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【要約と感想】鈴木翔『教室内カースト』

【要約】学校内のグループ間で格差が生じており、身分差が固定するカースト制に似ているので、「スクールカースト」と呼ばれています。子どもたちは格差を「権力」と理解し、地位に基づいて期待されるキャラを演じています。教師は格差を「能力」と理解し、巧妙に利用して学級運営を行なっています。
カースト制は誰も幸せにしないので、一時的なものと耐え忍ぶか、あるいは学校から逃げ出すことを考えてもいいでしょう。

【感想】amazonレビューを見ると、読解力がゼロの人たちから酷評されていて、著者がちょっと気の毒になる。本を普段から読んでいない人に読まれてしまうってのは、大変なことなんだなあと。

とはいえ、食い足りない内容であることも確かではある。たとえば同じことを言うにしても、「モテ/非モテ」で考えた方が分かりやすくないだろうか。本書を読む限り、カースト上位は結局は「モテ」ということに尽きる。異性との社会関係を調達できる資本を持っている人間がチヤホヤされるというだけのことだ。
あるいは、単に「社会関係資本」を蓄積していたり調達したりできる個人がカースト上位になるというだけと言ってもいいのかもしれない。そして人格が未成熟な若いうちは、社会関係資本の調達において有力な資源となるのがルックスや運動神経などのモテ要素というだけのことだ。(小学生のうちは運動ができる子がモテ、中学生になるとオシャレな子がモテ、高校になると頭がいいのがモテるようになる現象を考えよう)
そしてもちろん、社会関係資本の調達に成功すれば、人に影響を与える権力を持つことになる。人間が一人で確保できる権力などたかがしれている。単に勉強ができるとか顔がいいというだけでは、大きな力にならない。権力の本質は「数」だ。勉強ができたり顔が良かったりする「資源」を、最終的に「数」に結びつけられる人間が権力を持つ。それは学校に限らず、実社会でも同様だ。仮に低学歴であろうとも、自分が持っている資源を有効活用し、社会関係資本を調達できる人間は、比較的楽に生きられる。

となると、実は本質的な問題は、「どうして学校内で社会関係資本が重要になってしまうのか」という問いであり、「社会関係資本を調達する上で重要なスキルとは何か」という問いである。
前者に関しては、もはや誰も「学力」を信仰していないということがポイントなのだろう。社会で成功するためには学力よりも重要なものがあると、多くの人が気がついている。社会で成功するために必要なものは、「社会関係資本」を調達し、運用する力だ。「スクールカースト」は、そういう社会のあり方が学校内にもちこまれているだけのことなのかもしれない。
後者に関しては、まあ、「コミュニケーション能力」などを含めた「21世紀スキル」とか「非認知的能力」ということになるのだろう。
学校が、そういう「社会関係資本の確保と運用をめぐる闘争の場」になっていると考えれば、それはまさに社会の縮図であるとしかいいようがない。それがマズいのであれば、学校は社会に開くべきではないということになる。学校を社会の論理と完全に切り離して単に粛々と勉強する場にしてしまい、学校だけで通用する価値観(つまり学力)のみで人間を評価するようにしてしまえば、社会関係資本を確保する動機もなくなり、スクールカーストは消滅するであろう。それがいやなら、子どもたちに「社会関係資本を調達・運用する力」をつけるような働きかけを粘り強くしていくしかない。

鈴木翔『教室内カースト』光文社新書、2012年

【要約と感想】苫野一徳『「学校」をつくり直す』

【要約】学校は、近代社会を立ち上げるには有効でしたが、いまや時代遅れです。みなが同じ内容を同じ場所で同じペースで同じように教えるシステムが賞味期限切れなのです。これからの時代に対応するには、学びの個別化・協同化・プロジェクト化を推進しなければなりません。無理だと言う人がいますが、必ずできます。

【感想】大きな刺激を受ける本だった。
全体的には著者がこれまでの本でも主張していた内容が繰り返されている。立場にまったくブレはない。が、様々な立場の人々との対話と交流を踏まえた上で、ひとつ上のステージから丁寧なフィードバックが加えられており、さらに一回り説得力を増した感じがする。さらに地に足が着いた印象を持つ。机上の空論ではなく、現実を変えてくれそうな期待感を抱かせる。

個人的に特に刺激を受けたのは、教員養成に関する具体的な話だった。私も教員養成課程で授業を持っており、著者と立場を同じくする。大学での教員養成課程にかける著者の姿勢と具体的な授業の様子を垣間見て、大きな刺激を受ける。100人超のマスプロという苛酷な環境でもプロジェクト型の講義をやりきる姿勢に、頭が下がる。私も頑張らなければいけないと、襟が正される思いであった。以前から腹案はあったが、いよいよ今年度の後期からプロジェクト化した授業でやっていこうと、腹を据えた。
評価が「合/否」でいいという話には、激しく同意する。教員が個性的でないのに、学校や子どもが個性的になるわけがない。教職コア・カリキュラムは、天下の大愚策であるように思う。また著者が言うように、教員免許更新講習も、さっさと廃止したほうがいい。誰一人得をする人がいない大愚策だ。(まあ、どっちみちやらなければいけないのなら、少しでも有益な時間になるように努力はするのだけれども。)

専門家として気がついたのは、本書に一言も「人格」と「個性」という言葉が登場しなかったことだ。昔の本ではうっかり「人格」という言葉を使ってしまう個所があったりしたが、本書は徹底的に「人格」および「個性」という言葉を排除している。個人的にかねがね思っていたのは、教育論に「人格」とか「個性」という言葉が登場したとたんに、地から足が離れ、現実感がなくなり、ふわふわした情緒的な議論に陥りやすいということだ。本書が抽象化や一般化のワナにはまっていないのは、「人格」とか「個性」といった情緒的に分かった気になるマジックワードを完全に排除して、著者のコントロール下にある概念だけで議論を構成していることが肝心なように思う。地に足が着いているように感じるのは、本書で用いられる抽象的な概念それぞれにしっかり血が通っているからだろう。

著者と私とでは、最奥の学問的立場においては決定的な相違があるような気はしているものの、そんなものは教育と学校の厳しい現実の前では極めて些細なことだ。著者の活動を、ささやかながら応援していきたい。私も目の前の小さなことから頑張ろう。まずは前期のテストの採点だ……

苫野一徳『「学校」をつくり直す』河出新書、2019年

【要約と感想】加地健『学校を変えよう! 親の心配Q&A50』

【要約】校長先生が頑張れば、学校は変われます。

【感想】全国学力学習状況調査に唯一参加拒否した犬山北小学校の校長先生だった加地健の本なので、けっこう期待して読んだのだけど、ちょっと思ってた内容と違った。「学校経営」に関する具体的な形(たとえば校務分掌のあり方とか、中間管理職の位置づけ)にそこそこ関心があったのだけど、そういう経営論は一切なく、抽象的で精神論的なスローガンに着地しがちなのであった。特に対談相手の尾木直樹は、「日本はなにもかもダメで、外国サイコー!」という150年前から連綿と続くエビデンス無用の抽象論と粗暴な自由化論に終始して、何がしたいのか意味が分からないであった。
後半の保護者向けQ&Aは、そこそこ具体的で、教員の立場と面子を守りつつ保護者の要求にも応えようとするような、さすが校長経験者というバランス感覚が垣間見えた。こういうふうに保護者をさりげなく教育でき、教員を守ってくれる校長先生だと、学校経営全体も上手くいくのだろうなとも思ったのだった。

コミュニティスクールなどが広がり、各学校の裁量権が増え、校長のリーダーシップ次第で学校を変えられる時代になりつつある。校長のリーダーシップを考える上では、先駆的な一つの事例として参考になる本ではある。

加地健『学校を変えよう! 親の心配Q&A50』じゃこめてい出版、2012年

小学校は「刑務所通わされてるようなもん」なのかどうか?

日刊スポーツが「堀江氏、小学校は「刑務所通わされてるようなもん」」という記事をネット配信した(2019年5/10)。彼の価値観云々に対してではなく、このような言説を含めた状況全体について、思ったことがあるので、備忘録がてらコメントを残しておく。

まず「学校が刑務所のようなもの」という見解には、学問的なモトネタが存在する。ホリエモンのオリジナルではない。フーコー『監獄の誕生』(1975年)やイリッチ『脱学校の社会』(1971年)等で、40年以上前から学問的に示されてきた見解だ。それらの著書では、学校と刑務所(さらには病院)を、単に比喩的な意味ではなく、人間性を強制的に作り替えるものとして、本質的に同じ作用を持つ権力装置として議論している。そこには「近代」という時代の本質に対する透徹した洞察が示されている。

そもそも昔は、人々の大半は学校に行っていなかった。平安時代や鎌倉時代には、99.99%の人間は学校に行かなくても、生活上なんの問題もなかった。ヨーロッパでも事情は同じだ。大半の人間は学校なんかに行かなくても、普通に暮らすことができた。
しかし現在は逆に99.99%の人間が学校に行く。学校に行かなくては普通の生活ができないと、多くの人が思っている。どうして昔は学校に行かなくても平気だったのに、現在は行く必要があるのか? 本当に学校に行かなくてはいけないのか? この疑問を突き詰めていくと、学校や教育のみならず、「近代」に対する洞察へと至ることとなる。

結論だけ言えば、「資本主義で歯車となる人間」を供給するためには、人々を学校にむりやり収容し、生活習慣を強制的に組み替え、工場労働に適合する習慣形成を行う必要があるのだ。たとえば工場が期待する優秀な労働者とは、無断欠勤しない、遅刻しない、上司の命令はどんなに理不尽でも聞く、密告するなどの習慣を身につけた人間だ。
そして人間は、学校に通わなかったら、こういう習慣を身につけない。家庭学習で頭が良くなるだけでは、ダメなのだ。あらゆる人間をむりやり学校に収容し、長年にわたって工場労働に適合するためのトレーニングを積ませる必要があるわけだ。

資本主義を発展させるためには、こういった「歯車」が大量に必要であった。そしてその期待に、学校はしっかり応えた。日本が資本主義国へと成長できたのは、学校教育制度が機能したおかげと言える。これが「近代」という時代の特徴だ。

しかし、いったん資本主義が成長しきって成熟段階に入ると、実はこういった「歯車」が必要なくなってくる。単純作業は機械やAIがやってくれるし、会社が必要とするのはイノベーションを起こせるような創造的な人間だ。どちらにしろ「歯車」の需要はなくなる。このあたりの事情は、宮台真司が90年代から「成熟した近代」という言葉で主張している。たしか上野千鶴子も同じような主張をしていた。というか、80年代後半から、だいたいみんなが「近代は終わった」という議論をしていた。

こうして「近代」が終わると、「歯車」を世の中に大量供給していた学校の必要度も下がってくる。人々から学校へ通うモチベーションが失われていく。学校に行く必要を感じなくなる人々が増えてくる。不登校が増える。佐藤学が「学びからの逃走」と呼んだ事態が広がっていく。
ホリエモンが記事内で主張していることは、90年代から既に議論し尽くされた話を、「分かりやすい極論」として示したもののように読める。

さて、議論として必要なのは、「学校は必要だ」とか「必要ない」という主観的な意見ではない。「近代という時代がどういう特徴を持った時代で、どうして学校は近代では有効に機能して、そして21世紀ではそのままで機能するのかしないのか?」という問いの立て方が重要なのだ。
私個人としては「学校は機能しなくなる」とまでは言いたくないが、「このままの学校では、遅かれ早かれ機能しなくなる」という危機感は共有すべきだと思っている。ホリエモンの発言は教育界に1ミリたりとも影響を与えないわけだが、しかしそのイロニーに込められているものから学校の危機を感じておくのは、無駄ではないと思う。

個人的には、ホリエモンとは誕生日が20日ほどしか違わない同年代で、同じ時期に駒場や本郷にいたことから、動向が気になる人物の一人ではあるのだった。

【要約と感想】新井潤美『パブリック・スクール』

【要約】パブリック・スクールはイギリスの上流階級が入る学校ですが、小説や演劇を通じて、階級の差を超えてイギリスの文化や考え方全体に影響を与えています。

【感想】イギリスではパブリック・スクールを舞台とした物語が人気だったことが分かるが、日本でも1970年代から少女マンガで寄宿舎ものがやたらと発展したことを思い出す。まあイギリスではなく大陸ぽいけれども。イギリス階級ものマンガだと『エマ』とか『アンダーザローズ』を思い浮かべたりする。

教育史的関心から読むと、パブリック・スクールが増え始めるのが16世紀というのは(7頁)、本書が言うように宗教改革の影響も多々あるだろうが、個人的には印刷術の影響が決定的だろうと思ってしまう。
あるいは、教育史の学生用教科書にはパブリック・スクールはほとんど取り上げられず、一方でオーエンの性格形成学院とベル・ランカスターのモニトリアルシステムばかりが強調されるわけだが、本書では逆にそれら教育史的素材に一言も触れられないところは、イギリスの如何ともしがたい階級制をむしろ顕わにしていて、いろいろと感慨深いものがある。
体罰を描写するくだりでは、寺崎弘昭先生の素晴らしい仕事(ホープリー事件)を思い出さざるを得ない。が、本書ではジョン・ロックの「ジョ」の字も出てこない。教育史の専門家としてはイギリスの教育というとロックとかスペンサーとかを即座に想起するわけだが、まあ現実からズレているのは我々の方なのかもしれない。いやはや。

【個人的な研究のための備忘録】
本書では「人格」という言葉が随所に登場する。パブリック・スクールが知識や教養ではなく、人格形成を重んじていたという記述に登場する。

「しかしこうして見ると、「プライベートな教育か、パブリックな教育か」という論争で重要なのは、与えられる知識の質や量ではなく、「しつけと人格形成」であることがわかる。」24頁

「パブリック・スクールが人格形成の場所であり、弱点や欠点を持った少年でも、良い感化を受けて変わることが可能であるという、従来の「学校物語」のメッセージや教訓」62頁

「「ボーイ・スカウト」運動も、ワーキング・クラスの少年に、パブリック・スクールの規律と人格形成の機会を与えようという試みである。」69頁

「…土地を所有することで生活が成り立つアッパー・クラスにとっては知識や教養を詰め込む必要がないという考え方にもとづいている。しかし、何らかの職につくひつようがあるアッパー・ミドル・クラスにとっては、パブリック・スクールでいかに人格形成が重んじられようと、或る程度の知識や教養の取得が必要であることは言うまでもない。」130頁

「…学校を見に来た父親も「この手の学校がやるのは教育だけじゃないんだ、人生で大切なのは人格なんだ」と、パブリック・スクールの精神を認めている。」181頁

本書が言う「人格」の原語が気になるところではあるが、私が推測するに、十中八九「character」であって、「personality」ではないだろう。
そしてここにイギリスのアッパークラスにとって知識や教養を獲得する教育自体が必要でないという意識を補助線に入れると、「characterの形成には知識や教養が必要ない、必要ないどころか相反する」という公式が見えてくる。
しかしながら、大陸においては「personality」を形成する物語は「教養小説」と呼ばれている。人格形成は教養獲得と一体化している。日本語では同じく「人格」と呼ばれながら、実は「character」と「personality」では指しているものがまるで違うことに気がつく。
そしてロバート・オーエンが労働者階級のために設立した学校の名前が「性格形成学院=New Institution for the Formation of Character」であったことを想起したりする。果たしてイギリス人にとって「人格=Character」とは何なのか、気になるところだ。personalityとの違いも含め、明らかにしなければならない。

新井潤美『パブリック・スクール―イギリス的紳士・淑女のつくられかた』岩波新書、2016年