「個性」タグアーカイブ

個性とは何か? 歴史的・哲学的に考える

個性の定義

ありがちな勘違い

 個性は、「長所」でもないし、「特徴」でもないし、「持ち味」でもありません。「性格」とは違うものですし、ましてや、「奇をてらって人と違うことをする」こととは何の関係もありません。長所や特徴や持ち味がなくても、個性はあります。平凡であることは、個性を持つことと問題なく両立します。
 またwikipediaの記述(2020年8月)は大間違いなので、お気をつけください。wikipediaには「個性とは、個人や個体の持つ、それ特有の性質・特徴」とありますが、極めて薄っぺらい理解です。また「特に個人のそれに関しては、パーソナリティと呼ばれる。」とありますが、一部の業界でしか通用しない特殊な考え方で、常識的な理解ではありません。personalityではなく、individualityです。

個性の定義

 結論から言えば、個性とは「ひとりの人間として存在していること」を表現する言葉です。他人と違った長所や特徴や持ち味があるかどうかは、まるで関係ありません。

 さて、「ひとりの人間として存在していること」なんて、当たり前じゃないかと思う人がいるかもしれません。しかしその「当たり前」のことが極めて重要だからこそ、「個性」という言葉がわざわざ必要になるのでしょう。
 実は、「ひとり」とか「人間」とか「存在」という言葉は、考え始めると、奥が深い言葉なのです。ひとつひとつの言葉を吟味していくことによって、「ひとりの人間として存在していること」がいかに大切なことか、見えてくるかもしれません。

 ということで、このページでは、「個性」とは「ひとりの人間として存在していること」だという定義の根拠を、歴史的・哲学的に説明していきます。

歴史的に「個性」という言葉を考える

個性という日本語は、なかった

 そもそも実は、「個性」という言葉は、もともと日本語に存在しない言葉でした。江戸時代が終わって明治も半ば、明治20年(西暦1887年)頃にindividualityという英語が翻訳されたことで、初めて日本に「個性」という言葉が登場しました。(詳しい事情について知りたい方は、私の学術論文をご参照下さい。「「教育的」及び「個性」-教育学用語としての成立-」)
 つまり逆に言えば、「個性」という言葉は120年程度の浅い歴史しか持っていないということです。そのため、individualityという言葉が本来持っていたニュアンスがしっかり理解されることがないまま、一種の流行語として広がっていくことになりました。その過程で、「長所」とか「特徴」とか「持ち味」というニュアンスが色濃く貼り付いていきます。

 「個性」という言葉がいかに流行語として蔓延していたか、夏目漱石『吾輩は猫である』を読むと、よく分かります。

「前申す通り今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。」
夏目漱石『吾輩は猫である』

 この文章が書かれたのは明治39年(西暦1906年)です。日本に「個性」という言葉が誕生してからまだ20年も経っていませんが、このあと漱石は「個性」に関する多面的な議論を自在に展開し、「個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった」なんてことも言い始めて、「個性」という言葉を完璧に自分の語彙に取り込んだ様子が伺えます。『吾輩は猫である』に書かれた個性論は、多少古風な言い回しを除けば、現代でも通用しそうです。
 しかし一方、もうこの時点で個性という言葉に対して様々な手垢がついていることも分かります。明治時代の後期には、すでに個性という言葉の意味が混乱しているのです。

個「性」なのか、「個」性なのか

 さて、日本語の「個性」という言葉がわかりにくくなってしまったのは、歴史が浅いことに加えて、「個」に重点を置くか「性」に重点を置くかで、捉え方が大きく違ってしまうからかもしれません。現在の「個性」は、「性」のほうに重点を置くような理解が広がっているように思います。

 「性」とは、人や物の性質や性格を表現する漢字です。つまり「性」に重点を置いて読むと、個性とは、「各々の性質」という意味に読めます。そうすると、長所とか特徴とか持ち味などという言葉と近いニュアンスの意味を持つようになります。
 ちなみに「ひとりひとりの持ち味」という意味での「性」については、儒教の中で盛んに議論されています。全ての人間が同様の性を持つのか、それともひとりひとりが異なる性を持つのかという議論です。日本においては、特に江戸時代、伊藤仁斎が興味深い議論を展開しています。仁斎は、ひとりひとりが異なる持ち味を持っていると主張しています。
 また戦国時代には、武田信玄や織田信長なども、部下の持ち味は多様であるべきだという言葉を残しています。異なる特徴を持つ様々な人間がいるということについては、日本人も当然古くから気づいています。

 しかし、そういう「様々に異なる持ち味の人間がいる」ということと「個性」とは、厳密に言えば違う概念です。「個」ではなく「性」と読むことで、違いが明確に見えてきます。

individualは、「個」

 本来「個性」とは、「個」のほうに重点を置き、「性」のほうはオマケとして読むべき言葉でしょう。
 というのは、もともとindividualityという言葉が、individualに-ityという接尾語がついてできた言葉だからです。後ろにくっついた「-ity」は、ふつうは「○○性」というふうに翻訳されます。たとえばrealityなら「現実性」、activityなら「活動性」、productivityなら「生産性」というふうに翻訳されます。ですから、individualityも、「individual-性」というふうにできた言葉です。本体は「individual」にあって、「性」は接尾語としての意味を持つだけです。
 そしてindividualを日本語に翻訳すると、「個」となります。だから「individual-性」は「個-性」となるわけです。ちなみに幕末から明治始めにかけて、individualは「ひとつ」と翻訳されることもありました。となるとindividualityは「ひとつ-性」となるわけですね。

「○○性」の「性」とは何か?

 では、「○○性」というふうに「性」が語尾につくと、何が変わるのでしょうか。具体的に「reality=現実性」について考えてみます。たとえばreal(現実)がどうしてまさにrealなのか、その理由を考えてみて、もしも具体的にこれこれこういう状態で、こういう条件が揃っているからrealに感じるんだとなったとします。としたら、そういう、realを成立させている具体的にこれこれこういう状態や条件のことが、realityと呼ばれています。「この絵、realityあるね」と言ったとき、その絵自体はrealそのものではありえないけれども、人々にrealを感じさせる要件を備えているということを言いたいわけです。このように「realをrealたる限りでrealたらしめているもの」を、哲学ではrealの「本質」と呼んでいます。「○○性」の「性」とは、○○の本質を指し示すために付け加えられる接尾語です。
 individualityも、同様に、「individualをindividualたる限りにおいてindividualたらしめている」という、individualの「本質」を指し示す言葉です。「この絵、individualityがあるね」と言ったとき、その絵自体がindividualそのものかどうかはともかく、人々にindividualを感じさせる本質を備えているということを言いたいわけです。

「個」と「個性」の違い

 realとrealityが異なるものを指しているように、individualとindividualityはそれぞれ異なるものを指し示しています。つまり「個」と「個性」は、それぞれ違うものです。

 「個」とは、ひとつということです。バラバラになっていて、そのうちのひとつということを示す言葉です。「個々」となれば、バラバラになっているもののうち、ひとつひとつという意味です。だから「個を大切にする」と言ったなら、バラバラになっているひとつひとつを大切にするという意味です。

 一方「個性」とは、「個を、個たる限りにおいて、個たらしめている本質」のことです。「個性を大切にする」と言ったなら、それぞれを「個」たらしめている本質を大切にするということを意味します。
 このように、「個を大切にする」ことと「個性を大切にする」ことは、それぞれ意味内容がかなり違っております。
 ちなみに中世スコラ哲学は、「存在者と本質は異なる」という議論を、アリストテレスを引き継いでさかんに展開しています。ここまでの文脈で言えば、「○○」と「○○性」は異なる、という議論です。ということで、「個性=個を、個たる限りにおいて、個たらしめている本質」とはいったい何なのか、哲学的に考えてみましょう。

哲学的に「個性」について考える

「個」であることの本質

 さて、そもそも「個」であることの本質とは何でしょうか? 結論から言えば、それは「存在している」ということです。
 なんだ「存在している」だけなら、何も特別なことじゃないと思う人もいるかもしれません。しかしちょっと考えてみれば、「存在している」ということはとても不思議なことであることが分かります。

 たとえば、私の目の前に眼鏡が存在しています。私は「眼鏡が存在している」と言います。が、どうして「眼鏡が存在している」と言えるのでしょうか?
 なぜなら私は、同じように「二つのレンズが存在している」とも言えるはずです。それなのに、私はどうして「二つのレンズが存在している」と言わずに「眼鏡が存在している」と言うのでしょうか? それは、目の前に見えるものを、「二つのレンズ」ではなく「一つの眼鏡」と認識しているからです。目の前のものを「二つのレンズ」ではなく「一つの眼鏡」と認識しなければ、「眼鏡が存在している」とは言えません。
 しかしどうして私は、目の前のものを「二つのレンズ」ではなく「一つの眼鏡」と認識できるのでしょうか? 私たちが眼鏡を一つと認識するのは、おそらく、眼鏡が一つの「働き」を持っているからです。眼鏡には、「視力を補正する」という一つの「働き」があります。その「働き」をまっとうするために、二つのレンズやツルやブリッジや鼻パッドやネジなど、多数の部品が組み合わされるわけです。レンズやツルやブリッジがバラバラに存在しているだけでは、「視力を補正する」という一つの「働き」を期待することはできません。
 たとえばアプリの数はどうやって数えるのでしょうか? 一つのアプリは、たくさんのプログラムが組み合わさって働きます。しかし、そうやって動いているアプリが、たとえば30個のプログラムの組み合わせでできているとして、「30個のプログラムの束をダウンロードした」とは言うはずがありません。「ひとつのアプリをダウンロードした」と言うはずです。やはり、「働き」というものを一つの単位として、ものを数えているわけです。

 つまり、「ひとつ」であるということは、「働き」がまとまっているということです。そして「眼鏡が存在してる」とか「アプリが存在している」とか言うとき、単にレンズやツルやブリッジが組み合わされていることや、30個のプログラムが組み合わされていることを言いたいわけではありません。眼鏡やアプリがなんらかの「働き」をすると考えているときに、はじめて「眼鏡が存在してる」とか「アプリが存在している」などと言えるわけです。
 つまり「存在している」という理解は、バラバラで多様なものが何らかの「働き」の下に「個」として統一されているときに、初めて生じることになります。逆に言えば、我々が「存在という本質」を掴んだ時に、初めてその対象を「個」として理解することが可能になります。これをまとめると、「個であることの本質は存在していること」ということになります。そして「個であることの本質」のことを「個性」と呼ぶのですから、「個性とは存在していること」、というふうになるわけです。ページ冒頭に掲げた定義の輪郭が、だんだん明確になってきていますでしょうか。

哲学者たちの見解

 そんなわけで、古代の新プラトン派哲学者プロティノスは、「存在」を定義して「一であること」としました。そしてこの「一であること」と「存在」の関係については、プラトンもアリストテレスも徹底的に追究したテーマです。特にプラトン『国家』およびアリストテレス『形而上学』は、全編が「一と存在」について考え抜かれた哲学書と言えます。
 このように古代から鍛え上げられてきた「一」と「存在」の関係について、古代最末期に活躍した哲学者ボエティウスが、明確に言い切っています。

「存続し・継続しようと求めるものはたることを欲する。何故なら、一たることが失はれれば存在といふことも無くなつてしまふのだから。」
ボエティウス『哲学の慰め』岩波文庫、135頁

 この「一」と「存在」の関係に関する見解は、古代から西洋世界で培われてきた思想(新プラトン主義やアリストテレス主義、さらにストア派)のエッセンスを一言でまとめたものと言えます。そしてこの見解は、近代までの西洋哲学の考え方の大前提に据えられ、individuality概念の意味内容に決定的な影響を及ぼすことになるでしょう。

人が「個」であることの本質

 さて、以上、「個」であることの本質が見えてきました。では、人が「個」であることの本質とは何でしょうか?
 私たちは、人間を「一」として数えます。「二つの手と二つの足と二つの腎臓などなどの束」などとは言いません。一つのアプリを「30個のプログラムの束」とは言わないことと同様です。では、人間がどうして「一」であると判断できるのでしょうか? アプリの場合は、「働き」が統一されていたからでした。おそらく人間についても、「働き」が統一されていることに大きな意味があるでしょう。
 そして人間の働きとは、「生きる」ことです。二本の手や二本の足や、心臓や肝臓や腎臓や、その他諸々のバラバラのパーツが、「生きる」という働きの下にすべて統合されているとき、人間は間違いなく「一」です。そして「一」であることは、「存在している」ということでした。このように「ひとりの人間として存在していること」こそが、「個」であることの本質、つまり「個性」ということになるわけです。

われわれは統一されているのか?

 しかし少し考えてみると、われわれはちっとも統一なんかされていないことが分かります。「個」としての条件を満たしていないことが分かります。
 たとえば、頭では「食べちゃだめだ」と思っていても、胃袋は「ラーメンを食べたい」と要求してきます。頭と胃が分裂しているわけですから、人間は統一されていません。「個」の条件を満たしていません。
 このように分裂している人には、個性がありません。相手によって態度を変える人とか、考え方をコロコロ変える人には、個性がありません。「一」である条件が欠けているのです。逆に、どんな立場の人にも同じように現われる人や、考え方が首尾一貫している人には、個性があります。つまり他人とどれだけ違っているかどうかが問題なのではなく、いかに「私自身と一致しているか」が問題になるわけです。もちろん、無理をして他人と違うように振る舞おうとしているとき、私自身を裏切っているわけですから、そこには個性など微塵もありません。

 たとえば18世紀啓蒙期に活躍したルソーは『エミール』の中で、以下のように述べています。

「わたしは、肉体の拘束から解放されて、矛盾のない、分裂のない「わたし」になるときを、幸福であるために自分以外のものを必要としなくなるときを待ちこがれている。」
ジャン・ジャック・ルソー『エミール』岩波文庫、中179頁

 ここで言う「矛盾のない」とか「分裂のない」ことこそ、「一」であるということです。そして「わたし」が「一」であるときがルソーの言う「幸福」であり、これこそ「個性」が実現した状態というわけです。
 またあるいは16世紀ルネサンス期の人文主義者エラスムスも『エンキリディオン』の中でこう言っています。

「精神がその猛烈な謀反によって自分自身と不和になり、そのある部分が他の部分とは別の方向に突き進むことによって、揺り動かされ、分裂され、引き裂かれているような、心の軋轢がいかに恐ろしいか(中略)。理性と自然本性と罪の情欲はそれぞれ別の方向へ呼びかけている。そこから耐えざる苦痛、絶えざる争い、絶えざる戦闘が起こっている。」
エラスムス『エンキリディオン』V-1 70

 ここでいう「自分自身と不和」になって「分裂」して「引き裂かれている」ときが、個性が失われた状態です。18世紀啓蒙期のルソーと16世紀ルネサンス期のエラスムスが異口同音に主張しているこの考えは、西洋思想を遡ると、古代末期のボエティウスやローマ時代のキケロを経て、最終的にギリシア時代のプラトンに突き当たることになります。

本当に人間が「個」であるとは

 改めてルソーとエラスムスの「分裂のない」ような状態を精査してみると、共通点があることに気がつきます。彼らは「分裂」を、手や足の分裂とか心臓と胃の分裂などとは捉えていません。ルソーは「肉体の拘束」を問題にし、エラスムスは「自然本性と罪の情欲」を問題にしています。つまり彼らにとっての決定的で本質的な問題とは、理性と肉体(情欲)との分裂です。肉体が気ままに情欲をとげようとして理性と別の方向に突き進む時が「分裂」です。この分裂状態を避けるには、理性が完璧に肉体を統率するしかありません。逆に言えば、理性が完璧に肉体(情欲)をコントロールしている時、人は初めて「個」であると呼ぶことができるということです。
 そしてこれを最初に主張したのが、プラトン『国家』という本です。プラトンは理性と情欲に「気概」を加えて3つの要素の統合を説き、理性が気概の助けを得て情欲を押さえつけている状態が人間と国家が共通に目指すべき至高の「一」であると宣言しました。エラスムスの言う「理性/自然本性/罪の情欲」の統合は、明らかにプラトン思想の影響を受けています。これが古代ギリシアから16世紀ルネサンスを経て18世紀啓蒙期までヨーロッパに一貫して見られる「個」の思想の柱です。

個性を貫くと、他人に迷惑をかけるのか?

 さて、現代日本(あるいは日本以外)でしばしば聞くのは、個性を貫くことで他人に迷惑をかけてしまうという話です。ここまで来れば、それが完全に「個性」という言葉を誤解した物言いであることが分かります。
 上の引用で、ルソーは「幸福であるために自分以外のものを必要としなくなる」と言っています。もしも他人に迷惑をかけているなら、それは自分以外のものを必要としている状態であり、「一」である条件が欠けている状態です。ルソーが言う個性とは、自分以外のものを必要としないので、もちろん他人に迷惑をかけるわけがありません。
 同じくエラスムスが言いたいのも、個性を失うことは自分自身にとって苦痛であるということです。個性を失った分裂状態は、情欲の無軌道な暴走を招き、他者をも巻き込んで自分自身もろとも不幸に陥れることになるでしょう。
 つまり、個性という言葉の本来の意味からすれば、個性を貫くことは、他人に迷惑をかけることとはまったく関係がありません。個であることは、情欲を完全にコントロール下に置いて、一人の人間として分裂していない状態を意味します。個であること(情欲をコントロールできる)と、ワガママ(情欲が野放し)であることは、まったく正反対の状態です。

まとめ

 以上、個性という言葉について、歴史的・哲学的に考察してきました。まとめると、個性とは他人と比較してどうこうという言葉ではありません。個性が失われている状態とは、他人に良く思われるために無理を重ねるなど、わたしがわたし自身に嘘をつき、騙して、裏切っている状態のことです。わたしがわたし自身と嘘偽りなく仲良くでき、「俺は俺をだますことなく生きている」ような時、他人からどう見えるかどうかは関係なく、間違いなく個性が現われているのです。
 そして、この個性の実際のあり方について考えようとしたら、実は「自己実現」という概念について、改めて吟味する必要が出てきます。「わたしがわたし自身と一致している」という命題は、実質的には「可能性としてのわたし」と「現実としてのわたし」が一致しているかどうかという問題になってきます。あり得るはずだった理想のわたしが、本当に「実現」しているかどうかという話になってきます。「個性」という概念は、「自己実現」という概念と密接に関わってくるわけです。
 まあ、個性については、とりあえずここまでということで。

個性概念を吟味するための参考文献

 手前味噌ですが、個性に関する学術論文を書いております。個性という言葉がどのように登場し、どのように日本社会の中に定着していったのか、さらに調査を続けていきたいと思います。

・鵜殿篤「「教育的」及び「個性」-教育学用語としての成立-」東京大学大学院教育学研究科教育学研究室『研究室紀要』第27号、2001年
・鵜殿篤「個性概念についての一考察」文京学院大学教職課程センター『文京学院大学教職研究論集』第5号、2014年

 教育学の大先輩の片桐芳雄先生が、「個性」概念に関する論文をたくさん発表しています。日本での初出事例の検討など、興味深い内容の論文が多いです。

・片桐芳雄「近代日本の教育学と「個性」概念」人間研究42、2006年
・片桐芳雄「近代日本における「個性」の登場――「個性」の初出を求めて」日本女子大学大学院人間社会研究科紀要12、2006年
・片桐芳雄「近代日本における個性教育論への道:教育雑誌掲載論文の検討を通して」日本女子大学大学院人間社会研究科紀要13、2007年

 教育の世界では、1980年代半ばから、特に臨時教育審議会の答申を受けて、「個性」という概念が急浮上してきます。それを踏まえて、教育学的に個性概念を検討した本です。小浜逸郎、佐藤学、藤田英典、黒崎勲、片桐芳雄という錚々たる諸氏が寄稿しています。20年経っていますが、まだまだ大いに参考になります。

【要約と感想】『エピクロス―教説と手紙』

【要約】快楽主義を推進します。ただし注意してほしいのは、私が言う快楽とは肉体的な欲望を叶えるようなものではなく、精神的に平静をもたらすようなものです。

【感想】本屋で本書を見かけたとき、エピクロスの諸説が単体でまとまっているとはありがたい、などと思ったのだけど、実は内容はディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』10巻をまるまるシングルカットしただけのもので、既に読んでいたものだった。まあ、翻訳の仕方がそこそこ違って勉強になったのでよかったんだけれども。

で、エピクロスの特徴は、プラトンやアリストテレスと比べたとき、(1)唯物論(2)自由意志(3)社会契約論にあるように思う。そして個人的に思うのは、実はヨーロッパ近代思想(デカルトやホッブズ)に直接繋がっていくのは、プラトンやアリストテレスではなくて、エピクロスの思想ではないかということだ。

(1)唯物論に関しては、デモクリトスの原子説などを引き継いで、あらゆる現象を物質一元論で説明する。いま見ると「光」の説明なんかには思わず笑ってしまうわけだけれども、あらゆる現象を唯物的に説明し尽くそうとする姿勢は徹底している。これはプラトンやアリストテレスの体系よりも、近代自然科学の姿勢に親和的であるに思う。

(2)にもかかわらず、自由意志が発生する余地を残しているのも大きな特徴だ。まあ自由意志の源泉も唯物論的に説明しているわけだけれども、倫理が成立する根拠を「自由」に据えているのも間違いない。ここでデモクリトスなど他の唯物論者と一線を画し、自由意志に基づく倫理の世界についての記述が可能となる。
この唯物論と自由意志のスッキリしない関係は、ヨーロッパ近代思想に通じているような気がしてしまう。

(3)個人的に一番の見所は、社会契約論的な論理だ。
ソクラテスの時代に「ピュシス(自然の法)/ノモス(人為の法)」の分裂が問題になり出したことは、様々な論者が指摘している。ソクラテスの時代、ソフィストたちが跋扈して、ピュシス(自然の法)の権威を否定し、現実の正義は所詮はノモス(人為の法)なのだと喧伝し始める。その様子は、プラトンが描写するカリクレスやトラシュマコスの諸説に鮮やかに見出すことができる。
この流れのなか、エピクロスもまたピュシス(自然の法)を否定し、現実の正義はノモス(人為の法)であることを主張する。これは自然科学と倫理を断絶するエピクロスの立場からすれば、必然的な帰結ということかどうか。
そしてこの社会契約論的な発想は、もちろんホッブズに繋がっていく。

ということで、エピクロスが侮れないことを再確認するのであった。

個人的な研究のための備忘録

社会契約論を思わせる論説は、本書の見所の一つである。ただしもちろんこの時点では「自然権」と「自然法」の関係が論理的に整理されておらず、それがホッブズ以降の近代社会契約論との決定的な違いをもたらすように思う。

【個人的備忘録:社会契約論】
(31)自然の正は、互に加害したり加害されたりしないようにとの相互利益のための約定である。
(32)生物のうちで、互いに加害したり加害されないことにかんする契約を結ぶことのできないものどもにとっては、正も不正もないのである。このことは、互に加害したり加害されたりしないことにかんする契約を結ぶことができないか、もしくは、むすぶことを欲しない人間種族の場合でも、同様である。
(33)正義は、それ自体で存在する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互に加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である。」p.83
(36)一般的にいえば、正はすべての人にとって同一である。なぜなら、それは、人間の相互的な交渉にさいしての一種の相互利益だらからである。しかし、地域的な特殊性、その他さまざまな原因によって、同一のことが、すべての人にとって正であるとはかぎらなくなる。
「主要教説」p.84

それから、「個性」に関する発言は、現代にも通じるものがあって、なかなか趣深い。

【個人的備忘録:個性に対する言及】
ちょうどわれわれが、自分自身に特有な性格を――それがすぐれていて、われわれが人々から賞められようと、あるいは、そうでなかろうと――尊重するように、そのように隣人の性格についても、かれらがわれわれに寛容であるかぎり、われわれはこれを尊重すべきである。「断片15」p.89

『エピクロス―教説と手紙』出隆・岩崎允胤訳、岩波文庫、1959年

【要約と感想】エレン・ケイ『児童の世紀』

【要約】20世紀を児童の世紀にしたいなら、まず大人の責任と女性の立場についてしっかり考えましょう。

【感想】新教育を代表する著作として名高く、教育史の教科書には必ず登場する古典中の古典。しかし実際に読んでみると、教科書の記述とは相当に異なる印象を受ける。

まず「児童」そのものについて書かれている部分が、想像していたよりもかなり少ない。女性解放運動や、労働問題や、宗教批判や、優生学についての記述など、19世紀末の社会問題が全面的に論じられる中で、子どもについての言及が埋め込まれている。逆に言えば、子どもを考えるということが、社会すべての問題を考えることに通じているということでもある。だからこの本を「子ども」そのものだけに特化していると読むと、問題の本質を見誤る。特に進化論に関わる記述は、キリスト教に対する激しい攻撃とも関わって、本書のライトモチーフともなっている。時代背景を踏まえて理解する必要があるだろう。

また、教科書や教員採用試験では、ルソーとの関係で語られることが多いが、実際に読んでみると疑問が残るところだ。むしろJ.S.ミルや、特にスペンサーといった19世紀末の自由主義との関係で捉える方がわかりやすいのではないか。19世紀の自由主義が「白人男性」に対してのみ適用されるものだったとすれば、本書の主張は、それを女性と子どもにも拡大するべきだという主張のように思える。それは「恋愛の自由」や個性尊重への主張に端的に表れているように思う。

「古典」というものは教科書等で知ったつもりになるかもしれないが、本当のところは実際に読んでみないとわからないという典型みたいな本かもしれない。

研究のための備忘録

【個人的備忘録】恋愛の至高性
「恋愛が日常当り前の信念となり、祭日の祈りの献身的態度をとるとき、また、絶え間ない精神の目覚めに守られ、不断の人格向上――古い美辞、「神聖化」を用いてもよいが――をもたらすとき、初めて恋愛は偉大になる。」(32頁)

恋愛至上主義的な姿勢が「人格の向上」という観念を伴いながら浮上してきたことは、記憶されてよいかもしれない。女性が家父長制の呪縛から逃れ、かけがえのない「人格」として独立しようとするとき、恋愛というものに極めて大きな期待がこめられていたことが分かる。

【個人的備忘録】家事の市場化についての予言
「もちろん、醸造やパン焼や屠殺や蝋燭づくりや裁縫が、だんだん家庭から去っていくように、いまのところまだ家事労働の最大部分をなしている多くの労働、たとえば、食事の準備や洗濯や衣類の繕いや掃除などが、だんだん集団化し、または電気や機械の助けを借りるようになるものとわたしは信じている。しかしわたしは、人間の個人尊重の傾向が、非人格的単一型の集団生活へ向う傾向に打克つことを希望している。」(111頁)

「家事」というものは、世間で思われているような雑事ではなく、「いまだ市場化されていない労働」のことだ。という社会学の常識的な考え方が、実はすでにエレン・ケイによって提出されていたことは記憶されてよいかもしれない。そしてエレン・ケイが、家事の市場化傾向に対して「個人尊重」を対抗させたことも。

【個人的備忘録】個性の尊重
「子どもを社会的な人間に仕立て上げる際、唯一の正しい出発点は、子どもを社会的な人間として取扱い、同時に子どもが個性ある人間になるように勇気づけることである。」
「多くの新しい思想家たちは、わたしがすでに述べたとおり、個性について語っている。だが、この人たちの子どもが、他の全部の子どもたちと同じでない場合、または、子どもが自分の子孫として、社会の要求するあらゆる道徳を身につけないとか完成を示さない場合、この人たちは絶望する。」(150頁)
「教育者の最大の誤りは、子どもの個性に関するあらゆる現代の論説とは裏腹に、子どもを「子ども」という抽象観念によって取扱うことである。これでは子どもは教育者の手のうちで成形され、また変形される無機物であり、非人格的な一つの物体にすぎない。」(170頁)
「何が子どもにとって最高のものであるか。ゲーテは答えている。地上の子どもにとって最高の幸福は個性を認められることにつきる」(243頁)

引用した「個性」に関する物言いは、現在ではむしろ陳腐な部類に属するかもしれない。が、このような表現は、この時点ではかなり新しかったように思う。19世紀的な思考形態からは出てきにくい表現のように思う。こういう表現の数々が、本書を20世紀の幕開けを代表するものに押し上げているのかもしれない。

【個人的備忘録】人格の尊重
「時代は「人格」を求めて呼びかけている。しかし、わたしたちが子どもを人格あるものとして生かし、学ばせ、自分の意志と思想をもって自分の知識を得るために働かせ、自分の判断力を養成させるまでは、時代がいくら叫んでも無駄である。一言でいえば、わたしたちが学校における人格的素質の殺害をやめるまでは、人格を生活のなかに見出そうとする期待は、無駄というものであろう。」(295-296頁)

「個性」と並んで、「人格」に関する表現も、実に20世紀的と言える。19世紀的な「人格」の用法とは、ずいぶん異なっているように感じる。ちなみに、これがはたしてエレン・ケイの思想に固有のものか、単なる翻訳の問題に過ぎないかは、私は検討していないので、各自調べていただきたい。

エレン・ケイ『児童の世紀』小野寺信・小野寺百合子訳、冨山房百科文庫 24、1979年