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【要約と感想】奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』

【要約】日本の従来の学校教育で行ってきた集団一斉教授はオワコンになりつつあります。教師や学校は、今こそ新しい教育にチャレンジするべき時です。時期学習指導要領の目玉キーワードになるであろう「個別最適な学び」と「協働的な学び」について、具体的な授業実践を土台にしながら解説します。子どもたちの「学びたい」という気持ちを信じ、教師が教科の本質を捉えた上で丁寧に学習環境を整えれば、子どもたちは本来の「有能な学び手」の力を発揮します。教師は、従来の一斉授業観を放棄し、新しい時代の新しい学びにふさわしい新しい役割を担うべきです。ICTはへっちゃらで使いこなしましょう。

【感想】おもしろく読んだ。単に頭の中で考えた理論ではなく、具体的な授業実践を積み上げながら鍛え上げた話なので、説得力を感じる。子どもに先生の役割を委ねて授業を進行させる「自学・自習」の取り組みは、なかなか刺激的だ。が、確かに教師が事前に環境を整備して資料を豊富に用意しておけば、成立する取り組みのように見えた。というか、教師の役割が「アナウンサー」とか「アクター」というものから「ディレクター」へ、あるいはさらに「プロデューサー」とか「監修」といったものに変わっていくということなのだろう。
 しかしこのレベルまで実践が高まると、現行制度による縛りが授業実践の足かせになる。具体的には例えば、教科書採択の権限が各学校ではなく教育委員会にあるのはどうなのか。またあるいは「学習指導要領」の法的拘束性はどう考えるべきか。「特別の教科 道徳」の設置など、むしろ時代に逆行しているのではないか。本書内では、もっぱら授業方法が時代遅れだと強調していたが、現場の先生たちは一生懸命に頑張っていて、むしろ中央集権的な教育制度や教育行政のほうが現場の足を引っ張っているのではないか。役にも立たない研修を制度化して強制するより、現場を信じて先生方に大きな権限を与えるのが一番うまくいくのではないか。教育行政が現場を信じていないことが、実は日本の教育が抱える諸問題のいちばん根っこにあるのではないか。教育最前線の現場では「子どもの力を信じて自由を与える」ことによって素晴らしい実践が行われている一方で、教育行政が「教師の力を信じないで自由を奪う」ことによって現場の活力が削られていくのであった。

【個人的な研究のための備忘録】エージェンシー
 「エージェンシー」という言葉への言及があったので、サンプリングしておく。

「近年、OECDがエージェンシーという概念を提起しています。直訳すれば「行為主体性」ですが、OECDは「私たちが実現したい未来」を具現化する上で不可欠なものであり、「変化を起こすために、自分で目標を設定し、振り返り、責任をもって行動する能力」と説明しています。先生の支援を受けながら、自分たちの意思と力で自分たちが望む授業を仲間と協働しながら創り出していく「自学・自習」の経験が、子どもたちにエージェンシーを育んでいくことは間違いのないところでしょう。」(38頁)

 やはり、従来は「personality」と呼ばれていた対象を、意図的に「agency」と呼び換えてきているような印象を受ける。「行為主体性」とか「責任をもって行動する能力」などは、従来はpersonalityという概念が内包していた観念のはずだ。これをわざわざ新しくagencyという言葉でもって言い換えてきているということは、逆に言えばpersonalityという言葉に実践的な力がなくなってきていることを意味するのだろう。personalityという言葉に様々な手垢がついて、従来担っていた意味内容の輪郭がぼやけ、伝えたい内容が伝わらなくなったということなのだろう。「人格」という日本語についても、あまりにも意味内容が拡散し、本来この言葉が担うはずだった役割を果たさなくなっているので、おそらくこれに代わる新しい言葉が必要になっている。英語のagencyに相当するような新しい日本語は、さて、誕生するのかどうか。これからもカタカナで「エージェンシー」と呼び続けることになるのか。

■奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』東洋館出版社、2021年

【要約と感想】工藤勇一・鴻上尚史『学校ってなんだ!日本の教育はなぜ息苦しいのか』

【要約】ブラック校則や不登校なんてものは表面上の問題に過ぎず、本質的には子どもたちに自己決定権が与えられていないことが問題です。教育にとっていちばん大切なのは「自律」した人間を育てることですが、それには「戦略」が大事です。表面的な問題を正義面して解決しようとせず、みんな違っていることを前提に、必ず合意できる本質を大切にし、そこから粘り強く対話を重ね、根気よく合意形成をしていけば、自ずと環境が整っていきます。そして教育の問題といわれているものは、子どもの問題ではなく、教師の問題であり、大人や社会の問題であることが見えてきます。

【感想】工藤校長が言っていることは他の本の内容とまったく一緒(そうじゃないと困る)なのだが、対談相手の鴻上尚史がさすがの切れ味で、教育哲学の本質的なところがより浮き彫りになっているように読んだ。どちらも宙に浮いた理想論ではなく、地に足の着いた実践を踏まえて語っているので、とても説得力がある。
 ただし同じように問題解決をしようと思ったら、組織をまとめあげる人間観察力とコミュニケーション力が必要なのは言うまでもなく、ブレない理念と信念に加え、本書で繰り返し強調されるように「戦略」を立案する知恵と経験が大切になってくる。この重層的な課題に「当事者意識」を以て臨むことは、極めて大変なことだ。しかしその困難に恐れず立ち向かっていく大人の姿を、子どもたちもしっかり見ているということだろう。説得力はそういうところから立ちあがってくる。私も一人の大人として、頑張ろうと思う。

【今後の研究のための備忘録】教育と宗教
 現代日本教育の問題を「宗教」と表現する発言が両者からあったので、サンプリングしておく。

鴻上「「どうしてツーブロックの髪型は校則違反なんですか?」と問う高校生に「そんなの高校生らしくないだろ!」と言い放つ先生とは、言葉は通じていません。会話になってないのです。それは宗教的言葉です。「どうして神はこれを禁じているのですか?」「それは神が禁じているからだ!」は、論理的な会話ではないはずです。ただ、宗教的信念の告白です。」pp.12-13

工藤「民主主義が成長している欧州と日本の学校教育を比較すると、日本は論理的に物事を進めるのが得意ではないように感じます(中略)。伝統的、かつ経験主義的で、情緒的であり、ある意味宗教的な感じがします。」pp.258-259

 ちなみに工藤の言葉の中に「岡本薫」という人物名が出てくるが、彼は著書の中で日本の教育を「教育教」と呼び、宗教になぞらえている(岡本『日本を滅ぼす教育談義』)。さらにちなみに、教育の弊害を宗教になぞらえるのは日本だけではない。オーストリア出身でラテンアメリカで活躍した思想家イヴァン・イリイチも、教育を宗教に喩えて批判している(イリイチ『脱学校の社会』)。
 で、教育を「宗教」になぞらえて何が言いたいかは、わからなくもない。だがしかし、教育の「教」が宗教の「教」でもあることはなかなか奥が深く、ここを侮っていると足を掬われるようにも思うのであった。教育というものを突きつめていくとどこかで必然的に「宗教」なる何かに変質する瞬間(個人的にはそれを「特異点」と呼んできている)があることについては、畏れを抱いておく必要があると思っている。

【今後の研究のための備忘録】エージェンシー
 「エージェンシー」という言葉に関して、世界中の教育界で流行しているが日本人には分かりにくい、という話題が出て来たので、サンプリングしておく。

工藤「いま、世界中の教育関係者の間では「エージェンシー」(agency)が大事だってことが言われています。文科省は「主体的に問題を解決する姿勢」と訳しているのですが、ちょっとわかりにくいですよね。
 先日、OECDの局長が来日した歳、対談させてもらう機会がありました。そのとき「麹町中の取り組みは当事者意識を育てることだ」と話したら、「それはエージェンシーですね」と返ってきたんです。つまり、エージェンシーは当事者意識を指すような言葉なんですね。なんでも他人事にしてはいけない、自分自身もまた社会を構成しているひとりなのだという考え方を育てるべきだという考え方です。」pp.96-97

 個人的には、従来personaliyという言葉で言いあらわされてきた対象(責任と主体性を持った人格)に関して、personalityという言葉自体がボヤけて焦点を失いつつあるので、代わりとなる言葉が必要になり、そこにすぽっと当てはまったのがagency(当事者性・主体性)という言葉だと考えている。あるいは日本語においても、教育基本法の第一条で教育の目的は「人格の完成」と言っているが、いまや「人格」という言葉自体がボヤけて焦点を失いつつあるので、代わりとなる言葉が必要になっている。そんなとき、「主体性」とか「当事者性」という言葉にしっくりきたりするわけだ。しかしもともとはpersonalityや「人格」という言葉で呼び習わされてきた何かであることは、忘れてはならないように思う。

工藤勇一・鴻上尚史『学校ってなんだ!日本の教育はなぜ息苦しいのか』講談社現代新書、2021年

【要約と感想】深井智朗『プロテスタンティズム―宗教改革から現代政治まで』

【感想書き直し2022/2/12】実は著者が論文の「捏造」をしていたことが、読後に分かった。捏造していたのは他の本ではあるが、本書が捏造から免れていると考える根拠もない。信用できない。読後の感想で、「論文や研究書の類ではズバリと言えず、言葉の定義や歴史的社会的背景を注意深く整理した上で奥歯にものが挟まったような言い方をせざるを得ないような論点を、端的に言葉にしてくれている」と書いたが、それがまさに研究にとって極めて危うい姿勢だということがしみじみと分かった。今後、本書から何か引用したり参考にしたりすることは控えることにする。

【要約】一口にプロテスタンティズムといっても内実は多様で、ルターに関する教科書的理解にも誤解が極めて多いのですが、おおまかに2種類に分けると全体像が見えやすくなります。ひとつは中世の制度や考え方を引き継いで近代保守主義に連なる「古プロテスタンティズム」(現代ではドイツが代表的)で、もうひとつはウェーバーやトレルチが注目したように近代的自由主義のエートスを準備する「新プロテスタンティズム」(現代ではアメリカが代表的)です。前者は中世的な教会制度(一領域に一つ)を温存しましたが、後者は自由競争的に教会の運営をしています。

【感想】いわゆる教科書的な「ルターの宗教改革」の開始からちょうど500年後に出版されていてオシャレなのだが、本書によれば「1517年のルター宗教改革開始」は学問的には極めて怪しい事案なのであった。ご多分に漏れず、ドイツ国家成立に伴うナショナリズムの高揚のために発掘されて政治的に利用された、というところらしい。なるほど音楽の領域におけるバッハの発掘と利用に同じだ。そんなわけで、でっちあげとまでは言わないが、極めて意図的な政治的利用を経て都合良く神話化されたことは、よく分かった。
 古プロテスタンティズム=ドイツ保守主義、新プロテスタンティズム=アメリカ自由主義という区分けも、やや図式的かとは思いつつ、非常に分かりやすかった。ウェーバーを読むときも、この区分けの仕方を知っているだけでずいぶん交通整理できそうに思った。
 全体的に論点が明確で、情報が整理されていて、とても読みやすかった。が、分かりやすすぎて、逆にしっかり眉に唾をつけておく必要があるのかもしれない。(もちろん著者を疑っているのではなく、自分自身の姿勢として)。

【研究のための備忘録】中世の教会の状態と印刷術
 そんなわけで新書ということもあって、論文や研究書の類ではズバリと言えず、言葉の定義や歴史的社会的背景を注意深く整理した上で奥歯にものが挟まったような言い方をせざるを得ないような論点を、端的に言葉にしてくれている。ありがたい。
 まず、宗教改革以前(というか「印刷術」以前)の教会の状態を簡潔に説明してくれている本は、実は意外にあまりない。

「また人々は、教会で聖書やキリスト教の教えについての解き明かしを受けていたわけではない。たしかに礼拝に出かけたが、そこでの儀式は、すでに述べた通りラテン語で執り行われていた。一般の人々には何が行われているのかわからない。もちろん人々の手に高価な聖書があるわけではない。仮にあったとしても、聖書はラテン語で書かれているので理解できなかった。」p.28

 こういう印刷術前の状況は、「教育」を考える上でも極めて重要だ。たとえば印刷されたテキストそのものが存在しない場合、今日と比較して「朗読」とか「暗誦」という営み、あるいは「声」というメディアの重要性が格段に上がっていく。そういう状況をどれくらいリアルに思い描くことができるか。
 で、現代我々がイメージする「教育」は、「文字」というメディアが決定的に重要な意味を持ったことを背景に成立している。もちろん印刷術の発明が背景にある。ルターの見解が急速に広がったのも、印刷術の効果だ。

「ルターの提言は、当時としては異例の早さでドイツ中に広まった。(中略)この当時は、版権があったわけではないから、ヨーロッパ各地で影響力を持つようになっていた印刷所や印刷職人が大変な勢いで提題の複製を開始した。」p.45
「いわゆる宗教改革と呼ばれた運動が、すでに述べた通り出版・印刷革命によって支えられていたことはよく知られている。ルターはその印刷技術による被害者であるとともに受益者でもある。」p.49

 これに伴って「聖書」の扱いが大きな問題になる。

「一五二〇年にルターはさまざまな文章でローマの教皇座を批判しているが、その根拠となったのは聖書である。(中略)しかし、すでに触れたようにこの時代の人々のほとんどは聖書が読めなかった。その理由は写本による聖書が高価なため、個人で所有できる値段ではなく、図書館でも盗難防止のために鎖につながれていたほどであったからである。もう一つ、聖書はラテン語訳への聖書がいわば公認された聖書で、知識人以外はそれを自分で読むことはできなかった。
 この問題を解決したのは、一つはグーテンベルクの印刷機である。写本ゆえに高価であった聖書が印刷によって比較的廉価なものとなったからだ。しかしなんと言っても重要なのはルターがのちに行う聖書のドイツ語訳である。(中略)これは画期的なことであった。聖書を一般人も読めるのである。文字が読めなくても朗読してもらえば理解できる。」pp.58-59

 本書では「近代」のメルクマールを人権概念や寛容の精神に求めていて、もちろんまったく問題ないが、一方でメディア論的にはそういう法学・政治学的概念にはまったく関心を示さず、印刷術の発明による「知の流通量増加」が近代化を促した決定的な要因だと理解している。「教育」においても、印刷されて同一性を完璧に担保されたテキストが大量に流通したことの意味は、極めて大きい。

【研究のための備忘録】フスとの関係
 ルターの主張と宗教改革の先輩ボヘミアのヤン・フスの主張との類似性は明らかだと思うが、教育思想史的にはコメニウスとの関係が気になるところだ。フス派だったコメニウスにはどの程度ルター(あるいはプロテスタンティズム)の影響があるのか。本書で説明される「リベラリズムとしてのプロテスタンティズム」の説明を踏まえると、コメニウスの主張にも反映していないわけがないようにも思える。(先行研究では、薔薇十字など神秘主義的な汎知学との親和性が強調されているし、そうなのだろう。)

「エックは、ルターがフスの考えを一部でも支持して、フスは正しかったと言ってくれれば、それでこの二人は同罪だと指摘すべく準備していたのだ。エックは事前にルターの考えを精査し、ルターとフスの考えの類似性を感じ取っており、また内容それ自体で勝負しようとしているルターを陥れるとしたら、この点だと確信していたのである。」p.54

【研究のための備忘録】中世と近代
 で、歴史学的な問題は「中世と近代の境界線」だ。はたして「宗教改革」は中世を終わらせて近代を開始したのか。本書は懐疑的だ。

「トレルチの有名な命題は、「宗教改革は中世に属する」というものである。ルター派もジュネーブのカルヴァンの改革もそれは基本的に中世に属し、「宗教改革」という言い方にもかかわらず、教会の制度に関しては社会史的に見ればカトリックとそれほど変わらないのだという。」p.107
「近代世界の成立との関連で論じられ、近代のさまざまな自由思想、人権、抵抗権、良心の自由、デモクラシーの形成に寄与した、あるいはその担い手となったと言われているのは、カトリックやルター派、カルヴィニズムなど政治システムと結びついた教会にいじめ抜かれ、排除され、迫害を受けてきたさまざまな洗礼主義、そして神秘主義的スピリチュアリスムス、人文主義的な神学者であったとするのがトレルチの主張である。」pp.108-109

 ということで、本書は中世の終わりをさらに後の時代に設定している。それ自体は筋が通っていて、なるほどと思う。とはいえ、メディア論的に印刷術の発明をメルクマールに設定すると、いわゆる「宗教改革」は派生的な出来事として「知の爆発的増加」の波に呑み込まれることになる。このあたりは、エラスムス等人文主義者の影響を加味して具体的に考えなければいけないところだ。

【研究のための備忘録】市場主義と学校
 教会の市場化・自由化・民営化を、学校システムと絡めて論じているところが興味深かった。

「「古プロテスタンティズム」の場合には、国家、あるいは一つの政治的支配制度の権力者による宗教史上の独占状態を前提としているのに対して、「新プロテスタンティズム」は宗教市場の民営化や自由化を前提としているという点である。」p.112
「それ(古プロテスタンティズム:引用者)はたとえて言うならば、公立小学校の学校区と似ているかもしれない。」p.113
「その点で新プロテスタンティズムの教会は、社会システムの改革者であり、世界にこれまでとは違った教会の制度だけではなく、社会の仕組みも持ち込むことになった。それは市場における自由な競争というセンスである。その意味では新プロテスタンティズムの人々は、宗教の市場を民営化、自由化した人々であった。」p.117

 現代日本(あるいは世界全体)は、いままさに学校の市場化・自由化・民営化に向けて舵を切っているが、コミュニティ主義からの根強い反対も続いている。なるほど、これはかつて教会の市場化・自由化・民営化のときにも発生していた事態であった。つまり、教会改革の帰結を見れば、学校改革の帰結もある程度予想できるということでもある。

【研究のための備忘録】一と多
 本書の本筋とは関係ないが、「一と多」に関する興味深い言葉があったのでメモしておく。

トレルチ講演原稿の結び「神的な生は私たちの現世での経験においては一ではなく多なのです。そしてこの多の中に存在する一を思うことこそが愛の本質なのです」p.208

 カトリックの思想家ジャック・マリタンの発言との異同を考えたくなる。

【神奈川県横浜市金沢区】金沢文庫は学校じゃないが、裏山に北条実時の墓がある

金沢文庫に行ってきました。
「金沢文庫」は、創設者とされる北条実時の名前を伴って、しばしば教員採用試験に出題されます。そして雑な参考書では、金沢文庫が「中世の学校」とされているケースを見かけます。いえいえ、金沢文庫は学校(少なくとも私達が知っている学校)ではありませんでした。

ちなみに、もともとあった金沢文庫の建物自体は既に滅びてなくなっています。現在は県立の博物館となっており、常設展の他、定期的に特別展が開催されています。そして金沢文庫に関して言えば、建築物そのものはあまり大きな意味がないかもしれません。というのは、金沢文庫の本質は、建物ではなく、「書物」そのものだからです。「金庫」の守りたいものが箱などではなく金そのものであるように、「文庫」の守りたいものは建築物などではなく「文」そのものです。仮に建物が滅びてなくなったとしても、「文」を運んでくれる書物が残って現在に伝えられていることが極めて尊いのです。
その書物の大部分が遺されていたのは、金沢文庫からごくごく小さな山を隔てて東隣にある称名寺というお寺です。

花頭窓のある立派な山門を抜けて称名寺の境内に入り、太鼓橋を登って阿字池を突っ切って、金堂に向かいます。この阿字池になんとなく異国情緒を感じるのは、我々が室町以降の枯山水庭園のほうに慣れ親しんでいるからかもしれません。

称名寺の境内を囲むように山があります。というか正確に言えば、三方を山に囲まれた谷地を選んで称名寺が建っている、としたほうがいいでしょう。もともとは北条実時の館だったので、戦争時の防御に適した地形を選んでいるということですね。

称名寺の北の山の中に、金沢文庫を創設したとされる北条実時の墓があります。ハカマイラーとしてはぜひ行かなければなりません。この森は軽いハイキングコースとなっていて、地元の人が散歩を楽しんでおりました。

写真の真ん中が北条実時の五輪塔です。

お墓の脇に案内パネルがあります。この説明では、賢明にも慎重に「金沢文庫の礎を築きました」と書いてあります。軽率に「創設」とは言っていないところに注目しておきましょう。

お墓からさらに西に進むと、山の天辺から八景島を臨む絶景が楽しめます。天気も良かったので、海を眼前に臨んでとても良い気分です。手軽なハイキングコースとしては極めて優秀だと思いました。

さて山を一周して称名寺の境内に降りてくると、西の端に銅像が立っています。僧形の北条実時です。本来は武士ではありますが、お寺の開基ですからね。

そして銅像の西に、トンネルがあります。このトンネルを抜けたところが、県立金沢文庫の入口です。少し不思議な景色です。

トンネル入口に設置された案内パネルには、「金沢文庫」の由来が説明されています。ここに明確に「和漢の貴重書を納めた書庫」と書いてあります。「学校」とは一言も書いてありません。ここは誰かを教育したり指導するための場所ではありませんでした。「貴重書」の収集と保管そのものが目的であり、そしてそれを目当てに知識人が集まってくるような、研究所とかサロンとでも呼ぶような場所でした。

平安時代までは、このような「和漢の貴重書」を集めていたのは貴族や僧侶でした。金沢文庫の最大のポイントは、戦闘集団だったはずの武士が「和漢の貴重書」を集め始めたという明確な痕跡が残っているところです。
鎌倉に武家による権力組織が誕生したのはいいとして、現実的に政治を行なうためには立法・行政・司法に関する広範囲の知識と教養が必要になってきます。そして関東武士の土地財政的な実態に合った権力運用のためには、貴族式の律令制では役に立たず、新たなルールが必要とされます。具体的なルールは「御成敗式目」という形で登場することになるわけですが、これらの整備や運用に際しても知識と教養が必要になります。金沢文庫とは、武士が実際に政治を行なうときに必要とされた知識と教養を蓄え、運用し、表現するための場所だったわけです。

トンネルの北側には、「中世の隧道」が遺されています。現在は金網で封鎖されていて通ることはできません。

案内パネルによれば、称名寺と金沢文庫を繋ぐ通路として実際に使用されていた可能性が高いようです。確かにいちいち山を越えるのは面倒そうです。北条実時も、館から文庫へ赴く際は、この水道を利用していたのでしょう。
北条実時が収集を始め、称名寺に遺された「文庫」は、現在も貴重な資料として各種研究に利用されています。ありがたいことです。
(2020年12/26訪問)

【要約と感想】西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』

【要約】自然科学の考え方で、生徒の行動や考え方を観察して、帰納的に原理原則を考えれば、自ずと学校の在り方が見えてきます。校則は必要ありませんし、定期テストや制服も必要ありません。「ひとつの校長ルール」とは、誰かが勝手に決めたルールを無条件に信奉して演繹的に思考するのではなく、帰納的に物事を考えるということです。

【感想】物事を考えるルールは「帰納的に思考する」ということだが、根底にあるのは、子どもを一人の人間として扱い、人格を尊重するという、人権感覚だ。「大人/子ども」を区別することなく、境界線を引くことなく、徹底的に子どもたちを一人の人間として扱う。この土台が揺らがないから、教師や生徒たちも安心してついていくことができるのだろう。この理念がなかったとしたら、帰納的な自然科学思考を徹底したとしても、たいした成果は挙がらないだろう。徹底的な人間愛の理念の下で大きな成果を挙げた手腕には、ただただ頭が下がる。すごい。

カント・ヘーゲル以降の近代的人間観においては、「大人」と「子ども」の間には確固たる境界線が引かれ、「未成熟な子ども」は一方的に「理性的な大人」の指導を受ける立場だと考えられてきた。その基本的なOSの上に、学校制度を中心とする近代教育は形成されている。「大人/子ども」の厳密な区別を前提として、初めて近代学校制度は動くように組み立てられている。
しかし近代的な「大人/子ども」の峻別は、50年ほど前から向こうになりつつある。大人は決して理性的でないし、子どもは必ずしも未成熟でないという理解が説得力を持ちつつある。1989年「子どもの権利条約」は、子どもを一人の人間として認めようという理念の集大成となった。それに伴い、既存の近代的価値観に寄りかかる学校制度は機能不全を起こしつつある。近代的な「大人/子ども」の区別が説得力を持たなった現代だからこそ、「子どもを一人の人間=おとな」として扱うという根本的な価値転換が大切になってくる。
本書は、根本的な価値転換の在り方を、具体的な形で丁寧に示してくれる。とても貴重な実践だ。現実には賛否両論があるのだが、表面的なところでこの実践を否定している人々の意見は、実にくだらない。「近代的価値観」の是非にまで踏み込んで、初めて賛否両論を検討することに意味がある。

西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』小学館、2019年