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【要約と感想】田村学編著『カリキュラム・マネジメント入門』

【要約】小学校でのカリキュラム・マネジメントについての入門書。中でも「カリキュラム・デザイン」の方法について、具体的な実践例を土台として説明しているところが特徴。生活科と総合的な学習の時間を中心として、教科横断的な資質・能力をどのように育むかが、7つの観点から具体的にまとめられており、実践の参考にしやすそう。

【感想】「生活科」や「総合的な学習の時間」をどう構想するかについては、教師の力量が真剣に問われる。本書の実践報告を読む限りでは、独創的な実践を粘り強く実現していく教師の姿に、感動を覚える。素晴らしい。

とはいえ、理念的には、こういった実践の雛形は既にデューイなり梅根悟なりが提唱・実践したコア・カリキュラムにあるし、川口プランなど地域教育計画や、あるいは生活綴方運動だって同じように感動的なカリキュラム・マネジメントの実践だったわけで。文科省が「カリキュラム・マネジメント」を提唱するのはいいとしても、コア・カリキュラムや地域教育計画の伝統をまるで無視しているのには、強い違和感を覚える。まあ、そのあたりに言及すると「学習指導要領」の法的拘束力の問題を呼び覚ましてしまうからだろうけど。「学習指導要領」の法的拘束力を保ったままで、各学校が本当に独創的な「カリキュラム・マネジメント」を行うことは可能ですかね?

田村学編著『カリキュラム・マネジメント入門―「深い学び」の授業デザイン。学びをつなぐ7つのミッション。』東洋館出版社、2017年

【要約と感想】今津孝次郎『教師が育つ条件』

【要約】教師が育つ条件は、「出会い」です。子どもや保護者、上司や同僚などとの「出会い」を通じて、世界の見え方や自分の在り方が変わり、教師として一歩前に踏み出すことができます。教師としての在り方は大学での教職課程で全て学べるわけではないので、教職生活全体を通じて成長を見守っていく必要があります。

【感想】本書は、大学の教職課程では主に「探求力」を身につけなければならないというが、それは講義の中身そのものからではなく、教師の「学問への姿勢」への共感からもたらされると言う。まあ、そんなことはだいたい分かっていて、確かに自分自身も学生に対して講義内容そのものを受け渡し可能なモノとして授けるというよりは、意識的に「姿勢」を見せに行っているつもりではあるのだった。が、まあ、どんなにこっちが頑張ってるつもりでも、寝るやつは寝る。そこに「出会い」は発生しない。いかに「出会い」をもたらすかというヒントが書いてあるかと多少は期待していたけれども、そこはやはり無い物ねだりではあった。当たり前ではあるが、自分で探求するしかない。

あと、教員免許更新講習に関する話は、当事者として興味深く読む。確かに教育公務員特例法の「研修」に関わる条文との不整合は、お粗末極まりないと思う。どうにかならんもんかと思いつつ、法律に則って、来年も教員免許更新講習は張り切って行うのだった。身銭を切って教員免許更新講習に参加してくれる先生方のためにも、まずは自分に与えられた持ち場を精一杯こなすしかない。

今津孝次郎『教師が育つ条件』岩波新書、2012年

【要約と感想】新藤宗幸『教育委員会-何が問題か』

【要約】教育行政への首長権限の強化は、たしかにある面では問題ではあるけれども、官僚による教育行政支配の酷さと比べたらかわいいものです。教育委員会の根本的な問題は、文部科学省→都道府県教育委員会(事務局)→市町村教育委員会(事務局)→学校長というタテの行政系列を貫く権力構造にあります。文部官僚のナワバリとして機能しているだけの教育委員会は、さっさと解体したほうがよろしい。

【感想】実のところ2015年に地教行法が改正されて、教育委員会制度はかなり根本から変化している。だから教育委員会に関する最新事情を知りたい人には、2013年発行の本書はまるで役に立たない。逆にそういう事情を踏まえていれば、2015年の教育委員会改革時点で何が問題とされていたかが分かり、そして改革の結果をチェックして是非を判断する視点を得られるところに、本書の現時点での存在価値がある。

本書が強調しているのは、教育に対する官僚支配の根強さである。官僚は、民意とは無関係のところから国家権力に絶大な影響を与えるところに問題がある。本書も、文科省が教育委員会の事務局を通じて権力を貫徹する様を細かく描いている。そして官僚機構に対抗する軸として、本書では民意で選ばれた首長の権限強化を打ち出している。教育委員会を解体して、首長権限の下に教育行政を一本化することで、官僚支配を脱する道を示している。もちろん首長のやりたい放題に歯止めをかけ、教育に民意が反映する仕組みを伴う必要があると釘を刺しているわけではあるが。
教育の世界での文部官僚と政治家の間の主導権争いは、教育委員会制度の在り方を軸としながら、様々な局面で何十年も続いている。ここ近年は、露骨に表面化している。加計学園問題のような下世話な例を避けるなら、たとえば第一次安倍政権と第二次安倍政権下で、それぞれ「道徳の教科化」に関する議論がどうなっているか、比べてみるとなかなかおもしろいかもしれない。中央教育審議会と教育再生会議の温度差に、官僚と政治の間の意識の裂け目を見るのは容易だ。

さて、官僚支配の酷さを訴える本書の主張に納得して、仮に教育委員会を解体して首長に権限を一本化することで官僚支配を脱するとして。しかしそれが教育を良くするかどうかについては、本書が描くほど自明ではないようにも思う。官僚支配を手放しで肯定するわけでもないが、同時に首長権限の強化が無条件に教育を良くするとも思えない。そこには「教育の専門性とは何か?」をめぐる問題が関わってきて、私自身の立ち位置や利権も絡んでくるので、極めて厄介な問題ではある。

何を言うにしても、ポジション・トークになることを覚悟した上で。2015年の教育委員会改革で「総合教育会議」なるものが誕生した。どんな働きが期待されているのか謎の組織ではあったが、ここ2年の間、各自治体に設置された総合教育会議で様々な議論が行われ、具体的な形が見えてきたようにも思う。それを表面だけ見れば、官僚支配をある程度脱して地域独自の教育政策を打ち出せるようになっている感じは確かにある。総合教育会議がどこへ向かおうとしているのか、しっかり現実の動きを観察しておく必要がある。
一方で新たな形(たとえば学校評価とか教員養成などをテコとして)での官僚支配も健在のように思う。実際のところ、教育の世界、官僚支配のせいでそこそこ息苦しいんじゃないですかね。こんなに事務書類ばっかり大量に書いていて、本当に教育は良くなるんですかね? 本書は、官僚支配に対する嫌悪感を助長する上では、間違いなく役に立つのだった。

2015年の教育委員会改革に関して、文部科学省自身がその意義を説明するパンフレットはこちら

新藤宗幸『教育委員会-何が問題か』岩波新書、2013年

【要約と感想】広岡義之『教育の本質とは何か』

【要約】教育とは、代替不可能な人格同士が出会い、お互いに自分自身の生き方や在り方を変容させて自己実現に向かう、一回限りの繰り返し不可能な出来事です。

【感想】まあ、「社会に開かれた教育課程」とか「カリキュラム・マネジメント」といった文書の束を浴び続ける日常の中、たまにこういう本に触れると、ささくれ立っていた心が本当に和む。本書は、ボルノー、ブーバー、フランクル、林竹二、森有正といった面々の思想を解説しながら、教育とは単なる知識の詰め込みに関わる技術ではなく、人格と直接関わり合う実存的で臨床的な営みであることを説いていく。OECDのキー・コンピテンシーや今時学習指導要領の「資質・能力」など、普遍的な能力を育成するのが教育の役割だと断定して憚らない主張が跋扈する世界的な趨勢の中、こういう代替不可能な一回性の「出来事」としての教育を前面に打ち出す主張を見ると、とてもホッとする。とはいえ、教科書として使用すると、amazonレビューに代表的に見られる酷評を喰らうことになるらしい。彼らの間には一回限りの出会いは発生しなかったようだ。世知辛い世の中ではあるが、それもまた教育の姿だと本書にも書いてあるのだった。

広岡義之『教育の本質とは何か-先人に学ぶ「教えと学び」』ミネルヴァ書房、2014年

【要約と感想】稲富栄次郎著作集9『人間形成と道徳』

【要約】道徳教育には大きく分けて二つのルーツがあります。全人教育に由来する道徳教育は、特に道徳だけを教える教科を設けることなく、すべての教科を通じて人格の完成を目指すことにより実現します。が、社会的な倫理に由来する道徳も教えるべきであり、こちらを扱う場合には特に道徳だけを教える時間を設ける必要があります。

【感想】1958年の特設道徳開設に直接関わった教育学者の道徳教育論であり、その時の回顧録も収めてあって、なかなか興味深く読む。現在の学習指導要領にも記載されている道徳的行為の三要素(道徳的判断・道徳的心情・実践的意欲)にも原理的な言及があって、このあたりが出所なのかな?と興味を持つ。

理論的には古代ギリシャのプラトンとアリストテレスの教育論に依拠していて、その部分ではナルホドと思わせる説明が多い。教育課程編成において道徳をどのように位置づけるかという問題、特に全教科に渡って教えるべきであって特設時間は必要ないか、はたまた特設時間が必要かという議論に関しては、その対立に実践的に関わった学者の論理だけあって、なかなか周到に構成されているように思う。この部分は現在でも(あるいは現在だからこそ)有効な議論のような気はする。

また、道徳と宗教の関係についてもかなりの分量を割いて論じているが、こちらは古代ギリシャの道徳論を語る歯切れの良さとは打って変わって、奥歯に物が挟まったような微妙な発言が続く。教育勅語の位置づけも関わってきて、立場は揺れている。この微妙な論点は、もちろん現在に至るまで精算されていない。火傷必至の危険物に手を突っ込んでいる感じが文面に溢れている。道徳を語るのは、たいへんだ。ヒトゴトではないのだが。

稲富栄次郎著作集(9)『人間形成と道徳』学苑社、1979年