「トンデモ本」タグアーカイブ

【要約と感想】網谷由香利『子どもの「こころの叫び」を聴いて!』

【要約】子どもの話をよく聴けば、なんでも解決します。

【感想】オカルト全開で、ドン引きする本だ。エビデンス抜きの決めつけに満ちていて、これはさすがにマズい。クライアントが治っているならまだいいのだろうが、社会的な発言をするのなら歴史をしっかり勉強してからにしてほしい。
母親や保育者たちを威嚇してガッカリさせるような、教養が欠落した本だった。

網谷由香利『子どもの「こころの叫び」を聴いて!―笑顔を取り戻すための処方箋』第三文明社、2012年

【要約と感想】森口朗『誰が「道徳」を殺すのか』

【要約】グローバル化が進み、日本国内でも貧富の差が拡大することは避けられません。格差を受け容れましょう。他の国ならクーデターが起こりそうなものですが、日本では発生しません。なぜなら道徳教育がしっかりしているからです。貧富の差が拡大しても国民がおとなしくしてくれるよう、道徳教育をすすめましょう。

【感想】まあ、道徳教育を推進しようとしている人の本音がどのあたりにあるか、とても分かりやすくしてくれたという意味において、意義のある本なのかもしれない。

【ツッコミ】
本書は独断と偏見と思い込みと勘違いの塊で成り立っていて、全体的にツッコミどころは多いのではあるが、さしあたって左右問わず多くの人に役に立つかもしれない指摘を、専門家の立場からしておいてもいいのかなと思う。

本書は以下のように主張しているが、完全な事実誤認である。

「もちろん、教育勅語が愛国心を否定する反日的なものであるはずもなく、国民に愛国心があることが前提となっていたのでしょう。」(94頁)

デタラメである。教育勅語には、愛国心は一切書かれていない。そもそも当時の国民の大半に、愛国心は確認できない。というか、もともと教育勅語は「国民」を想定していない。教育勅語は一貫して「国民」ではなく「臣民」と言っているではないか。臣民は愛国心など持たないし、持つ必要もない。臣民に必要なのは「忠誠心」である。だから、正確に言いたいなら、「国民に愛国心がある」ではなく「臣民に忠誠心がある」と言わなければならないところだ。

まず教育勅語を作成した中心人物は、元田永孚と井上毅である。儒教主義者の元田は、そもそも近代国家の何たるかを一切理解していないし、理解する気もない。元田がイメージしているのは、儒教が理想とする古代中国の国家である。古代中国には、もちろん「愛国心」という概念など微塵もない。あるのは、「忠君」である。教育勅語を貫くのは、近代的な「愛国」概念ではなく、儒教的な「忠君」概念である。
そしてその場合、もちろん国家を構成するのは「国民」ではない。想定しているのは、君主に忠誠を誓う「臣民」である。元田が想定しているのは、国家を構成する国民を育成することではなく、君主に忠誠を誓う臣民を育成することである。愛国心のために君主を裏切るなどということがあっては、いけないのである。実はこの時点で「愛国」を謳っていたのは、むしろ反政府運動の側であった。高校生でも知っていることだが、「愛国公党」や「愛国社」を名乗ったのは、薩長政権に反対した自由民権運動の側であった。愛国を旗印に掲げたのは、明らかに反政府側であった。もちろん元田はその愛国的な自由民権運動を憎々しく思っている。元田の儒教主義にとって、愛国心は必要ないどころか、有害な概念である。
著者はこのあたりの勉強をどうやらまったく疎かにしているらしいが、こういう基本事項を知らずに教育勅語について語るのは、教育勅語の歴史的意義を分からなくさせるだけの迷惑行為なので、ぜひ自己抑制していただきたいところだ。

続いて井上毅だが、彼は大日本帝国憲法に関わった法制官僚だけあって、近代的な考えをしっかり持っていた。教育勅語に憲法や法律に関する記述が含まれるのは、井上の功績と言える。元田一人では、逆立ちしても出てこない文章である。
とはいえ、この時点で井上毅も「愛国心」という概念を理解していなかった。というか、ほぼすべての日本人が「愛国心」という概念を分かっていなかった。保守派が近代的な「愛国心」を理解するのは明治19年の西村茂樹「日本道徳論」あたりからであって、勅語渙発の明治23年段階では日本全国に広がっていなかったのである。井上も御多分に漏れない。
実は「愛国心」が表面に出て来ているのは、教育勅語ではなく、むしろ同年に出された「第二次小学校令」の中にある「国民教育」の規定である。明治19年の小学校令(森有礼によるもの)と明治23年の小学校令を比較すれば、この間に「愛国心」が広がっていった様子が伺える。文部官僚が作成した近代的な「第二次小学校令」には「愛国心」が表現され、儒教主義者が作成した儒教的な「教育勅語」には「愛国心」ではなく「忠誠心」が表現されているのである。
井上毅が「愛国心」を根本的に理解するのは、シュタインの国家学論理に触れてからである。周知の通り、伊藤博文が欧州憲法調査の際に、もっとも頼りにした学者がシュタインである。その後、明治20年前後に、若手官僚や学者のシュタイン詣でが盛んに行なわれた。そこで初めて日本人は「ナショナリズム」の意味と効果を理解することになる。「ナショナリズム」とは、徹底的に近代的な論理なのである。
井上が直接シュタインと会うことはないものの、書籍を通じてシュタインの国語論に触れ、感激したことが、史料に残されている。教育勅語渙発の時点では、「愛国心」について本質的に理解していなかったと考えられる所以である。

このあたり、近代的な概念である「愛国心」や「ナショナリズム」というものがなかなか日本に根付かなかったことについては、私が学術論文で論証を試みているところである。著者の思い込みと勘違いを正す参考になれば、幸いである。
「明治初期における伝統の保守-国民教育の背景」
「明治10年代の美術における国粋主義の検討」

森口朗『誰が「道徳」を殺すのか―徹底検証「特別の教科 道徳」』新潮新書、2018年

【要約と感想】中島隆信『子どもをナメるな―賢い消費者をつくる教育』

【要約】インセンティブを刺激すれば、なんでもうまくいきます。

【感想】って、うまくいくわけがないよなあ。まあ、トンデモ本の類に入れていい本だと思う。単純な事実誤認や間違いも多い。

特に酷いのが、教育の「公共性」について考慮された形跡が一切ないところだろう。単に「税金」のレベルで話が進んでしまう。「公共サービス」と「公共性」の区別がついていない。
そもそも「市民」と「公民」の区別をつけているかも怪しい。あるいは民主主義に関して常識的な理解があるかも疑わしい。たとえば「すべての国民にとっては消費は生活に欠かせないものだから、主体性ある消費は民主主義の基本的条件といってもよい」(11頁)と言っているが、いっちゃダメでしょう。なぜなら、それは「民主主義」ではなく「自由主義(資本主義)」だからだ。自由主義と民主主義は、違うものだ。著者は慶応出身だからかやたらと福沢諭吉を称揚するけれど、そもそも福沢自体が「自由主義者であっても民主主義者ではない」と評される思想を展開していることも想起されるところだ。福沢は意図的に民主主義を無視して自由主義思想を展開しているのだろうが、著者のほうは意図せずに単に勘違いしているように読めてしまう。
「市場経済における消費者主権の考え方と憲法の三本柱がほとんど同義」(133頁)というトンデモ文に差し掛かった時は、目の前が真っ暗になった。あらゆる意味で、「消費者」と「憲法の三本柱」が同義なわけがない。「人間」と「消費者」は、違う概念だ。「人権」に関する意識が日本に根付かない厳しい現実を再確認させられた気がするのだった。

おそらく「義務教育」も正しく理解していないように見える。そもそも「社会権」について理解しているかどうかが極めて怪しいところだ。
またあるいは、「投資としての要素の強い高等教育サービスは原則として受益者負担となっているので特に問題はない」(47頁)などと言うが、OECDの教育政策分析からすれば大問題に決まっているところだ。高等教育を受益者負担にするとインセンティブが上がるなどというエビデンスは存在しない。むしろ世界的な経済学的発想からは逆行している。なぜヨーロッパに高等教育が無償の国があるのか、考えてみてはいかがだろうか?

「子ども観」や「いじめ」に関する認識のマズさは、もはや言わずもがなだ。昭和の知識から何もアップデートされていない。認識が平成の教育現実と乖離しすぎている。リバタリアンの机上の空論というレベルの話ではない。

なんというか。「消費者教育」そのものは、ちゃんとやればいい。現代社会で、賢い消費者になる必要は、確かにあるだろう。しかし、人権や公共性に関わる次元まで「消費者」で塗りつぶすのは、むちゃくちゃだ。
まあ、本書が現場に影響を与えることなどないだろうとは思うけれども。いやはや、ちょっと勘弁してほしいところだ。
どうしてこうなっちゃうんだろうなあ。仮に著者の学識に問題がないとすれば、経済学という学問自体に欠陥があることを疑わせるような内容であった。

中島隆信『子どもをナメるな―賢い消費者をつくる教育』ちくま新書、2007年

【要約と感想】茂木健一郎・竹内薫『10年後の世界を生き抜く最先端の教育』

【要約】日本の教育はオワコンです。文部科学省は潰れろ。TOEICは廃止せよ。英語とかプログラミングとか、何かやろうと思ったら、今すぐ始めましょう。

【感想】うーん、なんだろうなあ、個人的には『サイエンス・ゼロ』とか楽しく観てたし、『100分de名著』の「赤毛のアン」の時の茂木健一郎はとても好きだったりして、個人的には二人に対して含むところはないつもりではあるが。

まずさしあたって、明らかな事実誤認は指摘しておく。お二人は、教員免許がないから学校で教えられないと言うが、この認識は如何なものか。

竹内「そもそもアメリカと日本の大きな違いは、ぼくも茂木も学校で教えられるくらいの知識は持っているのに、教えてはいけないんです。」
茂木「教員免許がないから。」
竹内「そう。」(79頁)

ダウトだ。世の中には特別非常勤講師という制度が用意されていて、教員免許がない人でも教壇に立てる。他にも「特別免許状」という種類の教員免許があったりして、どこかの自治体がお二人を学校教員として雇用しようと思ったら実はいくらでも「抜け道」が用意されているのだ。「抜け道」の具体的事例もたくさん紹介されている。竹内は「教員免許制度というのは緩和しないといけない。」(79頁)と言っているが、すでにそうとう緩和されているわけだ。残念ながら竹内が推奨する「アクティブラーニング」では、この基礎知識に到達できなかったらしい。
しかも茂木は続けてこういうことを言う。

「教員養成系の学校の既得権益になっているから、彼らはそれを言われてしまったらレゾンデートル(存在理由)がなくなってしまうので、ものすごく焦るでしょうね。」(79頁)

この手のエビデンス無用の発言を「下衆の勘ぐり」と呼ぶ。教員免許制度が規制緩和されて「抜け道」があることは、誰かに言われるまでもなく、学部生の授業で伝えられるレベルの基本知識だ。少なくとも私は丁寧に説明している。どうやら茂木の推奨する「アクティブ・ラーニング」では、この基本知識に辿り着くのは不可能だったらしい。

個人的には「一事が万事」という言葉は好きではないのだが、本書においては残念ながらすべてがこの調子で進む。特に茂木の発言には一切のエビデンスを欠いた「下衆の勘ぐり」が極めて多い。どうやら脳科学という学問を修めた人間には、エビデンスなしで専門外の事象を断罪する資格が与えられるようだ。いやはや、文部科学省を腐していれば良かった時代は、もうとっくに終わっているというのに。

お二人は教育学についてはシロウトだから仕方ないのかもしれないが。アメリカの学者が日本の教育を「ドリルばかりやっているアメリカの教育と違って、創造性が高い」と極めて高く評価している事例もご存知ないのだろう。おそらく日本の「学級経営」や「生活指導」の伝統が高い「非認知能力」を育ててきたであろうことにも、想像力が及ばないのだろう。茂木の「現代国語という教科は要らない」(90頁)という発言は、現在の「読解力」に関する国際トレンドが何も分かっていない証拠でもある。唖然とする。この手のツッコミを入れ始めたらキリがない。

まあ、教育のいいところは、「教育学のシロウト」であっても、そこそこ良い教育実践が可能なところではある。「経済学のシロウト」であっても、そこそこ良い経済実践が可能なのと同じことだ。竹内薫が作った学校には、ここから次世代をリードする人材が次々と輩出されることを期待せざるを得ない。
いやほんと、言っている内容そのものの方向性はそれほど的外れではないのだから、もうちょっと足下を固めて臨んで欲しいと思ったのだった。そこそこ良かった教育実践が何かしらの限界に突き当たった時、その時こそ教育学の専門的知見がヒントを与えてくれるはずだ。

【言質】
「個性」という言葉に関しては、いくつか興味深い言質を得た。

茂木「よく一般の方が「私、普通なんです」と言って没個性を嘆いたりするけれど、これは脳科学的に言うと明らかに間違いで、個性というのは誰でも平等にあるんです。ただしここからが大事で、個性はマイニング、つまり発掘しなくてはいけないんです。」(167頁)

茂木の言う「脳科学」が「個性」という概念についてあまり深く考えていないことがよく分かる発言ではある。ここで茂木が言っているものは、「個性」ではなく、「特徴」とか「長所」とか「持ち味」と呼ぶべきものに過ぎない。「個性とは何か」についてはこちらの文章を参照

茂木健一郎・竹内薫『10年後の世界を生き抜く最先端の教育―日本語・英語・プログラミングをどう学ぶか』祥伝社、2017年

【要約と感想】戸田忠雄『学校は誰のものか―学習者主権をめざして』

【要約】学校選択制にすれば、教育問題はすべてかたづきます。

【感想】すでに故人となっている著者の発言に対して厳しいことを言うのは恐縮ではあるが、思ってしまったので、書く。本書の内容は、論理矛盾が甚だしく、自己撞着に陥っていて、極めて問題が多い。決定的に問題なのは、「学習者主権」をタイトルに掲げているにも関わらず、実質的にはまったく「学習者主権」に向かっていないところだ。具体的には、著者は教育を「市場」に委ねれば「学習者主権」になると言っている。しかし「市場」と「主権」は、本質的にはまるで関係がない。もしも本当に著者が「学習者主権」を目指すのであれば、たとえば具体的には「教育委員会の公選制」を主張すればいいだけの話だ。しかしなぜか著者は「教育委員会の公選制」については検討の俎上に載せることすらせず、ひたすら「首長のリーダーシップ」ばかり主張する。論理的にまったく筋が通らない。だから、著者の中には「市場化」という結論が先にあって、「学習者主権」は後から付け足した言い訳のようにしか見えなくなるわけだ。
教育を「市場」に委ねるだけなら、「学習者主権」と言う必要はないし、言ってはならない。繰り返すが、「市場」と「主権」という概念には、論理的には何の関係もない。大雑把に言えば「市場」がなくとも「主権」は成り立つし、「主権」がなくとも「市場」は成立する。「市場=経済的自由」と「主権=政治的自由」は拠って立つところが根本的に異なっている。意図的かどうかは分からないが、「市場」と「主権」の違いを考慮に入れず、表面上は「政治的自由」を掲げながら実質的に「経済的自由」を滑り込ませようとするのは、結果的には欺瞞以外の何者にもならない。
「教育を市場に委ねよう」と言いたいのであれば、そう言えばいいだろう。確かに経済は経済(経世済民)としてしっかり検討する必要がある。教育の市場化についてメリットとデメリットを比較考量する作業は学問的にも実践的にも必要だろう。しかし単なる市場化の主張を「学習者主権」という美しい言葉で粉飾するのは、論理的にありえない。少なくともタイトルにつけてはいけない。「学習者主権」を謳いながら「学習指導要領の拘束性」や「教科書検定制度」などの政治的領域に切り込まないところに、欺瞞的姿勢が端的に表れている。

それから、本書内で足立区教育委員会が「競争」を持ち込んだことをやたらと褒めているが、本書が出た直後、その「競争」が原因となって学習者をないがしろにする詐欺的事件が発生してしまった。教育者倫理に照らして極めて残念なことではあったが、本書が語る理屈が現実には機能しないことを、事実が証明してしまったといえる。2000年から導入が進んだかに見えた学校選択制も、ここ10年くらいは離脱する自治体が増加している。市場論者の理屈どおりには物事が進まなかったという証拠だろう。
まあ著者が学校選択制導入に前のめりになったのも、著者が「高校」の校長経験者であって、小学校や中学校の事情に疎かったという可能性を考慮する必要があるのかもしれない。高校でうまくいく政策が、小学校や中学校でも同様にうまくいくとは限らないことを想像しなければならないのだった。

【今後の研究のためのメモ】
本書は「教育」の現状を批判するために、教育界隈のあり方を「宗教」になぞらえる。

「教育好きの国民にとって学校は、その本山であり教会のような存在だ。したがって、学校は「学校教」とでもいうべき宗教的な要素をたぶんにもっている。教師は教室の僧侶であり司祭であり、教科書という教典を使って国が作った教義を述べ伝えていく。道元は「正師を得ざれば学ばざるに如かず」(『学道用心集』)といっているが、学校教師は教員免許を与えたからこそ「正師」なのであって、塾とか予備校講師はいくら実力があっても「正師」ではないとされる。
学校教師は「正師」であるからこそ聖職者とみなされるのであり、同じことを教えても学校外教育機関たとえば塾やパソコン教室の講師は聖職者とはみなされない。学校教師は聖職者である以上、「信徒」である児童生徒・保護者など学習者側は、「先生」に無条件かつ全幅の信頼を寄せなければならない。信徒であるから先生を批判することなど、あってはならないこと。先生への絶対の尊敬と無条件の信頼がなければ、学校教育いや学校教は成り立たない。その背景として、日本にはユダヤ・キリスト・イスラムのような唯一絶対神の伝統がないから、容易に神の代わりに教師がこの世の権威になりやすい土壌がある。」(68-69頁)
「ふつうの社会人は信頼に値する仕事をしたことにより、評価され信頼されるようになるのであって、その逆ではない。こんな社会の常識が通用しない教育界は宗教の世界なのか、そして教師は文字どおりの聖職者なのか。教師だけに信頼と尊敬が先になされるべきだという以上、教職は聖職者に近い職業だといわざるをえなくなる。」(90頁)

注目すべきは、言っている内容が正しいかどうかというよりも、「教育」を「宗教」と比較する語り口であり、レトリックだ。「教育」を「宗教」になぞらえて語りたくなるような誘引がどこにあるかだ。
もしも教育界に起きている「宗教まがい」の現象を本当に理解しようと思ったら、おそらく著者のように一神教と比較するのではなく、「儒教の宗教性」について真剣に考察する必要がある。あるいは「教育」という言葉に含まれる漢字の「教」が、同様に「宗教」という言葉に含まれる漢字の「教」でもあるという厳然たる事実について真剣に考えるべきなのだ。そういう原理的な考察を怠って、単に「教育」を「宗教」になぞらえて揶揄した気持ちになっているようでは、「教育」に対しても「宗教」に対しても失礼な話だ。
まあ、「教育」を「宗教」になぞらえて語りたくなる欲求が表に現れた例としては、本書はひとつのサンプルにはなる。

戸田忠雄『学校は誰のものか―学習者主権をめざして』講談社現代新書、2007年