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【新潟県上越市】春日山城と上杉謙信墓所

新潟県の春日山城は、上杉謙信の本拠地として有名な城です。

麓から春日山城を見上げるの図。城に慣れていないとただの山にしか見えないかもしれませんが、目を凝らすと、人の手が入った曲輪の痕跡を確認することができます。戦国時代には築地塀や居館などで壮観だったんでしょうね。

案内板によると、裾野に張り巡らされた総構えも見所だそうですが、今回は山に連なる曲輪を中心に見学しました。

文部省が設置した案内板もありました。普通は地元の教育委員会が設置する案内板だけなのですが、さすが昭和10年に国指定史跡になっているだけのことはあります。

三の丸と二の丸を抜けて本丸に登り、北に視線を向けると、直江津の港や市街だけでなく、日本海まで見晴らすことができます。城として絶好の立地条件であることが分かります。
とはいえ、山城としてはさほど急峻な印象はありません。小谷城とか観音寺城などの山城っぷりと比較したときには、少し緩い感じがします。

本丸の跡。けっこう広くはありますが、べらぼうに広いというわけでもなく。北条や武田の城と比較すると、堀や土塁の造り込みもさほど凄いという感じもなく。千貫門周辺は確かに凄かったけれども、あの程度なら北条の城では標準装備という感じもするし。大手道と言われているルートも、技巧が少なすぎるし(あの緩さで本当に大手なのか疑問なしとしない)。あの上杉謙信の本拠地の本丸としては、畏れ多いですが、多少拍子抜けという感じは否めませんでした。
まあ考えてみれば、そもそも上杉謙信が城に籠もって戦ったこと自体が記憶にありません。ほぼ野戦に打って出ているわけで、城郭を固める方向に力がこもっていない気はします。
麓に張り巡らされた総構えを見ないうちに判断してはいけないわけですが、春日山城は単なる防御施設ではなく平時から家臣居館群として機能していた(観音寺城などと同じく)と考えて、堀や土塁などテクニカルな防御機構を期待する対象とはならないかなと。
というわけで、上杉謙信と一緒の場所に立つこと自体に万感の思いを抱きつつ、腕を組んで日本海を眺めるのが、楽しみ方として正しい気がしてきました。

さて、春日山の隣の峰に、上杉謙信の菩提寺・林泉寺があります。たいへん立派な三門です。

林泉寺は春日山城とセットで拝観するのがお勧めです。

林泉寺宝物館には謙信直筆の書などが展示されていて、たいへん見応えがあります。
禅様式で美しく整理された庭を奥へ進むと、川中島合戦戦没者慰霊碑などと共に謙信の墓所があります。

上杉謙信のお墓。感慨深いものがあります。

境内には上杉謙信の事跡紹介と共に、上杉謙信の歌の歌詞が展示されておりました。愛されております。

林泉寺から500mほど東、春日山の麓に春日神社があります。

春日神社の案内板によれば、そもそも「春日山」の名前は奈良の春日大社に由来するようですね。
春日神社の北東に春日山城史跡広場と学習施設があって、このあたりで総構えの雰囲気を味わうことができます。学習施設は、休館日の時に行ってしまったので、また改めて行かなくてはいけません。

ところで、ちょっと紛らわしいのですが、「春日神社」とは別に「春日山神社」という神社があります。春日山神社のほうが春日山城本丸に近いところにあります。

春日山神社の由緒書を見ると、明治34年に小川未明の父が作ったということで、けっこう新しい神社のようですね。

麓を歩いていると、工事現場等で使う持ち運び用ガードレールの土台が上杉謙信になっているのを見つけました。同じようなのは大阪四天王寺付近で聖徳太子が土台になっているのを見たことがありますが。地域おこしグッズとして定番なんですかね。
(2016年5月訪問)

【新潟県新発田市】堀部安兵衛の生誕地と、菩提寺の長徳寺

新発田市は、赤穂浪士随一の剣豪として有名な堀部安兵衛の出身地で、観光の目玉として前面に打ち出しています。

新発田城の近く(かつては城内の櫓跡)には、堀部安兵衛誕生之処の石碑が立っています。

さらに新発田城帯曲輪、表門へ行く橋の前には堀部安兵衛像が据えられております。

安兵衛の幟もはためいて、生誕地をアピールしております。

観光地の定番顔出しパネルのモチーフも、もちろん堀部安兵衛。衣装は討入時の格好になっていますね。

さて、新発田市は「清水園」という大名庭園でも有名です。

国の名勝にも指定されるだけあって、たいへん立派な日本庭園です。敷地内に新発田藩史料館があって、様々な歴史資料が展示されているのですが。

隣に同じくらいの力が込められた「堀部安兵衛伝承館」が建てられています。赤穂浪士のプロフィールや討ち入りの様子も分かる展示になっております。

さらに市内の長徳寺へ。

長徳寺は堀部安兵衛の家系である中山家の菩提寺で、安兵衛の父の墓もここにあるのですが、やはり安兵衛ゆかりを前面に打ち出しています。安兵衛手植えの松があったり、義士の石碑が立っていたり。

境内には「義士堂」も建っています。本当は年に一度の討入決行日(12/14)にしか公開しておらず、普段は閉まっているのですが、なんとボランティアガイドのおばちゃんの計らいで特別に中を見せてもらうことができました。

さほど広くない堂内にぎっしりと居並ぶ47士像。一人ひとり表情が違っていて、なかなか味わい深いです。伝承によれば、木像は寺坂吉右衛門が手がけて桃中軒雲右衛門が所蔵していたという凄いものということです。

軍配を振るっているから大石内蔵助か。鼻がもげちゃっていますが、2018年春を目処に47士像を順次修理することになっていました。そろそろ修理も完了した頃でしょうか。

安兵衛だけは金属で造られた像も安置されています。

そういえば47義士像でインパクトがあったのは、やはり泉岳寺の木造で、47士に加えて討ち入り前に亡くなった人物(浅野内匠頭含む)も木造になっているのですが、討ち入り時に亡くなっている人物の肌が宇宙戦艦ヤマトのデスラーのように青色で塗られているという。強烈でした。

私が新発田を去った後、長徳寺に堀部安兵衛の墓が立てられたそうです(参照:共同通信「堀部安兵衛の墓碑建立、新潟」)。また行かなくちゃなあ。
(2014年6月訪問)

【新潟県新発田市】新発田城と福勝寺

新発田城は日本百名城にも選ばれている立派な城です。

三階隅櫓が立派です。2004年に復元されたものですが、史実に忠実に再現されているとのことです。

桜の季節は、堀の向こうの隅櫓とコラボして映えそうですね。

が、残念ながら綺麗なのは目に見える部分だけで、城の大部分は消失していおり、舞台の書き割りのようになっているのでした。

案内板に記された縄張図を見ると、もともとは極めて広大な城であったことが分かります。現在残っているのは、ほんのごく一部分に過ぎません。

残された貴重な場所に向かいます。写真を撮っているのは「帯曲輪」というところで、本丸の表門を出たところに造られた、本来は出陣体制を整えるための集合場所みたいなところです。

案内板を見ると、帯曲輪の構造はかなり複雑で、そうとう防御機能が高かったように見えます。

さて、帯曲輪を抜け、いよいよ表門から本丸に入ります。が、まあ、本丸の大部分は消失していて、中はそんなに広くないんですが。
新発田城が素晴らしい名城であること自体に異論はないけれども、百名城にリストアップされるとしたら、むしろ石垣が良好に保存されている村上城も良かったんじゃないかなあというのが個人的な感想ではあります。

本丸には新発田藩初代藩主・溝口秀勝の銅像が建っています。武士なのに甲冑ではなく公家スタイルの銅像というのは他にもいろいろ見ることができますが、多少違和感を持ってしまいますね。どうして公家スタイルなんだろう。

さて、新発田藩の初代藩主・溝口秀勝は関ヶ原の合戦で東軍についたおかげで新発田藩領を安堵されることになりました。が、本丸の案内板では、戦国時代には新発田重家の居城であったとされています。
新発田城から南に1kmほど行ったところに、新発田重家の菩提寺・福勝寺があります。

福勝寺の新発田重家公廟。

寺の案内板にも説明されていますが、重家は織田信長と結んで上杉景勝に謀反を起こし、会津の蘆名家や米沢の伊達家の後ろ盾もあって6年ほどは持ちこたえたものの、新発田城落城と共に命を落とします。

福勝寺門前に据えられた新発田重家の銅像。
新発田城復元の会のWEBサイトが、新発田重家や溝口秀勝の事跡を詳しく紹介しています。
(2014年6月訪問)

【新潟県胎内市】江上館跡の馬出しと、奥山荘歴史館の展示が素晴らしい

江上館跡は中世の城館の有り様をしっかり伝えてくれる極めて良好な史跡で、奥山荘歴史館は発掘品の展示と解説が充実した良心的な博物館です。素晴らしい。

最寄りの中条駅前には、板額御前の銅像が立っております。板額御前は浅利義遠の嫁となることで有名な女性武将です。マンガ家の浅利義遠ではなく、鎌倉御家人の浅利義遠です。

板額御前は、鎌倉幕府ができて源頼朝が死んだ後に発生した鎌倉幕府打倒の反乱軍に参加して、弓の名手として名を馳せます。が、戦に敗れて捕らえられ、鎌倉に護送されることになります。そこでの振る舞いが見事だったため、御家人の浅利義遠が身柄を保障することになります。

中条駅から北に1km弱のところに、江上館跡があります。

中世の城門や橋が復元されており、雰囲気が出ております。本当は門の上に兵隊を配置して敵に向かって矢を放つような建物が造られているはずですが、そこは復元されていません。

時代は15世紀前半、室町時代に当たることに機能していた城館です。城主は中条氏ですが、戦国時代になると本拠地の場所を移動させていきます。

というのは、江上館は戦国時代を戦い抜く上では少々時代遅れだった感があるからかもしれません。推定復元模型を見れば分かるとおり、江上館は方形の構えで造られていました。鎌倉時代から室町時代にかけては、全国的に見てもこのような方形の武家館が一般的でした。が、戦国時代に入ってから急速に築城技術が発展して、防御に特化した山城が全盛を迎えます。江上館のように平地にある方形の城館は、戦争の技術が発展した戦国期には防備という点において少々心許ないものになっていたかもしれません。

ということで戦国期には放棄されていたかもしれない江上館ですが、構造に注目すべき重要ポイントがあります。南側にある「虎口」と「馬出」です。

現地案内板に記されているとおり、「虎口」と「馬出」は、戦国時代に突入して武田信玄や織田信長が活躍するようになってから急速に発展する城館機構です。ところが江上館は、その100年も前から虎口や馬出を備えているんですね。極めて興味深いところです。

その南側の虎口と馬出が史跡に再現されています。虎口は、城館の一番の弱点である入口の防御を固めるもので、通路をクランク型に造って敵の侵入を阻むものです。馬出は、城から出撃するために虎口の前面にしつらえた集合場所のようなものです。虎口と馬出が分かりやすく復元されております。どちらとも常識的には武田信玄や織田信長の時代に発展するのですが、江上館にはその100年前から既に備わっていたんですね。

馬出として機能していたと思われる「南郭」の発掘状況。

私が訪れた日も、管理の方が草刈りをするなど史跡の手入れをしていました。良好な状態で史跡を観察できるのも、日頃から丁寧に手入れをしてくれるおかげです。ありがとうございます。

史跡の隣には、史跡から出土した発掘品の展示を中心とした博物館「奥山荘歴史観」があります。中国から伝来しただろう青磁など、江上館が隆盛を誇っていたことが分かる発掘品が展示されています。解説がとても丁寧で、江上館やこの地域の歴史的な位置がよく分かります。学習施設として非常に充実していて、素晴らしいところだと思いました。
(2014年6月訪問)

【新潟県村上市】村上城の石垣に大興奮し、鮭に舌鼓を打つ

村上城は続百名城に数えられている、素晴らしい城です。

村上城の地政学的な位置は、とても重要だと思います。新潟平野の北端に位置して庄内への連絡口であると同時に、米沢から日本海側に抜けるときに必ず通るポイントになります。江戸時代には榊原家や本多家など譜代大名が配置されており、庄内の酒井家と共に米沢の上杉家に対する最初の抑えとして期待されていたように思います。

西側の旧城下町から村上城を臨むの図。別名臥牛山と呼ばれている山塊が横たわっています。日本海岸からしばらく平らな土地が続いていますが、ここでいきなり絶壁が盛り上がる地形になっており、城を築くならここしかないだろうというポイントになっています。

山の麓にある石碑。

案内板。

軍事施設は山の上にありますが、藩主の普段の生活は、山の麓にある居館で営まれておりました。

さて、山麓の藩主居館からいよいよ山に登ります。いきなり重厚な石垣が現れて、期待が膨らみます。

麓から山を登り切ったところにある案内板。山の北側から南に向かって曲輪が連なっています。いわゆる連郭式と呼ばれる構造になっています。本丸の東と西と南が断崖絶壁になっていて攻撃される可能性が極めて低いので、北側の防御を厚くすればいいという発想です。

御鐘門から二の丸に入ります。石垣がクランク式に組まれており、敵の侵入を阻みます。「虎口」と呼ばれています。かつては石垣の上に櫓と長屋門が組まれており、鉄壁の防御を誇っていたことでしょう。

二の丸を南に進むと、本丸を防御するための巨大な石垣が現れます。山の上にこんなに大量の石を運んだことに驚きます。実に立派な石垣です。当時はこの上にさらに築地塀が築かれて、侵入者を阻んでいたことでしょう。

こういうふうに立派な石垣が組まれたのは戦国時代が終わる頃のことで、戦国時代真っ盛りの時期には土だけで組み立てられていました。村上城はそういう戦国時代の作りも観察することができる、素晴らしい史跡になっています。特に本丸東側斜面は比較的緩く、堀や曲輪を築いて防御を固めていた様子が分かります。

永禄11(1568)年に、村上城に立て籠もった本庄繁長を上杉謙信が攻めていますが、300日籠城してついに落城しませんでした。石垣がなくとも、極めて防御の固い要害であったことが分かります。近世に造られた石垣も立派ではありますが、実際の戦闘で機能していたのは土の城だったわけです。

いよいよ本丸に入ります。虎口も重厚な石垣で防御を固めています。

上から見た虎口。本来はここに櫓が建っていて、本丸に侵入しようとする敵に睨みを効かせていたはずです。

天守台。落雷で消失してから再建されることはなかったそうです。

本丸から西を臨むと、城下町の向こうに日本海まで見晴らせます。天守閣があったら、もっといい眺めだったことでしょう。

さて、山から降りて城下町を散策します。かつての城下町には「郷土資料館おしゃぎり会館」という歴史博物館があります。こちらは村上城の模型や武具類の展示が充実しているほか、村上城にまつわる戦いの様子がかなり詳しく解説されています。上杉謙信の攻撃に耐えた籠城戦や、戦国後期の庄内平野をめぐる攻防、さらに幕末戊辰戦争の帰趨など、地元博物館ならではの詳細な解説は見応えがあります。

資料館には、村上藩の武家屋敷・若林家住宅が隣接しています。かつての武家屋敷としての味わいが深いのは当然として。

ここにしかない見所は、干してある鮭でしょうか。江戸時代に藩の財政を救うほど、鮭は村上の名物となりました。武家屋敷に鮭が吊してあるところが、村上を象徴する光景なわけですね。現在でも、一人あたりの鮭消費量で村上市は日本一だそうです。

ゆえに、側溝の蓋にも鮭が描かれています。

もちろん、マンホールの蓋も鮭のデザインです。

そんなわけで、街中にも鮭料理を売りにしているお店がたくさんありました。鮭とイクラの親子丼を美味しくいただき、瀬波温泉の湯も堪能して、村上を後にするのでした。
(2014年6月訪問)