを強く残す。よい人間とは、ただ静かに思索する人ではなく、共同体の中で適切に語り、判断し、行為できる人間である。だから雄弁は飾りではない。むしろ共同体の中で人間が人間であるための形式である。言葉を通じてしか公共性が成立しない以上、雄弁はhumanitasの外側にある能力ではなく、その完成した姿の一部になる。studia humanitatisが「神学から独立した教育的・修辞的・道徳的世界」を前面に押し出したとき、その中心に修辞がいたのは偶然ではない。人文主義は、真理をただ所有することではなく、それを人間世界の中で共有可能なかたちへ整えることを学びの核心に置いたのである。
だから、現代人にとってクインティリアヌス的雄弁術が理解しにくいのは当然でもある。私たちはすでに、文法を語学教師に、修辞を話法の小道具に、倫理を別科目に、政治を制度論に、文学を鑑賞に、それぞれ分けてしまっている。だがルネサンス人文主義においては、それらはまだ裂けていなかった。文法家は「読むという営み」そのものを支える人であり、そこから歴史、政治、徳へとつながる回路の管理者でもあった。だからこそ、文法と修辞の重みが現代人には過剰に見えるのである。実際には重すぎたのではなく、私たちがその後で切り分けすぎただけなのだ。
近代におけるhumanitasの解体
もともとギリシア的paideiaは、現代の意味での「文系教育」ではなかった。そこでは、よく生きること、よく考えること、共同体の成員として形成されること、さらには世界の秩序を理解することが、まだ一つの連続体の中にあった。ローマ的humanitasはそれを受け継ぎつつ、より「ポリス」的に言語中心の形に組み直した。つまり、哲学的上昇よりも、教養ある公的人間、よく読み、よく語り、よく判断する人間の形成へ重心を移したのである。しかし、それでもなおhumanitasは、単なる「文学趣味」ではなく、人間形成の総体を名指していた。だからルネサンス人文主義がそれを復活させたときも、彼らはまだ、自分たちが知の一部分だけを扱っているつもりではなかった。むしろ、神学の外に、人間形成の中心を立て直そうとしていた。
ところが、この総体は内側からすでに二つの方向へ裂けうるものだった。その一方が、クインティリアヌス的な言語・修辞・歴史・道徳の線であり、他方が、アリストテレス的な論理・自然学・形而上学の線である。ルネサンスにおいて重要なのは、この二つが正面衝突して一方が他方を消したのではない、という点だ。人文主義者たちは、スコラ的アリストテレス主義の文体や術語を批判したが、アリストテレスそのものが消えたわけではない。むしろ大学教育、医学、法学、自然哲学の領域では、アリストテレスはなお方法的中心であり続けた。つまりルネサンスとは、「humanitasがアリストテレスを追い払った」時代ではなく、人間形成の言語的・道徳的中心を人文主義が握りつつ、自然世界の体系的理解はなおアリストテレス的枠組みが担っていた時代なのである。ここに、後の分解の雛形がある。
このことを言い換えれば、paideia / humanitasの内部には、もともと「公的人間を作る教育」と「自然世界を体系的に理解する学知」が、まだ切り離されないまま共存していた。しかし近代国家の形成は、その二つを別々の制度へ配分し始める。俗語の標準化と国語教育は、前者をnational cultureと市民教育へ引き寄せた。ラテン語が超国家的な教養共同体の媒体であるあいだ、humanitasはヨーロッパ全体に通用する普遍教養の看板でありえた。だが、近世から近代にかけて、ラテン語の地位が漸進的に低下し、各地の俗語が文法化・辞書化・標準化されるにつれて、教養形成の舞台はフランス語、英語、ドイツ語、イタリア語ごとの文化圏へ割れていった。
その結果、humanitas は滅びるというより、各国民に分化された。普遍的教養という形では生き延びられず、フランスではhumanitésやculture、イギリスではliberal education、ドイツではBildungのような、各国語の理念へ分散移植される。ここではもう、「ラテン語で結ばれたヨーロッパの人間形成」という古い形は維持できない。かわって、国家が必要とする市民、官僚、国民文学の読者、標準語の担い手を作る教育が前面に出る。つまりhumanitasのうち公的で言語的な側面は、nation-state によって吸収され、国民文化の形成装置へ作り変えられたのである。
では、アリストテレス自然学の側はどうなったか。自然学はhumanitasと違って、最初からラテン修辞的人間形成の中心には置かれていなかった。しかし、それは重要性が低かったからではない。むしろ逆で、自然学は大学・学部・専門知の枠の中で、より強く制度化されていた。ルネサンス期にもアリストテレスは、論理学・自然哲学・形而上学・医学の広い基盤として使われ続け、そこから近代科学への転位が起こる。つまり近代は、自然学を捨てたのではなく、人間形成の総体から切り離して、専門的で累積的な学知として独立させたのである。自然哲学はやがて実験科学、数学的物理学、専門分化したsciencesへ変わっていくが、その変化は「無からの創造」ではなく、アリストテレス的自然学の大学的制度基盤を踏み台にして起こった。ここでもまた、総合的教養が勝ったのでも負けたのでもなく、内部の一契機が別の制度的未来を得たのである。
この意味で、nation-stateの興隆はpaideia / humanitasを単純に破壊したのではない。それは、それまで一つの「人間形成」の理念の中に折り重なっていた諸要素を、国家・学校・大学・学問分野のあいだに再配置した。言語・修辞・歴史・徳は、国語教育、文学教育、市民教育、教養へ。自然認識は、自然哲学からscienceへ。哲学そのものもまた、神学や修辞から切り離され、専門的反省として自立していく。かつてpaideiaやhumanitasが担っていた「人間を全体として作る」という野心は、そのままでは残らない。残るのは、その断片だけである。だから近代ヨーロッパは、paideia / humanitasの後継者を持ったのではなく、その遺産を分割相続したのだと言った方がよい。
「無知」を失ったhumanitas
西洋思想史において、「無知」は、近代人が思うよりはるかに重要な主題だった。もちろんここでいう「無知」とは、単なる無学や愚鈍のことではない。むしろそれは、自分が知っていると思い込む傲慢さに対する警戒であり、人間が自力で真理や救済に到達できると思い上がることへの抑制である。イエスは、父が「賢い者・悟い者」から隠したものを「幼子」に示したと言い、パウロもまた「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と書いた。ここで価値が与えられているのは、無知そのものではなく、知を誇る自己充足の否定である。キリスト教は当初から、知性の働きそのものを嫌ったのではないが、「知っているつもり」という姿勢には、きわめて深い不信を向けていた。
この警戒は、アウグスティヌスにも濃厚に受け継がれる。彼は異教の学知のうちに真理の断片があることを認めながらも、そこに救済への道そのものはないと考えた。異教の知は利用できる。しかし、それは仲保者キリストへの信に取って代わることはできない。だから彼の問題は、異教知そのものではない。問題なのは、知が神への依存を失い、人間が自分の力で高みに達しうると思い始めることだった。あなたの草稿が捉えている通り、アウグスティヌスの構えは「異教にも真理はある」と「しかし道そのものは信にしかない」という二段構えでできている。そしてルネサンス人文主義は、しばしばこの前段だけを大きく育て、後段を弱めていった。
ここで重要なのは、この「無知」の主題がキリスト教だけに閉じていなかったことだ。ギリシア哲学の中にも、少なくともソクラテスには、これに響き合う契機がある。いわゆる「無知の知」は、無知を称揚する標語ではない。そうではなく、知らないのに知っていると思い込むことこそが最大の危険だ、という批判である。プラトンの『ゴルギアス』において、ソクラテスは修辞を、知識を与える技術ではなく、知っているように見せ、聴衆に信念を植え付ける力として追及する。そこでは、哲学と雄弁術の対立は、「深い学問」と「軽い話術」の対立ではない。むしろ、無知を暴き続ける営みと、無知を覆って公共的効果を生み出す技術との対立である。ソクラテスが警戒していたのは、まさにこの「無知が知を装う」構造だった。
さらに、この「無知」の主題が、キリスト教とギリシア哲学のあいだで、アウグスティヌスにおいて一度結び合わされている。『教師論』は、方法としても論点としても、ソクラテス的対話を深く下敷きにしている。そこでは、言葉は真理を直接与えず、むしろ「知っているつもり」を崩し、学ぶ者を内面へと向かわせる。これはほとんどソクラテスそのものである。ただしアウグスティヌスは、その内面の師を、ソクラテス的自己吟味のままには置かず、キリストという「内なる教師」へと結びつけた。つまり彼は、ソクラテスを借りただけではない。ソクラテスをキリスト教化したのである。
だから、本来ならルネサンスの humanitas は、この二つの伝統――キリスト教的な反・高慢と、ソクラテス的な反・見せかけの知――の双方から、かなり強い自己抑制を学んでもよかったはずである。実際、ペトラルカはかなりそこに近い。彼は古典愛に駆動されながらも、古典へそのまま身を預け切ることができない。彼の内面には常にアウグスティヌスがいて、人文主義が開いてしまう深淵を見張っている。哲学の目的は抽象知ではなく魂の世話であり、古典は人を高めても最後の救済線には届かない。
エラスムスもまた、その意味では古い警戒をまだ失っていない。彼は北方人文主義の巨人であり、文献学と教育改革の担い手でありながら、『痴愚神礼讃』で、学者・神学者・権力者の知的自負を容赦なく嘲る。もちろんその書法は諧謔的であり、露骨な無知礼賛ではない。だがそこで繰り返されているのは、知そのものの否定ではなく、知が自分を絶対化することへの嘲笑である。エラスムスは学ぶことをやめよと言わない。しかし、学びが敬虔を越えて自己目的化したとき、それは滑稽になると言う。つまり彼もまた、イエスとアウグスティヌスの線から完全には離れていない。
ところが、humanitasの主流全体を見れば、話は別になる。そこでは、知の傲慢さに対する警戒は消えないまでも、明らかにゆるむ。なぜならhumanitasの中心課題は、魂を神の前で低くすることよりも、人を公共世界で機能する存在として形成することへ移ったからである。studia humanitatisは、文法・詩・歴史・道徳哲学、そして何より修辞を通じて、人間を「よく語り、よく判断し、よく生きる」者に作り上げようとした。そこでは知は、もはやまず疑われるべきものではなく、人格形成と公共的行為の資源である。あなたの草稿が言うように、人文主義はキリスト教世界の内部に「もう一つの知の中心」を据えたのであり、その中心には雄弁術がいた。そこまで来れば、知に対する古い不信は、構造的原理ではなく、せいぜい人格上の節度に後退せざるをえない。
そのずれは、ゴルギアスの扱いに象徴的に現れる。ソクラテスから見れば、ゴルギアスは「知らないのに知っているように見せる」危険の典型である。ところがhumanitasの側では、彼はしばしば「雄弁家」として顕彰される。これは誤読というより、意図的な読み替えである。humanitasはソクラテスの警戒を知らなかったのではない。知っていたが、それを「修辞そのものへの根本的不信」としては継承しなかった。むしろ「徳ある修辞なら救える」という方向へ弱く読み替えたのである。ゴルギアスは、真理なき説得の危険人物としてではなく、言葉の力を極限まで示した祖先として再配置された。ここでhumanitasは、無知を暴露する哲学よりも、無知を公共的に管理しうる教育を信じた。
キケロに対する態度は、さらに露骨である。ペトラルカは1345年、キケロの書簡を発見して、「大雄弁家の仮面」の下にいる、生々しく動揺し、野心的で、必ずしも人格的に高貴とは言えない人間を見てしまった。ふつうなら、ここで醒めるはずである。しかもキリスト教的伝統とソクラテス的伝統の両方を知っているなら、なおさら「言葉の偉さ」と「人格の偉さ」は別だ、と痛感してよさそうなものだ。ところが、後代のhumanitasは、そこから逆にキケロを神格化していく。もちろん、人格的に無謬な聖人としてではない。彼らが崇拝したのは、ラテン散文の規範、教育課程の中心、そして雄弁と哲学をローマ的に結合した巨大な装置としてのキケロである。しかし、だからこそ問題は深い。人格的には尊敬しきれない相手を、制度的必要のためになお最高規範として祀り続けることは、知に対する古い警戒がすでにかなり鈍っている証拠だからである。ペトラルカはキケロを読んで「人間」を見た。後代のキケロ主義者たちは、そこから再び「規範」を作った。
こうしてhumanitasは、キリスト教にとってきわめて重要だった「無知」のテーマから、少しずつ距離を取っていく。イエスにとって無知は、幼子性とへりくだりを通じて神へ開かれるための条件だった。アウグスティヌスにとってそれは、人間知の限界を自覚し、信へと身を委ねるための条件だった。ソクラテスにとってそれは、知の仮象を打ち砕くための条件だった。だがhumanitasは、教育・模倣・文体・修辞によって人を公共的に形成できると信じた瞬間、その「無知」を、出発点としては残しても、もはや中心原理としては保持できなくなった。無知は暴かれるべき深淵ではなく、教育によって処理できる未完成へと変わる。ここで、人間は「知らない者」ではなく、「まだ十分に教養化されていない者」として理解され始めるのである。
この変化は、そのままデカルトを生んだわけではない。そこには断絶もある。デカルトは人文主義者のように文体や古典へ退かず、理性そのものの基礎を問い直した。しかし、彼がその問いを引き受けることができた背景には、humanitasがすでに、知を積極的価値として正統化し、神学の外に「人間一般の理性」の部屋を作っていたという事実がある。つまり近代は、「無知」を忘れたところから始まったのではない。むしろ、無知への古い畏れが、教育と修辞によって飼いならされたあとで、その上に建ったのである。
要するに、ルネサンスhumanitasの本当の問題は、古典を愛したことそれ自体ではない。問題は、キリスト教もソクラテスも共有していたはずの、「知っているつもり」に対する根源的警戒を、修辞と教育の制度の中で弱めてしまったことにある。ゴルギアスを雄弁家として顕彰し、キケロを人格以上に規範として祀り、雄弁術を人間形成の中心に据えたとき、humanitasは「無知」を主題として抱える力を失った。そして、その喪失こそが、後の近代理性が自らをより肯定的に、より積極的に、より制度的に組み立ててゆくための、見えにくい地ならしになったのである。
地政学的背景
イタリアのルネサンスは、しばしば「古典復興」とだけ言われるが、実際にはもっと複雑な盤面の上に成立していた。そこは単なるラテン・キリスト教世界の内部ではなく、ローマ、ギリシア、東方教会、イスラーム世界、商業、外交、都市国家が交差する地中海的空間だった。だからそこでのhumanitasは、教会的秩序の内側でのみ息をするものではない。むしろ複数の文明圏がせめぎ合う場所で、言語、修辞、歴史、外交判断を武器にして人間が動くための技法として育った。イタリアにおいて人文主義が比較的のびやかに見えるのは、その背後に最初から多元的な盤面があったからである。教会は強力ではあっても、盤面そのものではなかった。
これに対してアルプス以北では、事情がかなり違っていた。北方人文主義もまた古典を読んだが、その重心はイタリアのcivic humanismよりも、エラスムスに典型的なように、学識と敬虔を結びつける理屈にあった。つまり古典は、都市国家の公的人間を作るよりも、教会と信仰を内側から浄化するための武器として受け取られやすかった。そして、まさにそのためにこそ、北方人文主義は成熟する前に宗教改革へ吸い込まれていく。ギリシア語、本文批判、文献学、修辞、教育改革といった人文主義の方法は、そのまま聖書解釈と教会批判の武器になった。イタリアで人文主義が比較的長く「文明の様式」として展開したのに対し、北では早い段階で「宗教改革の方法」になってしまったのである。
この差は決定的である。イタリアではルネサンスはまだ、複数の秩序が競合する世界の中で、それらを読み分け、操縦し、媒介する知の技法だった。だが北方では、ルネサンス的人文主義は、教会の普遍秩序そのものを揺るがす運動と結びついてしまった。すると、paideiaやhumanitasが前提していた「よく形成された人間が、ある程度共有された世界の中で語り、判断し、公共性を担う」という古典的条件が崩れ始める。もはや共通のラテン語共同体も、共通の教会的宇宙も、共通の秩序の読み方も自明ではない。ここから先の北ヨーロッパでは、問題は「秩序をどう読むか」ではなく、「秩序をどう作るか」へ移っていく。
この意味で、デカルトはルネサンスの単純な継承者ではない。むしろ彼は、ルネサンスが北で引き起こした崩壊のあとに立っている。ケプラーやガリレオの世代には、まだどこか「宇宙には秩序がある。それを読むのが学問だ」という感覚が残っていた。ケプラーは数学的に新しいが、なお有機体的調和の言葉で宇宙を考えているし、ガリレオもまだ「自然哲学」の地平から完全には出ていない。これに対してデカルトになると、世界像の語り方そのものが変わる。彼は、物体世界を延長と運動で説明する機械論、方法的懐疑、精神と物体の二分、そして自然を数学的に記述可能なものとみなす近代的枠組みを強く定式化した。前の言い方を借りれば、ガリレオとケプラーが自然研究の中身を変えたのに対し、デカルトは世界の語り方そのものを変えたのである。
だが、この転換は、思想史の抽象空間で起きたのではない。むしろその背後には、16世紀末から17世紀前半にかけて、宗教戦争と三十年戦争がヨーロッパに与えた深い傷がある。壊れたのは単なる「アリストテレス的自然学」ではない。壊れたのは、宇宙・教会・国家がどこかで一つの調和のうちに収まるはずだという前提そのものだった。上の世代はなお「隠れた秩序」を探していた。しかしデカルト、ガッサンディ、ホッブズ、スピノザの世代になると、調和はもはや前提できない。だから世界も国家も、別の原理で組み直さねばならない、と考え始める。ここに、三十年戦争の時代の思想の深い共通感覚がある。
この共通感覚を政治思想の側で最も露骨に表したのがホッブズなら、哲学の側で最も純粋な形にしたのがデカルトだったと言ってよい。ホッブズは、内戦の経験を、自然状態と主権という理論へ鍛え上げた。デカルトは、それと別の領域で、同じ危機に応答した。つまり、外の世界に共有された秩序がもう信用できないなら、まず理性そのものの内部に、疑いえない支点を作り直さねばならないという方向へ進んだのである。ホッブズが「国家をどう再建するか」を問うたとすれば、デカルトは「真理をどう再建するか」を問うた。両者は別々の問いを立てているようでいて、実は同じ時代の破局に対する並行した応答である。
そう考えると、デカルトの方法的懐疑も、単なる知的遊戯ではない。あれは「とりあえず全部疑ってみよう」という思弁上の贅沢ではなく、むしろもはやどの共同体的権威にも、そのままでは寄りかかれない時代の理性が、自分で足場を掘り当てようとする必死さの表現である。中世の理性は、教会と啓示の秩序の中に住んでいた。ルネサンス人文主義の理性は、古典と文の世界の中にまだ家を持っていた。だが三十年戦争の時代の北ヨーロッパでは、その家そのものが燃えている。だからデカルトは、外にある秩序を読むのではなく、思考主体の内部に最初の確実性を立て直すしかなかった。 cogitoが近代の出発点に見えるのは、それが単なる論理の発見ではなく、戦乱と分裂の時代において、理性がなお倒れずに立つための最小限の地面だったからである。
ここで、イタリアと北方の差がもう一度効いてくる。イタリアのルネサンスでは、知はなお都市外交・修辞・文献・歴史・公的人間形成の技法として広がっていた。そこでは古典は、現実世界の多元的な盤面を生き抜くための教師だった。だが北では、人文主義は宗教改革に吸収され、やがて宗教戦争によってその前提を破壊される。すると古典は、もはや生きた秩序の教師ではなくなる。古代はまだ読まれるが、そこから直接に世界の公共秩序を取り出すことはできない。こうして、paideia / humanitasの世界から、デカルト的理性主義の世界への転換が起きる。すなわち、「よく形成された人間が秩序を読む」世界から、「主体が方法によって秩序を作る」世界への転換である。
だから、デカルトの重要性は、単に近代哲学の創始者だということに尽きない。彼は、イタリア的ルネサンスがまだ持っていた多元的・修辞的・外交的な理性と、北方ヨーロッパが宗教戦争の中で強いられた構築的・方法的な理性とのあいだに立つ人物なのである。彼の哲学は、古い教養世界の最後の残響ではあるが、同時に、その世界がもう立ち行かないことを知った者の仕事でもある。三十年戦争は、彼の体系を直接「生んだ」と単純化するべきではない。だが、彼の問いの切迫は、あの時代の政治的・宗教的破局なしには理解しにくい。彼は、秩序が壊れた時代に、なお秩序を語ろうとした。そしてそのとき、古典や教会ではなく、方法化された主体の理性を新しい出発点に据えた。そこに、彼の歴史的な決定性がある。
デカルトの転回と「支え」
中世のスコラ学では、思考と判断を支えるものとその射程は最初からかなり明確だった。理性は強く用いられるが、その理性は啓示と教会的権威の枠内で働く。アウグスティヌスにおいては、信は理解のあとから補われるものではなく、理解そのものの条件だったし、トマスにおいても、理性の射程と啓示の射程は最終的には区別されていた。そこでは体系はあっても、それがそれ自身だけで宙に浮かぶことはない。前の議論で言えば、スコラ学はその支点を啓示と教会に置き、人文主義はそれを古典テクスト・言語・修辞・歴史感覚に置いた。いずれにせよ、理性はまだ自分だけで立ってはいなかった。
ところが、ルネサンス人文主義とその後の近代の進行は、その古い支えを次第に薄くしていった。humanitasは、教会的体系の外に「人間一般の理性」のための部屋を作ったが、同時に、その理性を支えていた古典的教養共同体そのものも、nation-stateの成立、俗語化、学問分化によって分解されていった。ラテン語の普遍世界も、教父と古典を共通の規範とする世界も、もはやそのままでは知の足場になりえない。つまり、近代初頭の理性は、単に自由になったのではない。古い家を失ったのである。デカルトの仕事は、この「家を失った理性」に、新しい建築法を与えることだった。
ここでデカルトが決定的なのは、彼が人文主義者のように文体や原典へ退かず、またスコラ学者のように既成の権威へ寄りかからず、理性そのものが自分で自分の基礎を見つけられるかという問いを正面から引き受けたことである。ペトラルカやヴァッラはスコラ的な擬似公理系を嘲笑ったが、代わりに新しい公理系を建てるところまでは行かなかった。デカルトはそこへ踏み込んだ。彼だけが、「体系は建てられる」と本気で信じ、その方法を構成しようとした。だから彼は、単に近代合理主義の一員なのではない。理性に体系構成能力を最大限まで認めた最初の本格的哲学者なのである。
しかし、ここで大事なのは、デカルトが理性を無支点のまま放り出したわけではないということである。彼はまさに、どんな体系もそれ自身では証明できない支点を要することをよく分かっていた。だから彼は、その支点を外部から借りるのではなく、理性の内部で見つけようとした。cogitoはその最初の結節点である。疑っても残るもの、すべてを剥がしてもなお消えない明証性の核。だが彼はそこで止まらない。というより、そこで止まれない。なぜなら、「私は考える、ゆえに私はある」だけでは、外界も数学も自然学も保証されないからである。そこでデカルトは、明晰判明知の一般的信頼性を保証するものとして神を導入する。前の議論の言葉を借りれば、デカルトは支点をcogitoと明証性、さらに神に置いたのである。彼は近代的人間だから神を捨てたのではない。むしろ近代的人間だからこそ、理性を立てる最後の支えとして、神を新しい位置に置き直した。
この点でデカルトは、アウグスティヌスとも、ルネサンス人文主義とも違う。アウグスティヌスにおいて神は最初から前提であり、信が理解を導く。人文主義においては、古典教養と文の世界が人間形成の支えになる。だがデカルトでは、支えはもはや共同体的伝統や教会制度の中にそのまま置かれない。それは、孤独な思考主体が、方法的懐疑を通過したのちに、みずからの内部で発見し直さねばならないものになる。これが近代的なのである。近代とは、神が消えた時代ではない。むしろ、神さえも共同体の前提としてではなく、主体が自らの確実性の体系の中で再定位しなければならなくなった時代なのだ。デカルトはその最初の建築家である。
だからこそ、デカルトの仕事は後世の啓蒙や科学主義にとって決定的な起点になった。彼以後、真理の基礎は、教会でも古典でもなく、「正しく方法化された理性」が握るべきだという感覚が本格化する。ヴォルテールやコンドルセのような後継者たちにおいて、古代はもはや規範の中心ではなくなり、中心は近代の理性・科学・進歩へ移る。その意味で彼らはたしかにデカルトの子孫である。だが皮肉なのは、彼らがしばしば受け継いだのはデカルトの自信であって、彼の緊張ではないということだ。デカルト自身は、体系が立つためにはどこに支えが要るかを執拗に問うていた。後の素朴な合理主義者たちは、その緊張を忘れ、「理性は自力で進歩する」とだけ考えがちになる。
近代的な理性にとってデカルトが重要なのは、彼が「理性は万能だ」と言ったからではない。そうではなく、理性はもはや古い宗教的・古典的全体には寄りかかれない、それでもなお理性は体系を建てねばならない、そのとき支えはどこに置かれるべきかという問いを、逃げずに引き受けたからである。彼は理性の限界を知らなかったのではない。限界があることを知りながら、それでもなお理性を倒壊させずに立てる方法を探した。そのために彼は、cogitoと明証性と神を、一つの新しい建築の要石として組み直した。だからデカルトは、近代合理主義の出発点であると同時に、近代理性の不安そのものを最初にきちんと引き受けた哲学者でもある。そこに、彼の本当の偉さがある。
つまり考えるべきこと
1.ルネサンス人文主義は、何を神学の外へ立てたのか。
2.人文主義は、なぜ反キリスト教ではないのにキリスト教を相対化しえたのか。
3.ルネサンス人文主義において、雄弁術はなぜ中心にあったのか。
4.近代は humanitasを破壊したのか、それとも再配置したのか。
5.humanitasは、なぜ「無知を暴く哲学」より「無知を管理する教育」を信じたのか。