さらに、ロンブー淳の青学受験に対し、教育学者として思うあれこれ

有益な批判と温かいアドバイスをたくさんの方々からいただいたので、ありがたく参考にして、改めて書き起こしてみました。

(1)敬称について

結論から言うと「さん」づけはしません。が、それは決して無礼な振る舞いを意図的にしてやろうというわけではないことは、ご理解いただきたいなあと思います。「さん」づけしてなくても必ずしも無礼には当たらないという形式的な理由については、このページの末尾で説明します。
が、より重要なのは本質的な理由です。思ったのは、単に「さん」づけすればいいのかというと、それで納得されるはずがないだろうということです。本当に心がこもっていないのに、表面的に「さん」をつけて誤魔化すのでは、まったく意味がありません。逆に「さん」づけしてなくても、ちゃんとリスペクトしていることが伝わりさえすれば、問題は起きないし、起きなかったはずです。
ですから、本質的な問題は、私が彼をリスペクトしているかどうかについて大きな疑問が持たれているということであって、形式的に「さん」がついているかどうかではありません。で、読み直してみると、いちおう私が彼をリスペクトしていることはちゃんと、しつこいほどしっかり書かれていましたが、ただ抽象的な表現に終始していたことが大きな問題であるように理解しました。そこで、まずそこを抽象的ではなく、具体的な表現で書き起こすのがいいかなと。

ちなみに、それとは別に、漢字を間違えるのは最悪だ! 不快に思われた方々におかれましては、たいへんなご無礼を働いたこと、重ね重ね申し訳ありません。謹んで謝罪申し上げます。
というか、みっともないし恥ずかしい! 大反省。

(2)リスペクト

さて、彼の臨機応変なトーク力や、出演者の持ち味を引き出す司会力、どんな企画にも対応する適応力など、持っている様々な「力」については、ここで改めて私が繰り返すまでもないでしょう。ちなみにこの様々な「力」は、いま教育界で大きなテーマになっている「21世紀型スキル」とか「ソフトスキル」と呼ばれているものを考える上で大きなヒントになります。が、それは後に考えるとして、まず、世間ではあまり言われていないけれども、私が特に素晴らしいと思っている点を明らかにしておきます。
個人的に素晴らしいと思っているのは、城! 城であります。城を前にしたときのはしゃぎっぷりや、武将について語っているときの嬉しそうな顔は、ほんと、人を幸せにします。素晴らしい。特に私のような城マニアにとっては、彼が強調する「守る側の視点」というのが、実に素敵です。城好きはだんだん増えてきたけれど、多くは「攻める側の視点」から城のことを考えます。だいたい城に行く時は、しばしば「攻める」という動詞を使いますしね。ですから、彼の言う「守る側の視点」というのは、なかなか一般の人に理解される姿勢ではありません。けれども、これが分かると城というものが一気におもしろくなるわけですよ。こういう重要ポイントが分かっている人とは、ぜひ一緒に城を歩きたい。楽しいに決まっている。
そもそも我々が「城」って言ったとき、世間一般の人が思い浮かべる「城」のことを言ってませんからね。世間一般の人が思い浮かべるのは「城」ではなく、ほぼただの「天守閣」に過ぎません。我々が「城」と呼んでいるのは、ただの「天守閣」なんかではなく、広大な縄張りが張り巡らせられた構造物全体や、あるいはその周辺の城下町や街道をも含めた地域全体を指しているわけですよ。建物なんてもちろん一切ないし、石垣すらなく、土塁や堀などの土木工事のわずかな痕跡しか残っていないような「城」の数々。世間の人は「それ、城じゃなくて、城跡じゃね?」とか聞き返してくるけれど、違うんです。それが我々の言う「城」なんです。
そんな城の魅力を語りながら一緒に歩きたいと思わせる芸能人は、彼の他には春風亭昇太と中島卓偉などの名前を挙げられます。彼らと一緒に行くなら、特に鉢形城とか杉山城あたりが盛り上がるんじゃないかな。杉山城の土塁の屏風折りなんて見たら、絶対にみんなで大はしゃぎだ。超楽しそう。そして彼なら、こういう城の魅力を、ブラタモリ的に、世間の人々にわかりやすく伝えられるんじゃないか。池の水をぜんぶ抜く番組の魅力だって、まあ企画の力が一番ではあるけれども、それに加えて彼が純粋に楽しそうにやっているからたくさんの人に伝わるわけで。そういう資質は、本当にピカ一だ。そういう資質を、城の魅力を伝える仕事に使って欲しいと、心から願ってるわけですよ。

でもそんな彼が受験チャレンジを発表し、受ける大学が青山学院大学だって聞いたとき、「?」ですよ。「?」。なんで青学?

(3)オードリー春日との比較

たとえばロンブー淳の大学受験チャレンジが発表されたとき、
「さあ、果たして淳はどこの大学を受けるのか?」
「奈良大学の受験を決意しました。」
「えっ? 何で?」
「なぜなら城郭研究の第一人者、千田嘉博教授がいる大学だからです。」
だったら、「なるほど、城ね」で、すごく分かりやすいわけです。が、実際は奈良大学じゃなくて、青学でした。なんで青学なのか、その理由は、今に至るまでよくわかりません。まさか、奇妙な走り方を矯正してもらうために原晋監督に教えを請いに行くとかじゃないわけでしょう。しかし、オードリー春日が東大受験を発表して、しかもけっこう多くの人が彼のチャレンジと春日のチャレンジの比較をして、しかもネット民たちが平気で「春日の方がすごい」とか言いだし始めたときに、私のモヤモヤ感の源が明らかになりました。
確かに、偏差値だけで比べるのなら、東大受験を目指す春日の方がすごいかもしれません。でも春日の場合は、東大に入って能力を伸ばすのが目的ではなく、ビディビルや潜水と同じで、ある決まったルールと基準に則って自分の限界に挑戦することが目的になっています。東大に入ることそのものが目的なのではなく、「入れるかどうかを試す」ことが目的になっています。でも、ロンブー淳の場合、大学受験の目的は、そういうただの「力試し」でしたっけ? 違うでしょと。彼の場合、ただの「力試し」がしたいわけじゃなくて、本気で学びたいと思ったわけでしょ? 「力試し」で東大を受けるのと、「本気で学びたい」から青学を受けるのでは、まるで意味合いが違うのだから、本来は比較不可能なチャレンジのはずです。比べちゃいけないし、そもそも比べられないもののはずです。それなのに、多くのネット民が彼と春日を比較した。あるいは、本来は比較できないはずのものが、簡単に比較できてしまった。ここに違和感の源があります。

(4)数字で比べられない力

そもそも、淳の持ち味は、世間的なモノサシでは測ることができず、数字に変換なんかできない力にあるわけですよ。たとえば、二人を走らせたら、確実に春日が勝つでしょう。おそらくあらゆる身体能力の数値では春日の方が上でしょう。勉強させても、春日が勝つでしょう。数字に変換できるスペックで言えば、春日の方が上なわけです。じゃあ、だからといって、今の淳のポジションを春日に代えれば、番組はもっとおもしろくなるのか? と聞けば、誰だってそのおかしさに気が付きます。彼らの価値は、そもそも数字に変換できるものではないからです。
まあ、芸能界は、あらゆる能力を視聴率という数に変換して、一律のモノサシで評価を下す世界でもあるわけですが、少なくとも彼らはその世界での競争を、身体能力とか偏差値などという数字上の優劣で勝ち上がってきたわけではないはずです。自分の個性や持ち味は何で、自分はどんな武器を持っていて、その武器をどこでどう使ったらいいかという、そういう工夫を重ねて、努力を積んで、知恵を絞って、自分を信じてキャリアを積み上げてきたはずです。そしてその力は、これからの不確かな時代を生き抜くのに絶対に必要な力であり、芸能界だけではなく全ての人に必要な力です。
一流大学を出さえすれば人生バラ色だなんて時代は、とっくに終わっています。いまや、誰もが身体能力とか偏差値とかいう比較可能な数字ではなく、自分だけが持っている武器を磨きながら戦うことが必要な時代になっています。わかりやすい数字に変換できる力に頼ることができず、自分だけが持っている武器を自覚して磨き上げることで今のキャリアを築きあげた彼の才能と知恵と努力は、変化の激しい21世紀を我々が生き抜くための極めて優れたモデルになるはずです。そんな力を持っている人間が、細々とした知識を持っていないくらいで、自分の子供の教育を見てあげられないなんてことは、ありません。英単語の一つや二つを知っているよりも、はるかに人生で重要なことを彼は知っているはずだからです。自分を信じて戦っている父親の背中を見て、子供が何も感じないわけがありません。

(5)教育の本質

「教育の本質」とは何かということについて、古来ギリシア時代から「その人が本来もっている可能性を引き出すこと」と考えられてきました。しかし今、教育とは、人間が持つ多様な力を数字で比較できるもの(学力とか偏差値とか呼ばれる何か)にせっせと変換し、本来は比べられなかったものを比較可能なものに落とし込み、優劣をつけて選別するものと考えられています。ただそれは本来「選抜」と呼ばれる機能に過ぎず、教育の本質とは違っているものです。「選抜」の発想に取り付かれた人は、彼と春日を簡単に比較します。しかし教育を「その人が本来もっている可能性を引き出すこと」という本質的な観点から考える人は、彼と春日のチャレンジを比較することをバカバカしいと思うはずです。
が、私が違和感を持ったのは、今回の受験チャレンジが、本来は誰とも比較できない個性を持っていた彼を、わざわざ人と比べられるフィールドに引っ張り出しただけに過ぎないのではないかというところです。比べてはいけないものを、わざわざ比べられるものに変換しているだけではないかということです。彼を単なる「選抜」の世界に押し込んだだけで、教育の本質が見失われているのではないかという危惧です。
彼本人の「学びたい」という気持ちは尊いもので、それを否定したいわけではないことは、もう分かってもらえていると思います。私が言いたいのは、同じ「学ぶ」にしても、単に「選抜」の世界に押し込めるのと、教育の本質を大切にするのとでは、まるで意味が違うということです。仮に同じように受験にチャレンジするにしても、さらにそのプロセスをバラエティ番組として編成するにしても、もっと彼の個性や持ち味を大いに発揮できるようなやり方があるはずです。そして私は教育学という学問をやっているので、その可能性がかなり明瞭に見えた気がしました。しかもその可能性は、他の多くの若者が抱える課題をも明らかにしてくれます。だから、見解を述べたわけですが、その内容は前の文章に過不足なく書かれているから、繰り返しません。

(6)春日に対するフォロー

ちなみに春日も、彼が持っている自分だけの武器を磨きながら戦っているのであって、そしてそこが彼の魅力だと認識されているはずで、単なる数字に変換されるような能力だけで評価されているわけではないはずです。彼の場合は、ナンバーワンを目指すことを通じてオンリーワンを掴もうとするという、なかなか困難な道を進もうとしています。それは純粋に凄いなあと思います。が、まあ、彼が合格すると他の受験生が不合格になってしまうという受験の場合は、彼一人だけを応援するわけにはいきませんけれども。

(7)青学に対するフォロー

青学の史学科の先生方も立派な業績の方ばかりで、別に奈良大学に劣るということを言いたいのではありません。ただ、近世農漁村史や中世交通史の専門家の方も城郭研究についての指導は問題なくできるでしょうが、それでも城郭研究の第一人者につくのとはやはり違うわけです。数字で比べて優劣がどうこうという話ではなく、個性とマッチングしているかどうかという話です。
まあ、中世交通史を通じて、たとえば武田信玄や上杉謙信の軍道について詳しくなるのも、おもしろそうではあります。

 

 

(補足)「さん」づけしなくても礼儀を欠いていない理由

で、「さん」づけに関してですが。以下、やや学術的な記述になることをお断りしておきます。
まずポイントは、言葉というものは2種類にわけられるということです。W.J.オングによれば「話しことば/書きことば」という区別。あるいはバーンステインによれば「限定コード/精密コード」という区別です。結論から言えば、「話しことば」とか「限定コード」を使ってコミュニケーションしているときは間違いなく「さん」づけをするべきでしょうが、「書きことば」とか「精密コード」を使ってコミュニケーションしているときには、むしろ「さん」づけをすることは多くの場合で不適切になります。で、問題になった文章は、徹底的に「精密コード」で読まれることを前提とされた文章です。ですから、そこで「さん」づけをするわけにはいきません。
だから、「精密コード」に慣れている人は、私の文章に「さん」がついていないことをまったく問題にしないわけです。いっぽう「限定コード」でコミュニケーションが行われていると認識している人にとっては、同じ文章を見ているにもかかわらず、許しがたい無礼と傲慢に見えるわけです。
この態度の違いが出てくるのは、「文脈」の中で「人格」というものをどう扱うかということに関する違いが理由となってきます。「限定コード」においては、目の前にいる人格とコミュニケーションする際に、言語以外のあらゆる情報(表情や身振りなど)を活用し、「文脈」を形成していきます。言葉はコミュニケーション全体の中で、ごく一部でしかありません。コミュニケーションを成立させるためには、自分と相手の表情や身振りなども含めた全人格的なリソースを尊重する態度が必要になります。目の前の人格を全体的に尊重していることを示すために、「さん」づけは効果があります。
しかし一方、「精密コード」においては、相手の身振りや表情などのリソースを利用することを一切期待せず、ただ言語と論理の積み重ねによって、具体的文脈に依拠しない客観的な記述を作り上げます。その際には、相手の人格を論理展開に巻き込まないような配慮が必要となります。名前は、行為や言葉が帰属するラベルのようなものとして、基本的に人格とは切り離されて流通する必要があります。そういうとき、具体的には、「さん」づけをしないことが、相手の人格への配慮となります。行為や言動に対する客観的記述が、ダイレクトに人格の評価へと結びつかないための配慮です。
しかし、私が「精密コード」としてコミュニケーションされることを期待して「さん」を抜いた文章は、「限定コード」として読まれたときには、無礼で傲慢で上から目線のものだと理解されることになります。
というわけで、あの文章は、「精密コード」の様式について馴染みがない人からは憤慨される可能性が極めて高いということになります。じゃあ、「限定コード」に変えればいいかというと、話はそういう問題ではありません。「精密コード」でコミュニケーションするべきか「限定コード」でコミュニケーションするべきかは、「何を伝えるか」という内容に依存します。あの内容は、どうしても「精密コード」で書かれなければならないのです。そんなわけで、憤慨されるリスクを認識しながらも、それでも決して「さん」づけするわけにはいかないのです。

で、ここまで書いても、精密コードに馴染みのない方の違和感は拭えていないはずです。しかし精密コードに慣れている人は、なんでこんなに分かりきった当たり前のことを言うのかと思っているはずです。そういうものなんです。分からない方々には、「私にはさっぱり理解できないけれども、そういう世界もあるんですね」という感じで受け取ってもらうことを期待するしかありません。言ってみれば、宗教が違えば何を正しい礼儀とするかの基準が違ってくるようなもので、私にとってはあの文体が最大限の礼儀を尽くしているのだとしか説明のしようがないんです。恐れ入ります。