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【要約と感想】阿部拓児『アケメネス朝ペルシア―史上初の世界帝国』

【要約】アケメネス朝ペルシアは、狭義には紀元前550年キュロス王による創建(諸説あり)から紀元前330年マケドニアのアレクサンドロス大王東征による滅亡まで、220年にわたってアジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがって君臨した、史上初の世界帝国です。歴代ペルシア王9代の事跡を内外史料に基づいて確認しながら、帝国の歴史全体を概観します。

【感想】アケメネス朝ペルシアの歴史そのものについても勉強になったが、科学的な歴史学の研究手法と最新研究動向が幅広く紹介されていて、「歴史学の方法論」についても興味深く読める内容になっていた。おもしろかった。具体的には、「オリエンタリズム」や「受容史」というポストモダン的な動向を横目で睨みつつも、歴史学の伝統に基づいて丁寧な史料批判の土台の上で議論を展開して、落ち着いた筆致ながらも立体的で奥行きのある記述になっている。筆者の推測もふんだんに披瀝されるが、史料に基づいて根拠を示しながら対立する見解との比較考量も丁寧に行ってくれるので、かなり納得する。こういう方法論とそれに立脚した歴史記述は、歴史学を志す学生にとってはかなりためになるのではないだろうか。
 まあ全体として平和時の庶民の暮らしぶりはほとんど分からず、殺伐とした政争と戦争の歴史になっているのは、史料の性質上仕方がないところではあるか。

 で、ペルシアというと、私個人としてはギリシア人の書いたもの(ヘロドトスやトゥキディデス)を通して触れてきたので、無意識のうちにヨーロッパ中心史観(いわゆるオリエンタリズム)に影響されいるようだ。大いに反省するきっかけになった。あるいは「オリエンタリズム」というと近代以降の話だと思い込んでいたけれども、古代のギリシア・ローマ中心史観に対しても意識的に相対化する視点を用意しておく必要を理解したのであった。

阿部拓児『アケメネス朝ペルシア―史上初の世界帝国』中公新書、2021年

【要約と感想】小池和子『カエサル―内戦の時代を駆けぬけた政治家』

【要約】カエサルを扱った本は既に山ほど出版されていますが、本書の特徴は、学問的な成果に基づいてごくごく基本的な事柄を扱いつつ、同時代の時代状況や政治制度、あるいはキーパーソン(特にキケロー)の動向を踏まえて、カエサルの一生と人となりを描くところにあります。
 政治史的には、マリウス(平民派)とスッラ(閥族派)の抗争から内乱の一世紀に突入し、ポンペイユス・クラッスス・カエサルの三頭制を経て、最終的にカエサルがポンペイユス等との内戦に勝利、独裁制を始めることになります。

【感想】『ガリア戦記』は読んだし、キケローの著作や書簡集にも目を通したし、サルスティウスやルーカーヌスなど同時代の歴史書も読んだので、本書は「答え合わせ」の意図をもって読み始めたのだけれども、いやいや、知らないことだらけだった。勉強になった。
 で、私の個人的な好みとして、歴史が動くのは一人の英雄的行為ではなく、経済史的背景が決定的な要因になっていると考える傾向にある。本書は経済史的背景の要点を簡潔に押さえ、それを踏まえて各陣営の動向を説明するなど、私としてはかなり納得しやすい書き方になっている。カエサルが確かに代わりが効かない時代の英雄(秦の始皇帝や織田信長などと同様)であることは間違いないとしても、彼がその才能を十分に発揮するためには経済史的背景が煮詰まっている必要はあるだろう(秦の始皇帝や織田信長などと同様)。まあ、ローマ共和政末期の経済的矛盾(中小農民の没落)そのものは高校の世界史教科書に書いてある程度の知識ではあるが。
 一方、本書はカエサルの人となりについてはかなり抑制して描写している。学術的に確かな事柄しか扱わないという姿勢が現れている。が、それでもカエサルが魅力的な人物だったんだろうな、と覗わせる記述はそこかしこにある。敗北者には寛容だが、自らの尊厳を汚した相手は徹底的にやっつける。そんなカエサルと比較すると、キケローのほうがキレイゴトばかり並べる小物に見えてしまうのは仕方ないのであった。

小池和子『カエサル―内戦の時代を駆けぬけた政治家』岩波新書、2020年

【感想】古代オリエント博物館「女神繚乱―時空を超えた女神たちの系譜―」

 古代オリエント博物館で開催された秋の特別展「女神繚乱―時空を超えた女神たちの系譜―」を見学してきました(2021年12/3)。タイトルの通り、エジプトやメソポタミアやインドやギリシア・ローマから日本までの女神を一堂に会した展覧会です。有名でよく名前を知っているお馴染みの女神からよく知らない女神までたくさん紹介されており、楽しく観覧してきました。

 まず先史時代の女性像(土器が多い)が数多く展示されていましたが、感覚的に気になったのは、フォルムが二極化していたように見えたことでした。乳房や臀部をやたらと強調して造形している像があるのに対して、もう一方にはやたらと平板でほっそりしたフォルムの造形があり、なんとなく中間というものがないように感じました。地域性や歴史性を反映しているのか、あるいは展示物をチョイスした学芸員さんの意図なのか、よく分からないところではあります。が、一口に「先史時代の女性像」といってもいろいろあることはよく理解できます。

 歴史時代に入ると、名前がついてキャラクター化した女神たちが登場し始めます。ここで気になるのは、この展覧会のモティーフでもあるのですが、男性の神はわざわざ「男神」と呼ばないのに、女性の神はことさら「女神」と呼ぶという現象です。ただこれが古代から続く現象なのか、あるいは近代に入ってからの現象なのかは注意する必要があるのかもしれません。
 思い起こすのは、たとえばギリシア神話に登場するヘラがもともと母系制社会のギリシア各地で信仰を集めていた大地母神だったのが、権力の統合によって家父長制が発達する過程で、男神であるゼウスが神々の筆頭に祭り上げられて、それに伴ってヘラの権威が貶められたという説であります。(参考『ギリシア神話―神々と英雄に出会う』『古代ギリシアの旅―創造の源をたずねて―』)。結局、ヘシオドスがギリシア神話古典の一つである『神統記』を記す頃には、ギリシア神話の中身は完全にマチズモとミソジニーで定着したように見えます。
 そしてまた思い起こすのは、日本における最高格の神が女神=天照大神であるということです。これもやはり、マチズモとミソジニーで膨れあがった江戸時代の朱子学において、「天照大神は男である、なぜなら最高神が女であるはずはない」という意見がむりやり罷り通った結果、アマテラスを男として描いた絵や文章が広く流通していたという事実です。本展覧会でもアマテラスを雨宝童子として描いてた図像が一幅展示されていて、見た目は男性に見える(と言いつつかなり性別不明の中性的)わけですが、なんでそうなっているかの解説はありませんでした。

 個人的に古代オリエントの女神でいちばん興味を抱いているのは、キュベレーです。興味関心を持っている理由は、もちろんハマーン様が専用機として乗っていたMSの名前に由来します。しかしこのキュベレーという神様、知れば知るほどわけのわからない神様で、いったい何をしたくてそうなっているのか、ますます興味関心を掻き立てるのです。が、残念ながら、本展覧会ではあまりフィーチャーされていなかったのでした。

【要約と感想】中畑正志『はじめてのプラトン―批判と変革の哲学』

【要約】プラトンの著作に触れるときにまず大事なのは、それが「対話」として書かれているという事実です。私たちは、様々な人々が織りなす対話に参加した気持ちになって、性急に結論を求めず、ゆっくりじっくり物事を考えていきましょう。テキストを「批判的」に読み込み、自分の行動や態度を改めて点検する糸口にすることこそが、プラトンが目指していたものです。

【感想】前半は、わりとオーソドックスにプラトンの思想を説明している。対話編として書かれた意味、無知の知、イデア論、『国家』の構成。特にイデア論を真正面から扱っているのは、とてもいい。改めて勉強になる。が、魂の三分割の意味やシュトラウス派を批判する後半部は、なかなか手ごわい。それこそ「入門書」の体裁を借りて、学術論文では論証できない見解を自由に開陳している、という趣だ。まあ、それも「入門書」の醍醐味ではある。こういう無礼講がないと、「入門書」を改めて読む意味はない、と個人的には思う。

 で、類書と異なる本書の特徴は、副題に示されているとおり、プラトンを「批判と変革の哲学」として読むところだ。ちなみに私個人はプラトンを「教育」の営みとして読む立場にあり、それは著者の言う「変革の哲学」とも響き合う。というか著者自身も「プラトンは、いわば「生き生きとした知」の体現者であるとともに、そうした知を通じて、文化や社会のあり方の問題をとりわけ教育の問題として引きうけようとした哲学者だったのである。」(218頁)と言っているので、いっそのことタイトルは『はじめてのプラトンー教育の哲学』でもよいわけだ。
 ただしこの場合の「教育」とは、もちろん近代以降に成立した学校教育制度の下での教育ではない。それはむしろプラトンが批判したソフィストたちの教育に近いものだ。プラトンが意図する「教育」とは、知識を外部から与えるinstructionではなく、生きる姿勢や態度を内部から反省する「魂の向け替え」である。そしてそれは意図的・計画的に外部から注入する働きかけではなく、偶然始まった「対話」の過程から不意に立ち上がってくるような僥倖であり恩恵であり贈与である。それは近代的な意味での「教育」ではありえない。とすれば、著者が副題に「教育」という言葉を使用できなかったのも、当然ということになるだろう。が、私は敢えてそれを「教育」と言い張りたい、ということだ。そしてその私の姿勢は、著者が端的に指摘しているように、「俺のプラトン!」という読みなのだった。いやはや。

中畑正志『はじめてのプラトン―批判と変革の哲学』講談社現代新書、2021年

【要約と感想】水地宗明・山口義久・堀江聡編『新プラトン主義を学ぶ人のために』

【要約】「新プラトン主義」とは後世になってからつけられたラベルで、当事者たちが自身をそう自認していたわけではありません。そして新プラトン主義と呼ばれている人々の思想内容も様々です。おおまかに一致するのは、存在の階梯の最上位に「一者」を据え、そこからの「流出」を通じて世界の成り立ちを説明し、一者との「合一」を志向するところです。
 新プラトン主義はもちろんプラトンの思想にコミットしていますが、現代のように「弁明」や「国家」を重要視するプラトン読解とは大きく異なり、「パルメニデス」や「ティマイオス」を尊んでいます。
 新プラトン主義の影響は、キリスト教教父アウグスティヌスを始め、射程距離は近現代まで及びます。

【感想】新プラトン主義についてさくっと体系的に教えてくれる本が全然ないので(新書レベルで存在しない)、本書の存在は極めて貴重である。ありがとうございます。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 多少なりとも西洋思想史にコミットするような読書人であれば、もちろん新プラトン主義について何かしらの知識を持つはずではあるが、世間一般的にはどの程度認知されているのか。いちおう高校倫理の教科書にはプロティノスの名前くらいは挙がることがあるものの(記述の内教科書もある)、思想内容と後世への影響について詳しく説明されているわけではないので、ほとんど認知されていないだろうとは予測する。とはいえ、私が追究している「人格」の概念を理解するためには、新プラトン主義への目配りは絶対に外せない。というか個人的には、古代ギリシア・ローマの「ペルソナ」概念と近代の「人格」概念を隔てるミッシングリンクが、新プラトン主義に対する深い理解によって埋められる可能性が極めて高いように感じている。

 個人的な理解では、古代ギリシア・ローマの「ペルソナ」には、「かけがえのない実存」とか「尊厳」という観念は欠けている。もともとペルソナという言葉は「役者のつける仮面」を指しており、そこから「その個人が演じるべき役割」とか「果たすべき役割に応じて期待される責任」というような意味は持ちつつも、近代において「人格」が持つような法的主体あるいは実存的主体というニュアンスは感じない。古代のペルソナはあくまでも表面に顕れて人の目に触れる「仮面」であって、個人の内奥に隠された領域に踏み込んでいるような印象はない。
 ところで、新プラトン主義が最重要視するのは「一」という概念だ。この「一」は、もともとは宇宙全体を「一」の相の元に理解するという形で外界に対して適用される概念ではあるのだが、新プラトン主義はこの究極的な「一」に対して、個人の「合一」を志していく。その個人的な神秘体験は、中世キリスト教の異端的な立場からは「神化」と理解されることになるだろう。このように神的な「一」と合一化した「個」こそが、近代における「かけがえのない尊厳をもつ自律的な個」の原初的な姿のように見えるわけだ。ここからキリスト教神学や中世スコラ哲学の議論を通じて神秘的な要素を剥がし落としていくことで、単なる「法的主体としての個」だったり「かけがえのない尊厳」だったりする「一」としての「人格」概念が成立していく、というような見通し。とういことで仮に古代ペルソナと近代人格概念に系統的な繋がりがあるとすれば、そのミッシングリンクとしての新プラトン主義への目配りは絶対に欠かせないのである。逆に言えば、古代ペルソナと近代人格概念に系統的な繋がりなどないと喝破できてしまえば、新プラトン主義に対する目配りは一気に必要がなくなるということでもある。さてはて。

【今後の研究のためのメモ】
「一」に関する記述をサンプルしておく。

水地宗明「一者」
「次に「」という名称も、「何かであって一つであるもの」をではなく、純然たるそのものを表す。すべて一つであるものは、この「」の力によって一つである。「という名称は、かのものの単一性を、したがってまた自足性を表す。というのも、かのものは何も必要としないのである。有るということも、能力もはたらきも、むしろ、かのものはこれらすべての原因なのである」(ポルフュリオス、断片220)、プロティノス自身は、七番目に書いた短い論文の中で、こう述べている。……。「」が「善」との呼ばれる理由の一つは、「」のこの統一力こそが、それぞれのものがそのものとして存在するための基本的な支えだからである。「」の力がはたらかないならば、すべてのものは瞬時にして四散消滅するというわけである。」pp.60-61
「歴史的には、「」という名称は特にプラトンの『パルメニデス』に由来すると言えるだろう。この対話篇のいわゆる第一仮定の終わりの方(142A)で、「は有るものでもなく、名前もなく、説明されることもできない」などと言われていて、プロティノスはたびたびこの箇所に言及しているのである。
 なおアリストテレスによると、晩年のプラトンはこう言ったという。イデアは他のすべてのものの原因であるが、イデアの原因は「」と「大かつ小」であると(『形而上学』1.6)。つまり、大きいとも小さいとも、その他何とも言えないような不定で素材的なものが「」を分有することによって、もろもろのイデアが生じた、ということであろう。
 もちろん、「」という名称は、(そして始原を「」とみなす思想は)もともとはピュタゴラス派に由来するものだと言えるであろう。ピュタゴラス派によれば、すべてのものは数にかたどられていて、そして数はから生じるのであるから。そしてプラトンがピュタゴラス派から影響を受けたことは、周知の事実であるから。しかし、ピュタゴラス派の「」からプラトンの「」を経てプロティノスの「」に至る道程は、何と大きな展開であろう。」pp.61-62

袴田玲「ビザンツ正教思想における新プラトン主義」
「「無形相の神、あるいは一者との一化」という主題への強い関心もまた、プロティノスとパラマスに共通する。……。パラマスのこれらの言葉づかいからは、プロティノスと同じ「」への渇望、つまり、修行者があらゆる多様性を脱して自己自身と一つになり、さらに主客を超えて神(一者)と真にとなることへの欲求が感じられるであろう。また、合一の動きに「見る」という同士が好んで使われる点、神(一者)が光として表現される点も、両者に共通である。」p.303

山﨑達也「エックハルト――始原への探究――」
「ところでエックハルトは、中世においてアリストテレスの存在者に関する一〇のカテゴリーを超えるものとして理解されていた、いわゆる「超範疇的概念」(transcendentia, termini generale)――存在(esse)・(unum)・真(verum)・善(bonum)――を神の固有性と解している。存在とは、それ自体規定することができない神の絶対的存在(esse absolute)を意味するが、その存在の第一の規定がであり、そのから生まれたものが真である。神学的に解せば、一は産む者として父を意味し、真は父から生まれた者として子を意味する。善は真を媒介にしてから発出するものとして、父と子との愛の結合すなわち聖霊である。
 エックハルトは、神は父・子・聖霊という三つのペルソナ(persona)を有しながら、その本性(natura)はであるという三位一体の神学において、神の本性としてのをどこまでも追究していく。においてはあらゆる他が否定されるだけではなく、否定すること自体も否定される。この二重の否定すなわち「否定の否定」一(negatio negationis)によって、神の一性と心的な統一の深遠への研ぎ澄まされた洞察が可能になる。父・子・聖霊は数として数えられるものではなく、根源的にして神的なる存在・生として一なのである。この一性と統一は「一なる一」、「本来からの一」、「単純なる一」として、多様なるものとの差異的なるものの彼岸に求められなければならない。」pp.331-332

 しかしこうなってくると、老荘思想の「太一」とか「一元二気万物」だとか、朱子学の「太極」なども参照せざるを得なくなってきて、目眩がするところではある。というのは、西洋の「一」が「人格」の概念に昇華したのに対し、東洋の「一」が「人格」に至らなかったことを、合理的に解釈しなければいけないのであった。

水地宗明・山口義久・堀江聡編『新プラトン主義を学ぶ人のために』世界思想社、2014年