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【埼玉県鴻巣市・行田市】石田堤史跡公園を上越北陸新幹線が分断している

石田三成が忍城を水攻めするときに築いた堤防の痕跡が、埼玉県の鴻巣市と行田市にまたがって残っています。

行田市側(北側)の堤は、新忍川に沿って築かれています。川の自然堤防を利用しているようです。このまま北の方向、丸墓山古墳(光成の陣)まで繋がっていきます。

案内パネルにも簡潔に説明されているとおり、結果的に水攻めが失敗したのは周知の事実です。

そしてこのあたりは行田市と鴻巣市の境界線になっていて、石田堤史跡公園は鴻巣市側(南側)に整備されています。

公園内には木組みでちょっとした展望台が作られていて、周辺を見渡すことができます。

木組みの台の中央には地図が埋めこまれていて、地理が分かりやすいように工夫されています。ありがたい。

こうやって地図を眺めると、中山道と日光脇往還が交差する交通の要衝であったことが分かりますね。

史跡公園には、忍城が巻き込まれた小田原征伐(天正18年=1590年)の状況が簡潔に分かるパネルが展示されています。

こうして改めて見てみると、関東全域が一気に戦乱に巻き込まれていることが分かります。忍城はよく持ちこたえましたね。

史跡公園の南側、ほぼ中山道に沿って、上越北陸新幹線が走っています。石田堤は新幹線で完全に分断されているのですが、新幹線の高架下にもモニュメントが設置されています。

不思議な光景ですね。
このモニュメントの下に立つと、石田三成の声(大和田伸也)が聞こえてくるような仕掛けになっています。
忍城攻めに関する古文書と解説が展示されていたりします。

新幹線高架の南側には、切り取られた石田堤の断面を見学できるような仕掛けが設けられています。まあ、堤なので、断面はただの土ではありますが、戦国時代に土木工事技術が圧倒的に進化したことを伺うことができます。

堤跡の上に立つと、遮る物もない真っ平らな土地ですので、かなり遠くまで見通すことができます。当時は利根川の流路が入り乱れ、一面が葦の生い茂る沼沢地だったことでしょう。この辺り一帯を田んぼに変えるためには、極めて大規模な河川工事が必要でした。
▼参考:若林高子「生まれ変わる武蔵水路 第3回 水とのたたかいの歴史」

石田三成が水攻めを決意した経緯を考えるためには、治水工事が行き届いた現在の状況からはまったく想像のつかない400年前の葦原をイメージしなければいけません。
次に上越北陸新幹線に乗るときは、車内から石田堤の視認にチャレンジしようと思いつつ、史跡公園を後にするのでした。
(2021年2/5訪問)

【埼玉県行田市】古墳の上に立つ前玉神社は埼玉県の名前の由来なのか

埼玉県行田市にある前玉神社(さきたまじんじゃ)にお参りしてきました。埼玉県の名前の由来となっている神社ということですが、調べ始めるとけっこう不思議なところだということが分かります。

訪れた時にまず目を引くのが、手水舎です。色とりどりの花が鮮やかです。

2021年現在、COVID-19の影響で、多くの神社やお寺の手水舎が利用できないようになっています。単に水を止めたり立ち入り禁止にしたりして手水舎を利用できないようにしているところが多い中。

こちらの神社は水盤を色とりどりの花で埋め尽くし、とても華やかな気分にさせてくれます。もちろんこれでは手水を使うことはできないのですが、「利用禁止」と書いてあるよりも圧倒的に気分が良くなります。まあ特にCOVID-19対策で始めたわけではなく「花手水」ということで続けてきているようですが、結果的には、何も言わなくても誰も手水を使うことはありません。これがいわゆる「環境管理型権力=アーキテクチャ」というやつですよ。

別の水盤にもフラワーアートが。こちらは学生さんが作成したもののようです。綺麗ですね。

本殿は古墳の上に鎮座しています。ご祭神は前玉彦命・前玉姫命の二柱とされています。前玉彦命の名前は記紀神話等には見当たらず、前玉姫命は古事記の出雲神話系エピソードの中で名前が出てきますが、出雲との関係は不明です。(出雲系の神様は諏訪=タケミナカタまで来ていることは分かるので、佐久か秩父を通過して行田まで伸びて、さらに氷川神社=スサノヲまで繋がると面白いのですが、妄想です。)
神社のWEBサイトでは、前玉神社はかつて「幸魂神社」と書いていたとされています。調べてみると一説には「さきたま」の「さき」は「崎」だということです。大宮大地の北端、沼沢地の中に突き出た先端部分に数々の巨大古墳が作られたことを考えると、「崎」という説にも説得力がありそうです。
まあ、今となっては、由緒はまったく分かりません。日本全国に数多ある、由来が分からなくなっている神様の一つです。

ちなみに中世になってから忍城内に鎮座していた木花之佐久夜毘売が勧請されて古墳の中腹に浅間神社が設けられたところ、もともと日本屈指の人気を誇る女神様だっただけに大人気になったようで、もともと鎮座していた前玉彦命・前玉姫命の影が薄くなってしまったとのこと。まあ由来が分からなくなってしまった神様ですから、木花之佐久夜毘売を相手にしたら分が悪いですね。

そして一般的には「埼玉県」の「さいたま」の由来がここ「前玉神社」にあるとされていますが、これも考え始めると厄介なことがたくさん出てきます。具体的には、県名と県庁所在地名がズレている地域は、幕府側に立っていたために明治政府に疎まれている地域であるという陰謀論を唱えている人がいます。司馬遼太郎ですが。まあ、確かにすぐさま「茨城/水戸」「愛知/名古屋」「宮城/仙台」「岩手/盛岡」「栃木/宇都宮」「群馬/前橋」「島根/松江」「三重/津」等が想起されるところです。福島県の場合は、露骨に会津が排除されていますね。それを踏まえると、「埼玉/浦和」はいかがでしょうか。川越が排除されているのをどう考えるかでしょうかね。まあ、どうして埼玉県が「埼玉」になったかを調べ始めると、陰謀論に巻き込まれて、いろいろ大変です。

そんな陰謀論や人間の思惑などに関係なく、境内には臘梅が見事に花を咲かせているのでした。とても雰囲気の良い神社でした。
(2021年2/5訪問)

【埼玉県行田市】お墓の麓にお墓の墓場があった

さきたま古墳群を見学していたら、鉄砲山古墳の麓で不思議な光景に出くわしたのです。墓石が大量に廃棄されています。

これから使う石材ではなく、これまで使用されていた墓石のように見えます。墓碑銘等は削られているようですので、墓石を破壊したのでしょう。

お墓用の花入れのようなものも廃棄されています。
お墓じまいで不要になった墓石を廃棄する様子を伝える報道番組を見たことがあるので、まあなんとなく事情には察しがつくところではありますが、それにしても古墳の麓にお墓の墓場があるとは。

お隣の中の山古墳の周囲にも、気になる後景が。墓石が土に埋まっています。

おそらく意図的に埋めたのではなく、長い時間が経つ間に土が滞積し、自然に埋まっていったのでしょう。古代のお墓よりも先に、近世のお墓の方が先に見えなくなりそうです。

一説では、かつて日本国内に古墳が16万基あったとのことです。そんな隆盛を誇った古墳が、7世紀にぱたっと作られなくなりました。外国から仏教が伝来して、古墳が時代遅れになったわけです。大陸からやってきた「お寺」の方が圧倒的にインターナショナルでカッコよく、日本古来のダサい古墳は誰も顧みなくなりました。スタバが上陸したら、みんなそっちに行くよね、ということでしょう。

振り返ると半壊した民家。その手前に小さな社。

小さな社越しに、中の山古墳が聳えています。この景色を見ながら、教育というものの歴史的な変化にふと思いが至りました。

いま、日本全国に小中学校が約3万校、高校が約5000校、大学が780校あまり存在しています。16万基あった古墳がある歴史的時点で完全に顧みられなくなった事実を思うと、たかだか150年程度の歴史しか持たない現在の学校という形がある歴史的時点で完全に役割を終えて消滅したとしても、まったく不思議ではないし、問題もないだろうと思ったのでした。そのうちのいくつかは、16万基あった古墳のうちのごくごく僅かな一部を私たちが興味深く眺めているように、未来の人々が興味深く眺めることになるでしょう。何年後のことかは分かりませんが。

【埼玉県行田市】祝!さきたま古墳群が特別史跡に指定

埼玉県行田市にある「さきたま古墳群」が、2020年3月に国内63件目の特別史跡に指定されました。見晴らしの良い真っ平らな地平線にいきなり現れる巨大古墳たちは、現代でもたいへんな迫力がありますから、1400年前には圧倒的な存在感で聳え立っていたことでしょう。

そんなわけで3年ぶりに「さきたま史跡の博物館」に訪れましたが、COVID-19緊急事態宣言のために臨時休館中でした。

風にひらめく「令和初特別史跡指定」の幟を、唖然と眺めるしかないのでした。

まあ、博物館は3年前にしっかり見学できております。
見所はものすごく多いのですが、目玉はなんといっても国宝「稲荷山古墳金錯銘鉄剣」と、その解説です。国宝の鉄剣は、古代史を語る上では何が何でも絶対に外せない圧倒的に重要な史料で、もちろん日本史の教科書には漏れなく登場します。文書資料のない5世紀、大和朝廷の成立を考える上でたいへんなヒントを与えてくれます。

そんな重要な歴史資料が発掘された稲荷山古墳ですが、自分の足で登れます。

登れるものには登りましょう。煙とナントカは高いところに上りたがるのであります。

前方部から後円部を見ると、こういう風景になるんですね。

後円部には、発掘時の状況を伺えるような展示があります。

展示パネルが充実していて、発掘された時の状況がよく分かります。発掘に携わった人も、北九州や近畿の巨大古墳ならともかく、まさか埼玉の古墳でこんな大発見があるとは想像していなかったのではないでしょうか。

続いて、丸墓山古墳にも登りましょう。

こちらは円墳として日本最大だそうです。埋葬施設の内容が確認されていないということは、発掘作業が進んでいないのでしょうか。何か重要なものが埋まっているかもしれませんね。

確かに見上げるばかりのデカさです。

天辺からは、稲荷山古墳を一望できます。
しかしこの丸墓山古墳の名が全国に轟いているのは、古墳そのものが重要というよりは、石田三成が忍城攻めの時に本陣を張った場所だったからです。今も古墳の側面に石田堤の痕跡が残っています。

頂上からは確かに忍城三重魯を臨むことができます。当時三重魯はありませんでしたが、石田三成の視界には沼沢地の中にぽっかりと浮かぶ島のような城域が見えていたことでしょう。

将軍山古墳はほとんど破壊されていたのが、後に復元されたそうです。周囲に埴輪も並べられていて、当時の様子が伺えます。

復元された古墳の内部に展示室も用意されていますが、訪れた時には残念ながらCOVID-19緊急宣言のために閉鎖中で見られませんでした(2021年3/7まで)。

鉄砲山古墳は、古墳群の南側にあります。道路を挟んだこちら側には観光客がほとんどおらず、散歩をする地元のご夫婦らしき方の姿だけ見えます。

この鉄砲山古墳の麓にはなかなか不思議な景色が広がっていたりするのですが、それはまた別のエントリで。

地図で見ると、さきたま古墳群は大宮台地の北端あたりに位置します。ここから少し北に位置する忍城が、戦国時代は沼沢地に囲まれた要害であったことを考えると、この古墳群は沼沢地が広がる寸前の乾いた台地上に築かれていただろうことが想像されます。行田市内に縄文や弥生の集落があまり見つかっていないことを考えると、利根川と荒川が氾濫する水浸しの沼沢地のために定住するにはそれほど向いていなかっただろうことが想像されます。大宮台地の北端に位置する古墳群は、人の足で行ける境界として認識されていたのかもしれません。近世以降は沼を排水して田畑に変えて、現在は真っ平らな土地が延々と広がっているので、古代の沼沢地に囲まれた古墳の様子を想像することはなかなか難しいです。

ところでさきたま古墳群に繋がる道路、その名も「古墳通り」には、古代のモチーフをかたどったパネルが埋め込まれています。

なかなか芸が細かくて、密かに嬉しいですよね。
(2018年2/24訪問、2021年2/5訪問)

【埼玉県行田市】忍城跡に立つ行田市郷土博物館の展示はとても充実している

埼玉県行田市の忍城(おしじょう)に行ってきました。2012年に映画化された『のぼうの城』の舞台としてもよく知られている城です。続百名城にも選ばれました。

三重魯がカッコいいですね。
が、こちらの三重魯は「のぼうの城」の時代には存在していませんでした。戦国時代が終わって江戸時代に入り、家康の家臣である阿部氏が忍藩主となって以降、忍城は大々的に整備されます。このときに戦国期の忍城の面影はほぼなくなったことでしょう。三重魯は、江戸時代に一新された近世城郭としてのシンボルです。

説明パネルに、忍城の沿革が簡単に示されています。おおまかに、戦国期(成田氏)→近世前中期(阿部氏)→近世後期(松平氏)と、3期に分かれていることが分かります。このあたりの事情は、忍城跡に建つ行田市郷土博物館でかなり詳しく説明されています。
郷土博物館の展示は、とても充実しています。忍城や石田三成による水攻めの説明の他、近世に名産となった足袋、さきたま古墳群の展示で盛りだくさんです。三重魯も実は鉄筋コンクリートでできていて、中は展示室になっています。

地図で見ると、忍城は江戸を守る際にもかなり重要な戦略地点だということが分かります。ポイントは利根川と荒川に挟まれている上に、利根川から荒川までの距離が一番短い地域だというところでしょう。利根川を渡って北に行くと足利、荒川を渡って南に行くと武州松山城を経由して川越に至ります。行田市内をレンタルサイクルで走り回ったのですが、真っ平らなところでした。沼沢地を排水して作られたので真っ平らなのでしょう。
埼玉県には近世を通じて藩(一万国以上の大名が支配する地域)が3つ(忍・川越・岩槻)しかなく、他の地域は石高の少ない旗本や御家人の所領になっていました。逆に言えば、忍・川越・岩槻はどうしても信頼のできる譜代大名に押さえておいてもらわなければならない重要戦略地点と認識されていたということでしょう。

しかしそんな忍藩も、明治維新ではほとんど存在感を出せませんでした。幕末動乱期には京都警備や海浜警備など重要な役割を担っていましたが、戊辰戦争では圧倒的な量と勢いの官軍を前に、忍藩を佐幕派と信じて頼ってきた幕府側部隊を追い出して、無血開城せざるを得ませんでした。忍城も破却されます。藩主は明治維新後すぐに30歳の若さで亡くなっています。苦労が祟ったのでしょうか。明治維新前後の話は、郷土博物館でも詳しく扱っていません。誇りを持って表に出せるような材料が少ないのでしょう。
上の写真は、かつて石垣に使われていた石材です。こういうところで当時を忍ぶしかありません。

城跡は公園として整備されていて、梅が綺麗です。
(2018年2/24訪問、2021年2/5訪問)