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【要約と感想】大野晋、上野健爾『学力があぶない』

【要約】学習指導要領が法的拘束力を持って現場の実践を制限したり、現場の教師が自分の責任で教科書を選定できないようにしている限り、教育はうまくいきません。中央集権的な官僚支配が続く限り、子供たちは学ぶ意欲を失っていくだけです。教育基本法の理念に戻って「個」を重んじるところから、教育は立ち直ります。

【感想】学力論争で賑やかな時期に出版されて、文部科学省の方針を批判している本なので、いわゆる「ゆとり教育」を攻撃しているかのように勘違いしている人々が世間にも多いようだけど、実はちゃんと読むと「ゆとり教育」の理念そのものと対立しているわけではない。個を尊重しようとか、生徒一人ひとりのニーズを把握して能力を引き出そうとか、時間をかけて学びをサポートしようとか、知識を実生活で活かせるように実感させて学ぶ意欲を高めようとか、学ぶ意義と喜びを感じてもらおうとか、学び続ける教師像とか、受験に特化した偏差値競争の弊害とか、中高一貫のメリットとか、実は主張している教育論自体は文部科学省が言っていることとよく似ている。違っているのは、少人数学級を実現しようとか、学習指導要領の位置づけとか、教員養成の在り方とか、文部科学省の「利権」に関わる領域の話だ。筆者らの批判の本質は、文部科学省の硬直した融通の利かない的外れで官僚的な現場支配という、教育行政の在り方にある。特に問題にしているのは、学習指導要領の法的拘束性と教科書の広域採択制によって現場の教師が縛り付けられていることだ。

マスコミが面白おかしく煽っているような類の「学力低下批判」をしているわけではないのだが、そのあたりは世間にちゃんと伝わったかどうか。タイトルの付け方を間違えた恐れは強い。

大野晋、上野健爾『学力があぶない』岩波新書、2001年

【要約と感想】長尾真『「わかる」とは何か』

【要約】「理解する」ことと「分かる」ことは、本質的に異なるものです。物事を「理解する」ためには、科学的な認識の手続きをしっかり踏んでいくことが大切です。が、その認識の手続きには様々な落とし穴があることが分かっています。物事を「わかる」ためには、身体感覚や生活の背景となる伝統的文化を大切にしていく必要があります。

【感想】卒業論文を書く前に、学生に読んでもらいたい類の本。科学的認識(人文社会科学を含む)の初歩が丁寧に説明されている。さらに丁寧に、人にわかりやすく説明するためのコミュニケーションのコツも解説されている。レポートや論文を書く上でのハウツー本として役に立つ、大学一年生に勧めるにはなかなか良い本と言える。

ただ、本書は単に学生向けのハウツー本に終わるものではない。科学技術の持つ意味が大きく変革しつつある時代という認識の下、科学技術の「適用範囲」を見定めるという課題に取り組んだ本でもある。19世紀的な素朴な科学技術観のままでは、人類の未来は危うい。科学技術の大規模化と専門タコツボ化という特徴を見定めた上で、素朴な19世紀的「理解」を超えて、身体感覚で「分かる」ための説明に転換していくべきことを説く。

本書は、繰り返し「原子力発電所」について言及する。原子力のように大規模かつ複雑に産業化した分野では、専門による専門的な「理解」ではなく、住民が肌感覚で「わかる」ような説明が必要になると言う。その願いが2011年までに(あるいは現在も)実現しなかったのは、とても残念なことだ。今も原子力に関わるテーマでは、一部の専門家気取りが「わかる」ことを置き去りにしたまま、単に専門的な「理解」を押しつけようとする傾向があるが、まったく時代遅れの19世紀的な態度としか言いようがない。

16年前の本であり、個々の事例については時代遅れになっている(たとえばDNAなど生化学や人工知能に関する分野に顕著)が、科学的な認識というものの本質については学べることが多い本だと思う。特に大学一年生にはいいのではないか。

個人的には、「原理」と「法則」の違いについての話が霊感を与えてくれた。「原理」と「法則」を厳密に説明し分ける視点から、文部科学省の言う「資質・能力」という言葉の気持ち悪さや胡散臭さが浮き彫りになる。
本書によれば、「「原理」とは、学問の体系を記述するときに、最初におかれるもので、経験的には正しいと思われるが、それが正しいと厳密には証明のできない仮定」(97頁)だそうだ。なるほど、「教育の原理」には「人格」というものを措くわけだが、それが正しいと厳密に証明することは不可能なのであった。「それが正しいと厳密に証明することは不可能」なことを、個人的には「特異点」と呼んできたわけだが。「教育原理」は、「人格」が「特異点」であることを踏まえて、あるいは「人格」でなくとも何らかの「特異点」というものが絶対に必要だということを自覚して、構成されなければならない。なにもかもが透明に説明可能だという態度は、「教育法則」にはなっても「教育原理」にはならない。昨今の学習指導要領とそれにまつわる理屈を見て鼻につくのは、まるで「特異点」なしでも教育が成り立つかのような、「教育法則」の定立でも目指しているような姿勢だ。典型的には、「人格」という概念すら「資質・能力」の範囲内で説明してしまおうという姿勢に顕れる。その姿勢には、教育には「厳密には証明のできない仮定」がどうしても必要になるという切実な理解も誠実な謙虚さも感じられない。「資質・能力」は、産業に貢献する人材育成という価値観・世界観を「それが正しいと厳密には証明のできない仮定」あるいは「特異点」として不問に付していることを、はっきりと自覚したほうがいい。

でもまあ、本書のオチで、西洋とは違う東洋の持ち味を尊重しようという話が出てきた所は、「おまえもか」という感じではあった。いわゆる「近代の超克」思想は、いつまでも日本人を捉えて放さないなあ。

長尾真『「わかる」とは何か』岩波新書、2001年

【要約と感想】池上彰編『先生!』

【要約】いろいろに個性的な先生がいて、いろいろに個性的な子供たちがいて、いろいろな関わり方があって、いろいろな人生があります。様々な立場の人々が記した、「先生」にまつわるエッセイ集。

【感想】子供の個性を尊重せよ!と文部科学省は言うけれど。しかし一方で、先生の個性はあまり尊重されていないよなあと。先生が個性的じゃない時に子供が個性的になるわけがないと思うのだが。
本書を読んでも「いろいろな先生がいていいのだな」という当たり前のことを再確認するだけではある。が、その当たり前が失われようとしている教職コア・カリキュラム万歳(ついさっき、その書類を書き終えた)の御時世では、貴重な本である。

池上彰編『先生!』岩波新書、2013年

【要約と感想】国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』

【要約】教育は、コンテンツ・ベース(知識・内容)からコンピテンシー・ベース(資質・能力)重視に変わらなければなりません。そして、具体的な実践では、知識か能力かどちらか一方が重要と決め込む必要はなく、上質な知識を身につけながら資質・能力を伸ばすというふうに、両方を調和的・総合的に育成することが成功の秘訣です。

【感想】引用・参照文献も多く、論理構成もスッキリわかりやすく、具体的な実践に対する配慮もあって、この種の本としては最良の部類に入る本だと思った。コンピテンシー・ベースで教育を改革しようとする立場の人々が言いたいことが、とてもよく分かる。現場の先生にとっても、大いに参考になる本だろう。そしてそのぶん、この種の考え方の死角や落とし穴というのも、わかりやすく見えてくる気がする。

まず教育原理の専門家として気になるのは、「人格」と「資質・能力」の関係だ。まあ、当然執筆者たちも気にしていて、しっかり「資質・能力と人格の関係は?」というタイトルの節を用意して、自分たちの立場を説明している。が、これを読む限りでは、教育学が伝統的に問題にしてきた「人格」をしっかり理解した上で記述しているとはとても思えない。というのは、「人格」にまつわる「尊厳」の話が一切出てこないし、「人格の尊厳」というものに対して配慮しているとはとても思えない寒々とした記述になっているからだ。
たとえば歴史的には悪評高い『国民実践要領』(1953年)ですら、「人格の尊厳」について「人の人たるゆえんは、自由なる人格たるところにある。われわれは自己の人格の尊厳を自覚し、それを傷つけてはならない。」と宣言した上で、「真に自由な人間とは、自己の人格の尊厳を自覚することによって自ら決断し自ら責任を負うことのできる人間である。」と述べた。あるいは悪評高い『期待される人間像』(1966年)においてすら、「人間が人間として単なる物と異なるのは、人間が人格を有するからである。物は価格をもつが、人間は品位をもち、不可侵の尊厳を有する。基本的人権の根拠もここに存する。そして人格の中核をなすものは、自由である。それは自発性といってもよい。」と述べている。ここに残っているある種の格調高さが、本書には微塵も存在しない。「人格の尊厳」に対する敬意は、いつの間にか知らないうちに失われ、顧みられなくなったもののようである。

その姿勢とも絡むのだろうが、本書からは「できない子」に対する温かい眼差しを感じることができない。「できない子」など最初から存在しないかの如く、あるいは存在するべきではないという態度で記述が進んでいく。しかし本当にどの子供も本書に描かれた資質・能力を備えた「できる子」になれるのだろうか? そして「できる子」だろうが「できない子」だろうが、同じく人間として触れあう所に「人格の尊厳」というものが生まれるんじゃないだろうか。全ての子供を一律に「できる子」に育てられるかのような、あるいは「できない子」の苦しみがまるで視野に入っていない書きっぷりは、なかなか清々しくもあるが、これで大丈夫だろうかという危惧も強まる。人間の「弱さ」に対する感受性を視野の外に放り出して、教育という営みは成立するのだろうか?

ということで、学術的な仕事としては、「人格」という言葉の持つ意味がいつの間にかズレていること、そして多くの教育関係者がそのズレを自覚していないことに対して、しっかり吟味を加えていかなければならないと感じた。ポイントは、1960年代後半から1980年代前半までの情勢にあると直感しているわけだが、さて、どうだろうか。

国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』東洋館出版社、2016年

【要約と感想】日本教育方法学会編『学習指導要領の改訂に関する教育方法学的検討』

【要約】教育方法学の観点から見て、今時学習指導要領には本質的な欠陥がたくさんあります。

【感想】読み取った限りでは、学習指導要領の問題は、おおまかには2通り。一つは「教育目的」に関して、「人格の完成」を目指す教育ではなく、単に産業界の要請に応える人材育成に堕しているという懸念である。たとえば安彦忠彦は「筆者はこれに対して、「人格性」や「学問的な力」は育つのかと役人に質問し、大丈夫だという答えを得たことがあるが、その面への配慮が欠けることが心配である。」(p.19)と言う。また中野和光は、「次期学習指導要領は、2006年の教育基本法改正、教育関連三法の改正を土台として、OECDとの連携をもとに、グローバル経済競争という「総力戦」に必要な人材資源の育成のために教育制度を使おうとしている。」(p.32)と言う。あるいは福田敦志は、「新しい社会に適応するように「陶冶」される必要があるということは、適応を要請する社会のあり様それ自体は疑わせないということを意味することも合わせて押さえておきたい。」(p.116)と言う。まったくだと思う。

もう一つは、さすが教育方法学会だけあって「教育方法」に関して、「主体的・対話的で深い学び」というような「教授方法」のスタンダード化が一方的に押しつけられることへの懸念である。教え方の制度化・形式化の傾向が強まると、様々な個性的な取組みが一様な官製用語で塗り固められ、実践を語る語彙が貧困化し、教師の自律性が奪われると同時に、授業から子供たちの生活の文脈が失われ、学校のリアリティが無視される。果たして学習指導要領で「主体的・対話的で深い学び」というふうに「教え方」まで規定すべきなのだろうか、あるいは規定できるのだろうか。あるいは仮に規定できるにしても、法的拘束力を持ったままで問題ないのだろうか?

この問題は、教員養成改革の方向にも絡んで「教職の専門性とは何か?」という価値観と密接に絡んでおり、しっかり教育原理的に考察すべき課題のはずだ。本書は、学習指導要領を単なる技術論としてではなく、原理的に吟味したいときに参考になる。

日本教育方法学会編『学習指導要領の改訂に関する教育方法学的検討 「資質・能力」と「教科の本質」をめぐって』図書文化、2017年