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【福島県会津若松市】飯盛山の悲劇と、不思議な形のさざえ堂

 飯盛山は白虎隊が自刃した悲劇の地として有名ですが、会津藩ゆかりの文物が他にもたくさんあります。

 飯盛山にある郡上藩「凌霜隊」の石碑。幕末に郡上藩を脱藩した47名が、小山、宇都宮、会津で明治政府と戦っています。会津落城後、生き残った藩士は郡上に護送され、たいへんな目に遭ったそうです。現在では地元の郡上八幡にも、ゆかりの会津にも顕彰碑を建ててもらっていますけれども。新撰組がクローズアップされがちですが、幕府歩兵隊とか中島三郎助とか、佐幕で頑張った人々はたくさんいるんですね。

 飯盛山に建つ、会津藩殉難烈婦の碑。会津戦争では、たくさんの女性が犠牲になっています。顕彰碑は山川健次郎が建てたようです。

 白虎隊士墓地から少し下ると、おもしろい建物があります。飯盛山中腹にある、さざえ堂です。正式名称は円通三匝堂。
 何がおもしろいかというと、三階建ての建物でスロープを上っていくのですが、登る人と下る人がすれ違うことなく、入口から出口まで一本道で行ける構造になっているのです。

 中に入ると、スロープが螺旋の形で伸びていきます。

 スロープを上って頂上に着くと、来た道を戻る必要はなく、さらに先に進めば降りる螺旋スロープが伸びています。行く人と帰る人が交差しないですむので、渋滞が起こらず、スムーズに参拝ができるという仕掛けです。また、入口から出口まで一本道になっており、重複がない巡礼の道としても優れています。構造はとてもおもしろいのですが、きちんと設計して作るのは大変そうです。
 さざえ堂はここ以外にも、日本各地にあります。高橋由一が美術館建設構想でさざえ堂式の螺旋構造を採用したのも思い出されます。

 さざえ堂の脇に穴が空いていて、水が流れ込んできています。戸ノ口堰洞穴です。

 案内板によると、猪苗代湖から会津盆地に水を引く用水堰です。会津盆地は水がなくて耕作に適していなかったのですが、この用水のおかげで潤うようになったのですね。
で、この洞穴は、白虎隊が逃走路に使ったことでも有名です。

 白虎隊士中二番隊は明治政府軍を迎え撃つために滝沢本陣から出陣しますが、激しい攻撃に曝され、いったん退却するために用水堰を利用します。飯盛山から鶴ヶ城を臨んだときに落城してしまったものと勘違いしたのは、連戦と空腹の疲れの上に、用水路の水に浸かった疲労が重なったせいかもしれません。

 飯盛山には、白虎隊記念館という博物館が建っています。自刃した20人からはぐれ、一人で退却していた隊員の酒井峰治が愛犬のクマと出会って無事に城に戻るという、奇跡のような話がありますが、その情景が銅像になっています。記念館には酒井の手紙等、白虎隊に関わる文物が展示されています。

 飯盛山を下りきった麓に滝沢本陣があります。戊申戦争時には会津藩の大本営として機能しました。白虎隊もここに待機しています。本来、白虎隊は前線で戦うことを想定されていなかったはずで、滝沢本陣で雑用を勤めるために配置されていたのではないかと思われます。が、想像以上に明治政府の進撃が早く(あるいは会津藩上層部の見通しが甘く)、白虎隊出陣の運びとなってしまいます。

 本陣には、戊申戦争時の弾痕や刀傷が生々しく残されています。

 麓から眺める飯盛山の全景。今は平和な観光地となっています。
(2014年9月訪問)

【福島県会津若松市】ハカマイラー:松平容保、近藤勇、白虎隊

 会津盆地の東側山麓に点在するお墓をめぐりました。

 会津盆地の奥座敷、南東にある東山温泉の宿を出て、山沿いに北上します。南から順番に、会津藩主松平家墓所→近藤勇墓所→山本家墓所→白虎隊士墓所と続いています。

 東山温泉からほど近く、人里離れた静かな山の中に会津藩主松平家墓所があります。初代藩主保科正之から、幕末に活躍した松平容保までの墓があります。

 松平家墓所から山の中を北に行くと、天寧寺境内に新撰組隊長近藤勇の墓があります。天寧寺はもともと室町期から蘆名家の菩提寺として栄えたようですが、伊達家に攻められてから面影はなくなったようです。

 近藤勇の墓は、実はここだけではなく全国各地にあるのですが、案内板によると、会津の墓は土方歳三によって建墓されたとの伝承があるようです。

 境内の裏手に進みます。

 近藤勇の墓。新撰組のファンの手によるのか、綺麗に掃除されて、花もたくさん飾られています。近くにはコミュニケーションノートも置いてあって、全国から訪れたファンが新撰組に対する熱い想いを書き残しています。

 天寧寺を離れて、さらに山の中を北上すると、大龍寺の境内に山本家の墓があります。2013年の大河ドラマ「八重の桜」でヒロインをなった山本八重が作ったご先祖様の墓所です。

 先祖代々の墓を一箇所に集めたものということで、八重本人とお兄さんの覚馬の墓は京都にあります。

 さらに山の中を北上すると、飯盛山に至ります。幕末に白虎隊士が自刃した場所で、白虎隊士の墓所にもなっています。
 案内板には、新政府が遺体に手をつけることを禁止したと書いてありますが、現在の研究状況では怪しいことになっているかな。白虎隊に関しては、後に創作で付け加えられたエピソードが多く、実態が正確には伝わっていないような感じはあります。たとえば白虎隊が飯盛山で全滅したと思い込んでいる人が多いのですが、実は飯盛山に来たのは白虎隊の内の一部であって、他の隊士たちはその後も一ヶ月間戦い続けています。この案内板にも飯盛山以外の場所で亡くなった隊士のことが記されています。

 飯盛山で自刃した19隊士の墓石。

 19隊士の墓の奥には、飯沼貞雄翁(少年時の名前は飯沼貞吉)の墓があります。

 飯沼翁は白虎隊士の一員として会津戦争に参加し、飯盛山で自刃していますが、近所の人に助けられて後に蘇生しています。

 飯沼翁は戊辰戦争後も1931年までご存命でした。今はかつての仲間たちとともに飯盛山で眠っております。

 さらに奥に進むと、戊辰会津戦争の概略が説明された案内板があります。

 白虎隊士殉難の地には、白虎隊士が鶴ヶ城を臨む石像が建っています。この場所から鶴ヶ城を臨んだわけですね。

 白虎隊士が見たのと同じ場所から鶴ヶ城を臨むの図。鶴ヶ城までは約3kmあります。ここから見たら、連戦と空腹の疲労が重なって、鶴ヶ城が落ちたと思い込んでしまってもしょうがないかもしれません。今はとても平和な光景が広がっています。
(2014年9月訪問)