「教育勅語」タグアーカイブ

【要約と感想】森口朗『誰が「道徳」を殺すのか』

【要約】グローバル化が進み、日本国内でも貧富の差が拡大することは避けられません。格差を受け容れましょう。他の国ならクーデターが起こりそうなものですが、日本では発生しません。なぜなら道徳教育がしっかりしているからです。貧富の差が拡大しても国民がおとなしくしてくれるよう、道徳教育をすすめましょう。

【感想】まあ、道徳教育を推進しようとしている人の本音がどのあたりにあるか、とても分かりやすくしてくれたという意味において、意義のある本なのかもしれない。

【ツッコミ】
本書は独断と偏見と思い込みと勘違いの塊で成り立っていて、全体的にツッコミどころは多いのではあるが、さしあたって左右問わず多くの人に役に立つかもしれない指摘を、専門家の立場からしておいてもいいのかなと思う。

本書は以下のように主張しているが、完全な事実誤認である。

「もちろん、教育勅語が愛国心を否定する反日的なものであるはずもなく、国民に愛国心があることが前提となっていたのでしょう。」(94頁)

デタラメである。教育勅語には、愛国心は一切書かれていない。そもそも当時の国民の大半に、愛国心は確認できない。というか、もともと教育勅語は「国民」を想定していない。教育勅語は一貫して「国民」ではなく「臣民」と言っているではないか。臣民は愛国心など持たないし、持つ必要もない。臣民に必要なのは「忠誠心」である。だから、正確に言いたいなら、「国民に愛国心がある」ではなく「臣民に忠誠心がある」と言わなければならないところだ。

まず教育勅語を作成した中心人物は、元田永孚と井上毅である。儒教主義者の元田は、そもそも近代国家の何たるかを一切理解していないし、理解する気もない。元田がイメージしているのは、儒教が理想とする古代中国の国家である。古代中国には、もちろん「愛国心」という概念など微塵もない。あるのは、「忠君」である。教育勅語を貫くのは、近代的な「愛国」概念ではなく、儒教的な「忠君」概念である。
そしてその場合、もちろん国家を構成するのは「国民」ではない。想定しているのは、君主に忠誠を誓う「臣民」である。元田が想定しているのは、国家を構成する国民を育成することではなく、君主に忠誠を誓う臣民を育成することである。愛国心のために君主を裏切るなどということがあっては、いけないのである。実はこの時点で「愛国」を謳っていたのは、むしろ反政府運動の側であった。高校生でも知っていることだが、「愛国公党」や「愛国社」を名乗ったのは、薩長政権に反対した自由民権運動の側であった。愛国を旗印に掲げたのは、明らかに反政府側であった。もちろん元田はその愛国的な自由民権運動を憎々しく思っている。元田の儒教主義にとって、愛国心は必要ないどころか、有害な概念である。
著者はこのあたりの勉強をどうやらまったく疎かにしているらしいが、こういう基本事項を知らずに教育勅語について語るのは、教育勅語の歴史的意義を分からなくさせるだけの迷惑行為なので、ぜひ自己抑制していただきたいところだ。

続いて井上毅だが、彼は大日本帝国憲法に関わった法制官僚だけあって、近代的な考えをしっかり持っていた。教育勅語に憲法や法律に関する記述が含まれるのは、井上の功績と言える。元田一人では、逆立ちしても出てこない文章である。
とはいえ、この時点で井上毅も「愛国心」という概念を理解していなかった。というか、ほぼすべての日本人が「愛国心」という概念を分かっていなかった。保守派が近代的な「愛国心」を理解するのは明治19年の西村茂樹「日本道徳論」あたりからであって、勅語渙発の明治23年段階では日本全国に広がっていなかったのである。井上も御多分に漏れない。
実は「愛国心」が表面に出て来ているのは、教育勅語ではなく、むしろ同年に出された「第二次小学校令」の中にある「国民教育」の規定である。明治19年の小学校令(森有礼によるもの)と明治23年の小学校令を比較すれば、この間に「愛国心」が広がっていった様子が伺える。文部官僚が作成した近代的な「第二次小学校令」には「愛国心」が表現され、儒教主義者が作成した儒教的な「教育勅語」には「愛国心」ではなく「忠誠心」が表現されているのである。
井上毅が「愛国心」を根本的に理解するのは、シュタインの国家学論理に触れてからである。周知の通り、伊藤博文が欧州憲法調査の際に、もっとも頼りにした学者がシュタインである。その後、明治20年前後に、若手官僚や学者のシュタイン詣でが盛んに行なわれた。そこで初めて日本人は「ナショナリズム」の意味と効果を理解することになる。「ナショナリズム」とは、徹底的に近代的な論理なのである。
井上が直接シュタインと会うことはないものの、書籍を通じてシュタインの国語論に触れ、感激したことが、史料に残されている。教育勅語渙発の時点では、「愛国心」について本質的に理解していなかったと考えられる所以である。

このあたり、近代的な概念である「愛国心」や「ナショナリズム」というものがなかなか日本に根付かなかったことについては、私が学術論文で論証を試みているところである。著者の思い込みと勘違いを正す参考になれば、幸いである。
「明治初期における伝統の保守-国民教育の背景」
「明治10年代の美術における国粋主義の検討」

森口朗『誰が「道徳」を殺すのか―徹底検証「特別の教科 道徳」』新潮新書、2018年

【要約と感想】布村育子『迷走・暴走・逆走ばかりのニッポンの教育―なぜ、改革はいつまでも続くのか?』

【要約】本当に教育は問題だらけですか? 実は問題なんてないんじゃないですか? 問題がないのに改革しようとするから、いつまでやっても改革が終わらないんじゃないですか? 騙されないために、「本当に問題はあるのか?」をしっかり考えましょう。
そうすると、単に文部科学省を非難するだけでは話が終わらないことが分かってきます。

【感想】とてもいい本だ。この黄色と緑の組み合わせが印象的なシリーズの本はどれも面白いのだが、本書も素晴らしい出来だ。ぜひ学生に読んでもらいたい本だ。「文科省という入れ物を批判して、それで何か言った気になってしまうのは、本当にばからしいってことです。」(218頁)という文章は、ぜひ茂木健一郎にも読んでいただきたいところだ。

一言で言えば、本書は「新自由主義」と「新保守主義」の由来と関係を分かりやすく教えてくれる。そして本文には意図的に「新自由主義」や「新保守主義」という言葉を一言も出さなかったところが、素晴らしい。「新自由主義」とか「新保守主義」と発言した瞬間に、レッテルが貼られ、問題の所在が分かったかのように錯覚してしまう。それを避けるためにわざとレッテル貼りを遅延させて、物事を原理的に解説してくれるわけだ。臨教審の意図や狙いがよく分かる。

【今後の研究のためのメモ】
とはいえ、気になるところがないわけではない。まあ本書の論旨とはまるで関係ない「言葉遣い」ではあるが。私が研究対象としている「人格」に関して、本書は以下のように述べる。

「昭和生まれの私でさえ、この種の人格形成論を、時代遅れだと感じるくらいです。けれどもまさに今、これを読んでいるみなさんこそが、実は「教育勅語的人格形成論」のなかで教育を受けているんです。」(99頁)

教育勅語に対する歴史認識自体が問題なのではない。この歴史認識を「人格形成」という言葉で表現しているところに私が興味を持つわけだ。というのは、「人格」という言葉はそもそも教育勅語的錬成を乗り越えるために、教育基本法第一条で登場したものだった。あるいは大正時代から、新カント主義を背景として、「教養」との関連で使用される概念だったはずだ。それが戦後70年経った段階で、「人格」と「教育勅語」がストレートに結びついて使用されるに至ったことに、ある種の感慨を持つわけだ。
これは著者がどうこうという問題ではなく、「人格」という言葉や概念そのものが戦後70年の間に大きく変質したことを示している。教育基本法第一条が言う「人格の完成」の具体的内容が、現代では完全に変質して理解されていることを意味している。
個人的には、その変質の鍵を握っているのは、本書でも言及された「期待される人間像」のような気がしているのだが、今後の研究課題だ。

一方で本書は「個性」という言葉について詳しくツッコミを入れている。

「実は「個性重視の原則」と「変化への対応」は呼応する関係にあります。そして、「個性重視の原則」こそが、本当は仲曽根氏が最も重視したい改革案でした。」(104頁)

「では、臨教審は「個性重視の原則」をどのように語っているのでしょうか。引用してみましょう。(引用)勘のよい人は、この引用文の矛盾に気づくと思います。」(105頁)

「それなのになぜ、「個性」という言葉をあえて、臨教審は使用したのでしょうか。
実は「個性」という言葉は、審議の途中から、ある言葉を使うのを断念して選択された言葉なんです。断念された言葉は、「自由化」という言葉です。」(107頁)

「「個性」という言葉を使用したのは、日々変化する社会に対応できる個性的な人間を育てるために、個性的な学校制度が必要である。つまり教育の自由化が必要であるという思いを込めたためです。「個性」とは、私の学生が授業で主張するような個人レベルの「可能性の芽」といったものを指すよりは、学校制度の個性という意味に力点がおかれていたのです。」(109-110頁)

臨教審が「自由化」というホンネを隠すために「個性」というタテマエを持ち出したという話は、80年代当時から暴露されていて、事情を知っている人にとっては常識的な見解ではある。しかし昨今の学生はもちろんそういう事情を知らないので、「個性」と言えば無条件に良いものだと勘違いしがちだ。「個性」とか「自由」という言葉には大きな罠が仕組まれていることは、私の授業でもしっかり指摘してきているつもりだ。

そして「心の教育」に対する批判。

「つまり、「心の教育」の方法論と「教育勅語」の方法論は、非常によく似ているということになります。」(131頁)

いや、ほんと。私個人としても、河合隼雄の仕事には尊敬の念を抱きつつも、やはり教育に関してはシロウトにすぎなかっただろうという疑念は拭えない。本書でもその見解を共有していて、たいへん励みになる。

布村育子『迷走・暴走・逆走ばかりのニッポンの教育―なぜ、改革はいつまでも続くのか?』日本図書センター、2013年