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【要約と感想】尾木直樹『いじめ問題をどう克服するか』

【要約】いじめ防止対策基本法ができ、国としていじめに対応する体制ができたことは評価します。被害者の側の視点に立っているところが、妥当です。
しかしまだ、人権問題としていじめを理解する観点が日本には欠けています。学校や教育委員会の隠蔽体質が改善されないのは、新自由主義による競争原理のせいです。
いじめの克服のために、厳罰主義にはなんの効果もありません。子どもの権利条約の理念にのっとり、子ども自身が主体的にいじめ対策に参加する姿勢を応援することが大切です。そして企業や地域も含めた社会全体の問題として捉えることが大切です。

【感想】現時点での要点がコンパクトにまとまっていて、良書だと思う。「いじめ防止対策基本法」の画期性と課題もよくわかる。子どもの権利条約の視点から、いじめを人権問題として理解しようとする枠組みも一貫している。そして理論的枠組みと具体例との接続も分かりやすい。具体的な行動の提案にまで昇華して、実際に関わっているところなど、とても説得力がある。

こんなに論理的で首尾一貫した立派な本が書ける人なのに、一方でブログ等には時事問題に対して脊髄反射で愚かなことを書いてしまうのは、どういうことなのだろう? ちょっと不思議な感じはするのだった。

【個人的研究のためのメモ】
「人格」に関する言質をいくつか得ることができた。

「いじめをする子どもは、人格が成長する途上にあり、未熟であるために、いじめの深刻さを充分に認識できていない場合が少なくありません。だからこそ、きちんと責任がとれる人格に成長させてやるべきなのです。」(177頁)

「しかも、子どもの人権などに関しては、さらに意識が低下しています。いじめに限らず、子どもの非行が話題になると、「子どもに人権など必要ない。社会の規範を叩きこんでやれ」などといった乱暴な意見が聞かれることもめずらしくありません。しかし、こうした日本社会の人権意識の低さ、特に子どもに対する人権感覚の鈍さが、いじめ問題の根底に横たわっているように思えてなりません。そして、このことは、子どもに対する体罰を正統化する考えにも通底しています。叩いたり、殴ったりすることで子どもにわからせようとする発想は、そもそも子どもを「一人の人格のある人間」として認めていないことと同じなのです。」(189頁)

引用したところは、内容そのものに対しては特に異論はない。が、177頁と189頁にそれぞれ登場する「人格」という言葉の中身がズレているような感じはするのだった。具体的には、前者の「人格」は心理学的な背景が、後者の「人格」には倫理学的な背景が潜んでいる。まあ、意味がズレていること自体は著者のせいではなく、現代日本語あるいは現代教育学(あるいは心理学)そのものの問題である。そして仮に意味がズレていたとして、本書全体の趣旨に、さしたる影響はない。

【眼鏡学のために】
眼鏡に関する情報を得たのは、不意打ちではあった。1998年に開催された第二回「テレビと子ども」世界サミット・ロンドン会議で打ち出された「子どもの電子メディア憲章前文」に、以下の表現がある。

「私たちはすべての子どもがテレビで自分と同じような子どもをみることができることを望む。どうしてテレビに出る子どもはめがねをかけていてはいけないのか。」

すばらしい意見である。

尾木直樹『いじめ問題をどう克服するか』岩波新書、2013年

【紹介と感想】田中耕治他『教育をよみとく―教育学的探究のすすめ』

【紹介】高校生や学部1年生向けに書かれた、教育学入門書です。定番の教育課題に対するアプローチの仕方や、論文の書き方に関するお作法、さらに教師として実践的な力をつける道筋が記されています。

【感想】京都大学教育学研究科の英知を結集しただけあって、必要な情報がコンパクトにまとめられている。類書(初心者向入門書)と比較すると、アプローチの仕方やお作法などの記述が厚いためか、クールな印象を受ける。政治と教育との絡みが後景に退いているのが、多少気になるというくらいか。

【備忘録】
個性とメガネに関する言質を得たのでメモしておく。

「ただし、「個性」は「個人差」と同じものではありません。(中略)つまり、個人差に応じる教育とは、到達度や、習得に必要な時間の差などの量的な測定データをもとに、子ども一人ひとりに合った指導を行うことであり、一方、個性に応じる教育とは、子どものそれまでの経験や興味・関心などをベースにした個人の主観的・主体的な判断で進める学習に合わせる指導といえるでしょう。このように区別することによって、学力格差(個人差)を個性だとして容認するといったリスクを減らすことができます。」(51-52頁)

実践的な場面では、確かにこのような構えでうまく回るのかもしれない。とはいえ、「個性」を哲学的に考えた場合は、もっと別の景色が見えてくるようにも思う。まあ、本書の主題と話の流れから言って、ないものねだりではあるが。

それからメガネについて。

「概念という装置は、顕微鏡や望遠鏡といった重く存在感のあるものではなく、手軽に持ち運びができるメガネのようなものです、かけ続けていると、かけていることすら忘れるくらいに体になじんでいきます。したがって私たちは、日常生活において、概念というメガネを通して世界をみていることを意識することはありません。それゆえに、日常生活においてかけているメガネを、探求を行う際にも無意識にもち込んでくることになります。それ自体は悪いことではありません。しかし、探求を進める過程においては、日常生活でかけているメガネは度が弱すぎて、実は世界がよくみえていなかったということに気がつきます。わかっていると思っていたことがわからなくなる、これまで疑いもしなかったことについて改めて考えてみないと一歩も先に進めなくなる。実はこれが探求の醍醐味の1つです。不安になる必要はありません。このような状態になることは、普段使っているメガネを捨てて、精度の高い学問的なメガネを手に入れつつあることを示しています。むしろ成長の証なのです。」(81頁)

なるほど、「概念」をメガネに喩えるのは、うまいかもしれない。かねてから、世間では「観念」と「概念」が使い分けされていないと感じていた。「頭で思うこと」は単に「観念」であって「概念」ではないのだが、世間的には「頭で思うこと」を「概念」と言ってしまったりする。しかし私の理解では、「概念」とは世界を理解するための素子みたいなもので、これが精緻であればあるほど解像度の高い像を得ることができる。解像度の高い世界を手に入れるという意味で、概念をメガネに喩えるのはうまいかもしれないと思った次第。

田中耕治・石井英真・八田幸恵・本所恵・西岡加名恵『教育をよみとく―教育学的探究のすすめ』有斐閣、2017年

【要約と感想】木村涼子編著『リーディングス日本の教育と社会16ジェンダーと教育』

【要約】「ジェンダーと教育」をテーマとした研究の2009年時点での到達点を示すアンソロジー集です。膨大な関連研究のうちから代表的な23の文章を抜粋し、5つのテーマに配分して編集しています。
第Ⅰ部「ジェンダー・パースペクティブと教育研究の出会い」では、ジェンダーという視点や方法が教育学全体に対してどのようなインパクトを与えたかが考察されています。従来の教育学が男性視点に偏っていたことが明らかになると共に、見逃されていた新たな課題が提示されます。
第Ⅱ部「性別の社会化のしくみ」では、社会全般においてジェンダーが形成されるメカニズムを解析しています。おとなから一方的に性別役割が注入されるのではなく、子ども自身も主体としてジェンダー生成に関わっていく仕組みが明らかになります。
第Ⅲ部「学校教育におけるジェンダー形成」では、メリトクラシーや家庭環境要因を考慮に入れ、統計的な手法なども活用しながら、ジェンダー要因が学校文化や学歴達成や家庭の教育戦略にどのような影響を与えているかが明らかになります。
第Ⅳ部「ジェンダー視点からの教育史」では、ジェンダーの手法を用いることで近代教育史の通説に変容を迫り、家族と学校の関係について新たな視角を示しています。
第Ⅴ部「新たな動き」では、従来のジェンダー論では見逃されてきた様々なマイノリティとの関連が考察され、新しい課題と視角が提示されます。

【感想】本書は2009年時点での達成点を示すものではあって、それから10年経った現在では、本来なら情勢は変化していなければならないはずだ。が、残念ながら、本書はまだまだ有効なのだった。

たとえば具体的には、日野玲子「「ジェンダー・フリー」教育を再考する」という論文は、まだ示唆に富んでいる。現場では安易に「固定観念は取り除けることを前提としている」が、もともとジェンダー・フリー教育はそういう矯正を目ざすものではなく、「ジェンダー・バイヤスに気づくことによって、ジェンダー・コードから自由になる考え方を、子どもたちが身につけることを目的にしていた」(74頁)はずなのだった。現場が安易な実践に傾いていないか、いまでもチェック指標として意義があるだろう。
特に中西祐子「ジェンダー・トラック」で「学校が性役割観に基づく進路の「矯正力」を持つこと、それによって家庭での性役割の社会化効果を「打ち消す」ことは間違いない事実」(237頁)と明らかにされている以上、学校での実践はより意識的に行なう必要がある。
さらに村松泰子・河野銀子「理科好きな女子・男子を増やすために」で、「女子が理科から離れているのではなく、理科が女子から離れている」(354頁)という指摘には、ナルホドと思う。私の勤務校でも、彼女たちの専攻(栄養は被服)には絶対に理科の教養が必要なのに、理科が関わっていることを本質的に理解していない学生が多すぎるわけだが、しかしこれは中高の学校教育(特に家庭科)のあり方に問題があるのかもしれないと、改めて気がつかされたのだった。

あるいは、片岡栄美「教育達成過程における家族の教育戦略」が教えてくれる「男女の学歴決定メカニズムの構造は、異なっている」(163頁)とか「49歳以下の女性では、学校外教育投資は全く効果がみられない」という知見は、目の前の現実を考える上で極めて重要ではなかろうか。ドラえもんでしずかちゃんがバイオリンを習っていることを、われわれはどう理解すればいいのだろうか。そして2019年現在、男は学校外教育投資の効果が高く、女は家庭の文化資本の影響が大きいというデータに、変化はあるのだろうか。「女性は労働市場を通じた地位上昇の可能性がこれまで低かったことと、女性の地位維持や地位上昇が主として婚姻によって達成されてきたことと無関係ではない」という分析が正しければ、おそらく今も変化はないだろうと推測されるところなのだが。

そしてさらに、内田龍史「ジェンダー・就労・再生産」は迫力がある論文だったが、「専業主婦志向の女性には就労アスピレーションがそもそも見られないことが多い」という指摘と、「おそらくその背景にあるのは、「学校教育→職業達成」ルートからの「排除」であろう。」(380頁)という分析に、ナルホドと思う。勤務校で目にする女学生たちにも、そのままそっくり当てはまるのだった。彼女たちに「専業主婦になれないよ」と現実を教えてあげたところで、一方で労働市場から排除されている現実が変わらない限り、「専業主婦に賭ける」という生き方は変わらないのだろう。この「詰んでいる状況」を、どうすればいいのか。

本書に収録された論文は、本来はそろそろ「古典」になっていなければならないものばかりだ。それがまだ現役で役に立つとすれば、まるで変わらない現実の方に問題がある。

【今後の研究のための個人的備忘録】
やはり専門の日本教育史に関する記述には、引っかかるところが多い。それぞれもはや古典的な論文であって、いちど読んだことはあるのだが、改めて。
たとえば小山静子「良妻賢母思想と公教育体制」では、通説に対する批判が印象的だ。

「ところで、この時期の家庭教育論について、これまでの研究は、儒教主義に基づく家庭教育が次第に支配的になっていったとか、個性尊重主義家庭教育論が展開される一方で、それに対する儒教主義的立場や国家主義的立場からの批判が行なわれた、と総括してきた。しかしながら儒教主義的な特徴は希薄といわざるをえない。そしてこのような総括の仕方ではなく、むしろ、家庭教育が学校教育の対概念として措定されている点に、家庭教育論の特質を見出すべきなのである。」(270頁)

「良妻賢母思想の中心概念である「賢母」は、家庭教育が公教育の補完物として要請された時に登場してきたものであり、良妻賢母教育もまた、公教育制度の定着に伴う家庭教育の「近代化」が要請したものとして、とらえるべきであろう。」(274頁)

これらの記述はどうだろう? 個人的な経験を踏まえると、様々な点で素直に受け取ることができないのではあるが、具体的にどうこうしようとすると、「家庭教育」に関する多角的な史料収集が必要になってきて、意外に物申すのが難しい。要検討事項だ。

また沢山美果子「教育家族の成立」では、私の研究関心の中心にある「人格」観念に対する記述が気になるのであった。

「彼女たちの子育て、教育の目的は「子どもの人格をつくる」(鳩山)、「人格の完成、換言すれば人間として生きるための最善の道を会得する」(田中)ことに置かれ、それによって「将来の幸福」(鳩山)と、社会を「よりよく」(田中)生きることが目指される。では、「人格の完成」とは、また「よりよく」生きるとは、どう生きることであったか。鳩山は「自由は独立と同時に得られるものであるといふのが私の子供教育の方針の一つでございました」と述べ、田中は「よりよくと云ふことが教育現象の起る本源」と述べる。つまり、その目的とする「人格の完成」とは、自由=個人の解放と独立=個の自覚にあり、個人の解放と個の自覚を実現することが、個の社会を「よりよく」生きることに通じるのだというのである。
この「人格の完成」という教育目的のために「生活全部が教育」(田中)となる。」(302頁)

「しかし彼女たちは、自分たちはなし得たものの、人格形成と学力形成の統合が容易ではないことに気づいていた。」(303頁)

「この母親の発言に明らかなように、第二世代の親たちは学力と人格の統合が容易になし得ない現実、わが子の幸福な将来を願い、その願いを資本主義社会の中で実現しようとする時、人格形成と矛盾しかねない学力競争という競争原理が入りこむ矛盾に悩み始めているのである。そのなかで、学力形成については学校に頼らざるを得ない状況、学校教育の下請けとして家庭教育が行なわれる状況が進行する。学力形成と人格形成の矛盾が顕在化するこの時期、教育的マルサス主義と童心主義はこの矛盾を隠蔽する役割を果すものとして機能したのであった。」(308-309頁)

「人格の完成」という概念は、高等教育の文脈では阿部次郎や新渡戸稲造などの修養主義と絡めて言及されることが多いわけだが、実は家庭教育の文脈も重要であることが分かる。いちど全体的にさらっておいた方がいいかもしれない…

また一方で「個性」に関しては、次の記述も気になるところだ。

「教育的マルサス主義は、こうした大衆化状況のなかで、上昇できない部分に対しては、上昇できない現実的障害に向かうよりは、「素質」が悪いのだからという自罰の意識を、一方の極には、現実に開かれている上昇ルートを昇る原動力として働く。いい換えれば、資本主義社会の発展のなかで、労働の分業化が要求する人材配分とそれを正当化する「適材適所」のイデオロギーとして機能することとなる。」(307頁)

分業化と適材適所のイデオロギーは、いわゆる知能検査と連動しながら猛威を振るう。ここに「個性」という概念がどのように関わってくるかは、私の研究課題だ。

【眼鏡論に使える】
蔦森樹「ジェンダー化された身体を超えて―「男の」身体の政治性」(岩波講座『ジェンダーの社会学』収録)は、眼鏡論的に極めて興味深い。というのは、著者が<男>から<女>へとジェンダートランスしたときに実感した男と女の身体感覚の違いを表にまとめているのだが、その表に「眼鏡」という項目があって、男は「あり(太いべっこう)」とされるのに対し、女は「なし(コンタクトレンズ)」とされているのだ(146頁)。そしてさらに「性を理由にして否定されたと感じていた「身体を含めた」自分の可能性のほとんどが、出産以外は自分で行える。」(147頁)とも言う。彼女は、自分の意志で眼鏡を外して女性性を獲得したと主張しているわけだ。要するに彼女にとって「眼鏡を外す」という行為は、男性性を否定して女性性を獲得するという象徴的な意味を担っているのだ。これが当事者視点の証言は、極めて貴重だ。
すると、「「男でもなく女でもなく」というジェンダーのない世界を夢想したが、夢から覚めると、この身体も属するジェンダー・グループも常に女か男かのいずれかに即刻還元されるのであった。二元性の言語体系そのものが「私」の限界である事実を認めるまで、また認めてもなお、その苦しい心の状態が続いた。」(145頁)という記述も、眼鏡論的に興味深く読める。彼女の言う「二元性の言語体系」と「眼鏡ON/眼鏡OFF」という眼鏡の排中的な二元性は、極めて親和性が高いのだ。
彼女が言う「身体のジェンダー化とは、女と男の人間関係を構造化する政治的な出来事」(147頁)とは、眼鏡にも当てはまる。身体の眼鏡化とは、女と男の人間関係を構造化する政治的な出来事に他ならない。それは「見る主体=眼鏡ON」と「見られる客体=眼鏡OFF」を峻別する権力なのだ。

木村涼子編著『リーディングス日本の教育と社会16ジェンダーと教育』日本図書センター、2009年

【要約と感想】佐藤淑子『日本の子供と自尊心―自己主張をどう育むか』

【要約】これからの教育は、子どもの自尊心(セルフ・エスティーム)を育んでいく必要があります。自己主張やセルフ・エスティームの発達には、母子関係のあり方が大きく関わってきます。「ほめる」ことの重要性を今まで以上に意識しましょう。
しかし性差や文化的背景の違いによって、親のしつけや学校教育が子どもに与えるメッセージも異なっています。たとえば、母親と娘の情緒的な関係性から、女性の自己主張は男性と比較して幼少期から抑えられる傾向にあります。
また日本では、「甘え」が許される親しい関係性では自己主張ができますが、「そと」では自己主張ができません。「会話」ができても「対話」ができないのが問題なので、これからは「対話」の機会を増やして自己主張のトレーニングをしていきましょう。
が、そもそも根本的に「自己/社会」の関係性を考慮すれば、セルフ・エスティームが高い低いの問題ではなく、柔軟性やしなりの強さが決定的に重要になってくるでしょう。これからの時代を生きる能力を育むためには、セルフ・エスティームの育成が土台とならなければなりません。

【感想】心理学の知見と比較文化史的な知見を組み合わせた論考で、興味深く読める。「ほめて伸ばす」ことの論理的な意味がよく分かる。まあ、結論そのものは、俗流教育論がさんざん言っていることとそう変わらないようには思う。世間の感覚を学問的に裏付けたというものではあるかもしれない。

【この本は眼鏡論に使える】
二項対立を乗り越えて自我のバランスを保つという観点は、眼鏡論に対しても大きな示唆を与えるように思った。例えば平木が対人行動を「非主張的/攻撃的/主張的」と3つに分けた見解は、眼鏡弁証法における「即自的な眼鏡/対自的な眼鏡/即且対自的な眼鏡」に対応するように思う(64-65頁)。

非主張的攻撃的主張的
引っ込み思案強がり正直
卑屈尊大率直
消極的無頓着積極的
自己否定的他者否定的自他尊重
依存的操作的自発的
他人本位自分本位自他調和
相手任せ相手に指示自他協力
承認を期待優越を誇る自己選択で決める
服従的支配的歩み寄り
黙る一方的に主張する柔軟に対応する
弁解がましい責任転嫁自分の責任で行動
私はOKでない、あなたはOK私はOK、あなたはOKでない私もOK、あなたもOK

平木の言う「非主張的」は、眼鏡をかけた自分に対して自信が持てない状態に当たる。そして「攻撃的」は、眼鏡を外して周囲にちやほやされている状態に当たる。最後に「主張的」は、様々な葛藤を経て再び眼鏡をかけ直した状態に当たるわけだ。
この「ほんとうのわたし」を取り戻すという眼鏡弁証法のプロセスは、本書の認知心理的な観点からも記述されているところだ。

「自己主張するには自己の判断が必要であり、そのうえで自己決定し自分の意思を表明する。このようなプロセスは自己意識を鮮明にするし、自分らしさの模索を促していくだろう。自己は、意識や行動をつかさどる「主体としての自己(I)」と、自他にみられている「客体としての自己(Me)」に区分される。自己主張するIとセルフ・エスティームを内包するMeの相互作用は、自己形成の一つの側面を映し出している。」68頁

「眼鏡をかける」という判断を行ない、自己決定するのは眼鏡少女自身である。そしてその判断と決定の積み重ねが「自分らしさ」の形成へと繋がっていく。そしてそれこそ少女マンガ(特にオトメチックまんが)が目指した「ほんとうのわたし」だ。
あるいは167頁で語られている「相互依存/独立」の二項対立を超えて「情緒的相互依存:自立ー相互関係的:自立的・関係重視自己観」へという理解も、眼鏡弁証法構造に極めて親和的である。「単なる自己主張ではない自立性と、単なる順応ではない協調性とを組み合わせた「自立的協調性」」(171頁)とは、眼鏡っ娘が最終的に目指す姿であろう。

そんなわけで、本書が言う「自己/他者」の弁証法構造自体は私が従来から眼鏡弁証法として主張してきたものではあるが、認知心理の世界でも同様の理解があることを知り、たいへん心強いところである。本書から得た知見は、個人的な研究視点として積極的に取り入れていきたい。

→読むべき本:平木典子『アサーション・トレーニング―さわやかな<自己表現>のために』、辻平治郎『自己意識と他者意識』、岩田純一『<わたし>の世界の成り立ち』

佐藤淑子『日本の子供と自尊心―自己主張をどう育むか』中公新書、2009年

【要約と感想】出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』

【要約】4世紀末から5世紀初頭のローマ帝国末期に活躍したキリスト教の教父アウグスティヌスについて、生涯を辿りながら、その思想の展開と特徴について要点を簡潔に紹介しています。
思想については、青少年期の放蕩やマニ教への傾倒など伝記的な事実を踏まえつつ、新プラトン主義や敬虔なキリスト教信者であった母親の影響等によって形成されていく様子が描かれています。特に立ち向かったテーマは、「自由意志」や「悪の原因」さらに「三位一体」というような、マニ教やペラギウス派など異端との対決で焦点となる概念です。
これらの課題への取り組みを通じて一貫しているのは、人間の「心」を深く見つめる姿勢です。

【感想】他の著書でマニ教について知識を得ていたので、その知識を踏まえて改めてアウグスティヌスの生涯に触れてみると、「自由意思」と「悪の由来」と「三位一体」がまさに不可分な問題であることが分かる。カトリックの「三位一体」の教義は、マニ教とかアリウス派などの<異端>の思想と比較して初めて意味を理解できるような気がする。まあ、「三位一体」に対するそういう理性的な理解の仕方は、アウグスティヌスの推奨するところではないんだろうけれども。
また新プラトン主義の影響など、アウグスティヌスの思想は<普遍的>なものというよりは、その時代の影響をそうとう明瞭に表わしているもののように思った。が、偉大な思想家が常にそうであるように、時代に固有の問題に真剣に取り組むことで普遍的な問題へ接続するということなんだろうなあと。

【この本は眼鏡論に使える】
アウグスティヌスを語るときに絶対に外せない「三位一体」について、当然本書も触れているわけだけれども。本書は、被造物である人間にも三位一体性が表れていると言う。

「たとえば、一つの視覚対象認識の成立においても、「対象」「その視像」「対象にまなざしを向ける志向」の三者は切っても切れない関係にあるなど、三一性は私たちの内にも存在する。それは、私たちが「神の似像」として三一なる神を映し出しているからだ、とアウグスティヌスは考えるのである。」141頁

この考察が人間の本質を捉えているかどうかは、さしあたって問題にしないし、私にその資格はない。私が関心を持つのは、もしも仮にこのようなレトリックが成立するのであれば、「眼鏡っ娘」こそが三一性の根本的な体現者であると言えるのではないかということだ。なぜなら、単に「眼鏡」と「娘」を合体させるだけでは単に「眼鏡をかけた女性」になるだけで、決して「眼鏡っ娘」は生じない。ここに何らかの意味での「霊」が宿ることで初めて単なる「眼鏡をかけた女性」ではなく「眼鏡っ娘」が生じるからだ。要するに、「眼鏡っ娘」とは、唯物的に「眼鏡+娘」と考えるだけでは生じ得ず、「眼鏡+娘+何らかの霊性」という三一性を承認して初めて認識できる何者かなのだ。
このような眼鏡っ娘認識は、新プラトン主義のプロティノス『善なるもの一なるもの』にも見られたものであった。キリスト教が言う三位一体の教義は、おそらく新プラトン主義の「一」に対する洞察とも共鳴するものであるし、そうであれば普遍的なものとしての「眼鏡っ娘」とも必然的に響き合うものとなる。つまりそれは、理性的に理解する対象ではなく、「信仰」によって飛躍する特異点である。
改めて「三位一体」に対する研究を深める必要を痛感するのだった。

出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』岩波新書、2018年