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【要約と感想】河村茂雄『アクティブ・ラーニングのゼロ段階―学級集団に応じた学びの深め方』

【要約】協同学習を表面的に取り入れるだけでは、子どもたちの学力は伸びません。本物のアクティブ・ラーニングを実現するためには、学級経営で「安定と柔軟性がある学級集団」を作らなければなりません。学級集団の個性に応じて、働きかけ方を変えていきましょう。

【感想】最新学習指導要領から「アクティブ・ラーニング」という言葉は跡形もなく消え去った。形式的で無意味な実践が横行してしまったからだ。
本書は、そんな形式的で無意味なアクティブ・ラーニングに陥ることを戒めている。本質は「学級経営」にあることを看破している。本質的な学びになるかならないかは、学級集団の質に決定的に依存しているのだ。だから、小手先の協同学習を導入するのではなく、本腰を入れて学級経営に取り組む必要があるということだ。
まあ、なるほど、確かに、というところではある。学級経営に関しては、同じ著者の「Q-U」理論が大いに参考になるわけだが、それはまた別の本で。

河村茂雄『アクティブ・ラーニングのゼロ段階―学級集団に応じた学びの深め方』図書文化、2017年

【要約と感想】小林成樹『学校はパラダイス―認め合える「歓び」が活気ある集団をつくる』

【要約】公立中学校校長として活気ある集団づくりをしてきた経験を伝える本です。子ども、教師、保護者への関わり方や、学級経営の考え方を具体的なエピソードを元に記しています。子どもたちは、集団の中で一人一人が個性を発揮し、お互いが認め合えることで、大きく成長します。
いま学校や教育を巡る環境は大きく変わってきていますが、学校が果すべき役割は変わっていません。集団主義の教育は、まだまだ必要です。

【感想】エピソードそれぞれの繋がりが分かりにくくて散漫な印象もありつつ、よくよく考えると集団の中で一人一人が活躍できる環境を整えることの重要性を一貫して訴えており、しばらくするといい本だったなあと思えるようになってくる、という感じだ。ところどころ昭和テイストな感じも受け、これからの令和時代にどれだけ対応できるかどうかは分からないものの、学校や教育の一つのモデルを提示しているという点では、教師を目指す学生が読んでも損はしないのかもしれない。

【言質】学校目標に関するエピソードで、学習指導要領に言及したところはなかなか興味深い。

「こうなる理由の一つは、学習指導要領への無責任な追従にある気がします。一種の責任逃れです。」44頁

人間は自分で決めたことには責任を取るが、他人に決められたことは責任転嫁する傾向がある。仮に学校が隠蔽体質だったり無責任体制にあるとしたら、その原因の一端は確かに学習指導要領の法的拘束性にある可能性を疑ってよい気がする。(とはいえ、現状の新自由主義的な責任の取らせ方が効果的かどうかも、また疑問ではあるのだが)
上記引用部は、体制に反対しがちな立場の人が言ったのではなく、現場を経験した人が実体験から言っていることに意味があるように思う。

あるいは「近代の終わり」についての言及は、一つの教育的知見を代表するものであるように思う。

元々近代の公教育を制度化するに当たって描いた姿は、経済発展を支える高度な工業社会の担い手であり、国家や民族に誇りを持つ国民の育成だったと思います。その基盤となる義務教育において、日本は順調に根付かせ、成功してきた国だと言えましょう。そこで培われた組織への忠誠心や知識、技術は、巧緻性と勤勉さに支えられ世界に冠たる経済大国を実現しました。
しかし今、その仕組みを一変させるかもしれない高度な情報化社会を迎えています。その急速な発展と知識の多様さと質の変化に、平均的で個性を活かせない集団主義思考の公教育制度は対応しきれていないと考える人も増えてきました。そして、むしろ制度化されない自由な教育機関に期待する意見も聞かれます。
そこには一理ありますが、私は賛成ではありません。もったいないからです。少なくとも日本には、本書で述べてきた高い倫理観を持つ集団主義の教育を可能にする地盤があると思うからです。」227-228頁

「近代の終わり」に対する一定の説得力を感じつつも、それでも従来の学校が推進してきた「集団主義」を維持する姿勢が、はてしてこれからの時代に受け容れられるかどうか。20年後、30年後の学校や教育の姿や如何に、というところだ。注目していきたい。

小林成樹『学校はパラダイス―認め合える「歓び」が活気ある集団をつくる』幻冬舎、2018年

【要約と感想】小谷川元一『いじめ・学級崩壊―教師と親の「共育」で防ぐ』

【要約】起こってしまったいじめや学級崩壊を対症療法的に解決するための本ではなく、丁寧な学級経営や保護者対応をこころがけることで未然に防ごうという、特に小学校教師向けに書かれた本です。
学級崩壊は、必ずいじめを伴っています。学校だけに責任を押しつけても解決しません。こうなったのは、家庭に大きな原因があるからです。解決するためには、家庭と学校が協力しなければなりません。
教師は、丁寧な学級経営と保護者対応をこころがけましょう。崩壊学級を何度も立ち直らせた学級担任としての知恵と工夫の数々を見てください。

【感想】ひとりの小学校教師としての経験と知恵が詰まっている本だ。まずはその知恵をぜひ次世代に継承していきたいものだ。10年以上前の本ということもあり、多少古いものも混じっているが、そのあたりは読者が取捨選択すればいいだけの話だ。

とはいえ、現代社会そのものが人間の生き方を決定的に変質させ、子どもの生活環境が劇的に変化したことの意味については、本書は直視できていないようにも思う。親が脆弱になったと嘆いても、どうしようもない。現代社会の特質そのものを直視し、冷徹に見透す力は、今後ますます必要になってくる。ひょっとしたら、学級という制度そのものが賞味期限切れを起こした時代に突入しているのかもしれないのだ。
そういう意味では、「子どもの権利」の視点が弱いことも気にかかる。今後学校が生き残れるかどうかは、教師の強力なリーダーシップというより、子どもの参画が鍵になってくるような気もするのだ。

【言質】「自己実現」とか「人格」という言葉の用法に関して様々なサンプルを得た。

「教師の専門性を高め、子どもに優れた人格を陶冶することよりも、形式的に平準化を目指す血の通わない技術論が先行している気がします。」21頁
「いじめという構図は社会全体からすれば極めて特異な人間関係であると捉えられがちですが、人格完成前の子どもたちが集う学校では、ありとあらゆる関係がいじめの構図を孕んでいると考える方がむしろ自然です。」41頁
人格を陶冶するプロの教師としてのほめ方・しかり方の極意をお伝えします。」147頁
「言葉遣いや表情仕草に限ったことではなく、親は子どもの人格の陶冶に唯一無二の影響を与えます。」189頁

本書では「人格」という言葉が「陶冶」という言葉とセットに鳴って使われる場面を散見する。もちろん近代教育的な概念としては、王道である。だがしかし、1970年以降、あるいは「子どもの権利条約」以降、こうした近代教育的概念は急速に説得力を失いつつあるのも確かである。「子どもを独立した人格」として見るのが、現在の考えの主流である。こういう観点からすると、「人格完成前の子ども」という言葉は完全に近代的な物言いであって、逆に言えば「子どもの権利条約」以前の考え方を代表するものでもある。これをどう考えるか。

また「自己実現」について。

「たとえ一教科でも子どもたちが学習の中で自己実現を図れれば、学級崩壊の危機は未然に防ぐことができるでしょう。」121頁
「子どもたちは自己実現をめざし、学校に集ってきます。」155頁

こちらは近代的な「自己実現」の概念からは、多少ズレて拡大解釈されているように見える。「成功体験」や「成長」という言葉とほとんど同義となっているように見えるわけだ。近代的な「自己実現」は、もうちょっと厳密な概念である。

また本書では学力の定義を試みているが、上から論理的に降りてきたものではなく、実践と経験から導かれたものであるところが尊いように思う。

「①学力とは、単に学業成績ではなく、人間生活の基盤を支える基礎的力であること。
②学力とは、特定の学習で獲得されるものだけではなく、生活全般に必要なバランスのとれた基礎的力であること。
③学力とは、どの子も努力により獲得可能な基礎的力であること。
④学力とは、小学校六年間を見通し、大人になっても必要な最低限度の基礎的力であること。」136頁

小谷川元一『いじめ・学級崩壊―教師と親の「共育」で防ぐ』大修館書店、2007年

【要約と感想】全生研常任委員会編集『荒れる中学生をどうするか』

【要約】1998年頃から、中学生の荒れ方が変化してきています。それまではツッパリのように目に見える荒れだったのですが、最近は「普通の子」が「いきなりキレる」ようになりました。表面上は「やさしい」けれども、実際は競争と同調の圧力によってストレスが貯まり、「権力的・暴力的なもの」が鬱積しているのではないかと思われます。

【感想】1998年の黒磯教師刺殺事件等をきっかけにして、新たな荒れが注目され始めた頃の本だ。ただ、本書の内容そのものは「新しい荒れ」というよりも、昭和型のツッパリ対応が中心となっている。新しい事態を正確に受けとめて対応することは、なかなか難しい。
近年では、学校の様相がまた変わってきているように思う。学校の中での荒れそのものは目立たなくなっている。その代わりに、静かに「無力感」が子どもたちを支配しているようにも見える。ゼロ・トレランスは、子どもの「生きる力」を叩きのめすという点では、これ以上ない効果を上げているように思える。
学校や教育をどうするのか。現場も教育理論も知らないし知ろうともしない政治家たちが適当でいい加減な対応を繰り返し、現場は混乱に陥っている。

全生研常任委員会編集『荒れる中学生をどうするか』大月書店、1998年

【要約と感想】沼田晶弘『子どもが伸びる「声かけ」の正体』

【要約】成功体験が増えれば、子どもは本来もっている力を発揮します。ある小学校教師の学級経営が成功した体験を、ご覧あれ。

【感想】小学校の先生(を目指している学生)向けの本。うまくいった学級経営の成功体験が綴られている。ということで、「成功体験」の一例と理解して読めば、とても参考になる。「MC型授業」とか「プロジェクト」とか「おあずけの法則」とか「ダンシング掃除」とか「ディベート朝の会」とか、とても頑張っている。まず内容がどうこう以前に、ここまでアイデアをたくさん出して、具体的な実践にまで落とし込んでいく実行力に、頭が下がる。

書評を見ていると「参考にならない」って言っている人がいるようだけど、こういう生産性の欠片もない非難がいちばん有害だなあと思う。沼田先生の「子どもたちの力を引き出すためにアイデアを出して具体的な実践まで持っていく」という姿勢そのものが学びの対象じゃないのか。

ま、とはいえ、本書が「成功体験」のみで構成されていることも意識する必要はあるのだろう。本書で示された成功体験をそのままマネしても、うまくいくはずがない。どこの小学校でも取り入れられるわけではない。目の前の子どもの実態を正確に捉えられるかどうかが、まずは課題のはずなのだ。具体的な実践として何を採用するかは、それからの話だ。子ども不在で実践の話をしても、あまり意味がない。

本書から学ぶものは、「子どもたちの力を引き出すためにアイデアを出して具体的な実践まで持っていく」という姿勢(つまり教師として必要なメタ視点)なのであって、個々の具体的な実践ではないだろう。個々の具体的な実践は、目の前の子どもの特性に合わせて教師自身が工夫して捻り出していくしかない。教師自身が工夫し続けること(ソフトスキル)の尊さを読み取れず、単に具体的な実践(コンテンツ)のみに目を奪われていると、本書を褒めるにしてもけなすにしても、どちらにしてもおかしなことになるだろう。

しかしさすがに、タイトルにある「声かけ」と中身にほとんど関連がないのはよろしくないだろう。本書に違和感を抱くとしたら、その原因の大半はタイトルと内容のミスマッチにあるだろうと推測する。タイトルは「教師がチャレンジし続けると、子どもは伸びる」くらいでよかったのではないか。

沼田晶弘『子どもが伸びる「声かけ」の正体』角川新書、2016年