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【要約と感想】福田誠治『こうすれば日本も学力世界一―フィンランドから本物の教育を考える』

【要約】産業社会から情報社会に変化した以上、一つの決まった答えを教え込む従来の日本の教育は、もはや世界に通用しません。答えがない問いに取り組み、一人ひとりの違いを認め、個性を発揮して想像力を伸ばす、フィンランドの教育を真似しましょう。そして実はその理想的な理論とモデルは、かつて日本で行なわれていた実践に求めることができます。専門家として信頼される教師を育てることが一番の解決策です。
現在の日本の教育改革や新公共管理の手法は、教育のシロウトが弄ぶ中途半端な戯言で、逆効果に終わる可能性が高いでしょう。教育は偏差値競争とサービス商品化によって破壊されます。教師たたきで満足しているようでは、絶対に問題は解決しません。教育への公財政支出が先進国中最低の日本に、未来はないでしょう。

【感想】全体的にはOECDの価値観にべったりと沿った内容ではあるが、一方で日本の教育実践が積み重ねてきたアドバンテージも指摘されている。新しい時代に対応する教育に切り替えるためには、何も目新しい実践を取り入れる必要はなく、戦後新教育の理論と実践を顧みればよいというわけだ。たとえばOECDが補足できていない「学級作り」の効果にも言及しているが(32頁)、これは従来から諏訪哲二なども繰り返し主張しているところだ。
教育から営利の論理を追放し、教育の論理で貫徹しようという話には、もちろん深く頷く。マネジメントの論理が現場に深く入りこんできて如何ともしがたいように見える昨今ではあるが、その乾いた営利の論理を温かい教育の論理に戦略的に読み替えていく知恵が必要になっている。教師の専門性を最大限に活かせるような制度設計を求めて、教育関係者一同力を合わせていかなければならない。

【要検討事項】
とはいえ、新自由主義に対する楽観的な見方に対しては、多少距離を取ってみたい気もする。著者は以下のように言ってはいる。

「フィンランドでは経済の論理である新自由主義と福祉の論理である社会民主主義がうまく結びついて、人間の新しい質の発現に国の将来と社会生活の将来を見いだし、国民の能力を高めている。」(123頁)
「フィンランドにも学校選択制がある。しかし、政府はどの学校でも学べるように条件を整えて、学校選択制度を有名無実化している。」(125頁)
「教師の資質向上と国家の権限削減とは、フィンランドでは表裏関係をなし、同じことを言っているのである。分権化ないし規制緩和が民営化に向かうのではなく、現場を厚くして教師の判断権限を大きくするように動くわけである。この点が、日本とはまったく異なる。」(186頁)

新自由主義×社会民主主義という社会思想は、確かに表面上は美しいかもしれない。新保守主義と結託して酷いことになっている日本の新自由主義と比べた時には、雲泥の差がある。だがしかし、本当に新自由主義は大人しく社会民主主義の理想に従ってくれるのだろうか。

【今後の研究のためのメモ】
「学力」という概念に関して、いろいろ表現サンプルを得た。

「国民共通の基礎・基本という学力観は古い。学力はすでに国境を越えている。では人間共通の学力などあるのか、教育学的に見れば「人間誰もに共通する基礎・基本などない」と言うべきだろう。なぜなら、物理学者の基礎・基本、医者の基礎・基本、自動車運転手の基礎・基本、バレリーナの基礎・基本、そのようなものはまったく同一ではないと考えるべきだ。」(234頁)
「要するに、一七歳以降は、何にでも通用するという「学力」という考えを捨て、職業や専門それぞれに異なる「学力」と考え直すということである。それぞれに異なる「学力」をそのときの自分の実力と見なし、自分の実力に合うかどうか、自分のやりたいことに合うかどうかで将来の自分の進路を選ぶべきということになる。」(243頁)

OECDの言う「コンピテンシー」ともずいぶん異なる、なかなかユニークな学力観と言えるかもしれない。個人的には、ここまで言い切られると、逆に不安になってしまうのではあるが。

福田誠治『こうすれば日本も学力世界一―フィンランドから本物の教育を考える』朝日選書、2011年

【要約と感想】新井潤美『パブリック・スクール』

【要約】パブリック・スクールはイギリスの上流階級が入る学校ですが、小説や演劇を通じて、階級の差を超えてイギリスの文化や考え方全体に影響を与えています。

【感想】イギリスではパブリック・スクールを舞台とした物語が人気だったことが分かるが、日本でも1970年代から少女マンガで寄宿舎ものがやたらと発展したことを思い出す。まあイギリスではなく大陸ぽいけれども。イギリス階級ものマンガだと『エマ』とか『アンダーザローズ』を思い浮かべたりする。

教育史的関心から読むと、パブリック・スクールが増え始めるのが16世紀というのは(7頁)、本書が言うように宗教改革の影響も多々あるだろうが、個人的には印刷術の影響が決定的だろうと思ってしまう。
あるいは、教育史の学生用教科書にはパブリック・スクールはほとんど取り上げられず、一方でオーエンの性格形成学院とベル・ランカスターのモニトリアルシステムばかりが強調されるわけだが、本書では逆にそれら教育史的素材に一言も触れられないところは、イギリスの如何ともしがたい階級制をむしろ顕わにしていて、いろいろと感慨深いものがある。
体罰を描写するくだりでは、寺崎弘昭先生の素晴らしい仕事(ホープリー事件)を思い出さざるを得ない。が、本書ではジョン・ロックの「ジョ」の字も出てこない。教育史の専門家としてはイギリスの教育というとロックとかスペンサーとかを即座に想起するわけだが、まあ現実からズレているのは我々の方なのかもしれない。いやはや。

【個人的な研究のための備忘録】
本書では「人格」という言葉が随所に登場する。パブリック・スクールが知識や教養ではなく、人格形成を重んじていたという記述に登場する。

「しかしこうして見ると、「プライベートな教育か、パブリックな教育か」という論争で重要なのは、与えられる知識の質や量ではなく、「しつけと人格形成」であることがわかる。」24頁

「パブリック・スクールが人格形成の場所であり、弱点や欠点を持った少年でも、良い感化を受けて変わることが可能であるという、従来の「学校物語」のメッセージや教訓」62頁

「「ボーイ・スカウト」運動も、ワーキング・クラスの少年に、パブリック・スクールの規律と人格形成の機会を与えようという試みである。」69頁

「…土地を所有することで生活が成り立つアッパー・クラスにとっては知識や教養を詰め込む必要がないという考え方にもとづいている。しかし、何らかの職につくひつようがあるアッパー・ミドル・クラスにとっては、パブリック・スクールでいかに人格形成が重んじられようと、或る程度の知識や教養の取得が必要であることは言うまでもない。」130頁

「…学校を見に来た父親も「この手の学校がやるのは教育だけじゃないんだ、人生で大切なのは人格なんだ」と、パブリック・スクールの精神を認めている。」181頁

本書が言う「人格」の原語が気になるところではあるが、私が推測するに、十中八九「character」であって、「personality」ではないだろう。
そしてここにイギリスのアッパークラスにとって知識や教養を獲得する教育自体が必要でないという意識を補助線に入れると、「characterの形成には知識や教養が必要ない、必要ないどころか相反する」という公式が見えてくる。
しかしながら、大陸においては「personality」を形成する物語は「教養小説」と呼ばれている。人格形成は教養獲得と一体化している。日本語では同じく「人格」と呼ばれながら、実は「character」と「personality」では指しているものがまるで違うことに気がつく。
そしてロバート・オーエンが労働者階級のために設立した学校の名前が「性格形成学院=New Institution for the Formation of Character」であったことを想起したりする。果たしてイギリス人にとって「人格=Character」とは何なのか、気になるところだ。personalityとの違いも含め、明らかにしなければならない。

新井潤美『パブリック・スクール―イギリス的紳士・淑女のつくられかた』岩波新書、2016年

【要約と感想】伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス―政治と宗教のいま』

【要約】「ライシテ」とは、辞書的にはフランス革命後に成立した「政治と宗教の分離」と理解されていますが、ライシテの本質を個々人の信教の自由を保証するものと考えるか、逆に宗教を国家の管理下に置くものと考えるかで、支持層や社会で果たす役割がまったく異なります。
フランスの歴史をふりかえってみると、カラス事件、ドレフュス事件、ヴェール事件と、宗教的マイノリティに対する偏見に基づいた事件と、それに対するリベラルな立場からの反省が繰り返されています。単純に政教分離が成立していたわけではなく、生活に根付いた文化に対する宗教の影響についても繊細に理解する必要があります。具体的にはムスリムへの対応や、ムスリム自身の自己理解が参考になります。
ライシテは、決してフランスだけの問題ではありません。特に生活習慣や文化に根付いた宗教的儀礼に関する取り扱いについては、日本でも葛藤が見られるところです。

【感想】私が受け持っている教育概論でも、「ライシテ」の話をする。コンドルセの思想と絡めて公教育の原理について話をするときに、(1)学習権(2)教育費無償(3)ライシテの三原則について言及し、旧教育基本法第8条(政治教育)と第9条(宗教教育)の規定について説明している。
そんなわけで知識をアップデートしようという目的で本書を手に取ってみたわけだが、なかなか勉強になった。ライシテが現代社会で複雑な様相を呈していることも認識しつつも、教育と学校(つまり私の専門)にとっても相変わらず大問題であるとの思いも強くした。近年では「18歳選挙権」が実現される中、学校教育においてどのような政治教育を目指すべきかは焦眉の問題なのだが、これまでの教育で「個々人の信条の自由」を尊重する姿勢をとってこなかったツケが祟ってきたのだろう、「思想・信条を管理する」ような形での理解が目立つように思う。
ライシテを「多文化共生」と訳してみたらどうかという著者の結論には、深く頷く。「政教分離」という言葉では誤解しやすいようなニュアンスを、「多文化共生」のほうは上手に言い表しているように思った。

【眼鏡学に使える】本書の趣旨とはまったく関係ないのではあるが。公共空間でのスカーフ着用が宗教的かどうかが問題となった文脈で、以下のような文章があった。

「これに対し、サイード・カダは、スカーフは非ムスリムとのあいだに分断ではなく絆をもたらすと主張する。人間関係とはお互いの考えを交換することに基づいている。自分にとってスカーフは内面の延長で、自分を語ることに向けての跳躍台である。実り豊かな相互理解のためには、各人が等身大で受け入れられることが必要だが、自分としてはスカーフを外せば、自分ではないところの者になってしまう。相手との間に分断の壁を作ってしまうのはスカーフではなく、スカーフについての固定的な考え方である。むしろスカーフがあってこそ、より深い人間関係を築くことができる。」152頁

この文章の「スカーフ」を「眼鏡」に置き換えると、1970年代の少女マンガが繰り返し描いてきたモチーフをほぼ正確に言いあてるように思う。要するに、なにか普遍的な要点に触れた記述であるような感じがした。

伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス―政治と宗教のいま』岩波新書、2018年

【要約と感想】リヒテルズ直子×苫野一徳『公教育をイチから考えよう』

【要約】日本の公教育は完全に時代の流れから取り残されています。19世紀的な産業社会では画一一斉授業で作られる没個性的な人材が歯車として役に立ったかもしれませんが、ポスト産業化社会では自分の頭で判断し行動できないような他律的人間はもはや必要ありません。グローバル社会で生き抜けるホンモノの力を育むには、オランダで行なわれている「教育の自由」の思想に基づいた諸実践(イエナプランなど)が参考になります。本書が言う「教育の自由」とは、単なる学校選択制のような消費者的自由ではなく、教員や学校の自由に基づいた市民的な「精神の自由」に基づいています。

【感想】これからの教育の拠って立つ基盤は「自由の相互承認」にあり、具体的には「個別化・共同化・プロジェクト化」が成功の鍵を握っているという苫野氏の論理に対し、リヒテルズ氏が紹介するオランダの教育実践が見事に噛み合っている。今後の日本の教育の在り方を考える上でも、大いに参考になる。

【今後の研究のための備忘録】
とはいえ、気になるところは、なくはない。本書で紹介されているオランダの教育行政は、単純に見れば「学校選択制」以外の何物でもない。しかも私立学校に対しても公費を投入していることから、実質的にはバウチャー制やチャーター・スクール等に似た制度のようにも見える。

オランダで、「教育の自由」によって、多様な教育理念に基づく学校が公教育費で運営され、子どもや親が自分にとって最もふさわしいと思える学校を選ぶ自由が保障されていることは重要です。(52頁、リヒテルズ担当部)

しかしながら、現在の日本の教育制度や教育文化を前提としたままで学校選択制を採用すると、むしろ教育がおかしくなってしまう。そしてそのことにもちろん二人とも気がついている。

「日本における学校選択制についていうと、私自身は、これには長らく基本的には反対の立場です。いまの段階では、学校の序列化とその固定化が生まれやすいため、リスクが高すぎると考えています。」(苫野、204頁)
「日本に選択制をすぐに導入することについては、私も否定的です。その理由は、日本の学校教育は長らく上の学校への進学率という尺度だけで測られてきており、保護者の学校への期待も、大部分はそこに焦点が当てられているからです。」(リヒテルズ、205頁)

だから、単純に制度を真似しようという話にはできず、その制度を成立させている「自由」の質の違いについて言及せざるをえない。単なる「経済的な自由」ではなく、教員や学校の自由に基づいた「精神的な自由」でなければならないのは、重要な条件だ。とはいえ、本書内では、オランダ国内ですらその条件が怪しいことに触れられている。

また、「自由」といいつつも、それは店で商品を選ぶような消費行動面での自由にとどまることが多く、必ずしも自分自身の「良心」にしたがった行動を選ぶという意味での自由、かつて啓蒙思想の広がりとともに議論された、どんな権威のも屈しない個人の「精神の自由」であるとは限りません。(97頁、リヒテルズ担当部)

本書の記述から察するに、オランダ国内で採用されている学校選択制とは、日本の規制緩和論者が盛んに導入を訴えていた「チャーター・スクール」のようなもので、確かに従来の硬直した公立学校を壊すものではあるだろうが、公立学校と同時に地域社会をも破壊するものだ。おそらくオランダでは、仮に地域社会が破壊されたとしても「市民社会」や教会が代替機能を果たせるから問題がないのだろう。しかし一方日本では、はたして地域社会が破壊し尽くされた後で人々の絆を取り結べるような代替団体があるだろうか。教会や「市民社会」が地域社会の代わりを担えないところでチャーター・スクールを導入したら、単に住民のエゴが野放しになり、生活基盤が破壊されるだけだ。
ここまで考えると、結局問題の要点は「市民社会」の成熟度や定着度なのであって、教育制度をいじることにあまり意味がないような気がするのだ。無い物ねだりをして他の国の教育制度を羨ましく思うのではなく、どうしようもなく変わらない我々自身の環境や条件を踏まえた上で理想の制度を模索し続けなければいけないのだろう。そういう意味で、オランダの教育制度を理想視しすぎるのも危険だと思った。公立学校の解体を目論んだ過激なチャーター・スクール導入を目指した規制緩和論者の野望が砕け、現在のように穏健なコミュニティ・スクール導入に落ち着いてきたのは、あるいは日本独自の在り方を模索し続けた結果なのかもしれない。地域社会で住民の絆をとり結ぶ核になるようなコミュニティ・スクールが構想されているのを見るにつけ、オランダの「教会」が果たしてきたような機能と役割を日本では「地域社会に根付いた学校」が担ってきたのかもしれないと思うわけだ。
とはいえ、そういう教会としての学校の役割も終りを告げつつあるのだろう。あるいは「地域社会」は、もはや滅びなければならないのだろう。地域社会消滅後の公教育の在り方を考えるときに、「教育の自由」を基盤としたオランダの学校選択制は一つの参考となる。

リヒテルズ直子×苫野一徳『公教育をイチから考えよう』日本評論社、2016年