【茨城県水戸市】展望台・五角堂に男の浪漫を見た

回天神社の近くに、「展望台」「五角堂」があったので、寄ってきました。住宅街を抜けると、展望台の看板が。その先に、角材で組まれた展望台?らしきものが見えてきます。

とても狭くて急な階段を、おっかなびっくり登って踊り場へ。

確かに眺めは素晴らしいなあ。展望台から那珂川を臨むの図。

展望台の脇には、「五角堂」が。自由に入れるという男の隠れ家らしいので、ありがたく自由に入ります。

那珂川に臨む崖の上に建物が。

自由に入れる。

自由に入ってみると、中は予想以上に男の隠れ家でした。

那珂川が一望できる、絶景のロケーション。ソファにゆったりともたれながら本を読むのにちょうどいい気がします。

が、クーラーがないので、この季節は5分といられないのだった。いちおう団扇は置いてあったけれど、流れ落ちる汗を止めることはできません。

平成18年に完成、総工費18万円らしい。やるなあ。

想像以上に男の浪漫が形になっていた五角堂を、感心して後にしたのでした。
(2017年8/28訪問)

【茨城県水戸市】回天神社に幕末水戸藩の悲劇を見た

水戸は何度か訪れていて、メジャーどころは一通り回っているので、今回は行きそびれていたところを廻ってみました。

ということで、回天神社。幕末に国事のために命を落とした水戸藩士が中心となって祀られている神社です。幕末の水戸藩では極めて陰惨な殺し合いが続く(そしてそれは日本全体に及ぶ)のですが、その犠牲となった霊を鎮める神社ですね。

境内にはずらりと殉難志士の墓が並んでいます。これだけの人間を死に追いやるまでに至った「水戸学」の思想というのは、一度きちんと体系的に押さえておかないといけないなと、改めて思いました。「今こそ水戸学を学ぼう」と主張する人々が定期的に現れるけれど、この思想を原理主義に信奉することが政府転覆実行に繋がり、極めて多くの有望な若者を死地に追いやったという事実は、重く受け止めるべきだと思うな。

回天神社の鳥居。「回天」という名前は、個人的には人間魚雷回天という形で知ったんだけど(人間魚雷回天は靖国神社に展示されている)、もともとは水戸学の学者である藤田東湖の『回天詩史』という書物の名前が由来ですね。藤田東湖が生きていたら、水戸学原理主義過激派を押さえることはできたのかなあ。

ここで思い出したのは、2012年5/19に茨城県鹿嶋市の史跡「天狗党の墓」に訪れたこと。とても良く晴れていた日だったのに、この天狗党の墓周辺は薄暗く沈んでいたのが印象深かったです。茨城県各地に、こういった幕末殉難志士の史跡が残っていますね。下はその薄暗い写真。

回天神社には「常磐共同墓地」が隣接していて、ここに有名な学者がたくさん眠っています。たとえば時代劇の水戸黄門で「格さん」として知られている安積澹泊の墓。ドラマでは武闘派として描かれているけれど、もちろん本物は歴とした学者です。

墓地の奥の方には、藤田東湖の墓。この人が生きていたら水戸藩の動きが変わり、ひいては日本の幕末の命運が大きく変わっていたのではないかと思うにつけ、つくづく残念な気持ちになる。

思い出すのは、2013年3/11に水戸を訪れたときに見た東湖神社の光景。なんと東湖神社の境内で猿回しをやっているという。まあ、猿回し自体はいいんだけれども。藤田東湖の業績が地元民にちゃんと伝わっているのかどうか、不安になる事案ではある。下の写真は、東湖神社の境内で猿回しの後片付け中の図。

また回天神社には、保和苑が隣接しています。こちらは散歩に気持ちいい日本庭園。かなり広い敷地で、若者がスケボーの練習をしていたりしました。

ところで、水戸城大手門が復元整備中らしいですね。

まだまだ基礎工事もこれからという感じですが、平成31年には完成ということで、楽しみです。また水戸には遊びに行きたいと思います。
(2017年8/28訪問)

【要約と感想】村井実『教育改革の思想』

【要約】日本の教育が閉塞感に陥っているのは、すべて国家主義的な思いこみが原因です。戦後の教育も、見かけは民主主義的になったかもしれませんが、本質的にはやはり国家主義からは逃れていません。子どもの「善さ」を認め、それを伸ばそうとする人間主義的な教育に転換することで、すべてうまくいきます。

【感想】今からちょうど30年前、臨時教育審議会が終わるころに書かれた本。戦後教育の行き詰まり感が絶頂に達した頃と言える。(この後に、いわゆる「ゆとり教育」が始まって、新しい局面を迎えることになる)。高度経済成長後の教育の行き詰まり感に対して一つの視点を与えている本と言うことはできる。

そんなわけで時代の風潮を端々から感じることはできるものの、意外に古くなってはいない。というのも、時事問題を扱っているように見えながら、語っている本質はいつもの通り超時代的で普遍的な教育のあり方だからなんだろう。要するに、いつもの村井節。だが、それがいい。

一つ、話の本筋とは関係ないが、福沢諭吉を「民主主義者」と評価している部分は、ちょっと引っかかった。私から見れば、福沢は自由主義者ではあっても民主主義者ではない。このあたりの些細に見える評価の違いは、最終的にけっこう大きな教育観の違いに導かれるから、要注意だ。

村井実『教育改革の思想―国家主義から人間主義へ』国土社、1987年

【要約と感想】村井実『人間と教育の根源を問う』

【要約】「真理」というものをモノのように実在すると考えるところから、人間の認識は歪みます。「真理」とは単なることばです。そう考えるところから、ほんものの学問が始まります。そして「教育」とは、真理をモノのように「教える」ものではなく、子どもを善くしようとする働きのことです。そして「善さ」も何か実体があるモノではなく、たんなることばです。「善さ」はモノのようには見えないけれども、それに向かって生きようとする、そうした働きが子どもにはもともと備わっています。子どもが本来持っている「善さ」への働きを伸ばしていくのが教育です。

【感想】知識を植え付けるただの道具として教育を見る人々や世間に対する違和感が、著者の教育学研究の動因となっている。その違和感を丁寧に吟味していくと、教育観の相違の根源にある「子ども観」や「過程像」の相違に行き着く。著者は「善さ」という概念を導きとして、子ども観や過程像といったものの転回を目指すことになる。その成果は具体的には新しい教育史のスタイル等に現れることになる。

この独特な教育学体系樹立に向かう思考と吟味の道筋は、論理的に明快だし、手続きも着実だし、実存的にも共感できる。とても納得できるし、腑に落ちる。それはいい。

ただ、第二部以降で勢い余ってというか、自然科学の領域に手を突っ込んでいる部分には危険な臭いもする。宇宙生成論や進化論に言及している部分は、一歩間違うとトンデモ領域に踏み込んでしまうギリギリのところにいるように思う。第三部の原罪論も、キリスト教神学の分厚い歴史を思うと、普通は簡単に手を突っ込めない領域だ。怖い。

しかし、こういう大火傷必至の聖域に「善さ原理主義」という武器一つで果敢に突入していくところは、紙一重の魅力でもある。こういう前向きな教育学があることで、現代教育学はとても救われている気がする。

村井実『人間と教育の根源を問う』小学館、1994年

【要約と感想】村井実『道徳は教えられるか』

【要約】道徳は教えられるし、教えるべきです。ただしその場合の「教える」とは、もちろん戦前の修身教育のように単純に徳目を教え込むことではありません。諸々の徳目が引き出される根拠となる普遍的な道徳的大原則を理性的に探求するところに、目指すべき道徳教育の姿があります。あくまでも理性に訴えることが重要なのであって、日本人が陥りがちな情緒主義や鍛錬主義では、子どもたちの道徳性が育つ見込みはありません。

【感想】原著はちょうど50年前に出ているわけだけれども。「道徳の三重構造」と「目標像と過程像の峻別」という観点は、現在の道徳教育を判断する際にもかなり有効だと思う。まあ、未だに50年前の本が有効であるという情けなさは、感じざるをえない。学習指導要領改訂によって道徳は教科化され、文科省は一応は「考える道徳」というテーマを打ち出してはいるけれども。果たして道徳教育は善くなっているのか。本書の理性的な分析を踏まえて現在の道徳教育を眺めてみると、はなはだ心許ない。教育に携わる者として、己の力不足を恥じ入るのみである。

村井実『道徳は教えられるか』国土社、1990年<1967年

「人格の完成」とは何か、絶賛研究中。