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【要約と感想】鍵本優『「近代的自我」の社会学 大杉栄・辻潤・正宗白鳥と大正期』

【要約】明治以降、近代的自我の形成が日本の知識人にとって共通の課題となりました。本書が扱うテーマは、近代的自我形成の在り方が明治と大正とで大きく異なっていることです。明治期には国家独立のための前提として近代的自我の形成を目指していましたが、大正期には資本主義体制下の消費的主体としての近代的自我へと変容しました。注意すべきことは、明治と大正を通じて、生命主義の影響の下で自我を「ひとつ」の何かへと包括・統合しようとする全体主義の傾向が共通していることです。このような日本における近代的自我の形成過程の中、大正期に「ひとつ」への統合圧力から逃れようとする試みが散見されるようになります。その代表として、本書は大杉栄、辻潤、正宗白鳥の苦闘を具体的に扱っています。

【ツッコミ】明治期人格概念研究者(?)の私としては、ツッコミを入れるべき点が2つある。ヘルバルト主義と社会有機体論だ。いちおう先回りしてフォローを入れておくと、著者の主張に問題があると言いたいわけではなく、私自身の発信力不足と怠慢のせいで、熱心な研究者にすら私の研究成果が届かないというところに問題があることを自覚しつつ、私の研究がこの問題領域にどのような形で貢献できるかを確認するための作業だ。

まず著者は「明治三十年代の半ば頃に中等学校修身科教育の内容として姿を現した人格観念」(91頁)と言うが、この記述にはツッコミを入れておきたい。正確には、人格観念は「中等学校修身科」から姿を現したのではなく、時間的にも理論的にもその前に「教育理論」の中に姿を現している。明治20年代半ばにはヘルバルト主義によって「人格」観念が「個性」観念を伴って導入されて、少なくとも20年代後半には教育理論として展開されるようになっているのだ。明治30年半ばの中等学校修身科教育の内容は、ヘルバルト主義理論を土台にして教育理論が展開した末に出てくるものだ。(拙論「日本の教育学説における人格概念の検討-ヘルバルト主義を中心に」および「「教育的」及び「個性」-教育学用語としての成立-」)
大西祝もヘルバルト主義への言及を通じて「個性」観念に触れており、「人格」や「個性」概念に対してヘルバルト主義が果たした影響は、かなり大きい。このあたりは教育史研究者がもっと主張を強めていくべきところなのだが、主張が広がっていないのは我々の怠慢だ。

それから、多様性と一性(=アイデンティティ)の相克について、しかも生命主義と絡めて考えるなら、明治初期の進化論受容から中期の社会有機体論および国家有機体論への展開を無視できない。この論点にもツッコミを入れておきたい。
社会有機体論にしても国家有機体論にしても、「有機体」というからには、もちろん機械のように部分に単純分割できるものではなく、全ての器官が相互依存している生命体が想定されている。生命体の在り方を理論的前提とする有機体論は、生命主義に容易に接続できる。本書が言う「ひとつ」への統合・包括圧力は、社会有機体論と国家有機体論によって理論的に裏打ちされているように思う。具体的には、社会有機体論を理論的に代表するのがスペンサーで、国家有機体論を理論的に代表するのがシュタインなわけだが、明治中期に徳富蘇峰や岡倉天心や三宅雪嶺といった新しい世代がこれらをまともに受け止め、個性と多様性を尊重しながら同時に一性を保つという言論を展開した。これは福沢諭吉や中江兆民といった「天保の老人」には見られなかった傾向だ。新しい世代の論理では多様性(個別性)と一性(普遍性)が生命という相においてのみ両立することが示されており、その基本的な論理構成は大正期の生命主義にも(あるいは戦後まで)引き継がれていくように見える。生命主義を背景とした「ひとつ」への包括統合圧力を描くのであれば、天心や雪嶺など新しい世代に触れつつ有機体論の伝統を踏まえる必要があるのではないかと思った。

【感想】まあ、あらかじめフォローしておいたとおり、著者の主張を否定したいわけではない。自分自身の発信力不足と怠慢を反省しつつ、行うべき仕事について再確認させられるような、たくさんのインスピレーションを与えてくれた本だった。とてもおもしろく読んだ。

とくに「ひとつ」という術語は、著者がその言葉を捻り出した過程を想像するに、とても尊いものだと思いつつ読んだ。従来はそれを「同一性」とでも呼ぶことが多かったわけだが、著者はおそらく「同一性」という術語で記述することに違和感を抱いているのだろう。手垢のついた言葉ではなく、著者が新しく「ひとつ」という言葉を生み出したことは、とても尊い。私もソレをどのように呼ぶべきかについては、ずっと悩ましく思っている。あるいは、著者が「ひとつ」と呼んでいるものについて、どう考えていいのか、ずっと迷っている。
たとえば、「ひとつ」への包括統合圧力が、果たして近代に特有のものかどうかという疑問が拭えない。なにかを「ひとつ」と認識することは、実は人間の認知の所与の在り方なのではないだろうか。たとえば、目の前にある眼鏡を、どうして私は「二つのレンズとひとつのブリッジ」とは認識せず、「ひとつの眼鏡」と認識するのだろう。そして、どうして英語ではそれを「二つのレンズ」と認識するのだろう。なにを「ひとつ」と認識するかは文化によって異なる。日本語では「眼鏡」を「ひとつ」と認識し、英語では「レンズ」を「ひとつ」と認識している。とはいえ、いずれにせよ何かを「ひとつ」と認識する認知の在り方がなければ、人間は「言葉」を持つこともできず、「存在」を認識することもできない。たとえばアリストテレスは、「数」は2から始まるものであって、「1」は数ではないと主張した。
「近代的自我」とは、一人の人間を抽象的に「ひとつ」と認識する認知フレームではある。この認知フレームは、身分制を破壊して、侍だろうが農民だろうが「同じ人間である」というふうに、具体性を剥ぎ取って人間を認識することが可能な社会的条件が揃って初めて作動する。同様に「近代的国家」を抽象的に「ひとつ」と認識するためには、アメリカだろうが日本だろうが北朝鮮だろうが「同じ国家である」というふうに、具体性を剥ぎ取って国家を認識することが可能な社会的条件が揃う必要がある。そういう意味では、確かに「近代的自我」も「近代的国家」も市民革命以後の近代的産物に間違いはない。フロイトやニーチェは、人間を抽象的に「ひとつ」と認識する近代的な認知枠組に対して異議申し立てをしたと言える。人間は「ひとつ」などではなく、もっと細分化されたものに「ひとつ」を設定するべきなのかもしれない。あるいは、もっと大きなもの(たとえば国家とか社会とか人類補完計画とか)を「ひとつ」と設定するべきなのかもしれない。
が、そもそも「なにかをひとつと認識する」という認知の在り方自体は、実は時代に関係なく、人間にとって所与のものである可能性はないのか。前近代は前近代で、なにか別のものを「ひとつ」と認識しており、そこに向けての包括・統合圧力はやはり作動していたのではないか。たとえばそういう「究極のひとつ」、つまり「神」としか呼べないようなものへの憧憬は、後期プラトンの哲学や、アリストテレス『形而上学』や、新プラトン主義の諸々に徹底的に描かれているのではないか。
だとしたら、大正期の生命主義が求めた「ひとつ」とは、求めるべき「ひとつ=神」を持たなかった日本人の認知の空隙を埋めるものとして、大正期の知識人には、どうしようもなく必然的に生じてしまう類のものではないのか。ここまで思い至ると、本書でライトモチーフのように繰り返されるキリスト教の影響と反発というものは、なかなか侮れない。「ひとつ」というものは絶対に必要だと感じているにもかかわらず、キリスト教の言う神は「そのひとつではない」というもどかしい感じ。その「ひとつ」ではない何か別の「ひとつ」を求めざるをえない人間の認知のどうしようもない在り方が、たとえば本書で扱われた3人の苦闘に現れているのかもしれない、というふうに本書を読んだ。

本書で示された「ひとつ」への包括・統合圧力という問題は、そうとう深いように思う。そしてそういう意味で、「ひとつ」という言葉を産みだして問題を記述した本書のセンスは、とてもいい。

鍵本優『「近代的自我」の社会学 大杉栄・辻潤・正宗白鳥と大正期』インパクト出版会、2017年