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【要約と感想】河合隼雄・工藤直子・佐伯胖・森毅・工藤左千夫『学ぶ力』

【要約】嫌なものをムリヤリ学んでも、身につきません。楽しみましょう。役に立たないくらいが、ちょうどいいのです。
昭和ヒトケタ世代の経験を踏まえて、「学ぶ」とはどういうことかを考えた、講演とシンポジウムの記録です。

【感想】森節が炸裂して、河合隼雄のアクが目立たない感じの本であった。ちょうどいい。
合理化と経済化がますます加速していく昨今、こういう適当な本をのんびり読むような学生がいてくれると、安心なのだがね。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
学力論争盛んな頃に出た本ではあるので、「学力」に関する興味深い言質をいくつか得た。

森「僕は学力低下と言われるのが嫌いなんです。何でかといったら、人のことを巻き込んで悪いけど、僕も河合さんも学力ないんですわ。(中略)その代わり、欠けた学力でも何とかするというのがものすごく上手だったですな。あとあとそれがけっこう役に立つんです。基礎学力なんかやってられへん。(中略)基礎学力はないけど、発想が違うから何か新しいことが生まれるかもしれない。つまり、日本の文化の未来のためには、学力なしで何とかする学力をいかに育てるかが大事だと思います。」26-30頁

森節が炸裂している文章だ。「学力なしで何とかする学力」とは言い得て妙な表現に思った。もちろん前者の学力と後者の学力では意味する内容が異なっている。前者の学力は、受動的に知識を教えてもらうだけのものだ。後者の学力は、もっている力を能動的・総合的に活用して問題解決する力のことだ。だから正確に翻訳すれば、「教科書的な知識なしでも何とか目の前の問題を解決できる総合的な能力」となるだろう。

また工藤左千夫の「児童文化と学び」という文章は、なかなか興味深く読んだ。

「一般論になるのだが、教育もしくは児童文化なるものの発祥は、古代ギリシャまで遡る。当時の教育的目的は、パイディア(教養)の育成にあった。その内容については、現代の「自己実現」と近似している。現代的な「自己実現」は、「自らの課題を自らが見つけ、それに自らが応えていく」という意味に収斂されるだろう。」104-105頁
「近代教育の目的は、「外部感覚」(観察力の向上)から「内部感覚」(感動を通しての心の活性化)へ移行するプロセスに人格の形成を展望したことである。心の感じ方は人それぞれであるが、この「それぞれ」の模索に「近代的自我」や「個性」などが語られた。」109頁

「自己実現」とか「人格」とか「近代的自我」という概念がコンパクトにまとまっているサンプルである。

それから、佐伯胖の論考は、とても勇気が出る。「できる」を中心に教育を語ることは、実は50年ほど前に一度流行って、そして認知心理学の興隆に伴って廃れた考え方だと明言しているのだ。

「そう考えると、「学ぶ」ということを、「○○ができるようになること」と言い換えてしまうことは、とてつもなくばかげた、おろかな、偏狭なものの見方だということは、誰でも認めることのように思えるでしょう。
ところが実際にはそうでもないのです。「学ぶ」ということは、すべて「○○ができるようになること」であり、それを達成したら「学んだ」ことになり、それが達成されなければ「学んでいない」ことだという考え方は、意外に根強く私たちの心の奥底に根付いていて、私たちの考え方や生き方を支配しているものなのです。」133頁

認知心理学の第一人者の言葉として、文部科学省の役人に熟読吟味していただきたいものである。認知心理学の知見によれば、大学のシラバスを「○○できる」で統一するのは、実に奇妙で、馬鹿げている愚かで時代錯誤な行為なのだ。
そして佐伯による「学力」の定義も味わい深い。

「「学力低下」への危惧から、かつての行動主義に逆もどりしてしまいそうな昨今、ほんとうの「学力」というのは、社会の中で、文化的な実践の共同体に参加していく力であり、それはたんにいろいろな知識や技能の「リスト」を、反復練習で「習熟」していくことではありません。」149頁

河合隼雄・工藤直子・佐伯胖・森毅・工藤左千夫『学ぶ力』岩波書店、2004年

【要約と感想】清水義範『行儀よくしろ。』

【要約】学力低下とか、心配する必要はありません。そもそも学校にそんなに期待しても仕方ありません。そもそも「学力」と「知力」は違うものです。
子どもは、社会全体が育てるものです。学校や教師を批判する前に、ひとりひとりの大人がしっかりしましょう。普段からぴりっと行儀よくしてますか。大人が文化を大切にしないのに、子どもがよく育つわけがありません。

【感想】まあ、教育を学校や教師にまかせず、大人たちがよってたかって、社会全体で育てていこうよ、という。当たり前のことではあるが、この当たり前のことが高度経済成長では通じないということではある。
著者は文化退廃の原因を戦後のアメリカナイズに求めているようだが、本当だろうか。ちゃんと調べれば、決定的なポイントが高度経済成長にあることが見えるはずだ。

【言質】「学力」の用法に関して、いろいろサンプルを得ることができた。

「日本人の学力が低下しているという明確な根拠はほとんどない。」27頁
学力なんて、学習したことをよく修得してテストでいい店が取れる、というだけのことなんですけど。そのいい点が取れる子は、知力が高いんでしょうか。」33頁
「人間にあらまほしきは知力である。学力は知力の一部分ではあるが、知力とイコールなのではない。」35頁

まあ、世間一般の空気を上手に掬った表現であるように思う。「学力」なんて所詮そんなもんよ、という。

清水義範『行儀よくしろ。』ちくま新書、2003年

【要約と感想】小笠原喜康『学力問題のウソ―なぜ日本の学力は低いのか』

【要約】ゆとり推進派も反対派も、所詮は同じ穴の狢です。学力とは何かについて本質的に勘違いしている点で、変わりありません。あらゆる領域に応用可能な「基礎学力」などというものは、幻想です。
知識とは、モノのように授受できるものではありません。それは状況に埋めこまれた「ふるまい」であって、共同体に参画することで初めて意味をもつようなコトです。
大人が一方的に与えるべき知識を決めることは不可能です。学習指導要領を大綱化し、子どもたち自身が社会に参加できるような仕組みを整えましょう。

【感想】なかなかユニークな本だった。まあ、新書だから書けるような、そこそこ迂闊な話もあるような気はするが。「構成主義」に対する批判は、かなり危ない橋を渡っているような気はする。
最終的に落ち着くところは、学習指導要領の大綱化と子どもたちの社会への参画ということで、そこだけ見るとよく聞く話ではある。が、そこまでに至るプロセスで、「児童の権利条約」から攻めるのではなく、徹底的に学力論に寄り添うところが、ユニークなのだった。
気になるのは、学力が「きちんと定義されていない」(29頁)とされているが、もちろん本書が出た2008年時点では既に学校教育法30条の定義が存在している。これに対する言及が一切ないのは、ちょっとマズい気はした。

【言質】
「個性」という言葉の用法サンプルを得た。

「それまでの大学入試が難問奇問に走りがちで、各大学の特性を活かした選抜になっていないことを解消しようとして始められた。しかし結果は、逆になった。なぜそうなったのか。それはもちろん、国立大学に受験生が選べるだけの個性が十分になかったからである。」(65頁)

小笠原喜康『学力問題のウソ―なぜ日本の学力は低いのか』PHP新書、2008年

【要約と感想】根本浩『ゆとり教育は本当に死んだのか?―公立校再生への道』

【要約】ゆとり教育の導入によって、現場の教師は疲弊の極地にあります。保護者からも子どもからもそっぽを向かれています。「総合的な学習の時間」のせいかもしれません。
しかし理念としては、ゆとり教育は間違っていません。本物の教育を取り戻すために、必要な考え方でした。しかしあまりに精密すぎて、ひとつの歯車が狂うことで全体が機能しなくなりました。
しかしゆとり教育は完全には死んでいません。しっかし機能している学校もあります。今こそ、理想の教育を求めて、初心に戻って頑張りましょう!

【感想】著者は、とても誠実で、熱い人なんだなと思った。教育に対して理想を失っていないんだなと思った。が、そういう人が心身を壊して休職しているという事実そのものが極めて重い。彼のような熱意溢れる誠実な教師が安心して働ける環境を作るのが、政治家の仕事であり、あるいは学者の仕事であるはずなのだった。そういう意味で、現場からの声の数々に、身が引き締まる本であった。

根本浩『ゆとり教育は本当に死んだのか?―公立校再生への道』角川SSC新書、2007年

【要約と感想】小宮山博仁『塾の力―21世紀の子育て』

【要約】学校で身に付ける「学校知」は原理や仕組みを論理的に理解するための基礎で、塾で身に付ける「受験知」はテクニックです。両方とも必要です。
これからは、学校が必要ないとか、塾が必要ないとか悪口を言い合うのではなく、力を合わせて「学ぶ楽しさ」を子どもたちに与えていくべきです。というのも、21世紀には、従来の詰め込み知識が役に立たなくなり、学ぶ姿勢や態度などのソフトスキルが重要になってくるからです。今後の入試では、創造的な力を要求する「新学力観」に基づく問題が増えるでしょう。
塾は、難関校への合格者数を誇るのではなく、自らの教育方針や理念を積極的に打ち出すべきです。保護者も偏差値に踊らされず、教育方針や理念をしっかり踏まえて塾選びをするべきです。「学校スリム化」の時代に突入し、学力が二極化することは容易に想像できますが、家庭や地域社会は頼りないので、塾の力に期待するのがいいでしょう。

【感想】ちょうど20年も前の本で、さすがに各種情報は古くなっている。が、「答え合わせ」として読むと、なかなか感慨深いかもしれない。というのは、著者は「学校から合校へ」や「学校スリム化」の政策に関わっており、本書も文科省(当時は文部省)の主張と同じ方向を見ているからだ。その視点から描かれた未来予想図がどの程度当たっているかという関心をもって読むと、そこそこおもしろい。
まあ、本書が出た直後に「ゆとり教育批判」と「学力論争」が巻き起こり、文科省が方針を一部撤回したため、本書の見通しのいくつかは外れることになった。が、大きな筋道はズレていないのかもしれない。時代の雰囲気を証言する本としては、なかなか使い勝手がいいかもしれない。

小宮山博仁『塾の力―21世紀の子育て』文春新書、1999年