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【要約と感想】榊原富士子・池田清貴『親権と子ども』

【要約】家族に関する法律の本です。親が離婚したら子どもはどうなるのか、児童虐待を防ぐにはどうしたらいいのか等、子どもをめぐる現実の問題に対して法律がどのように組み立てられているかが簡潔に解説されています。
かつて親権は大人の側の都合で作られていましたが、2011年以降は「子どもの権利条約」の精神を反映して「子どもの最善の利益」を中心に組み立てられています。親権は、子どもの人権を保障するためにこそ存在するべきものです。
具体的には、たとえば2011年の民法改正で「親権の停止」が導入されたり、申し立て制度に子どもの意見表明権が取り入れられるなど、子どもの利益が保護される仕組みが整えられてきました。今後も子どもの人権を保障する観点から親権についての規定を改善していく必要があります。
そして児童虐待をなくすためには、「しつけ」を名目とした言い逃れをなくすためにも、「体罰は、躾ではなく、虐待」であることを共通認識に据える必要があるでしょう。「体罰」は子どもの成長を願ってやっているわけではなく、単に大人の側の指導力不足だったり、見栄だったりすることが多いはずです。原則的にいって、体罰が子どもの成長を促すことなど、あり得ません。

【感想】昨今の世間を騒がせている児童虐待について、児童相談所の対応を非難する人々が一定程度いるわけだけど、そういう人には本書を一読することをお勧めしたいところだ(まあ、そういう人ほど本を読まないんだろうけれども)。仮に児童相談所が機能しないとしても、その理由の大部分は決して所員の努力不足等にあるのではなく、法律上の「親権」の規定にあることが分かるはずだ。「親権」規定のどこがどのように問題なのか、何が変わり、何を変えるとよいのか、本書は歴史的経緯を踏まえながら分かりやすく説明してくれる。
また「体罰」の解釈も論理的に明快だ。世間には躾のためには「体罰」が必要だと主張する人もいるのだけど、それは結局は「虐待」に過ぎないことを繰り返し確認していく必要がある。児童虐待の報道に心を痛めている人には、一筋の光が見えるような記述があるのではないかと思う。

【今後の研究のための個人的メモ】
ところで、教育基本法第一条の教育の目的「人格の完成」規定に対して、子どもの権利条約が重大な変更を迫る可能性が高いだろうことを改めて認識した。本書は以下のように言っている。

「子どもを一人の人格を持つ権利の主体として尊重すること、そしてそれに合うような親権の解釈にたどり着いたのは、日本の歴史の中でも比較的最近のことである。」12頁

しかし「人格の完成」を目指すという教育基本法第一条の条文は、子どもの人格が未完成であることを前提としているように読めるため、教育途上の子どもを「一人の人格を持つ権利の主体」として捉える視点が含まれていないように思える。「子どもの権利」という観点が登場する以前の条文なので、その認識が欠けていても無理はないのではあるが。
しかしだとしたら、子どもの権利条約を受けて、教育基本法第一条「人格の完成」を修正していく必要があるかもしれない。子どもを「一人の人格を持つ権利の主体」と認識した時に、はたして教育基本法の「人格の完成」という表現が適切かどうか、改めて考える意味があるように思う。というか、「人格の完成」とはどういう状態かとか、そもそも「人格」とは何かとか、改めてしっかり吟味する必要があるように思う。
いまのところ、2006年の教育基本法改定時も含めて、文部科学省等で検討された様子はないように思うのだが。

榊原富士子・池田清貴『親権と子ども』岩波新書、2017年

【要約と感想】大屋雄裕『自由とは何か』

【要約】自由について、伝統的に「消極的自由」と「積極的自由」など議論が積み重ねられてきましたが、現在は監視テクノロジーの発展によって全く別次元の様相を呈しており、今はアーキテクチャーについて真剣に考えるべき段階にあります。もはや自由意志がフィクションに過ぎないことは明確です。が、著者は近代が夢見たフィクションにまだ期待をかけています。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=法哲学の立場から見て、「自由意志」なり「人格」なりという概念が近代によって構成されたフィクションに過ぎないということが、疑う余地のない明確な形で記述されていた。今後はありがたく乗っかることにする。

【感想】「自由意志」や「人格」がフィクションであるという記述に対して、特に感慨はない。法学なら、それでいいでしょうとしか(「法」自体もフィクションだし)。しかし個人的な関心は、功利的なフィクションに過ぎなかった「人格」というものが過剰な現実性を獲得してしまうメカニズムにあるわけで。そういう関心からすると、法哲学という分野の人々が、あまりにも本質に触れたがらないことに(意図的か無意識かは知らないけれども)、ちょっとした苛立ちは感じる。まあ、そこは彼らの仕事ではないから、唖然としたところで仕方ないことは重々承知だけれども。
ここは、否定神学とか他者という分析装置を駆使して自由意志の前提条件に迫ろうとしている社会学の大澤真幸とか、「郵便的」という概念で過剰さが生じる原因の説明を試みた哲学の東浩紀のほうに、ある種の誠実さを感じるところではある。

また、私が関わる教育学という領域は、著者が投げた地点から始まるという宿命を負った学問だ。著者は「個人を「自由な個人」として作り上げる最低限のパターナリズムを認める方向に解を求めようとしている」と言った上で「その「私の結論」を押しつけることは他者を他者として「自由な個人」として、扱っていないことになるだろう」と立ち止まって「だからここで私は、再び筆を措かなくてはならない」と韜晦するが、教育学はまさにこのアポリアを引き受けた上で、そのアポリアの上に構築されなければならない。「自由を強制することが教育である」という「諦め」からスタートさせられる辛さを、改めて確認させられた。

大屋雄裕『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』ちくま新書、2007年