センター試験廃止で大学入試は「カオスな世界」になるのか?

「医学部受験のプロ」である原田広幸氏が「2年後、センター試験廃止で大学入試は「カオスな世界」になる」という記事で、入試改革に対する見解を述べていた。言っていることには一定の理があって、話の筋も通っているのではあるが、個人的には「教育学のプロ」として補足しておきたい点が多少あるので、見解を連ねておく。

大学が自主的な入試作成をするべきなのか?

まず各大学の個別入試に関して。原田氏は「多様化や国際化」を踏まえて「各大学の「多様性」と「国際性」をもっと尊重し、大学の自主的な入試作成をどんどん認めてはどうだろうか。」と述べているが、個人的には強い違和感を抱く。なぜなら、「大学の自主的な入試作成」という伝統は、国際的には常識ではなく、ガラパゴス日本的であるからだ。入試制度の国際比較をした場合、実は「大学の自主的な入試作成」は一般的な在り方とは言えない。実際には「高校の卒業認定」を以て大学入試資格とする国も多いのだ。たとえばハーバード大学には、日本の大学のような「入試問題」は、ない。諸外国では、大学の「自主的な入試作成」など期待されていない。

というのは、諸外国では「到達度評価」の発想に基づいて、「大学に入学できる力」を問うのではなく「高校卒業程度の力」があるかどうかを測定しようとしているからだ。「高校卒業程度の力」を測定する担当はもちろん「高校教育」に関わる人間や組織であって、大学教育に関わる人間や組織に期待するものではない。大学教育に関わる人間や組織に「高校卒業程度の力」を認定させようとするのは、国際的に見れば「ガラパゴス的」な発想なのだ。

さて、そんなガラパゴス的日本にも次第に「到達度評価」の発想は根付きつつある。「国際バカロレア」という制度を利用する学生も増えつつある。日本の高校を卒業すれば諸外国の大学入試資格を得られるという制度である。実力がある高校生たちは、もはや日本の大学入試には目もくれず、「高校卒業認定」を手に入れて世界に羽ばたいているという、そんな時代に突入しているのだ。日本の大学は、「自主的な入試作成」などしている場合なのだろうか?

入るのが難しく、出るのが簡単な日本の大学

ところで従来から日本の大学が非難されてきたのは、「入るのが難しく、出るのが簡単」という在り方に対してだった。入試の時はあれだけ苦労して猛勉強したにも関わらず、いったん入ってしまってからはレジャーランド化した大学で遊び呆けて、それでも卒業できてしまう、という間抜けな事態だ。

だから、「入るのが簡単で、出るのが難しい」という諸外国並みの制度に変えるべきだという声が従来からあった。実は今回の大学入試改革も、 「入るのが難しく、出るのが簡単」 というガラパゴス日本的な大学の在り方を改め、国際的に日本の大学の存在感を高める方策の一貫であるとも考えられるわけだ。

よく知られているように、日本の大学は、国際的に見たときにレベルが低いと認識されている。レベルが低いと見なされる理由は様々あるが、例えば一つの理由は文系と理系の分離であって、こちらは高校教育課程改革を通じて解消に向けての動きが進みつつある。そして日本の大学の存在感が低いもう一つの理由が、4月入学などを含めたガラパゴス的な入試制度だ。文部科学省が国際基準に合わせて「9月入学」を提唱してみたりするのも大学のプレゼンスを上げようとする努力の一貫であり、そして今回の入試改革もその文脈で捉えるべきものだ。入試改革によって、仮に「大学に入るのが簡単」になったのであれば、国際的な観点から見れば、実は結構なことかもしれないのだ。ちなみに文部科学省が各大学に対して「AO入試の比率を30%以上に上げろ」と指導しているのは、ご存じだろうか? 文部科学省の本音としては、「AO入試で100%にしろ」というところだろう。大学の国際化を目指すと、実は大学個別の入試そのものを廃止するべきという話になるのだ。(その代わり、入試選考の資料は大学ではなく「高校」が作ることになる)

出るのを難しくする

ちなみに「大学に入るのを簡単にする」だけでは、問題は錯綜するだけだ。もう一つの「出るのを難しくする」が伴って、初めて国際標準と肩を並べられる。実は出口に関する改革の動きも、急速に進行している。文部科学省は各大学に対して「補助金カット」をちらつかせながら、「出るのを難しくする」ような改革を迫っている。具体的には「ディプロマ・ポリシー」の作成を強要した上で、現在は「内部質保証」を迫っている。「内部質保証」とは難しい言葉だが、噛み砕いて言えば「勉強していない学生は卒業させるな」ということであり、つまりは「出るのを難しくしろ」ということだ。各大学は補助金カットの憂き目に遭いたくないから、いま必死で「内部質保証」に関する書類を作成しているところだ。

大学への入口である「大学入試改革」が成功するかどうかは、大学の出口である「ディプロマ・ポリシーと内部質保証」が狙いどおりに作動するかどうかにかかっている。あるいはさらに言えば、今回のセンター試験廃止は、決して「入試」だけをターゲットにした改革ではなく、幼稚園から大学までを含めて総体的に「ガラパゴス化からの脱却」を志向した大教育改革の一部に過ぎないのだ。単に大学入試改革だけを切り取って話をしても、実はあまり意味がない。

原田氏がこのあたりの教育改革全体を踏まえて「ガラパゴス化」を推奨しているのかどうか、多少気になるところではある。まあ「グローバル化反対」の立場から「ガラパゴス化大賛成」という見解は大いにありえるので、諸事情を踏まえて言っているのであれば、まったく問題ない。しかし仮に、単に「医学部受験のプロ」という立場で、大学受験だけ切り取って発言しているのであれば、そこそこ視野の狭い話ではあるだろう。

で、結局どうなるの?

ただし、原田氏が的確に指摘するとおり、文部科学省の狙いがそのまま実現するとも思えない。文部科学省の目論見は、過去70年にわたって、何度も何度も繰り返し繰り返し挫折してきている。今回も同じ轍を踏む可能性は、そこそこあるように思う。このあたりの危惧は、原田氏の見解に完全同意だ。

制度改革は、民衆の支持が伴わなければ成功しない。日本の歴史と伝統や民衆の性向を踏まえた上で、漸進的な改善を積み重ねていかなければ、必ず頓挫する。歴史が証明している。一連の教育制度改革は、大学入試改革に限らず、大学の中から体感する限り、あまりにも性急すぎる。まあそれがグローバル化というやつなのだろうが、個人的には「ガラパゴスでいいじゃない」と思わなくもない。

まあ、私が振り回されるのは、それが仕事だからいいとして。かわいそうなのは、制度改革に翻弄される受験生だ。心から願うのは、若者が自分の夢を叶え、活き活きと活躍できる、そんな飛躍のきっかけとなる大学入試になってほしいということだ。教育に携わる者として、少しでも子供や若者のためになるよう、個人的な努力は惜しまないようにしたいと、改めて思った。