東京家政大学

今日から東京家政大学にお世話になります。保育士養成や教職課程に関わっていきます。心機一転、張り切っていきたいと思います。

石神井川から120周年記念館を臨むの図。今日はまだ1分咲きくらいでしたが、満開になるととても美しい眺めになりそうです。

文京学院大学

明日から所属先が変わります。文京学院大学には、6年の間たいへんお世話になりました。

帰り際に撮った写真。ふじみ野キャンパスの桜は、ようやく一分咲きというところです。週が明けたら見頃かな。

来年度からは週一回の非常勤講師ということで、またしばらくよろしくお願いします。

市民大学ふじみ野

市民大学ふじみ野」の運営協議会に出席してきました。

「市民大学ふじみ野」とは、埼玉県ふじみ野市が運営する市民のための教育機関です。昨年の11月に開校しました。学長を文京学院大学人間学部長の木村浩則先生が務めており、私は教育学の専門知識を持つ有識者として運営協議会のメンバーに加わることとなりました。
無事に第一期が終了したので、今日は実績報告と反省、そして来期に向けての計画と方針について議論しました。

運営側の意図としては、単なる趣味の教養講座に終わらせるつもりはなく、学んだことを実際の町づくりに活かすことのできる人材養成を目的として掲げています。

町づくりに関わる民間人材養成は、行政の側からも要請されています。町づくりに関して、市民の側からも積極的に参加してほしいという要望が繰り返し表明されています。この背景には、行政のスリム化に伴うサービスの縮小という事態とか、自治会など住民自治の担い手の高齢化とか、平成の大合併に伴う市民アイデンティティの再編成とか、様々な現代的課題が複雑に絡み合っています。ざっくりまとめると、20世紀型の福祉国家では課題に対応できないという認識です。

従来の福祉国家的発想ではカバーしきれない町づくりの仕事に自主的に参画する市民が求められているとき、市民大学に期待されるのは、そういう人材を養成し供給する場として機能することです。その目標を達成するには、町づくり構想とカリキュラム構成の整合性、単位修得後?の人材配置の仕組み、行政各部署との連携体制の組織化など、従来の教養講座にはなかったような取り組みが必要となってきます。

ともあれ、「市民大学ふじみ野」は昨年始まったばかりで、まずはやってみて初めて分かることが認識できたという点が重要な段階ではあります。よりよい学びが実現できるよう、私も微力ながら知恵を出していきたいと思います。
ふじみ野市民の方は、興味を持たれたら、ぜひ参加してください。

市民大学ふじみ野ホームページ



東京都品川区・大田区 如来寺と本門寺

大井の養命院如来寺と池上の本門寺に行ってきました(2017年3/28訪問)。

養命院如来寺はJR西大井駅から徒歩10分程度。こじんまりとした敷地を有効活用している様と、こまごまと微笑ましい布袋さま等の石像群と、亀やフクロウなどおもしろい形のベンチにはホッコリさせられますが、木造五智如来像は圧巻です。

3メートルの如来像が5尊ならぶ光景は、なかなかの壮観。様々なお寺を見てきましたが、これは他にないユニークな空間のような気がします。

池上本門寺は都営浅草線西馬込から徒歩15分くらい。浅草線の車両基地を眺めながら長い歩道橋を渡るコースがお奨めです。4年前までは散歩コースでしたが、引っ越してからは久しぶりの訪問です。
本門寺には日蓮聖人入滅にまつわる物を中心に普通に見どころがたくさんありますが、個人的にはアントニオ猪木をモデルにして作られたという仁王像がお気に入りです。大半の観光客が気づかない所にひっそりと立っているのがもったいないので、もっと大々的に宣伝してもいいんじゃないかと思うなあ。

プロレス関連では、もちろん力道山のお墓が有名です。こちらは案内版がたくさん立っていて、たくさんの人が訪れます。
力道山の銅像の台座に寄付者?の名前が刻まれているのですが、三澤光晴の名前を見ると、少しホロリとしますね。
今日見たら北野武の名前も刻んであったけど、たしか4年前に来たときにはなかったはず。梶原一騎とか天龍源一郎の名前には見覚えがあるので、そのとき北野武の名前がなかったのは間違いない。4年の間になにがあったのかな?

満開のしだれ桜も青空に映え、風がないせいで花粉も少なく、なかなか楽しい散歩日和でした。本門寺の展望台から富士山が見えなかったのが残念だったくらいかな。





鵜殿の野望【第一章】鵜殿城という城がある

鵜殿一族は、紀伊半島の熊野地方出身の、海賊でした。その痕跡が、鵜殿城にあります。
鵜殿城は、熊野川の河口にあります。熊野川は、三重県と和歌山県の県境を流れています。

JR鵜殿駅を降りてから、徒歩15分くらいで鵜殿城に着きます。本丸までは、基本的にただの山登りです。
下の写真が、鵜殿城の本丸です。

鵜殿城本丸

うーん、何もありません。というのも、400年前には廃城になっているのです。大坂夏の陣で紀伊の鵜殿一族は豊臣方に付いてしまったせいで滅びてしまい、お城も400年のあいだ野ざらしになっていた模様です。

が、城マニアが見ると違います。堀切や土塁跡など、遺構を比較的良好に観察することができて、大興奮です。

水軍の城ということで、本丸からは熊野川と太平洋がよく見えます。どこから敵が攻めてきてもすぐに発見することができます。なかなか良い立地条件です。

鵜殿城本丸から太平洋を臨む

右側に見えるのが熊野川の河口です。訪問日には川の水が茶色く濁って見えましたが、たぶん前日の雨のせいで上流から大量の土砂を運んできたためでしょう。遙か彼方に見えるのが熊野灘の水平線です。真ん中に見えるのは製紙工場。

本丸には、鵜殿城の案内看板が立っています。鵜殿一族の経歴も分かります。

鵜殿城の案内版

夏の日差しが強すぎて、写真では看板の一部が読めませんが…。

書いてあることをまとめると。
鵜殿一族は、平安時代末期から南北朝期にかけて、この城を中心として活動します。室町時代には海を渡って三河に移り、蒲郡を中心に勢力を拡大することになります。紀伊半島と蒲郡は、今の感覚でいうと遠い気もしますが、当時は陸よりも海上交通が重要だったことを考えると、実は直接的に繋がっているのです。
しかし、蒲郡に移った鵜殿氏は桶狭間の後に徳川家康に敗れて衰亡し(1562年)、熊野に残った鵜殿氏は大阪夏の陣(1615年)でまたもや徳川家康によって滅亡します。徳川家康、断固許すまじ。

実は2016年の大河ドラマ『真田丸』では裏で熊野鵜殿氏が滅亡していて、2017年の大河ドラマ『おんな城主』では裏で蒲郡鵜殿氏が滅亡していたのでした。鵜殿の野望は夢半ばにして潰えたのでありました。残念無念でありました。
(鵜殿城には2016年8月訪問)

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で活躍・・?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??

「人格の完成」とは何か?