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【要約と感想】落合陽一『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる』

【要約】これからの人生100年時代、近代教育の価値観から抜け出せない人は滅びます。他人から働かされる人ではなく、人やAIを使う側に回れるような人が生き残ります。そのためには、他人と同じ価値観に染まるのではなく、自分だけのニッチな価値規準を持ち、自らリスクを引き受けて行動できるようなトレーニングを積みましょう。本当の幸せとは、ストレスなく自分の有り様を自然に発揮し続けることです。

【感想】個人的には「おっしゃるとおり」としか。まあ、若い国家官僚とか経営者とか学者とか含めて、気づいている人はみんな気づいている「当たり前」のことしか書いていないわけだけれども。ただ、その当たり前を誰でも表現できるかどうかは別の話で。著者は実際に自分でリスクを引き受けて新たな価値創出にチャレンジしているぶん、能書きを垂れているだけの国家官僚とか学者よりも、圧倒的に説得力があるわけだ。

というわけで、個人的には、とても勇気が出る本だった。おもしろく読んだ。特に意を強くしたのは、著者が大学教育に関して発言している部分だ。たとえば「僕は今、大学教育に携わる側の人間として、大学を就職予備校のように捉えている人がいることを、とても残念に感じています。」(56頁)と言うが、まさにその通りだ。私も残念に感じている。

また、「大学では、「研究はゲームではないけれど、論文を通すテクニックそれ自体はゲームだ」とよく学生に言っています。」(135頁)の下りでは、涙が出そうになった。いや、ほんと、そう。私も論文を通すために「お作法」に倣って作文する技術を身につけてきたわけだが、いやはや、ほんと「ゲーム」に過ぎない。「研究」へのモチベーションは、そういう「お作法」とはまったく関係がないところから湧いてくる。私も「ゲームとして攻略法を追究することには興味が薄い」(136頁)ので、業績がいつも不足しているわけだが。いまはますます興味が薄くなってきて、誰に読まれるでもない論文を業績のために粗製濫造するよりも、こういうふうにwebでいろいろ発信する方が個人的にも社会的にも意味があるのではないかと割り切りつつある。いまは孤独だが、本書を読んで「これでいいかもな」と、勇気を得るのであった。

【今後の研究のための備忘録】
とはいえ、気になるところはないではない。たとえば著者は「人類にとっての<近代>を終わらせることは、長期的な僕の活動の重要なテーマです。」(100頁)と言っている。これ自体は新しい発想ではなく、宮代真司や上野千鶴子のような社会学者が20年前から言っていることだし、教育の分野ではイリイチやフレイレが半世紀以上前に理論化しているし、あるいは80年前の「近代の超克」論だって参照できる。著者の主張が新しいのは、この「近代の終焉」にテクノロジーが結びついている点だ。著者は「限界費用」の低下による「民主化」と言っている。ただ問題は、はたして本当にテクノロジーと民主化が予定調和できるかどうかという点だ。一般的には、テクノロジーによって民主化が促進されるのではなく、実際には文化資本による格差が拡大するだけではないかと危惧されている。著者に言わせれば、その格差拡大を食い止めることこそテクノロジーの仕事ということになるのだろうが、その論理が現実的にうまく作動するかどうかというところが問題だ。まあ、教育に関わる者として他人事の話ではないので、私もテクノロジーが「民主化」を促進するように努力しなければならないのだが。

あるいは著者は「僕が興味をもっているのが明治時代における教育、さらにこの時代にできた価値観や言葉の定義をどう捉えてどう常識を疑うかです。」(103頁)と言うが、ここはまさに私の専門領域と関心にドンピシャでジャストミートするところなのだった。特に私は「人格」と「個性」という言葉に焦点を当てて研究を続けている。どちらの言葉も、日本が資本主義の離陸期に入る明治20年代半ばに産み落とされたことに、おそらく大きな意味がある。私が長年の研究の積み重ねで得た知見は、おそらく著者の問題関心に大きく貢献するはずだ。が、私の知見を彼に届けるには、やはり「論文」を書かなければならないのだった。ここで「お作法」の意味が出てくる。ああ、仕事しないとなあ。

ちなみに明治教育史専門家として、福沢諭吉に関する記述(99頁)が誤っていることにすぐ気がついてしまった。「明六社」を設立したのは福沢諭吉ではなく、森有礼だ。まあ、著者の主張には何の影響も与えない、Google検索すれば分かるような些細な事実ではあるが、論文でこの類の間違いをやったら確実に死ぬ。

最後に、「自然体でいながら、自分がやりたいことをできている時、「今この瞬間が確かにある」と自覚することができます。その瞬間、瞬間は時の流れが美しく、それでいて幸福に満ちあふれている。」(86頁)という言葉は、本当に美しい。禿同禿同。これは、かつてソクラテスが示したのと同じ知見だ。ソクラテスが言うには、他人の価値観に従って行動している人は、外面的にどれほど裕福であろうと本当に幸せだとは言えない。ソクラテスが言う「ほんものの幸せ」とは、「常にわたしがわたしであること」であった。そういう意味で、落合陽一は「現代の魔法使い」でもいいのだが、「現代の賢者」だと言ったほうがしっくり来る。ひろゆきも、また同じく「現代の賢者」だろう。また私もそうありたいところだが、「世間のしがらみ」というものを振り払うのは、なかなか大変ではあるのだった。

落合陽一『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる―学ぶ人と育てる人のための教科書』小学館、2018年