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【要約と感想】プラトン『法律』

【要約】おれの考えた最強の国家は、人々を徳に導く教育をいちばん大事にします。

【感想】プラトン終生のテーマであるところの、魂の不死とか、真の知識とか、正しい生き方がいちばん幸せとか、一と多の関係とか、お馴染みの議論がいつものように展開される一方で、この本でしか見られない具体的な教育論とか法律論も盛りだくさん。

教育学的観点から興味深いのは、子供に関わる様々な記述だ。プラトンは、しばしば子供を完全な無能者として扱っている。たとえば「「再び子供にもどる」というのは、年寄りばかりか、酔っぱらいもまたそうなるのですね。」(646A)とか、「これらの犯罪のどれかを犯す者は、おそらく、狂気の状態にあるために、あるいは、病気にかかっているとか、非常な高齢にあるとか、子供に近い状態にあるとかで、狂気の人と少しも変らない有様」(864D)というふうに、子供を発狂者や痴呆老人や酔っ払いと同じカテゴリーに入れて無造作に扱っている。子供期を特別な価値を持った時間とは、明らかに捉えていない。彼が特別な敬意を払うのは、決まって老齢の人々である。

が、一方でプラトンは幼児期の教育(胎教含む)に高い意義を認め、さらに子供の遊びが人格形成に与える影響を積極的に評価している。キリスト教的な子供観と異なる価値観が見えるのも間違いない。ただし、こういった幼児期教育の重視は、「子供というものは、すべての獣の中でもっとも手に負えないものです。」(808D)というような、子供を一個の人格としては認めない認識と表裏一体ではある。

他、教育に関する見所は、職業訓練的な教育(いわばinstruction)の意義を否定し、人格形成のための教育(いわばeducation)を真の教育と明確に述べているところなど(644A)。徳のための教育を真の教育と見る姿勢は初期対話編から終始一貫しているわけだが、多くはソフィストとの対比で語られていて、ここまではっきり職業訓練的な教育と比較している箇所は珍しいかも。後のヨーロッパ的思考の土台となる「教育/教授」を区別する枠組みが既に確認できる。

また、法律論でも、懲罰刑ではなく教育刑の意義を前面に打ち出している点とか(まあ、それにしては死刑への沸点が低すぎるけど)、奴隷や動物や無生物が犯罪を犯した場合の対処とか、ヨーロッパ的な法思想枠組を考えると、興味をそそられる論点が多い。

あと、お葬式で死体を重要視しないように勧告するところなどは、一周回って仏教と同じような議論になっていて、なかなか興味深かった。魂の不死と輪廻転生を信じた場合、論理的に筋道をたどれば、同じような結論に至るということか。

プラトン/森進一・池田美恵・加来彰俊訳『法律〈上〉』岩波文庫
プラトン/森進一・池田美恵・加来彰俊訳『法律〈下〉』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】プラトン『国家』

【要約】「正義」とは何であるかを考えた本です。
国家にとっての正義とは、上に立つべき人がちゃんと上に立ち、下にいるべき人がしっかり下で従っている状態を指します。上に立つべき優秀な人とは、哲学者のことです。同じく、正義の人とは、上に立つべき知的要素がしっかり上に立ち、下にいるべき欲望がきちんと下で従っている状態を指します。逆に、下にいるべき欲望たちが思考や行動を支配した状況を「悪」と呼びます。
哲学者になるためには、感覚で捉えられるようなものは捨てて、思考だけが把握できる対象=イデアを捉えなければなりません。そうしてイデアを把握する哲学者は、正義そのものであり、最高に幸せな人間となります。

【感想】政治学や教育学の、押しも押されぬ大古典。内容に対して私が言うべきことは、ほぼ何も残されていない。

とはいえ、いくつか気になることはある。たとえば、社会契約論について。プラトンは明確に社会契約説を否定している。しかも歴史的に否定したのではなく、倫理的に否定している。社会契約論が本当に仮想敵としなければいけないのは、王権神授説のような代物ではなく、プラトニズムではないのか。

これはもちろん民主主義にも当てはまる。プラトンは民主主義を明確に倫理的な意味で否定している。しかも民主主義の根幹である「多様性」そのものを倫理的に否定する。プラトンは、単一性や単純性や純粋性といった「自己同一性」を最大の根拠として、民主主義の多様性を倫理的に非難する。この単一性や単純性や純粋性といった観念は、現代では民族の単一性・単純性・純粋性という「ナショナリズム」の形で先鋭化している。民主主義が本当のラスボスとすべきは、目の前に見えるナショナリズムではなくて、背後に控えているプラトニズムであり、「自己同一性」という概念そのものではないのか。

個人的には、本書は、政治学や教育学の古典であるよりも前に、「自己同一性」という概念が持つ魅惑と恐ろしさを疑いのない水準で浮き彫りにしたところに意義があると思っている。

もちろん教育について無視するわけにもいかないので、それについてはこちらへ。→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【この理論は眼鏡論に使える】人間の魂を三要素に分割する考え方は、眼鏡っ娘が登場するマンガを分析する際に、大きな理論的武器となる。プラトンは、一人の人間を「知的/勇気/欲望」の3つの要素に分割した上で、知的な部分がほかの部分を従えることこそが「正義」であると主張した。そしてそれは国家においても同様であり、知的な人間がほかの人間を従えるのが「正義」ということになる。それは一つの物語においても当てはまる。一つの物語に登場するキャラクターそれぞれに魂の三要素「知的/勇気/欲望」を割り当てる。すると物語で展開されるキャラクター間の葛藤は、一人の人間のなかで繰り広げられる魂の葛藤と相似するものとなる。そして「知的」な人間が上に立つことが、プラトンによれば「正義」なのだ。知的な人間とは、もちろん眼鏡をかけた者のことである。

*9/22追記
「眼鏡っ娘」がただの「眼鏡をかけた女」とは異なるという事態を、本書は端的に示している。国家の指導者となるべき哲学者を教育するエピソードにおいて、プラトンは数学教育の重要性を説く。そこで彼は「一」を認識することが真理を見抜く知性の土台を作るとして、こう言う。
「もし<一>というものがまさにそれ自体として、じゅうぶんに見られ、あるいは何かほかの感覚によってとらえられるものであるとしたら、ちょうど指の場合について行っていたのと同じように、それは我々を実在するものへと引っぱっていく性格のものではないことになるだろう。けれども、もしそれが見られるときにはいつも、何か反対のものが同時に見られて、一つとして現れるのに少しも劣らず、またその反対としても現れるということになるのであれば、これはもう、その上に立って判定する者が必要となるだろう。」(524d-525a)
プラトンが言う「何か反対のもの」とは、「一」に対して「多」が現れることを意味する。人間は「人間という一」であると同時に、「二つの眼と二つの耳と二つの手と二つの足などなどの多の集合」でもある。我々はどうして人間を「一人の人間」として認識し、「二つの眼と二つの耳と…の集合」としては認識しないのだろうか。これが「一と多」に関わる認識論的問題である。プラトンは様々な物事を「多」ではなく「一」として認識することこそが真理を認識する知性の役割だと言う。知覚だけでは、見えるのは「二つの眼と二つの耳と…の集合」だけであって、ここから必然的に「一人の人間」という認識は生じない。知覚に加えて知性の働きがあってこそ、初めて「一人の人間」という認識が生じる。
これは明らかに、「眼鏡っ娘」を「眼鏡っ娘」として認識する事態を指し示している。もしも単に知覚だけなら、そこにいるのは「眼鏡+娘」という「多の集合」に過ぎず、「一人の眼鏡っ娘」を認識することはあり得ない。そこに「真理を見る知性」の働きが加わることによって初めて「一人の眼鏡っ娘」を認識することが可能となる。逆に言えば、「眼鏡と娘という多の集合」から「一人の眼鏡っ娘」を見抜くことこそが知性の働きであって、真理への道筋ということである。

またプラトンは「一」と「多」についてこうも言う。
「じっさい、君も知っているだろうが、この道に通じる玄人たちにしても、彼らは、<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる人があっても、一笑に付して相手にしない。君が<一>を割って細分しようとすれば、彼らのほうはそのぶんだけ掛けて増やし、<一>が一でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心するのだ」(525d-e)
これは、愚かな非眼鏡勢力がしばしば「眼鏡を外した方が美しい」などという馬鹿げた戯言を発することに対する批判である。プラトンが言う「<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる」とは、本来は「一人の眼鏡っ娘」であったものを言葉の上だけで「眼鏡と娘という多の集合に分割しようと試みる」ことを意味する。それは極めて愚かな行為であって、心ある眼鏡勢力はプラトンの言うとおり「一笑に付して相手にしない」ことが必要だ。眼鏡勢力が気をつけるべきは、「<一>が一でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心する」ということだ。もちろんこれは、「眼鏡っ娘」が眼鏡を外して「眼鏡と娘の多の集合」に成り下がらないように用心するということを意味する。なぜなら「眼鏡っ娘」という「一」にこそ真理が宿るのであって、「眼鏡と娘の多の集合」には知性のかけらも存在しないからである。そもそも「割って細分」とは眼鏡を否定する暗喩であり、「掛けて増やす」とは眼鏡を肯定する暗喩である。眼鏡を掛けて「眼鏡っ娘を増やす」ということこそ、真理へと到達する道筋なのだ。

プラトン/藤沢令夫訳『国家』〈上〉、岩波文庫
プラトン/藤沢令夫訳『国家』〈下〉、岩波文庫

【要約と感想】田中浩『ホッブズ』

【要約】ホッブズは社会契約説を理論化して、現代の民主主義の基礎となる近代的な政治哲学を打ち立てました。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=ホッブズ社会契約論のアイデアがエピクロスとルクレティウスに由来していること。つまり社会契約論はルネサンスの文脈に位置づけられる。

ホッブズの意図が、宗教改革以来のローマ教皇と世俗領邦君主との争いの最終決着にあったこと。単に近代国家論を提唱したのではなく、宗教からの国家の分離が極めて重要なテーマとなっている。

■要確認事項=1640年に発表された『法の原理』第一部は、「自立的人格としての人間について」となっている。個人的な研究範囲では、近代的な意味で「personality=人格」という言葉を使い始めたのはホッブズだと思っているのだが、まだ『法の原理』は読んでいなかった。すぐ読もう。

また、近代国家の原則として「権力は一つ」ということをホッブズは強調するのだが、その見解がプラトン『国家』やプロティノスに由来するなんてことはあるのか。プラトン『国家』は、最高の善は「一なること」と言っている。社会契約論がエピクロスに由来するなら、「権力は一つ」の出自もギリシアにあっておかしくない。

ルネサンスと宗教改革を総合したということで「ホッブズこそが封建から近代へと転換する思想を最初に構築した」(p.51)と書いてあるけど、真に受けて言質にして引用しても学会的に大丈夫ですか?

そして、ホッブズが構想する国家の基本単位が、従来の家族やポリスやギルドといった集団ではなく、「個人」であるとされているが(p.88)、本当に個人主義は貫徹されているのか? 少なくとも『リヴァイアサン』では、明らかに男性を中心とした「家父長制家族」を前提としているように読めるのだが。

【感想】personalityの近代的用法の起源に関して、ホッブズは避けて通れない超重要人物に違いないという認識がますます強まってきた。

田中浩『ホッブズ―リヴァイアサンの哲学者』岩波新書、2016年