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【要約と感想】大迫弘和『アクティブ・ラーニングとしての国際バカロレア』

【要約】産業構造が転換し、知識基盤社会に向かう中、旧来の「覚える君」を育てる教育は意味がなくなります。これからは「考える君」を伸ばす教育が大切になります。
具体的な方針は、国際バカロレアが示しています。国際バカロレアが目指す学習者像は、これからのグローバル社会で幸せになるために必要な能力を備えています。日本の教育が培ってきた伝統を大切にしながら、日本の教育を転換していきましょう。

【感想】小品ではあるが、とても情熱的で、元気が出る本だった。ただ机上の理想を叫ぶのでなく、具体的な活動を実際に行なってきた人が言うのだから、説得力がある。なかなか良い読後感だ。

個人的に良かったのは、「教育のサービス化」に手厳しい批判を加えているところだ。まあ本書の趣旨そのものからいえば脇筋ではあるけれども、教育環境を整えるという点では重要な論点であることに間違いはない。

「資本主義社会の中では大変難しいことですが、教育は経済の思想の外側に置かれなければなりません。なぜなら教育とは本来「買う」ものではないからです。(中略)教育とは人としての豊かさ、深さ、温かさを生み出すもののはずです。「商品」が買われるように「教育」が買われることはおかしいのです。」26頁
「「教育『サービス』を提供する」といった言い方が平気でされているのはおかしなことなのです。この言い方はやめなくてはいけません。資本の論理は教育を歪めます。」26頁

おっしゃる通りだと思う。

【要検討事項】
私の専門である日本教育史に関する言及があったが、ちょっと聞いたことがない。ソースは何だろう?

「educationという英語の日本語訳については、大久保利通と福沢諭吉と森有礼が論争したらしく、大久保利通は「教化」、福沢諭吉は「発育」と訳したかったようです(それぞれ二人の性向をよく表わしている訳語だと思います)。最終的には初代文部大臣になった森有礼がその間をとって「教育」という日本語を誕生させた経緯があるそうです。」21頁

うーん、森が「教育」という訳語を作ったなんて、デキすぎていて怖い話だ。そうとう怪しいのだが。出典情報が欲しい。

【個人的な研究のための備忘録】
教育基本法に関する言及は、ちょっと気になる。

「「IBの使命」と「教育基本法」の最上位概念としての違いは何でしょう。それは「IBの使命」はプログラムの最終到達点として常に意識されているのに対して、「教育基本法」は残念ながらそのようにはなっていないということです。日本の教育の場合は、最終到達点として意識されているのは「大学入試」で、「教育基本法」のことは普段ほとんど意識されていないのが現実です(心の奥には知らぬ間に潜んでいるとは言えますが)。」49頁

現実として、教育基本法の目的「人格の完成」が棚に上げられているように見えるのは、確かではある。受験勉強や偏差値が全面に打ち出され、「人格の完成」が後回しになっているのは、誰もが知っている。が、著者が「心の奥には知らぬ間に潜んでいる」と言う根拠は、本書から伺うことはできない。深掘りしていくと、おもしろい話が出てくるところなのかどうか。

また「学力」についての言及もメモしておく。

「これからの学力とは「コミュニケーション力」によって形成されるような学力を言うのです。」68頁
「今から必要なのは「覚える君」の「学力」ではなく「考える君」の「学力」をいかに向上させるかの議論なのです。」75頁

著者が言う「学力」は、もちろんOECDのキーコンピテンシーや新学力観と響き合う内容を持っている。

大迫弘和『アクティブ・ラーニングとしての国際バカロレア―「覚える君」から「考える君」へ―』日本標準ブックレット、2016年