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【熊本県人吉市】城下町も見所たくさん、夏目友人帳聖地とか

人吉城を堪能したあとは、城下町へ。こちらも見所がたくさんあります。

武家屋敷と「ぶけぐら」

「武家屋敷」と「ぶけぐら」は同じ建物で、城の西方にあります。西郷隆盛の顔出しパネルが建っているほうが「武家屋敷」の入口。

「ぶけぐら」は喫茶店なのですが。

店内には夏目友人帳の原画が展示されていたりします。人吉は夏目友人帳の舞台となっており、熱心なファンが聖地巡礼に訪れているようです。

なかなか落ち着いた店内です。名物の米焼酎アイスをいただき、猛暑を和らげるのでした。

隣接する「武家屋敷」は、かつての藩主の御仮屋を移築したものだそうです。なかなかユニークな形をしています。

藩主用の建物なので、2階に抜ける秘密の脱出ルートがあったりして、なかなかおもしろいです。

そしてこちらにも、夏目友人帳のグッズがたくさん展示されています。ここのご主人が作者と親戚だったりなんかするのだとか。

古民具などと夏目友人帳関連グッズが並んで、ちょっと不思議な空間になっています。

青井阿蘇神社

国宝に指定された建物を擁する、歴史ある神社です。城から見て、球磨川の反対川、西方に位置します。

楼門と本殿も国宝に指定されています。茅葺屋根に由緒を感じます。

祭神は、阿蘇神社に縁のある12柱のうちの3柱。どんな神話があるかは、不勉強にも知りません。すみません。

「文化苑」に入る途中の、「むすび回廊」も国宝に指定されています。

うーむ、国宝と思ってみれば、なんとなくありがたく感じる。

文化苑には、高山彦九郞(京都四条の土下座像の人と言ったほうが分かりやすい)も滞在したそうです。

願成寺と相良家墓地

城から見て球磨川の反対側、北東に、相良家墓地と、菩提寺の願成寺があります。

相良家初代当主から37代までの当主や、関係者の墓所になっています。

初代当主の墓は、めちゃめちゃ立派です。

人吉の「相良」は、静岡の相良(江戸時代に田沼意次所領になることで有名)に由来するのですね。

居並ぶ墓石の中には、石田三成の供養塔も混じっています。

相良家は当初西軍に属していたのですが、後に井伊直政や水野勝也(私の出身の刈谷藩の殿様だ)の誘いに乗って寝返ったとのこと。やはり寝覚めが悪いのか、その時に斬った武将と三成の6人の供養塔を立てたようです。

大村平家城

Googleマップに出ていたので、相良家墓所の裏山を登ってみる。

確かに曲輪のようでもあるけれど、公園として整備されすぎていて、なにも手がかりがないのであった。案内パネル等も一切なく、謎のまま下山。

老神神社

大手門からすぐ近くの神社。

祭神は、ニニギ、コノハナサクヤ、山幸彦、トヨタマヒメ、海幸彦、ホスセリノミコトとのこと。ニニギとコノハナサクヤはときどき見るけれど、海幸と山幸が一緒なのは、そんなにない気がします。どうなんでしょう。
また、コノハナサクヤから生まれるのに神話では兄弟と違ってまったく存在感のないホスセリノミコトが一緒に祀られているのが、興味深いところです。

本殿が茅葺き屋根で、なかなか趣深いです。

特急かわせみ

博多へは、特急かわせみで帰ります。

たいへんゴージャスな内装です。天井など、凄いことになっています。

車内販売カウンターもあって、お弁当やコーヒー、お土産を買うこともできます。

熊本の名産も展示。

窓に向かった席では、球磨川の流れを楽しみながらのんびりすることができます。

ということで、車内でよもぎ饅頭をいただきながら、人吉を離脱するのでありました。

ちなみに2日目に泊まったのは「翠嵐楼」で、三種類のお風呂が楽しめる素晴らしい旅館でした。球磨川の清流を眺めながら入る温泉は格別です。そしてロビーにはやはり夏目友人帳全巻が揃っているのでした。

(2019年7月訪問)

【和歌山県高野町】高野山金剛峯寺で南無大師遍照金剛と唱える

高野山は空海(弘法大師)が816年に開山し、現在は100以上の寺院が建ち並ぶ宗教的聖地です。奥深い山中にあって交通アクセスは不便なのですが、険しい森を越えると意外なほど開放感ある空間が広がる、不思議な場所です。
今回は露天風呂のある宿坊に泊まって、ゆっくり高野山を巡ったのでした。

麓から歩いてきた巡礼者が最初に辿り着くのは、大門(重要文化財)です。巨大で、たいへん立派です。

が、まあ、私は公共交通機関で来たので、他のところを見て昼食後に辿り着いたのですが。

次回訪れるときは、ぜひ麓から歩いて登って大門を拝みたいと思います。

さて、大門を通過して参道をまっすぐ東に向かい、中門をくぐると、金堂や根本大塔などが立ち並ぶ壇上伽藍に出ます。

壇上伽藍の建物には、それぞれ中に入って参拝することができます。

今回はたっぷり時間があったので、大師教会・教戒堂で受戒して参りました。大勢の巡礼者と一緒に声を上げてお経を唱えるなど、日常的に経験できる儀式ではなく、改まった気持ちになったのでした。

さらに先に進むと、金剛峯寺(国指定史跡・世界遺産)があります。

しかし気になるのは、案内パネルの内容です。

これまで私は「高野山=金剛峯寺」と暗記していたのですが、案内パネルを読んで理解したところでは、金剛峯寺は実は空海とは直接的には関係なく、1131年に建立されたということですね。現在の歴史の教科書等にはどう書かれているのか、ちょっと気になるところでした。

さて、さらに参道を奥に進むと、奥之院一の橋に着きます。ここから雰囲気ががらりと変わります。

杉並木に囲まれた参道に沿って、歴史上の人物のお墓がたくさんあります。たとえば、明智光秀の墓。

そして、織田信長の墓。

死んでしまえばノーサイドで、同じ墓地に葬られるのですね。まあ、光秀や信長の墓は他のところにもあるのですけれども。

さらに奥に進むと、いよいよ弘法大師の廟所に着きます。この御廟橋の向こうは、聖地すぎるので、写真撮影禁止です。

というわけで、日常では不可能な荘厳な体験ができる場所でした。暗黒の地下道を手探りで進む体験とか、とてもおもしろかったです。

さて。で、つい空海(弘法大師)と最澄(伝教大師)を比較してしまうわけですが。高野山で感じたのは、空海個人の圧倒的なカリスマ性です。高野山は空海個人に対する崇拝で成立しているような印象を受けました。一方の比叡山には、確かに伝教大師の廟所をお守りする聖地もあるのですが、全山的に最澄個人のカリスマはそれほど感じませんでした。それは、比叡山では法然・親鸞・日蓮・道元・栄西といった絢爛たる鎌倉新仏教のエースたちが育っており、その痕跡が残されているからかもしれません。逆に高野山には、空海以外には教科書に載るような僧侶を輩出していません。そういう意味では生産性がないようにも思えてしまうわけです。
まあ教科書に載るような僧侶を輩出することが素晴らしいかどうかは一概には言えないのは確かですが、私のような「教育」畑の人間からしてみれば、ここに高野山と比叡山の本質的な違いを見てしまいます。いいか悪いかは別として、空海の個人的なカリスマ性が強い高野山において、教育的想像力を発揮する余地が比叡山と比較してどれほどのものだったのか、という疑問です。
あるいは、仏教本来の考え方から思い起こして、空海に対する個人崇拝でいいのかどうかという疑問にも通じるところです。私も高野山で「南無大師遍照金剛」(意味は、ざっくり言えば、空海を無条件で全面的に信頼しますので私のことをよろしくお願いしますという感じ)と唱え、空海個人への尊敬の念を顕わにして、受戒したわけですが。改めて思い返してみれば、個人崇拝で終わって仏教的に大丈夫なのかという。もちろん真言宗によれば仏教の奥義は言葉で表現し尽くせないものなので、私のような宗教センスのない人間が人間的尺度でどうこう言う問題ではないのかもしれませんが。単に空海への個人崇拝で終わってしまったら、教育的生産性は一切ないのも確かだと思うのです。個人崇拝が単なる通過点という理屈であれば、分からなくもないのですが。
あるいは、自分自身の宗教的能力に対する限界を謙虚に設け、真理の啓示者である聖人個人(空海)を信仰の対象とする在り方は、プロテスタント的であるという点では、一神教的な浄土宗と並んで、実はヨーロッパ的な宗教の観念に近いとは言えるかもしれない。

まあともかく、露天風呂のある宿坊に泊まり、夜は写経会に参加して外国人観光客に混じって般若心経を写し、朝は早くから読経会に参加したりと、極めて充実した時間を過してきたのでありました。
ぜひまた機会を作って訪れたいと思います。
(2015年6/19・20訪問)

【滋賀県大津市】比叡山延暦寺は一隅を照らし続けた教育機関

天台宗の本山・比叡山延暦寺は、最澄(伝教大師)が788年に開山したお寺が発展して現在の姿になったものです。現在はたいへん規模が大きなお寺ですが、当初からここまで大きかったのではなく、様々なお坊さんが関わって、ここまで発展しています。

1994年に世界文化遺産に登録されて、外国人観光客もとても多くなっております。

さて、延暦寺は、もちろん宗教施設です。が、ここでは教育機関として延暦寺が果たした役割に注目していきます。

比叡山延暦寺が教育機関であることは、最澄が朝廷に提出した「山家学生式(さんげがくしょうしき)」に明確に表れています。比叡山で学ぶ学生たちへの教育方針や具体的な心得を説いた内容です。最澄が、日本に正しい仏教を広めるためには教育が重要であることをしっかり認識していたことが分かります。ここで示された「一隅を照らす」という言葉は、現在でも天台宗の方針を示す極めて重要な言葉となっています。

教育に関わって注目したい建物は、重要文化財の「戒壇院」です。

周辺の建物と比較して質素ではあるので観光客はあまり注目しないわけですが、教育史関係者としては見逃すわけにはいきません。教育機関としての延暦寺を考えるときに、決定的に重要な場所です。
案内パネルにもその重要性がしっかり記されています。

案内パネルにも「比叡山中で最も重要なお堂」と明記されておりますね。最澄は、後進僧侶の育成にとって「戒壇」を設けることが決定的に重要だと考え、朝廷に働きかけていたのですが、その生存中にはついに設置を許されることがなかったのでした。
ちなみに僧侶の資格を保証する「戒壇」は、もともと日本に三個所作られたのですが(奈良の唐招提寺、下野薬師寺、太宰府)、最新の仏教理論を携えて日本に戻ってきた最澄は、比叡山延暦寺にもその資格を付与すべきだと考えたのでした。戒壇の設置は、比叡山が僧侶の教育機関として既成仏教勢力から独立することを意味するものでした。

こうして延暦寺は、「山家学生式」を教育方針とし、「戒壇」を権威として、優秀な僧侶を大量に輩出します。
比叡山の教育機関としての生産力の高さの証拠は、山の中のそこかしこに見ることができます。絢爛たる鎌倉仏教宗派の創始者たちが修行した痕跡が、比叡山のいたるところに残っているのです。

たとえば、臨済宗の栄西禅師。

そして、浄土真宗の親鸞聖人。

さらに、浄土宗の法然上人。

加えて、日蓮宗の日蓮上人。

まだあります、曹洞宗の道元禅師。

いやあ、圧倒的に錚々たるメンバーです。いかに比叡山が教育施設として卓越していたかが分かります。鎌倉仏教の新宗派創設者たちは、ことごとく比叡山延暦寺で学んでいるのですね。教育機関としての面目躍如というところです。これは、空海の高野山には見られないものです。最澄の教育構想が優れていたせいなのか、戒壇の権威なのかどうか、興味が尽きないところですね。

入山して大講堂へ向かう道には、比叡山で修行した宗教者たちのプロフィールがパネルで掲示されています。

が、まあ、そういう「教育機関としての比叡山延暦寺」にはまったく関心がなくても、比叡山はとても素晴らしいところです。

重要文化財の大講堂。

国宝の根本中堂。私が訪れたときは、大改修工事が始まっていて、普段近くで見られないような仏像を拝むこともできました。

横川の元三大師堂。

この元三大師は、江戸時代までには圧倒的な人気があって、昭和初期までよく知られていたように思うのですが、最近はあまり目立たないですね。全国に「大師堂」があって、その場合の「大師」とは「元三大師」を指すことが多いのですが、けっこう多くの人が「弘法大師」と勘違いしているように思います。

高野山の弘法大師ではなく、比叡山の元三大師であることは、日本人の教養として正しく認識しておきたいところです。

他にも、最澄の静かな眠りを守る浄土院の佇まいや、にない堂から聞こえてくる荘厳なお経の声とか、見るべきところばかりです。折に触れて訪れたい場所です。
(2015年8/11訪問)

【愛知県新城市】鳳来寺は子宝パワースポットだけど、鳳来山東照宮はトップ3に入れるか問題

愛知県東部の山の中にある、鳳来寺に行ってきました。
鳳来寺の御本尊である薬師如来へお参りと、子宝パワースポットとして有名な鳳来山東照宮へのお参りが目的です。

本来は鳳来山の麓から1425段の石段を踏むべきではあるのですが、今回はパークウェイを使って山腹までピュッとショートカットです。駐車場から鳳来寺までは徒歩10分足らずで着きます。効験があったら、今度は麓からちゃんと登ってお礼をしに行かないといけませんね。
とはいえ、駐車場から鳳来寺までの道もなかなか凄いところです。写真の位置から金網の向こうを見下ろすと、眼下は垂直に切り立った断崖絶壁になっていて、眺めていると吸い込まれそうになります。写真ではなかなか立体感が出ないので分かりにくいですが、現場は相当の迫力です。

まずは鳳来山東照宮へお参りします。鳥居の向こうに立派な拝殿が見えます。

案内板によると、三代将軍家光が祈念して造営した東照宮のようですね。

別の案内板には、ちゃんと「奥方」ではなく「伝通院於大の方」と出ていますね。そして「日本の三東照宮」の一つとされています。んー、日光東照宮と久能山東照宮が一番二番の東照宮なのは間違いないとして、三番目は世良田の東照宮もかなり有力な気がしますけれども。岡崎と川越の東照宮もたいへんな由緒がありますし、三番目をどれにするかは難しい問題じゃないですかね。まあ、愛知県民としては鳳来山東照宮が三番目で問題ないかな。

そして鳳来山東照宮は、拝殿だけではなく本殿も直接拝むことができます。そんなわけで拝殿を回り込んで本殿の前へ。

拝殿の背後にある中門から本殿にお参り。何もなくここまで入れてもらえるところは珍しいんじゃないのかな?

東照宮の石垣の間を降りて、鳳来寺へ向かいます。鳳来寺の看板の下にちょうど梅が盛りとなっておりました。桃色でとても綺麗です。

鳳来寺の本堂にお参りします。御本尊は薬師如来です。本当はちゃんと麓から仁王門を通って登ってくるべきですが、それはまた今度。いちおう6歳の時に1425段は達成しておりますよ。

案内板は、鳳来山の自然や歴史についての解説が充実しております。

本堂前の展望台から南側を臨むの図。とても雄大な景色で、清々しい気分になります。写真だと雄大さが半減しちゃってますけどね。

今度は石段を登ってさらに奥の院まで行こうと決意を込めつつ、鳳来山を後にするのでした。
(2018年3/26訪問)

【新潟県上越市】春日山城と上杉謙信墓所

新潟県の春日山城は、上杉謙信の本拠地として有名な城です。

麓から春日山城を見上げるの図。城に慣れていないとただの山にしか見えないかもしれませんが、目を凝らすと、人の手が入った曲輪の痕跡を確認することができます。戦国時代には築地塀や居館などで壮観だったんでしょうね。

案内板によると、裾野に張り巡らされた総構えも見所だそうですが、今回は山に連なる曲輪を中心に見学しました。

文部省が設置した案内板もありました。普通は地元の教育委員会が設置する案内板だけなのですが、さすが昭和10年に国指定史跡になっているだけのことはあります。

三の丸と二の丸を抜けて本丸に登り、北に視線を向けると、直江津の港や市街だけでなく、日本海まで見晴らすことができます。城として絶好の立地条件であることが分かります。
とはいえ、山城としてはさほど急峻な印象はありません。小谷城とか観音寺城などの山城っぷりと比較したときには、少し緩い感じがします。

本丸の跡。けっこう広くはありますが、べらぼうに広いというわけでもなく。北条や武田の城と比較すると、堀や土塁の造り込みもさほど凄いという感じもなく。千貫門周辺は確かに凄かったけれども、あの程度なら北条の城では標準装備という感じもするし。大手道と言われているルートも、技巧が少なすぎるし(あの緩さで本当に大手なのか疑問なしとしない)。あの上杉謙信の本拠地の本丸としては、畏れ多いですが、多少拍子抜けという感じは否めませんでした。
まあ考えてみれば、そもそも上杉謙信が城に籠もって戦ったこと自体が記憶にありません。ほぼ野戦に打って出ているわけで、城郭を固める方向に力がこもっていない気はします。
麓に張り巡らされた総構えを見ないうちに判断してはいけないわけですが、春日山城は単なる防御施設ではなく平時から家臣居館群として機能していた(観音寺城などと同じく)と考えて、堀や土塁などテクニカルな防御機構を期待する対象とはならないかなと。
というわけで、上杉謙信と一緒の場所に立つこと自体に万感の思いを抱きつつ、腕を組んで日本海を眺めるのが、楽しみ方として正しい気がしてきました。

さて、春日山の隣の峰に、上杉謙信の菩提寺・林泉寺があります。たいへん立派な三門です。

林泉寺は春日山城とセットで拝観するのがお勧めです。

林泉寺宝物館には謙信直筆の書などが展示されていて、たいへん見応えがあります。
禅様式で美しく整理された庭を奥へ進むと、川中島合戦戦没者慰霊碑などと共に謙信の墓所があります。

上杉謙信のお墓。感慨深いものがあります。

境内には上杉謙信の事跡紹介と共に、上杉謙信の歌の歌詞が展示されておりました。愛されております。

林泉寺から500mほど東、春日山の麓に春日神社があります。

春日神社の案内板によれば、そもそも「春日山」の名前は奈良の春日大社に由来するようですね。
春日神社の北東に春日山城史跡広場と学習施設があって、このあたりで総構えの雰囲気を味わうことができます。学習施設は、休館日の時に行ってしまったので、また改めて行かなくてはいけません。

ところで、ちょっと紛らわしいのですが、「春日神社」とは別に「春日山神社」という神社があります。春日山神社のほうが春日山城本丸に近いところにあります。

春日山神社の由緒書を見ると、明治34年に小川未明の父が作ったということで、けっこう新しい神社のようですね。

麓を歩いていると、工事現場等で使う持ち運び用ガードレールの土台が上杉謙信になっているのを見つけました。同じようなのは大阪四天王寺付近で聖徳太子が土台になっているのを見たことがありますが。地域おこしグッズとして定番なんですかね。
(2016年5月訪問)