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【感想】戸田ひかる監督『愛と法』

戸田ひかる監督のドキュメンタリー映画『愛と法』を観てきました。(北区2019ねっとわーくまつり5/19)
『愛と法』は、男性同性愛カップルの弁護士コンビが、様々なしんどい裁判に関わりながらも、愛に溢れる日常生活を送る様子を描いた作品です。たいへん興味深く観ました。隅々まで愛に満ちあふれた映画で、とてもおもしろかったです。

彼らが関わった裁判は、無戸籍裁判とか、ろくでなし子猥褻裁判とか、大阪君が代不起立裁判とか、まさにマイノリティ=少数者に焦点が当たり、人権や憲法解釈の根幹に関わるものばかりでした。「少数者が不利益を被らないように最後の砦になるのが憲法の役目だ」という話は、私の授業(教育原理)の中でもしっかり行なっているつもりなのですが、その当たり前の人権感覚が失われつつあるという実感は、確かにあります。憲法の原理的な意義を理解していない学生が、本当に多いです。自分にできることは教育原理の授業だけではありますが、できることだけはしっかりやらないと、と改めて思った次第です。

車の中で「仕事ができないけどスーパーマンになれない…」と言って涙を流すフミのエピソードには、様々な意味で、胸が痛みました。自分一人でできることって、本当に限られているんですよね。しんどい人たちを救いたいのに、自分の力では何もできないという。私の目の前にもしんどい子たちがたくさんいるのですが、私の言葉は彼女たちに届きません。自分には何もできないという無力感は、フミと共有しているかもしれないと思いました。そしてその自分の弱さを率直に表現できて、涙を流すフミは、根っから優しい人なんだなと。この無力感に対する悔しさというものは、忘れてはならない感覚なのだと思います。たぶん。力が欲しいですねえ。

一方、二人や周囲の人々の日常生活を描くエピソードも、とても素敵でした。全編を通じて食事のシーンがたくさん登場するのが印象的でした。施設からひきとったカズマが独り立ちしていく過程は、とても勇気づけられました。幸せになって欲しいと心から思いました。
カズの歌も、とても素敵でした。Pictures and Memoriesの動画も、思わず家に帰ってから見てしまいました。多芸で、すごいなあ。

個人的に「子ども食堂」や社会的養護などに関わる機会が増えてきました。いま強く思うのは、周辺的な状況に追いやられている人々がますます不可視化されているということです。この作品は、しんどい人たちをまず可視化するための試みとして、とても尊いものだと思いました。「サバルタンは語ることができるか」などと韜晦している場合ではなく、可視化のための努力は地道に続けていかなければならないと思います。
カズとフミ、お二人の今後のますますのご活躍を祈りつつ、私は私にできる仕事を着実に進めていかねばならないと、改めて思ったのでした。

映画の内容とはまったく関係ないのですが、ろくでなし子裁判エピソードで、主人公の二人以上に山口弁護士が無駄に感じが悪く目立っていたのに、つい笑いました。

映画.com「「愛と法」戸田ひかる監督が語る”可視化”することの大切さ」
TOKYO RAINBOW PRIDE「ドキュメンタリー映画『愛と法』戸田ひかる監督インタビュー~人との「つながり」を大切に~」

【感想】佐野翔音監督『こども食堂にて』

映画を観てきました。「こども食堂にて」というタイトルで、もちろん子ども食堂が舞台の話です。
いやあ、涙腺はもともと強い方ではないのですが、最後の方はずっと涙腺が崩壊したままでした。いい映画でした。

児童虐待の辛い体験を乗り越えて前向きに生きる女子大生が、子ども食堂でボランティアに携わり、様々な事情を抱える子どもや大人と関わっていく話です。体中に痣を作って被虐待の疑いが強い女の子や、悪いと分かっていながら障害を抱える子どもに手をあげてしまう母親や、実の母親に会いたいことを里親に言い出せない男の子など、生き辛さを抱える人たちを「見守ることしかできない」という子ども食堂の活動の過程で、少しずつ主人公が成長していきます。

この映画を観て、私が強く思ったことが三つあります。(1)チームの重要性、(2)食べることの意義、(3)家庭でも学校でもない第三の場所の重要性です。

(1)チームの重要性
主人公は、最初は一人で問題の渦中に突入していくのですが、何もできない自分に対する情けなさで無力感を強めるだけに終わります。しばらく「私は何もできない」と落ちこむのですが、偶然入ったガラス工芸店で、何人もの専門家が関わって初めてようやく一つの作品を作り上げることができることを聞き、考えを改めます。一人でできることには限界があるけれども、たくさんの人が役割分担をして一人一人の持ち場を誠実に守っていくことが、最終的に価値ある仕事に繋がっていきます。
そう考えると、子ども食堂の運営者が言う「私たちの仕事はここまで」という言葉は、とても含蓄が深いものに思えます。もちろんそれは行きづらさを抱える人々を突き放す言葉ではなく、自分の持ち場を誠実に守るという決意を前提として、他の持ち場を守る人々をチームの仲間として信頼する言葉でもあります。自分たちの仕事に限界はあるけれども、他の専門家たちと連携することで様々な困難を解決できると信じている言葉です。実際、この映画では、子ども食堂と児童福祉に関わる専門家たちとのコミュニケーションが、しっかり描かれています。
私も大学の教職課程を持ち場としている身として、まずは自分の持ち場をしっかりと守りつつ、他の専門家の方々との連携を深めていくことが大事なのだと、改めて認識しなおした次第です。

(2)食べることの意義
映画の舞台が「こども食堂」ということで、もちろん「食」が中心的なテーマとなっている映画です。子ども食堂の運営を裏から支える八百屋さんや魚屋さん、パン屋さんたちの温かい活動が、さりげなくも丁寧に描かれていました。また、子ども食堂のシーン以外でも、コミュニケーションツールとしての「お饅頭」の扱い方が印象的で、人と人を繋げる行為としての「食」がライトモチーフとなっているように感じました。
言うまでもなく、生きることのいちばんの基本は「食」にあります。が、このいちばん大事であったはずの「食」の土台が、現代では壊滅的に崩れてきています。特に現在では「食」が徹底的に個人化・市場化してしまい、人と人を繋げる基礎が見えなくなっています。失われた「人と人との繋がり」を取り戻す上で、「子ども食堂」が「食」を基礎に置いていることは、とても重要なことのように思います。単に話を聞いても何も話してくれない子どもも、安心して「食」に参加できる場では口を開いてくれそうな気がします。安全に「食」を楽しむことは、生きることを無条件に肯定することだからです。
よくある勘違いとして、子ども食堂は貧困の子どもを対象にしていると思われがちですが、本来はそうではありません。貧困かどうかに関係なく、子どもたちが安心して「食」に関われる場です。生きるための基礎となる「食」が安定して、初めて人と人が繋がる条件が成立するということが、よく分かる作品だと思いました。

(3)家庭でも学校でもない第三の場所の重要性
近年では、子育ては家族がもっぱら責任を負うべきものだとされがちですが、かつてはそうではありませんでした。生産力の低い時代、子育ての優先順位は低く、まずは生存に必要なカロリーを確保することが最優先事項でした。大人たちは農作業や狩猟で忙殺され、子育ては近所の小さな女の子が担当する(いわゆる子守)など、地域全体で担うものでした。現代では生産力の向上と同時に家族の島宇宙化が進行し、家族が子育ての責任をもっぱら背負うようになり、地域が子育てに関与しなくなりました。児童虐待の増加は、このような「家族にだけ責任を負わせる」ような子育て形態の変化が土台にあるように思います。
地域の存在感の低下を埋め合わせるように児童相談所など行政への期待が増してきていますが、まだまだ人員や予算が不足しているため、すべてをカバーしきることは難しい状況です。そんな中、かつては地域が行ない、本来は行政がカバーしなければいけない領域を代わりに確保しているのが、子ども食堂という存在だと思います。その存在は、作中では「家庭でも学校でもない第三の場所」と呼ばれました。
80年代から90年代にかけての少年にとって、「家庭でも学校でもない第三の場所」はゲームセンターだったりストリートだったりしました。そこでは家庭や学校の序列からは解放されて、本来の自分を取り戻せるような感覚を得られました。今では、その場所はインターネットなど仮想空間になっているかもしれません。が、仮想空間では、お腹がふくれません。「第三の場所」としての子ども食堂は、子どもたちの居場所を確保する場として、本当に貴重な存在だと思いました。

そんなわけで、この作品、派手な演出があるわけでもなければ、びっくりするようなドンデンガエシの脚本なわけでもありません。ドキュメンタリーの手法を交えた、会話中心で進行する、地味な映画であるとはいえます。が、観てよかったなと、確実に思える作品でもあると思います。いろいろな立場の人に観てもらいたいなと思いました。私個人は、地域の子ども食堂に実際に行ってみたいと思いました。観る前には心のなかに存在しなかった感情です。
上映後に行なわれた監督のトークショーも興味深く聞きました。まさか作中の重要な登場人物が監督本人だと思っていなかったので、そこそこ意表を突かれました。

2018年10月12日まで、渋谷アップリンク上映中「こども食堂にて」