「特異点」タグアーカイブ

【要約と感想】苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』

【要約】現代教育学は、相対主義に気圧されて臆病になり、なにが「よい」教育なのかという規範を考えられずにいます。しかし、規範を考察するためのロジックを提出することが教育哲学固有の役割だったはずです。ということで規範学としての教育哲学の課題を真正面から引き受け、「よい」教育とは何かを考えました。フッサール現象学とヘーゲル欲望論を土台として考えれば、教育とは「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」であり、「よい」教育とは<一般福祉>に適う教育であると、断言できます。ちなみに「一般福祉」とは、ルソーの言う「一般意志」に基づいた行政が行なう社会政策の規準です。

【感想】様々なインスピレーションを湧かせてくれる、若々しい本だった。いろいろな刺激を受けた。おもしろく読んだ。とても良かった。

【今後の研究のための個人的備忘録】
とはいえ、思うところは、なくはない。いや、たくさんある。
ということで以下、しつこく批判を連ねていくが、もちろん著者個人に物申すという意図から出たことではなく、私個人の研究をより深めるための備忘録だ、ということはあらかじめ言っておいて。

まず著者が結論として示した「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」という言葉が、教育学研究者として、素直には納得できない。根本的な違和感は、問題の核心である「自由」という言葉にある。著者が「人間は<自由>を欲する存在である、という人間的欲望の本質論」(30頁)と言っている論理が、そもそもおかしい気がするわけだ。というのは、個人的な研究史を踏まえて言わせてもらえば、どうせ同じことを言うなら「各人の<人格>および社会における<人格の相互承認>の<ビルドゥング:陶冶=文化>を通した実質化」と言ったほうが、遙かに良いと思うわけだ。
素人から見たら単に「自由」を「人格」と言い換えているだけのように見えるかもしれないが、研究者視点から言えば、これで論理の最終的な射程距離がそうとう変わってくると思うのだ。というのは、スピノザ風に言わせてもらえれば、「自由」とはそもそも「人格」の<属性>に過ぎないからだ。本質である<実体>は「人格」のほうにある。たとえば、仮に本書の中に登場する「自由」という言葉を全て「人格」に変換しても、まったく違和感なく筋が通るはずだ。「人格」が主で「自由」が属だから、属を主に換えても筋は同じままでよいわけだ。
ちなみに属性である「自由」を軸に論理を組み立てても筋が通るのは、たまたま「教育」というテーマが「人格の属性である自由」と実践的に相性が良かったためだ。しかしおそらく他の一般的議論(たとえば芸術論)に展開した場合には、「自由(属)」よりも「人格(主)」のほうが射程が延びるだろう。実際、著者も「自由」という言葉では論旨を通貫できずに思わず「人格」という言葉を持ち出す個所がある。具体的には196頁で「他者を一個の人格として尊重することを学ぶのである。」と言っている。本書の趣旨から言えば、ここは「自由の相互承認」という表現で貫徹してよかったところだ。しかし「自由」という<属性>では表現しきれない何かを言い表したくなったとき、「人格」という射程距離の長い概念が降りてくる。

さらに哲学的に論理を敷衍すれば、「人格」の本質とは「一」である。たとえば本書に出てくる「自由」を全て「一」と言い換えても、論旨は通じる。つまり「自由」とは「一」の<属性>なわけだ。そしてヘーゲル風に言わせてもらえれば、その場合の「一」とは、「無限定の一」から自己矛盾を経て分離した「対自」と「即自」が再び綜合(アウフヘーベン)されて「再帰的な一」となった現実的な「一」だ。この現実的な「再帰的な一」の諸属性の中に「自由」とか「個性」とか「アイデンティティ」といった概念が含まれる。つまりヘーゲルの教育論の本質は、私が理解するところでは、「無限定の一(無邪気な子ども)」が、自己自身を限定=否定することで分裂の危機に陥った後、再び綜合(自分自身に戻る)して現実的な「人格」を完成するという弁証法的なプロセスにある。本書はこれを「自由」の欲望論で記述したわけだが、私の研究史的観点から見ればそれは属性的に付随する話に過ぎず、本質的には「弁証法プロセス=再帰的な一」として描くものだと思う。ちなみにこのプロセスは、ルソーが『エミール』でも描いていたような、「なすこと」と「欲すること」の分離と一致の過程ともオーバーラップする。本書でも「なすこと」と「欲すること」のズレと綜合が「自由」の源泉であるようなことが書いてあったが、本来ならそこでは『エミール』が参照されるべきだとも思った。

また、「再帰的な一」は、本書内で繰り返し登場する「生きたいように生きたい」という再帰的なテーゼを、「自由」という<属性>よりもはるかに本質的な次元で言い表す言葉であるように思う。著者は「私たちは皆どうしても、「生きたいように生きたい」、すなわち<自由>を欲してしまうのだ、というヘーゲルの主張」(28頁)と言うが、私の研究史的観点から考えれば、「生きたいように生きたい」という再帰的な命題は、「自由」ではなく、「わたしが<わたし>でありたい」という「再帰的な一=人格」のほうに本質的に結びつくように見える。いや、確かにもちろんそれは「自由」ではあるのだが、「自由」は<属性>として必然的に付随するだけであって、本質は「再帰的な一」にあるわけだ。
そしてこの「再帰的な一」を、人は「人格」と呼ぶ。こうしてみると、実は旧教育基本法第一条に掲げられた「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」という文言は、筆者の言う「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」以外の何物でもない。ということで、私個人としては、「よい」教育とは「旧教育基本法が目指す教育」でファイナルアンサーのような気がしないでもないのだった。

で、こういうふうに「自由」を<属性>と捉えていくと、実は本書138頁や149頁で語られていることは、けっこう危ういように思える。本書で「教育学のアポリア」について何回か言及されるが、私としてもそれらは擬似問題に過ぎないと思う。しかし本当の意味での「教育学のアポリア」とは、「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」であるところにあると思っている。このアポリアに対して数々の教育哲学者が膝を屈しているときに、本書はそのアポリアをアポリアとも思わず軽々と飛び越している。それは単に「自由」をパッケージ化したことの副産物ではないかとも思う。
本書は、「自由」についての定義をしっかり試みている(第3章)。それ自体の論旨に特に問題は感じない。しかしいったん「自由」のパッケージ化に成功した後は、「自由」は無謬の審級として威力を振うこととなる。無敵な「自由」の前に、立ちふさがるものはない。いや、まさにそれを成立させるための構成になっているから、論理自体に問題があるのではない。ただ、著者に同意せずに「自由」を無敵だと思っていない立場で読むと、「自由でないものを強制的に自由にする営み」というアポリアを「自由のためには許される」という論理でするっと抜けられたとき、「えっ、本当にいいの?」となってしまう。もしもここで論理の底に据える審級が「自由」ではなく「人格=再帰的な一」であったとしたら、筆の運びはまるで違うものになったかもしれない。教育という「自由でないものを強制的に自由にする営み」とは、本当に「再帰的な一」にとって「よい」ことなのか。このあたり、ヘーゲル自身の行論は、なかなか刺激的だったはずだ。具体的にはヘーゲルは次のように言っていた。

「人間はあるべき姿を、本能的にそなえているのではなく、努力によってはじめてそれをかちとることができる。教育されるという子供の権利はこのことに基づいている。家夫長的統治の下にある諸民族もまったく子供と同様であって、この場合人々は、貯蔵庫にあるもので養われ、独立した人間および成人とはみなされない。
だから、子供に奉仕を要求することが許されるのは、奉仕が教育だけを目的とし、教育に関係しうる場合だけである。奉仕が、教育との関係をぬきにして、ただそれだけでなにか重要なことであろうとしてはならない。というのは総じて最も非倫理的な関係は、子供を奴隷にする関係であるからである。
教育の主眼点は躾であり、躾には、たんに感性的で自然的な要素を根絶するために、子供の我意を砕くという意味がある。この場合たんに穏便なやり方で足りると思いこんではならない。なにしろ直接的意志は、とりもなおさず、直接的な出来心と欲望のままに行動するものであって、理由と表象によって行動するものではないからである。
子供に理由を示すということは、その理由を承認するつもりがあるかどうかを子供にまかせることであり、したがっていっさいを子供の気ままな意向にゆだねるということである。そうではなくて、両親が普遍的で本質的なものを成すということ、このことから子供の服従の必要が出てくるのである。おとなになりたいというあこがれを起こさせるところの従属感が子供に養われないならば、生意気とこましゃくれが芽を出してくるのである。」
ヘーゲル『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシック67頁。

これこそが、「子供の我意を砕く」ための「躾」と「服従」こそが、「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」の具体的内容としてヘーゲルが掲げているものだ。ヘーゲルが描いた教育像を「時代的な制約」ということで済ませて大丈夫なのだろうか。ここはヘーゲルの論理に内在する傾向性が率直に現われている描写ではないのか。ヘーゲルに依拠して教育論を組み立てるのであれば、この「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」というアポリアに対して、「どうして強制が許されるのか」という論理構成には、相当本気で取りかかる必要があると思う。

まあヘーゲルについては難しいことがたくさんあるので、もっと勉強しなければならない。さしあたって個人的にはヘーゲルよりもカント倫理学のほうが好きなわけだが、ヘーゲルはさすが『精神現象学』という発達理論をものしただけのことはあって、静的なカントと違って自由の生成過程までダイナミックに踏み込んでくるところは、本書の言うとおりだ。確かにヘーゲルを侮ってはならない。
そして同様に(?)、個人的嗜好から言えば、フッサールよりもヴィトゲンシュタインを採りたい。その理由の論理展開は既にこっち(稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』)に記してある。

あと、私も含めて足を掬われるかもしれないと思ったのは、「社会有機体論」に対する構えが薄いというところだ。本書にはルーマンの名前もちらほら出てきているわけだが、スペンサーなりパーソンズなり、社会有機体論的な発想に対しては、そもそも本書の論理は何のインパクトも与えないだろうと思う。なぜなら本書は徹底的な個人主義に拠って構成されていて(本書が扱う共同体主義も所詮は個人主義の枠内にある論理に過ぎない)、社会有機体論者に響く共通要素は何もないからだ。本書はいわゆるライプニッツの「窓のないモナド」的な世界観を無条件に前提しているわけだが、社会有機体論はその前提自体を共有する必要がないのだ。その世界ではもはやフッサールを持ち出すまでもない。ホッブズ以来の「自由」の展開は、実は資本主義の史的展開によって「窓のないモナド」的世界観の無前提的な共有が広がった結果に過ぎないのかもしれない。モナド的でない世界の見方がいくらでも可能だということには、たぶん気をつけなければ、足を掬われる。私個人は著者のモナド的世界観を無前提に受け入れることができるが、しかし著者(あるいは私)の世界観を共有しない「絶対の他者」は、すぐ隣りにいるのだ。社会有機体論は、そういう対象をも射程に入れてくる、なかなか恐ろしい論理ではある。あるいはヘーゲルも社会有機体論に足を一歩踏み入れているとも言える。たとえばヘーゲル自身はこう言っているではないか。

「諸契機のこの観念性は、さながら有機体における生命のようなものである。生命は有機体のどの点にもあるが、すべての点にただ一つの生命があるだけであり、この生命にたいする抵抗はなく、これから離れたときはどの点も死んでいる。いっさいの個々の身分、権力、職業団体の観念性もこれと同じであって、これらのものがどんなに存続し自存しようとする衝動をもっていようと、そうである。これらのものは有機体における胃のようなもので、胃も自分だけの独立の位置を占めてはいるが、しかしそれと同時に揚棄され犠牲にされ、全体に融合されるのである。」
ヘーゲル『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシック、305-306頁

この表現は時代性のなせるわざだろうか? 私はヘーゲルの内的な論理から必然的に導き出される本質的な帰結だと思っている。ヘーゲルの論理を突き詰めていくと、著者が依拠する無前提のモナド的世界観を超えて社会有機体論へと変質する一点が、きっとある。そしてそれはおそらく「再帰的な一」という概念そのものに埋めこまれた本質的で回避不可能な特異点であり、その「特異点」を自覚しない限り必ず同じ罠にはまる。特異点に吸い込まれて、メビウスの輪のように、表と思っていたものが知らないうちに裏に変わる。畏れなければならない。

まあいろいろ書いたけれども、あくまでも著者に対して難癖をつけているつもりはなく、私個人の研究を深めるための独り言に近い備忘録だ。なにかしらエキサイトしているように見えるとすれば、著者をやっつけようとしているのではなく、私から対自的に分離した私自身の言葉に対して、それを回収して再び「一」に戻ろうとする内的衝動が原因だ。それは私の心の動きを率直に眺めれば感得できる。それは確かに「自由」でもあるが、より本質的には「再帰的な一」であることを求める私の内なる欲望に基づいているのだ。

苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』講談社選書メチエ、2011年

【要約と感想】アリストテレス『ニコマコス倫理学』

【要約】あ、ありのまま、今起こった事を話すぜ。我々は「幸福」について考えていたと思ったら、いつの間にか「徳」についての考察を深めていた。何を言っているのかわからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった。頭がどうにかなりそうだった。哲学とか倫理学かそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。

【感想】タイトルは「倫理学」となっているけれども、アリストテレス本人がそう呼んだわけでもなければ、本文中で「倫理」という言葉も使われないわけだし、より適切には「幸福論」というタイトルをつけたほうがいい内容ではないかと思った。徹頭徹尾、「幸福」とはどういう状態で、「幸福」になるためには何が必要なのかが追究される本である。で、大まかには前半と後半に分かれるように読んだ。前半では「中庸」の大切さが説かれ、後半では「愛」の大切さが説かれることになる。とはいえ、主要な論点以外にも魅力的な描写が多く、細部まで侮れない本である。

まず前半、「中庸」の大切さが説かれる部分は、プラトン『国家』の倫理説=イデア論に対する批判として読むと理解しやすいように思った。プラトンは「善のイデア」を知ることが道徳の本質であると考えた。この場合の「知る」とは、あたかも数学の問題を理論的に解くように、正解が一つあるものを明瞭に認識することを意味する。しかしアリストテレスは本書の冒頭で、「幸福」というものは数学の問題を解くように理解することなどできないと宣言する。「幸福」については、論理的に一つの答えを導き出せるものではなく、我々の「経験」から大まかな答えを引き出して満足するしかない。だからアリストテレスは、まず「論理的に一つの答えを明確に出せる」ものと「論理的には一つの答えを出せるはずがないもの」をしっかり区別したうえで、「幸福」に関する議論が後者に属するものだということを強調する。しかし「論理的には一つの答えを出せるはずがないもの」について、我々はどうして理解することができるのだろうか。「幸福」について考えるためには、まず「学問」の全体構造を明らかにしなければならないのだ。
で、この学問論がなかなか味わい深い。アリストテレスは「帰納」と「演繹」という学問的な手続きについて説明したうえで、帰納推論を突き詰めていった先に絶対に人間の認識能力では説明できない究極的な事態に遭遇することを指摘する。人間の認識能力では絶対に証明不可能な究極を、アリストテレスは「アルケー(基本命題とか根源と翻訳される)」と呼ぶ。(私自身はそれを「特異点」と呼んできた。)アルケーがどうしてアルケーであるかに対する理解は、人間の認識能力を絶対的に超えている。そうであると受け入れるしかない。その認識を、アリストテレスは「学=帰納や演繹の手続きの連続で説明できる範囲:エピステーメー」とは区別して「直知:ヌース」と呼んだ。
そしてこの直知は、究極的な「普遍」と究極的な「個」という二つの限界認識に関わる。この認識に、プラトンのイデア論との明確な違いを確認できる。プラトンの言うイデアは、究極的な「普遍」という一方向への限界認識を示す概念だった。しかしアリストテレスは、究極的な「普遍」に加えて、究極的な「個」の方向にも論理の限界があると主張するのだった。「個」というものの捉え方に、プラトンとは異なるアリストテレスの思想体系の特徴を見ることができる。

とはいえ、この魅力的な学問構造論は、本書の全体構成から言えば脇筋なのだった。本筋では、「論理的には一つの答えを出せるはずがないもの」を判断する能力である「知慮:フローネシス」を活用して、縦横無尽に「中庸」の徳が語られる。ほんものの勇気とは無謀と臆病の中間である、というような。まあ、「そうですよね」としか。というか、「そうですよね」としか言えないところが、「知慮」が本領を発揮するところではある。そういう意味で、アリストテレスの記述と描写は凄いのであった。

本書の後半では、「愛」についての議論が展開される。やはり「愛」に関する議論にも、プラトンに対する対抗意識が伺える。プラトンの愛とは、『饗宴』で見事に描かれているように、「エロス」としての愛である。プラトンの愛では、完全なものへの憧れに導かれて自分自身を成長させる、エロス的主体の自覚が問題となる。一方、アリストテレスの愛とは「友愛=フィリア」である。雑に言えば、エロスは「主体」を強調するのに対し、フィリアは「集団」を強調する。アリストテレスの有名な言葉に「人間はポリス的動物である」というものがあるわけだが、ポリスなど何らかの人間関係を成立させるものが自他の共同としてのフィリアであると言える。
この愛についての具体的な議論が、現代にも通じる論点を提出していて、とても読み応えがある。たとえばアリストテレスは「愛に関しては、愛されることよりも、愛することのほうが本質的だ」(1159a)と言う。現代でも「愛する」ことと「愛される」ことの優劣を議論する人々を見かけるが、既に2400年前に、「愛する」ことのほうが本質であると答えが出ているのだ。
あるいは、アリストテレスは、「ひととなり」に対する愛のほうが、「有用性」や「快楽」ゆえの愛よりも尊いと主張する(1156a-1165b)。翻訳で「ひととなり」となっている言葉は、原文のギリシャ語では「エートス」であり、個人的に言えば「人格」という日本語がいちばんしっくり当てはまるように思う。相手の「属性」ではなく相手の「人格」を愛することがもっとも尊いと、すでに2400年前に語られているのである。
あるいは、アリストテレスは、あらゆる愛の根源に「自己愛」があると言う(1166a-1168b)。ちゃんとした自己愛を持っている人でないと、他人を愛せないというようなことを述べる。現代の精神分析的な知見とも相通じるような見解が、既に2400年前に示されているのである。
高校倫理の教科書だと、「愛」と言えば「エロスとアガペー」の二種類ということにされがちだが、アリストテレスの「愛=フィリア」が無視されるのはあまりよろしいことではないように思う。

研究のための個人的備忘録

本筋とは関係ない記述ではあるが、各所に散見される「子供」に対する記述は、当時の子供観を象徴するものとして参照するに値するかもしれない。アリストテレスに従えば、子供とは徹底的に価値のない存在である。

【個人的備忘録】子供観
「同じくこの理由によって子供も幸福ではない。彼はその年齢のゆえに、いまだかかる性質のはたらきをなしえないからである。いわゆる至福なる子供とは、そうなるだろうという期待のゆえにそんなふうに呼ばれるにすぎない。」1100a
「放埒を意味する「アコラシア」(=無懲戒)という名称はわれわれはこれを子供の「わがまま」の意味にも適用している。両者は、事実、或る類似性を有している。そのいずれがもとになってそう呼ばれるようになったかは差しあたりどうでもいいことであるが、後にきたるものが、前のものに由来するものなることは明らかであろう。この転用は悪くないようである。なぜかというに、もろもろのみにくきものごとを欲求するところの、しかもその成長の速やかであるところのものは懲戒的な「しつけ」を必要とするが、その最も著しいのは欲情と子供たちなのだからである。事実、欲情のままに子供たちは生きるものなのであって、快というものへの欲求の最もはなはだしいのも彼らなのである。だからもし、彼らにききわけが生ぜず、支配的なるものの下に立つにいたらないならば、その赴くところ測るべからざるものがあるであろう。」1119b
「下等動物や子供の追求するのは、このような無条件的な意味では善きものとはいえないような快楽でしかないのであって、知慮あるひとの求める「無苦痛」なるものも、このような性質の快楽の欠如に基づく苦痛からの自由を意味している。このような性質の快楽というのは、欲望を伴い欠如の苦痛を伴うところの快楽、つまり肉体的な快楽ないしはその過程であり、それはまた、放埒なひとが放埒なひとである所以のものたるごとき快楽にほかならない。」1153a
「また、何びとといえども、子供たちが快楽を感ずるごときことがらについての快楽を、たとえどれほど満喫できるからといって、一生涯子供の知性の域を脱しないで生きていくことを選びはしないだろうし、また、たとえそれゆえに苦痛を受けるおそれが全然ないにしても、何らきわめて恥ずべき行為をなして悦ぶことを選ぶひとはないであろう。」1174a

また、「教育可能性」に対する議論も興味深い。「遺伝」か「環境」かどちらが重要かという、教育学の伝統的な議論の元になっているような議論が、この時点ですでになされているのである。アリストテレスは人間の教育可能性を重視しており、「習慣づけ」の重要性を繰り返し主張することになる。

【個人的備忘録】教育可能性
「かくして卓越性(徳)には二通りが区別され、「知性的卓越性」「知性的徳」と、「倫理的卓越性」「倫理的徳」とがすなわちそれであるが、知性的卓越性はその発生をも成長をも大部分教示に負うものであり、まさしくこのゆえに経験と歳月とを要するのである。これに対して、倫理的卓越性は習慣づけに基づいて生ずる。「習慣」「習慣づけ」という言葉から少しく転化した倫理的という名称を得ている所以である。」1103a
「このことからして、もろもろの倫理的な卓越性ないしは徳というものは、決して本性的におのずからわれわれのうちに生じてくるものでないことは明らかであろう。」1103a
「これを一言に要約すれば、もろもろの「状態」は、それに類似的な「活動」から生ずる。われわれの展開すべき活動が一定の性質の活動であることの必要な所以である。これらの「活動」の性質いかんによって、われわれの「状態」はこれに応じたものとなるのだからである。つとに年少のときから或る仕方に習慣づけられるか、あるいは他の仕方に習慣づけられるかということの差異は、僅少ではなくして絶大であり、むしろそれがすべてである。」1103b
「善きひとびとになるのは、一部のひとびとの考えによれば本性に、他の一部のひとびとによれば習慣づけに、また他の一部の人々によれば教えによる。ところで、もし本性に属するのだとすれば、明らかにこれはわれわれのいかんともしがたいところなのであって、何らか神的な原因によって真の意味における「好運な」ひとびとに与えられたものなのだつするほかはない――。また、理説とか教えとかも、おそらくは必ずしもあらゆるひとびとにおいて力があるわけではなく、それが有効であるためには、「うるわしき仕方において悦びや惜しみを感ずる」より、あらかじめ聴き手の魂がもろもろも習慣づけによって工作されてあることを要するのであって、これはいわば、種子を育むべき土壌に似ている。というのは、情念のままに生きるひとびとは、忠告的な言説に耳をかさないであろうし、耳をかしてもこれを理解しないであろう。こうした状態にあるひとを、いかにして説得翻意せしめることができよう。総じて、情念は理説に譲らず、その譲るのは強要に対してのみであると考えられるのである。してみれば、そこには、徳の完成に固有な倫理的性状――すなわち、うるわしきを愛し醜悪なるを厭うという――が、何らかの仕方で、すでに見出されることが必要となる。
しかるに、若年の頃から徳へのただしい誘導を受けるということは、やはりそういった趣旨の法律の下に育成されているのでないかぎり行われがたい。というのは、節制的に我慢強く生きていくということは、世人にとって、殊に若年者にとっては快適ではない。だからして、法律によって、彼らの育成や、もろもろも営みが規制されてあることを要する。いったん慣れてしまえばこうしたことも苦痛ではなくなるだろうからである。だが、おもうに、若年の時代にただしい育成や心遣いを受けるだけでは充分でない。やはり大人になってからもこのような営みを続け、それを習慣としてゆくことを要するのであって、そうなると、これに関してやはり法律というものが必要であり、総じて、だから、全生涯にわたってわれわれは法律を必要とするであろう。けだし世人は、理説よりも必須なるに従い、うるわしさによりも処罰に従うものなのだからである。」1179b-1180a

また、論理的な手続きの限界に関わる議論は、2400年前に既に論理体系の「不完全性」=定理の任意性が認識されていたものとして、瞠目に値するように思う。

【個人的備忘録】特異点
「「学」は普遍的なるもの・必然的なるものを対象としこれについて行なわれる理解なのであるが、もろもろの論証的な帰結は、したがってまたあらゆる「学」は、個々の基本命題の上に立っている。だとすれば、学的認識の基本命題それ自身にかかわるところのものは「学」ではなく、いわんや「技術」や「知慮」ではありえない。というのは、「学」の領域は論証的な性質のものであるが、「技術」や「知慮」は「それ以外の仕方においてあることの可能なことがら」にかかわっているのだからである。さりとてまた、「智慧」はもっぱら基本命題にかかわるというわけでもない。けだし、智者の智者たる所以としては、若干のことがらに関しては論証を与えうるということがやはり存するのだからである。
かくて、もし「それ以外の仕方においてあることのできないごときことがら」ないしは「それのできることがら」に関してわれわれをして真を認識せしめ決して誤った認識に導くことのないものとして「学」と「知慮」と「智慧」と「直知」があるとするならば、だがもし、そのうちの三者はいずれもこれに該当しないとするならば、あますところ、基本命題にかかわるところのものとしては、直知以外にはないのである。」1140b-1141a

アリストテレス/高田三郎訳『ニコマコス倫理学』上、岩波書店、1971年
アリストテレス/高田三郎訳『ニコマコス倫理学』下、岩波書店、1973年

【要約と感想】稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』

【要約】「人格」という概念を理解するためには、キリスト教神学が培ってきた伝統をしっかりと踏まえる必要があります。「人格」を単に「個人」と言いかえることができる形で捉えるのでは、薄っぺらい理解しかできません。「人格」の本質とは、量的な「一」ではなく、同一のものが自己に立ち帰るような仕方で存在する自己還帰的な「一」であることです。それがモノとは異なる「精神」の在り方であり、この在り方こそが本来の「存在」というものです。しかしそのような「人格」が本質的に他者との「交わり」において存在するという矛盾対立的な関係(本質的に「一」であるにも関わらず不可避的に他者を必要とする)を正面から理解しなければ、本当に「人格」を理解したとは言えません。「人格」が本質的に「存在」でもあり同時に必然的に「交わり」でもあるという矛盾は、トマス・アクィナスのように聖書の教えからの霊感を得て、初めて理論的に解決する道が開けます。

【感想】「人格」研究の最右翼と言える研究書だ。右翼と言っても、もちろん政治的スタンスを示しているわけではない。「人格」を語る際のスタンスが主に3つあるとして。左の方から数え上げていくと、まず物質的な規定に重きを置く立場(神経生理学や進化心理学など自然科学)があり、次に社会的フィクションとして理解する立場(社会学や法学など社会科学)があり、そして精神的価値に重点を置く立場(倫理学や教育哲学など人文科学)となる。本書はもちろん精神的な価値に重点を置く人文科学的な研究をしているわけだけど、カントの人格倫理学をさらに精神的に深い地点から批判するなど、人文科学の中でも飛び抜けて精神性を重んじているというか、霊性を核とする、神学的な立場である。

そんなわけで、人文科学が言う「人格」とはどういうものかを理解する際には、極めて有益な本だと思う。人文科学が「人格」をどう扱ってきたかという哲学史も簡潔にレビューされていて、何が問題の核心なのかが浮き彫りにされている。問題の本質をしっかり掴んでいる人だからこそできるような、論理的に緻密でありながらも簡潔に整理された分かりやすい表現になっている。勉強になる。

そして「人格とは何か」という問いに対して筆者が最終的に出した答えとは、「存在・即・交わり」というものだった。これは極めて含蓄が深い回答ではある。ここで示された「存在」と「交わり」という概念は、表面だけ見れば相互に排他的な矛盾対立である。たとえばヘーゲルが『精神現象学』等において総合しようとしたのは、この「存在=一つとして自立するもの」と「交わり=必然的に他者を前提とするもの」の矛盾対立であったと言えるかもしれない。あるいは古代からプラトンやアリストテレスが問い続けてきた哲学問題も、この矛盾の解消に帰結するとさえ言えるかもしれない。この根本的な矛盾対立を一気に呑み込んでしまおうというのが、トマス・アクイナスの議論に即しながら筆者が示した「存在・即・交わり」という概念である。筆者の論理展開が成功しているかどうかは各自が本文に当たって確認してもらうしかないわけだが、私自身はその豪腕ぶりに唸らされた。なるほど、と。

とはいえ、その論理展開が腑に落ちるかどうかは最終的には「信仰」の問題となってしまう。私自身は、恐縮ではあるが、筆者と信仰を同じくしないので、筆者の結論が腑に落ちたわけではない。頭で理屈は分かるが、しかし腑には落ちないということだ。これは「信仰」の問題である以上、仕方がないところだろう。
「信仰」を持たない私から見れば、「そういうふうに特異点を設定するのであれば、論理全体をそういうふうに構成するのはもっとも合理的ですね。すごい。」としか言いようのないところである。そして「そういうふうに特異点を設定する」ことが正しいかどうかは、論理的には説明されていないし、不可能である。論理によっては絶対に超えられない谷は、「信仰」によって超えるしかない。それが「言語ゲーム」というやつの宿命だ。そして私は、「信仰」を同じくしない以上、その谷を超えることはできない。「超えたとしたら、こう言えますね」とは言えるけれども。

たとえば、筆者が辿り着いた結論について、筆者はキリスト教の信仰でしか不可能だと主張したいかもしれないが、私から見ると仏教の論理でも説明可能だろうと思ってしまう。般若心経が言う「色即是空空即是色」という言葉は、まさに筆者が辿り着いた「存在・即・交わり」という内容の深奥を極めて鮮烈に突いているのではないか。
私は別に仏教の方がキリスト教より優れていると言いたいわけではなく、「そういうふうに特異点を設定するのであれば、論理全体をそういうふうに構成するのはもっとも合理的ですね」という感想が等しくキリスト教にも仏教にも当てはまるように見えるのであって、結局は「特異点」の設定の仕方だけが個性的なのかもしれないと思うわけだ。キリスト教や仏教に頼らなくても、「特異点」さえ上手に設定できれば、「存在・即・交わり」という深奥は如何様にも表現できるのではないか。しかし「存在・即・交わり」を合理的に解釈するためには何らかの「特異点」の設定が絶対に必要であるということはおそらく間違いない。ただし、おそらくどの「特異点」も相互に優劣はなく、キリスト教でも仏教でもどちらの特異点設定でも合理的解釈は可能であるし、もちろんまったく別の「特異点」でも同じように「存在・即・交わり」の合理的解釈は可能になるように思う。

具体的に思い起こすのは、「光」というものの物理的性質だ。高校物理で習うわけだが、光は「粒子」であると同時に「波」の性質を持つ。光は物理的に「粒子」という個別的な「存在」の様式を示すと同時に、互いに干渉する「波」であるという「交わり」としてに在り方を示す。つまり「光」とは物理的に「存在・即・交わり」という在り方を示しているのだ。そして量子力学で習ったところでは、「光」だけではなく、あらゆる「原子」が「粒子・即・波」という在り方を示す。どうして光や原子が「粒子・即・波」という在り方を示すのか、その根拠は、少なくとも私は物理的には理解できない。私にできるのは、現実として確かに光や原子が「粒子・即・波」という在り方を示すことを「信仰」するしかないのだ。そして光や粒子が「粒子・即・波」という在り方を示すことさえ無条件に受け入れてしまえば、そこから演繹される物理的な体系は問題なく理解することができる。「粒子・即・波」という不可解で非合理的な在り方さえ受け入れてしまえば、全体的な体系は合理的に解釈することができるのだ。しかし全体的な体系を合理的に解釈できるとしても、どうして「粒子・即・波」なのかは謎のまま残る。
物理の話に限らない。全体的な体系を内側から合理的に解釈しようと思うときには、どうしてもどこかに「特異点」が必要となる。「思考の支え」が存在しないとき、人は全体的な体系を合理的に解釈することができない。その「思考の支え」を外部に求めない場合は、体系内に「思考の支え」としての「特異点」を設定する必要がある。筆者は、その「特異点」の設定を聖書に求めた。それ自体はまったく問題ない。しかし、私としては、「特異点」の有り様は他にもあり得るようにしか見えない。その有り様の選択肢は、それこそ無限にあり得る。とはいえ、「うまい特異点」と「ダメな特異点」の違いは、確かにある。たとえば「ユダヤ人が悪い」とか「イワシの頭」というのは極めて質の悪い特異点だろう。それから「特異点」が多すぎる理論も、ダメなやつだ。「特異点」がうまいかダメかは、「特異点」自体の単純性と、そこから演繹される論理体系全体の広がりと深さの射程距離から判断することができる。聖書に「特異点」を設定したトマス・アクイナスや筆者の立論は、相当に「うまい特異点」に立っているとは言えるような気はする。うっかりすると谷を飛び越えてしまうほど、うますぎると言えるかもしれない。この論理構成の見事さについては、キリスト教神学が培ってきた伝統の奥深さに感服つかまつるというか、頭を垂れて教えを請うというか、恐れおののくしかないところだ。すごい。だがしかし。仏教の示す論理も負けず劣らずそうとう凄いように思えるので、そう簡単に飛び越すべき谷は決められない。渡ってしまったら、簡単には帰ってこられないものだろうし。(渡ったことがないから分からないけれど)。

そして、上記の見解が「信仰を持たない者の言いぐさ」であることを私は自覚しなければならないわけだが、「信仰を持たない者の言いぐさ」というものがこの文章全体を貫く「特異点」なのだった。人は何らかの「特異点」なしでモノを考えることはできない。(そんなわけで、私個人は最終的な「特異点」の審級を「眼鏡」に置いております。ご了承いただけると幸いです)

で、まとめ。
私個人の今現在の理解としては、「人格」という概念とは、「それが確実に存在するという根拠がないにもかかわらず、それが存在すると仮定することによって世の中全体を合理的に無矛盾な体系として構想することが初めて可能となるような特異点のうちでも、その単純性および射程範囲の広さと深さにおいて極めて優秀なものであり、現時点においてはこれに取って代われる概念は他にないような文化的到達点」と理解するのが、いちばんしっくり来る。筆者の言いたいこととは究極に根本的なところでズレちゃってて、申し訳ないところではあります。

稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』創文社、2009年

【要約と感想】長尾真『「わかる」とは何か』

【要約】「理解する」ことと「分かる」ことは、本質的に異なるものです。物事を「理解する」ためには、科学的な認識の手続きをしっかり踏んでいくことが大切です。が、その認識の手続きには様々な落とし穴があることが分かっています。物事を「わかる」ためには、身体感覚や生活の背景となる伝統的文化を大切にしていく必要があります。

【感想】卒業論文を書く前に、学生に読んでもらいたい類の本。科学的認識(人文社会科学を含む)の初歩が丁寧に説明されている。さらに丁寧に、人にわかりやすく説明するためのコミュニケーションのコツも解説されている。レポートや論文を書く上でのハウツー本として役に立つ、大学一年生に勧めるにはなかなか良い本と言える。

ただ、本書は単に学生向けのハウツー本に終わるものではない。科学技術の持つ意味が大きく変革しつつある時代という認識の下、科学技術の「適用範囲」を見定めるという課題に取り組んだ本でもある。19世紀的な素朴な科学技術観のままでは、人類の未来は危うい。科学技術の大規模化と専門タコツボ化という特徴を見定めた上で、素朴な19世紀的「理解」を超えて、身体感覚で「分かる」ための説明に転換していくべきことを説く。

本書は、繰り返し「原子力発電所」について言及する。原子力のように大規模かつ複雑に産業化した分野では、専門による専門的な「理解」ではなく、住民が肌感覚で「わかる」ような説明が必要になると言う。その願いが2011年までに(あるいは現在も)実現しなかったのは、とても残念なことだ。今も原子力に関わるテーマでは、一部の専門家気取りが「わかる」ことを置き去りにしたまま、単に専門的な「理解」を押しつけようとする傾向があるが、まったく時代遅れの19世紀的な態度としか言いようがない。

16年前の本であり、個々の事例については時代遅れになっている(たとえばDNAなど生化学や人工知能に関する分野に顕著)が、科学的な認識というものの本質については学べることが多い本だと思う。特に大学一年生にはいいのではないか。

個人的には、「原理」と「法則」の違いについての話が霊感を与えてくれた。「原理」と「法則」を厳密に説明し分ける視点から、文部科学省の言う「資質・能力」という言葉の気持ち悪さや胡散臭さが浮き彫りになる。
本書によれば、「「原理」とは、学問の体系を記述するときに、最初におかれるもので、経験的には正しいと思われるが、それが正しいと厳密には証明のできない仮定」(97頁)だそうだ。なるほど、「教育の原理」には「人格」というものを措くわけだが、それが正しいと厳密に証明することは不可能なのであった。「それが正しいと厳密に証明することは不可能」なことを、個人的には「特異点」と呼んできたわけだが。「教育原理」は、「人格」が「特異点」であることを踏まえて、あるいは「人格」でなくとも何らかの「特異点」というものが絶対に必要だということを自覚して、構成されなければならない。なにもかもが透明に説明可能だという態度は、「教育法則」にはなっても「教育原理」にはならない。昨今の学習指導要領とそれにまつわる理屈を見て鼻につくのは、まるで「特異点」なしでも教育が成り立つかのような、「教育法則」の定立でも目指しているような姿勢だ。典型的には、「人格」という概念すら「資質・能力」の範囲内で説明してしまおうという姿勢に顕れる。その姿勢には、教育には「厳密には証明のできない仮定」がどうしても必要になるという切実な理解も誠実な謙虚さも感じられない。「資質・能力」は、産業に貢献する人材育成という価値観・世界観を「それが正しいと厳密には証明のできない仮定」あるいは「特異点」として不問に付していることを、はっきりと自覚したほうがいい。

でもまあ、本書のオチで、西洋とは違う東洋の持ち味を尊重しようという話が出てきた所は、「おまえもか」という感じではあった。いわゆる「近代の超克」思想は、いつまでも日本人を捉えて放さないなあ。

長尾真『「わかる」とは何か』岩波新書、2001年

【要約と感想】岩田靖夫『増補ソクラテス』

【要約】「反駁的対話」やソクラテスにおける「無知」の論理構造を中心に、ソクラテスの思想を分析。

【感想】「無知の知」に関する本文の記述が、「これで本当に大丈夫なのか?」と不安にさせるものだったが、増補版の追加で大幅修正されていた。私と同じように不安に思った人が多かったらしく、シンポジウムでさんざん突っ込みが入ったようだ。

私が思うに、「対話術」に関する極めて重要な事実は、筆者も述べるように、プラトンがこの原理について本質的なことを「一言の説明もしていない」(296頁)ことだ。『国家』で触れられた太陽の比喩とか線分の比喩でディアレクティケーの方法が述べられているとする解説書もあるが、あそこには本質的なことは書いてないと思う。つまり、いかにして本物の真実へたどり着くかという保証は、あの説明では得られない。この「書かれていない」ということ、「否定」という事実そのものが極めて重要なのだと思う。ここに「無知の知」の深淵が現れている。

対話術がどのように真理に到達するかについて、プラトンは何も述べない。第七書簡によれば、そもそもそれは語れないし伝えられないものだ。このような真理にロゴスによっては到達することは不可能で、神話によってある程度仄めかすことは可能としても、どこかで深淵を跳躍する必要がある。

これはおそらく、世界を論理的に語るときに、どうしても深淵への跳躍を要請してくる「特異点」が必要となることを示している。「特異点」の抹消が原理的に不可能なことを自覚することが、いわゆる「無知の知」と言える。その「特異点」をどこに設定するかで世界の記述の仕方が変わる。「人格」を特異点にするか=カント、「個物」を特異点にするか=唯物論、「世界の見え方」を特異点にするか=フッサール、「世界そのものの外側」を特異点にするか=ヴィトゲンシュタイン、「言語」を特異点とするか=論理実証主義。むしろ何でも特異点になり得る。絶対無だろうが、メガネだろうが。しかし特異点を抹消することは、最後まで不可能なのだ。それがおそらく神を生む。

とはいえ、どの特異点も平等というものではない。出来の良い特異点は、射程範囲が広い(そしてその分、裂け目も深い)。「善のイデア」は、そうとう出来が良い。メガネも負けていられない。

岩田靖夫『増補 ソクラテス』ちくま学芸文庫、2014年<1995年

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」