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【要約と感想】アイスキュロス『アガメムノーン』

【要約】戦争というものは、勝った側にもいいことは何一つありません。みんな滅びます。
 ギリシア連合軍の総大将アガメムノーンは、10年に渡るトロイア戦争にようやく勝利を収め、やっとのことで故郷に凱旋しますが、その日のうちに、妻クリュタイメーストラーとその愛人アイギストスに謀殺されてしまいました。アガメムノーンは戦争遂行のために実の娘を犠牲に捧げており、妻クリュタイメーストラーはそれを恨みに思っていました。アイギストスにも父親の仇討ちという動機がありました。
 しかし天下を取ったクリュタイメーストラーとアイギストスも、のちにアガメムノーンの息子オレステースによって滅びます。因果は巡りますが、その話は続編で。

【感想】ホメロス『イリアス』『オデュッセイア』のスピンアウト作品だ。本作に限らず、ギリシア悲劇の大半は、ホメロスのスピンアウト作品として成立している。一つ一つのエピソードはギリシア人には馴染みのものなので、作家としての腕の見せ所は、個々バラバラのエピソードをいかに有機的に組み合わせられるか、それぞれのエピソードにいかに適切な役割を与えられるか、そしてそのエッセンスをある特定の場面に一点凝縮できるか、にかかっている。そういう観点からは、実に見事な構成の作品に見えた。様々なエピソードが、アガメムノーン暗殺の場面を焦点として、絶妙に一つのまとまりをなしている。無駄がない。感心した。
 が、逆に言えば、構成の妙に「感心」する作品ではあっても、なにかしらの「感動」を呼び起こす類のものではないように感じた。どのキャラクターにもちっとも感情移入できない。みんな、よそよそしい。パズル的な推理小説のキャラクターに感情移入できず、「トリックに感心しても、作品に感動はしない」という状況とけっこう似ている。まあ、本作は「オレステース三部作」の第一作目で、これに2つの作品が続く(未読)ので、それら全体を味わってからでなければ全体的な評価はできなさそうではある。ひょっとしたらオレステースという人物には感情移入できるかもしれない。

 ちなみに悪女の典型とされやすいクリュタイメーストラーだが、ギリシアで家父長制が強まるにつれて悪く書かれるようになっていた事情は、先行研究で明らかにされている。本書に関しては、そんなに悪い人間には見えない感じはした。

アイスキュロス『アガメムノーン』久保正彰訳、岩波文庫、1998年

【要約と感想】アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』

【要約】プロメーテウスは、天界から火を盗み出して人間に与えたため、ゼウスの怒りを買って岩山に磔にされてしまいました。そこにヘーラーの怒りを買って放浪していたイーオーがたまたま通りかかり、プロメーテウスから自分の運命を聞いて悲嘆に暮れますが、実は遙か未来のイーオーの子孫ヘーラクレースがプロメーテウスを救うことになります。ゼウスの息子ヘールメースがやってきてプロメーテウスに降伏と服従を勧告しますが、プロメーテウスはゼウスに対して悪態をつきながら断固拒否し、理不尽な巨大権力に屈することを肯んぜず、自ら進んで悲惨な境遇に身を任せることとなりました。

【感想】ギリシア悲劇は基本的に「二次創作」で、本編もいくつかの神話素材を繋ぎ合わせた上で、舞台映えする萌え要素を散りばめて出来上がっている。あるいは、「スーパーロボット大戦」と言ったほうが近いか。いちおう説明しておくと、「スーパーロボット大戦」とは、『ガンダム』や『マジンガーZ』など本来はまったく別物だったロボットアニメを統一した世界観の元に一つのパッケージにまとめあげて作品化したものだ。そしていわゆる「ギリシア神話」とは、各地にバラバラに伝えられていた神話・伝承を、統一した世界観の元に一つのパッケージへとまとめあげたものだ。もともと相互に矛盾するバラバラな伝承素材をムリヤリひとつにまとめるわけだから、あちらを立てればこちらが立たず、体系的には歪んだものになる。キャラもカブりまくる(同じような女神が何人いるんだよ!)。だが、それがいい。ギリシア悲劇にも、スーパーロボット大戦にも、いろいろな要素を巧みに組み合わせて、矛盾すら利用して、「そう来たか!」とニヤリとさせる知的な工夫とヒラメキに満ちている。
本作も、プロメーテウスとイーオーというバラバラに伝わる伝承を、ヘーラクレースという未来の焦点で以て繋ぎ合わせているところに「ニヤリ」とするべきなのだろう。(とういかまあ、イーオーの存在自体が後代の創作ではあるが)

また、舞台映えする萌え要素も気になる作品だ。まず岩山に縛り付けられるところが萌え。磔は、萌え。ガッツ星人に磔にされるウルトラセブンや、ヤプール星人に磔にされるウルトラ四兄弟を見れば明らかなように、磔は萌え。
またあるいは、神話では雌牛に姿を変えられたというイーオーが、本作では牛の角だけつけているのが萌え。人から角が生えているのは、プリンス・ハイネルを見れば即座に分かるように、萌え(バッファローマンは知らん)。作者が意図的にやっていても不思議ではない。

まあ表面的なモチーフは、理不尽な権力(僭主)の要求に屈しない自律的精神(アテナイ民主制)の称揚であって、ペリクレス時代を迎えるアテネに相応しいテーマではあるように思った。解説によれば本作の初演がB.C.462と推定されているが、それはまさに民主派のペリクレスが貴族派のキモンを陶片追放に追い込んだ年に当たる。大神ゼウスが成り上がりの僭主風情程度に描かれているのは、このあたりの事情が関係しているのかどうか。

アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』呉茂一訳、岩波文庫、1974年

【要約と感想】丹下和彦『ギリシア悲劇―人間の深奥を見る』

【要約】紀元前5世紀にギリシア悲劇が大発展したのは、当時のギリシアの状況を反映しながらも、人間の姿を普遍的に描いたからです。紀元前5世紀のギリシアの歴史は、異国であるペルシアとの戦争から始まり、同民族の争いであるペロポネソス戦争で終わります。この間の情勢が、ギリシア悲劇に大きく反映しています。
たとえば前半では、ギリシアの優位性である自由・法・叡知・勇気が、バルバロイであるペルシアとの比較を通して称揚されます。しかし後半では、ギリシアの優位性であった自由や法や叡知に対する疑惑が次第に高まり、作品の中で相対化されます。ギリシア的価値が低落する過程で、法や理性では捉えきれない人間性の奥底にあるものが抉り出されていきます。ここにギリシア悲劇が普遍性を持つ契機があります。

【感想】さくっとギリシア悲劇の粗筋を理解したい人にはお勧めしない。全体像が簡単に分かるような書き方にはなっていない。逆に、原典を多少なりとも読んでいて、自分の解釈に多様性を持たせたい人にとっては有益な本かもしれない。そういう意味では、気軽な新書スタイルというよりは、研究書に近い感じで多少身構えて読む類の本かもしれない。
というのは、それぞれの作品には長い研究史の中で解釈が問題になっている章句があるわけだが、本書はその研究史的課題に対する筆者なりの解釈から切り込み、作品全体の意図を見定め、当時の状況の中に位置づけるというスタイルを採用しているのだ。素人にとってみれば研究史的課題なんかどうでもいいので、もっと手っ取り早く内容そのものを理解したいわけだが、そういう書き方にはなっていない。だから筆者の解釈を正当化するために外堀を埋める作業がだらだらと続き、同じことが何回も繰り返され、素人にとってみれば文体が冗長に感じることにもなる。とはいえ逆に言えば、長い研究史の中で焦点になっている章句の解釈に説得力を与えるためには、幾重にも取り巻かれた外堀を埋める作業が必須であって、研究者としては誠実な態度ではある。
そんなわけで、実際に原典を(ただし翻訳で)読んでいた『オイディプス王』や『アンティゴネー』や『バッカイ』に対する著者の解釈に対しては、目から鱗が落ちる感じがした。特にアンティゴネーが再び葬儀に戻ってくることに対する解釈には、なるほどと思った。オイディプスが「知」の観点から英雄である理由についても、神々の掌の上で踊っていることを承知しながら自らの行動を自らで律する意志に存していることなど、よく分かった気がする。素人に分かりやすく書くスタイルでは、このあたりはしっかり説明できない気がする。逆に、原典を読んでいない人に著者の意図がちゃんと伝わるかどうか、不安なところではある。実際、ちゃんと読んでいない『キュクロプス』と『オレステス』に関する記述では、私にはどこがどう凄いのかがいまいちピンときていない。すみません。

丹下和彦『ギリシア悲劇―人間の深奥を見る』中公新書、2008年

【要約と感想】エウリーピデース『ヒッポリュトス―パイドラーの恋』

【要約】テーセウスの妻パイドラーは、腹違いの子であるヒッポリュトスに道ならぬ恋心を抱きましたが、清廉な心の持ち主であるヒッポリュトスは父親の妻と不倫関係に陥ることを拒みます。拒絶されたパイドラーはヒッポリュトスを恨み、彼に犯されたと嘘の遺言を残して自殺します。妻の嘘を信じたテーセウスは息子ヒッポリュトスを破滅に追い込みますが、最終的に妻の嘘が発覚し、自分の行為を後悔します。この悲惨な結末は、すべてアプロディーテー女神が、アルテミスばかり尊んで自分を蔑ろにするヒッポリュトスを破滅させるために仕組んだものでした。

【感想】話の筋自体には特に見るべきものはない。アプロディーテーが仕組んだシナリオ通りにヒッポリュトスが破滅し、アルテミスが種明かしをするという段取りで、いわゆる「機械仕掛けの神」に終始する。
が、本書の見所は話の筋ではなく、登場人物の「性格描写」にある。本来は貞淑であるはずのパイドラーがアプロディーテーに狂わされながらも自分の尊厳を守ろうとする姿勢や、ヒッポリュトスの清廉潔白かつ高貴な態度には心が動く。身に覚えのない無実の罪で身を滅ぼすヒッポリュトスの訴えは、真に迫って感情が揺さぶられる。具体的なエピソードを通じてのキャラクター描写の巧みさという点で見所は多い。

個人的に印象に残ったのは、「処女」や「童貞」に対して高い価値を置くヒッポリュトスの姿勢だ。堅物のヒッポリュトスは、愛と生殖の女神アプロディーテーを蔑み、処女神アルテミスに心酔している。そして処女に高い価値を認める一方、彼自身が童貞であることを誇りとしている。そういう清廉潔白さが若さ故の堅さとして描かれているのか、ひとつの類型的な人物として描かれているのか、気になるところではある。

そのヒッポリュトスの姿勢とも関わってくるのだろうが、ミソジニー(女嫌い)全開なところは、時代性ゆえに仕方がないところなのか、それとも作家の問題なのか。

【ミソジニー発言記録】
ヒッポリュトス「ゼウス様、どうしてあなたは人間のために、女という偽りにみちた禍いを、この世にお遣わしなさいました。人間の種族を増すおつもりであったのなれば、女によらずに、なさるべきでありました。」616行
ヒッポリュトス「とにかく私は賢しい女は嫌いだ。女の分際で賢ぶるような女を妻には持ちたくないものだ。」640行

ちなみにオウィディウス『変身物語』にもヒッポリュトスのエピソードが採用されていて、破滅に至るまでの展開はほぼ同じものの、最終的に女神の願いによって復活するところが大きく違っている。

エウリーピデース・松平千秋訳『ヒッポリュトス―パイドラーの恋』岩波文庫、1959年

【要約と感想】エウリーピデース『バッカイ―バッコスに憑かれた女たち』

【要約】テバイの王ペンテウスは、神様であるディオニューソスを認めなかったばっかりに、最後は実の母の手で八つ裂きにされてしまうのでした。

【感想】話の筋自体はご都合主義というか、すべてが神様の都合でコントロールされているだけで、伏線もなにもあったものではなく、ソポクレス『オイディプス王』のような感銘を受けることはない。ペンテウスの強情さも何かしらの世界観や正義観に支えられているのでなく、単なる強情なので、ソポクレス『アンティゴネー』のような読後の余韻もない。悲劇としての出来という観点からは、見るべきものは少ないように思う。

まあ、本書の見所はそういうところにはないのだろう。話の構成とかテーマ性を楽しむのではなく、ディオニューソスという神性のありかたそのものを楽しむための作品のように思う。
色白ですらりとした女性的で優しい面持ちのイケメン神ディオニューソス(イメージ的にはエヴァンゲリオンで言うとカヲルくんのような感じか)は、人間を酔わせ、歌い踊らせ、理性を奪って狂気に導く。ディオニューソスに魅入られた人々(特に女性)は、「エウホイ」と叫びながら山野を駆け巡り、道具を使わずに自分の身体を剥き出しにして超自然的な力を発揮し、火を使わずに生肉を喰らい、個体の輪郭を失って集団の中に溶け込んで一体となっていく。個性的なギリシアの神々のなかにあっても異質中の異質な存在だ。
ディオニューソスのこの反-文明、反-理性的な神性のありかたは後世の学者たちにも大いなる霊感を与えた。特にニーチェがアポロンと比較した論及はよく知られている。
ディオニューソスの性格描写という点において、本作品(あるいは翻訳)は、静かな狂気を湛えていて、味わい深く、秀逸な作品であるように感じた。

エウリーピデース/逸身喜一郎訳『バッカイ―バッコスに憑かれた女たち』岩波文庫、2013年