【要約】当局から異端として弾圧されていたジャンセニズムを熱烈に信奉する著者がキリスト教護教論を書こうと試みて残したメモや書き抜きノートの断片集です。
人間本性はアダムの堕落によって損傷してしまったので、人間とは本質的に惨めな存在ですが、その惨めさに自ら気付いていることにより他の被造物にはない尊厳があるし、キリスト教を信じていれば救世主による回復を期待できます。救いがあろうがなかろうがどっちにしろキリスト教を信じた方が理論的に考えてお得なので、信じることをお勧めします。キリスト教が素晴らしいのは、その敵であるユダヤ人の存在そのものによっても自明に証明されますが、いちばん説得力があるのは奇跡です。奇跡は、あります。
【感想】事前の期待値が高かったせいだろうが、少々ガッカリした。期待していたものが見いだせなかっただけでなく、失望させられるような文章ばかりが並んでいた印象だ。特に著者が奇跡を信じているだけでなく他人にも信じさせるように試みているのは、心底バカバカしく思った。本書を誉めそやす人々が多かったので名著だと思い込んでいたのだが、いやいや、著者がこういうバカバカしい世迷言を本気で吐いていることにもちゃんと言及しておいた方がよいのではないだろうか。「理性批判」だとか大層なことを述べている解説も目にするが、実はパスカルは単に子供騙しの奇跡を信じて理性を腐していただけのことで、カントの理性批判のような綿密な論理が背景にあるわけではないし、なんならトマス・ア・ケンピスとかイグナチウス・ロヨラのほうが徹底している。本書にはデカルト以後というインパクトがあるに過ぎない。また聖書解釈の恣意性にも心底呆れかえる。自説に都合の良い記述を聖書から一生懸命にかき集めて敵を論破しようとしているところが、極めて愚かしい。聖書の記述からはパスカルの敵にとって都合の良い記述だっていくらでも引っ張ってこられるはずだし、イエズス会は実際にそうした。そりゃそうだ。ユダヤ人に対する身勝手な解釈にもあきれ返る。数学や自然科学で素晴らしい成果を上げた人間がこういう愚かな作業に熱中してしまったことが残念でならない。
そういうガッカリする残念な内容をざっくり削り落として、文学的に意味ありげで思わせぶりな名句だけ抜き取れば、確かに傑作に見えなくもないものができあがるかもしれない。しかしそういうふうに人文主義的な著作として読まれることは、おそらく著者の本意とはかけ離れているものだ。著者の本来の意図には、現代的な意義はまるでない。もしも断片ではなく完成した形で伝わっていたとしたら、おそらく凡作として歴史の波に埋もれていただろう。まあ、研究者か狂信者でなければ、名句をつまみ食いするのは何かしらの意味を持つとしても、全編を通読する価値はない本だ。特に聖書絡みのところなど、現代人が読む価値は一切ない。私は研究者なので、真実を語った本としてではなく、歴史的史料としておもしろく読んだが、ホメロス『イリアス』プラトン『ティマイオス』に並ぶ三大ガッカリ古典として印象を刻んだのであった。
【個人的な研究のための備忘録】社会契約論・社会有機体論
パスカル本人が社会契約論を述べているわけではないが、それを彷彿とさせる記述が散見されて、気になるところだ。
「人々は欲心を基礎として、そこから統治と道徳と正義の素晴らしい原則を引き出した。
しかし結局のところ、人類のこの邪悪な核心、この「悪しきありさま」はただ覆われているだけで、取り除かれてはいない」(ラ211/ブ453)
「(前略)人間たちが群を作りはじめる場面に立ち会っていると想像してみよう。必ずや彼らは、より強い部分が弱い部分を押さえつけて、ついには支配勢力ができるまで戦うだろう。しかしいったんそれが決定されると、支配者たちは戦争が継続することを望まないので、今度は手中にある力が自分たちの思いのままに受け継がれるように定める。ある支配者たちはそれを人民の選挙に、他の支配者たちは世襲に委ねる、等々。」(ラ828/ブ304)
これはすぐさまマンデヴィル(1670-1733)の「蜂の寓話」を想起させる記述だが、マンデヴィルはパスカル(1623-1662)が死んだ後に生まれている。つまり「欲心を利用して公共の利益に役立たせよう」というアイデアはマンデヴィルやパスカルの創見ではなく、17世紀後半には広く共感されるような考え方だったと見なす方がよいだろう。彼らに先行するのは、ホッブズ、スピノザ、モンテーニュの著述だ。彼らが出したり出さなかったりした結論はそれぞれ独特だが、人間の「欲心」を虚心坦懐に観察し、その欲心が社会を構成する基礎だと見抜いたところは共通している。そして社会契約論と呼ばれる考え方の肝は、この人間の自然心性に備わる欲心を基礎に理論を構成するところにある。パスカルは、この社会契約論的な考え方の肝に言及した上で、それを「邪悪な核心」だと批判しているわけだが、これがキリスト教護教論の立場ということだろう。ところで解説(上巻271頁)ではパスカルの記述が『プギオ・フィデイ』の内容に呼応しているとされていて、それは文献学的なレベルではそうなのだろうが、背景としてホッブズ・スピノザの影響はどうだったのかは気になるところだ。
また、社会有機体論的な記述も散見され、どういう背景があるか気になるところだ。
「考える手足が集まって出来上がった体を想像してみるがよい。」(ラ371/ブ483)
「もしも足と手に個別の意志があるとすれば、その個別の意志を、体全体を統御する第一の意志に従わせることによってしか、手足本来のあり方を守ることはできない。それを踏み越えれば、混乱と不幸に陥る。しかし体の幸福だけを望むことによって、手足は自分自身の幸福を実現する。」(ラ374/ブ475)
これはもちろん具体的にキリスト教会をイメージした記述で、パスカル以前から広く見られる考え方ではあるが、ただ、手足が意志をもったり「第一の意志に従わせる」ことはホッブズ的社会契約論のイメージとも重なり合うところだ。どの程度の影響があったのかは気になる。
そして実は、複数の人間を集めて一個人と見なす有機体論的発想は、『パンセ』以外の自然科学的な著作(真空論序言断章)でも表明されている。
これは明らかにキリスト教会的な社会有機体論ではない。16世紀以降のベーコン・デカルト的な学問観と響き合うものと理解していいのかどうか。デカルト『方法序説』には、科学による無限の進歩に関する楽観的な表明を見出すことができるが、有機体的な表現ではない。
【個人的な研究のための備忘録】人間の尊厳
パスカルは人間の立ち位置を神(創造主)と獣(被造物)の中間と見ているが、特に独創性があるというわけではなく、キリスト教の古代から引き継がれている伝統的な観念を繰り返しているに過ぎない。ただし、神と獣の間にある人間の「尊厳」をどこに見るかについてはルネサンス期から議論が積み重ねられてきており(たとえばピコ・デラ・ミランドラ)、その蓄積された議論をパスカルがどの程度参照しているのかは気になるところだ。
「人間の尊厳は、無垢の状態にあっては、被造物を用い、それを支配するところにあった。しかし今日では、被造物から離脱し、それに服従するところにある。」(ラ788/ブ486)
一番有名なフレーズである「考える葦」にも見られる通り、パスカルは人間の尊厳の根拠を「考えること」に見出している。それがルネサンス期に尊厳の根拠として主張された「理性」と範囲が同じかどうかが問題になるところか。
【個人的な研究のための備忘録】私の同一性・人格
同一性に関しては、人格という概念の召喚と絡んで、なかなか興味深いテキストが残されている。
(前略)誰かをその美貌のために愛する人は、その人を愛しているのか。否、天然痘にかかれば、命は失わなくても、美貌は失われるが、そうなれば、彼はもはやその人を愛さないだろうから。
そして、もし私が、判断力や記憶力が優れているという理由で愛されるとして、この私はたしかに愛されているのか。否、私は自分を失うことなしに、これらの性質を失うことができるのだから。それでは、この<私>はどこにあるのか。体のうちにも、魂のうちにもないとしたら。そして体にせよ魂にせよ、その性質のためでなしに、どうしてそれを愛することができるのか。しかるにその性質は滅びゆくものである以上、<私>を形作るものではない。いったい、ある人の魂の実質を抽象的に、そこにどんな性質があろうと愛するなどということがあるだろうか。それは不可能だし、だいいち、不正だろう。だから人が愛されることは決してない、愛されるのは性質だけだ。」(ラ688/ブ323)
「彼は、十年前には愛していたあの人をもはや愛していない。無理もない。彼女はもはや同じではないし、彼にしても同様だ。彼は若かったし、彼女もそうだった。彼女は今や別人だ。昔のままの彼女だったら、まだ愛するかもしれないが。」(ラ673/ブ123)
ただちに大澤真幸『恋愛の不可能性について』を想起させる記述ではある。<私>が性質の束に還元できない共約不可能な存在であるとして、その<私>が何なのかをパスカルは想定できないと言う。しかし実はそれは反語的に「神の愛」の絶対性を主張している。解説はこう言っている。
ここで個人的に注目したいのは、パスカルが本文中で一度たりとも使用していない「人格」という言葉が、解説で召喚されているという事実だ。つまり、性質や記述の束に還元できない何らかの「愛の対象」を指して本書解説は「人格」という言葉を呼び起こしている。個人的には、これこそが「人格という概念の誕生の瞬間であると思っている。仮に何かを「愛している」として、その愛の対象が性質ではないことを言い表そうとしたときに、初めて「人格」という言葉が必要となる。パスカルの「愛」に関する記述は、「人格」という概念の召喚を欲望する文学的な表現としてはオリジナリティを持っているように見えるが、どうなのか。
またあるいは、その愛の対象としての「人格」は「魂」と呼ばれる概念と同じ輪郭を持っているだろうことが、次のパスカルの言葉からも分かる。
ちなみに同じ節にある記述は、「同一性」という概念について考える際に、少し興味深いサンプルを与えてくれる。
そしてパスカル本人が「本当の自分」という乙女チックな表現をしているが、これが当時のフランス語においてどういうニュアンスの表現だったかは気になるところだ。
また解説で「紳士」という「普遍的な存在」に触れているところで、「人格」という言葉が召喚されている。
この場合の「人格」とは、すべての社会的属性を剥ぎとられた裸の一個人という意味だ。先ほど確認したような、あらゆる具体的「性質」を剥ぎ取られた「愛の対象」という「人格」概念と響き合ってはいる。ただし完全に価値中立的というわけではなく、「紳士」という概念が貼りついている。日本語で言えば「人格者」とでも呼ばれるものだろう。つまり「人格」とは、建前上はあらゆる性質や社会的属性を剥ぎ取ったと言いつつ、実質的にはそうではない何らかの性質や属性を匂わせるものらしい。
ところで、本文に「人格」という言葉は一度たりとも登場しないが、「ペルソナ」という言葉は登場している。
三位一体の文脈で登場するわけだが、カトリック的にこれは大丈夫なのか。普通に考えたら異端以外の何物でもないが。
【個人的な研究のための備忘録】子ども
そして17世紀において、やはり子どもはバカにされていたという記述もサンプリングしておく
■パスカル『パンセ(上)』岩波文庫、2015年
■パスカル『パンセ(中)』岩波文庫、2015年
■パスカル『パンセ(下)』岩波文庫、2016年