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【要約と感想】茂木健一郎・竹内薫『10年後の世界を生き抜く最先端の教育』

【要約】日本の教育はオワコンです。文部科学省は潰れろ。TOEICは廃止せよ。英語とかプログラミングとか、何かやろうと思ったら、今すぐ始めましょう。

【感想】うーん、なんだろうなあ、個人的には『サイエンス・ゼロ』とか楽しく観てたし、『100分de名著』の「赤毛のアン」の時の茂木健一郎はとても好きだったりして、個人的には二人に対して含むところはないつもりではあるが。

まずさしあたって、明らかな事実誤認は指摘しておく。お二人は、教員免許がないから学校で教えられないと言うが、この認識は如何なものか。

竹内「そもそもアメリカと日本の大きな違いは、ぼくも茂木も学校で教えられるくらいの知識は持っているのに、教えてはいけないんです。」
茂木「教員免許がないから。」
竹内「そう。」(79頁)

ダウトだ。世の中には特別非常勤講師という制度が用意されていて、教員免許がない人でも教壇に立てる。他にも「特別免許状」という種類の教員免許があったりして、どこかの自治体がお二人を学校教員として雇用しようと思ったら実はいくらでも「抜け道」が用意されているのだ。「抜け道」の具体的事例もたくさん紹介されている。竹内は「教員免許制度というのは緩和しないといけない。」(79頁)と言っているが、すでにそうとう緩和されているわけだ。残念ながら竹内が推奨する「アクティブラーニング」では、この基礎知識に到達できなかったらしい。
しかも茂木は続けてこういうことを言う。

「教員養成系の学校の既得権益になっているから、彼らはそれを言われてしまったらレゾンデートル(存在理由)がなくなってしまうので、ものすごく焦るでしょうね。」(79頁)

この手のエビデンス無用の発言を「下衆の勘ぐり」と呼ぶ。教員免許制度が規制緩和されて「抜け道」があることは、誰かに言われるまでもなく、学部生の授業で伝えられるレベルの基本知識だ。少なくとも私は丁寧に説明している。どうやら茂木の推奨する「アクティブ・ラーニング」では、この基本知識に辿り着くのは不可能だったらしい。

個人的には「一事が万事」という言葉は好きではないのだが、本書においては残念ながらすべてがこの調子で進む。特に茂木の発言には一切のエビデンスを欠いた「下衆の勘ぐり」が極めて多い。どうやら脳科学という学問を修めた人間には、エビデンスなしで専門外の事象を断罪する資格が与えられるようだ。いやはや、文部科学省を腐していれば良かった時代は、もうとっくに終わっているというのに。

お二人は教育学についてはシロウトだから仕方ないのかもしれないが。アメリカの学者が日本の教育を「ドリルばかりやっているアメリカの教育と違って、創造性が高い」と極めて高く評価している事例もご存知ないのだろう。おそらく日本の「学級経営」や「生活指導」の伝統が高い「非認知能力」を育ててきたであろうことにも、想像力が及ばないのだろう。茂木の「現代国語という教科は要らない」(90頁)という発言は、現在の「読解力」に関する国際トレンドが何も分かっていない証拠でもある。唖然とする。この手のツッコミを入れ始めたらキリがない。

まあ、教育のいいところは、「教育学のシロウト」であっても、そこそこ良い教育実践が可能なところではある。「経済学のシロウト」であっても、そこそこ良い経済実践が可能なのと同じことだ。竹内薫が作った学校には、ここから次世代をリードする人材が次々と輩出されることを期待せざるを得ない。
いやほんと、言っている内容そのものの方向性はそれほど的外れではないのだから、もうちょっと足下を固めて臨んで欲しいと思ったのだった。そこそこ良かった教育実践が何かしらの限界に突き当たった時、その時こそ教育学の専門的知見がヒントを与えてくれるはずだ。

【言質】
「個性」という言葉に関しては、いくつか興味深い言質を得た。

茂木「よく一般の方が「私、普通なんです」と言って没個性を嘆いたりするけれど、これは脳科学的に言うと明らかに間違いで、個性というのは誰でも平等にあるんです。ただしここからが大事で、個性はマイニング、つまり発掘しなくてはいけないんです。」(167頁)

茂木の言う「脳科学」が「個性」という概念についてあまり深く考えていないことがよく分かる発言ではある。ここで茂木が言っているものは、「個性」ではなく、「特徴」とか「長所」とか「持ち味」と呼ぶべきものに過ぎない。「個性とは何か」についてはこちらの文章を参照

茂木健一郎・竹内薫『10年後の世界を生き抜く最先端の教育―日本語・英語・プログラミングをどう学ぶか』祥伝社、2017年

【要約と感想】北川達夫・平田オリザ『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』

【要約】このままの教育を続けていたら、日本は滅びます。日本従来の共感重視の「会話」に頼るのではなく、絶望的にわかり合えない絶対的な「個」を踏まえて、本物の「対話」の力を育みましょう。

【感想】まあ、150年ほど前から見聞きする「日本はダメだ、外国に学ぼう」という類の主張をしている本であって、正直言って「またか…」と思わないではない。その「日本はダメだ」の中身も、突き詰めれば「個をベースとした市民社会のセンスが身についていない」という内容であって、その主張は150年前に福沢諭吉が言ったことからさほど遠くない。
そういう冷めた目で見れば得るものも多いかもしれないし、純粋な学生が何も知らずに読んで目から鱗を落とすのもいい経験になるんだろうけどね。

【冷めた目で読んで得たもの】
「個性」や「人格」という言葉についての言質をいくつか得られた。個人的に大きな収穫だ。まず「個性」について。

北川「ヨーロッパ型の教育に出会って、おもしろいと思ったのは、「個性」といったときに、「ほんとうに個性的なものは、極めて個人的なもので、他人には理解不能なものである」と考えるところでした。(中略)
互いにわかり合えない超個性的な状態の子どもを「野性的な個性」というような言い方をしているんですが、そういう子どもに、一般的に分かりやすく表現する方法を教える。そして、共感というものを認識させて、他人と共通性のある表現の大切さを知らせていく。それによってそういう野性的な個であったものが、社会における個とか、社会的な個性として育つのだと。」(102-103頁)

まあ「窓のないモナド」として「個」を把握するという理解の仕方は、日本人にはなかなか分かりにくいものだ。こういう「個」のありかたと「個性」という言葉の意味について反省する上では、とても役に立つ文章だと思う。
続いて「人格」について。

平田「仕事がら、不登校の子どもたちと付き合うことがよくあります。(中略)
さらに、彼ら/彼女らは、「ほんとうの自分は、こんないい子の自分ではない」と言う。そこでわたしは、「でもね、ほんとうの自分なんて見つけちゃったら大変だよ。新興宗教の教祖にでもなるしかないよ」と答えます。
わたしたち大人は、ふだんからいろいろな役割を演じています。父親という役割、夫という役割、会社での役職、マンションの管理組合やPTAの役員、いろいろな社会的な役割を演じながら、人生の時間をかろうじて、少しずつ前に進めていっている。自分のなかで、その役割同士の調和を取りながら、一つの人格を形成している。
こういった概念を、演劇の世界では「ペルソナ」と言います。ペルソナには、仮面という意味と、パーソンの語源になった人格という意味の両方が兼ね備えられています。仮面の総体が人格なんですね。わたしたちは、社会的な関係のなかで、さまざまな役割を演じながら、一つの人格を形成している。
そんなことは、大人は充分わかっているはずなのに、子どもたちには、家でも学校でも「ほんとうの自分を見つけなさい」「ほんとうの自分の意見を言いなさい」と強要している。
ほんとうの自分の意見なんてあり得ない。わたしたちは、相手に合わせて、さまざまに意見やその言い方を変えていくし、それは決してまちがったことではない。」(183-184頁)

この「人格」観は、アメリカの哲学者J.H.ミードが90年ほど前に述べたのとまったく同じ見解だ。逆に言えば、この発言は、1920年代のアメリカと高度経済成長以後の日本が似たような社会状況にあるという示唆をも与えてくれるわけだ。そういう意味で興味深い発言ではあるのだ。
「ほんものの自分=近代的自我」を探すアイデンティティ・ゲームの行き着く先に幸せが待っているかどうか、極めて不透明であることについては、私も同じ意見ではある。

が、以下の言葉は、私自身を省みるものとして、自分事としてしっかり味わわなければならない。

平田「ほんとにだめなのが、中高年の男性たちです。これがいちばん対話下手。(中略)自分の経験や知識をひけらかすためだけの発言をする。それはもう、つまみ出そうかと思うくらい。」(67頁)

いやあ、心当たりがありまくるなあ。すみませんね>各位。

北川達夫・平田オリザ『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』日経ビジネス人文庫、2013年<2008年

【要約と感想】安藤寿康『なぜヒトは学ぶのか―教育を生物学的に考える』

【要約】勉強できるかどうかは、だいたい遺伝で決まります。さらに人間は、獲得した知識を他の個体に「教育」という形で伝えていくほぼ唯一の生物ではありますが、実は教育による学習というものは生物学的に見ると簡単に成立するものではありません。
この2つの科学的知見を土台にして考えると、教育とは子供の適性を無視してあらゆる情報を教え込もうとすることではなく、子供が本来持っている可能性を存分に発揮するためにこそ行なわれるべきものだと分かります。人間は一人ひとり違っていてちっとも構わないし、違っているからこそ世の中は成り立つのです。遺伝子に対する科学的知見は、決して差別に結びつくのではなく、むしろ個性を尊重する姿勢へと繋がります。自分の可能性(遺伝子)を最大限に発揮するために、張り切って学習に励みましょう。

【感想】「教育学者」をコケにしているところに関しては、教育学者として言いたいことはある。かつて「生物学を土台とした社会的教育学」なるものが日本でも大流行した歴史があるのだが、どうやら著者はご存知ないようだ。あるいは、「それは村井教育学のことではあっても、私が知ってる教育学とは違うものだよね」とは言いたくなる。たとえば広田照幸あたりは、著者も納得してくれそうなこと(学校にはできないことがたくさんあるとか)をたくさん言ってるはずだ。いやはや。

まあそういう些細な専門的ツッコミどころを抜きにすれば、最先端の科学的知見をとても分かりやすく、しかも実践に落とし込めるように工夫して説明しており、まさに新書として期待されている役割を存分に発揮している、良書だと思う。若い人が自分の個性や進路について真剣に考えるきっかけになるかもしれないし、そうあってほしい。
教育の起源や学校の起源に関しても、これまでの教育学者の漠然とした知見に対して生物学的な観点からスマートに裏付けを与えてくれる。切れ味が鋭く、なかなか爽快ではある。かつての大雑把な進化心理学の水準を遙かに超えて、数々の実証的データを下敷きにし、さらに最新の脳科学の知見とも結びついてきて、納得感は極めて高い。きっと今後の教育学は、生物学と脳科学の知見を踏まえないと成立しないようになっていくだろう。

とはいえ本書の結論は、別に改めて「遺伝」なるものを持ち出さなくても、既に教育学で確認されていることばかりなようには思う。
たとえば本書では「自己実現」という言葉を使っていないが、本書の結論はほぼヘーゲル哲学の言う弁証法と同じものとなっている。すなわち、即自(遺伝子で決められた私)と対自(社会関係の中の私)の間の葛藤を経て即且対自(個性を実現した私)にアウフヘーベンするという、弁証法的な自己実現の論理だ。
またあるいは、アリストテレスの言う「可能態(エネルゲイア)から現実態(エンテレケイア)へ」と言ってもいいのかもしれない。人間はそれぞれユニークな遺伝子を持った可能態ではあるが、その可能性が十全に発揮されて現実態に至るかどうかは本人の学習と環境如何にかかってくる。またアリストテレスの「形相/実質」の議論は、生物学の「遺伝子/表現型」の二項対立図式とも親和性が高い。
そして最終的に、ソクラテス=プラトンの言う「ほんものの幸せとは、私が私であること」という命題に落ち着く。(本書でもソクラテスの「エロス」概念に触れているが(37頁))。
本書は用語こそ最新の科学の言葉を使ってはいるが、やはりその知見を現実社会と繋ぐために解釈する段になると、ヘーゲルやアリストテレスやソクラテス=プラトンの掌の上で踊ることになるのだった。あるいは450年前のモンテーニュの洞察を振り返ってみてもよい。

「生まれつきの傾向は、教育によって、助長され強化されるが、改変され克服されることはほとんどない。今日でも、何千という性質が、反対の教育の手をすりぬけて、あるいは徳へ、あるいは不徳へと走っていった。」モンテーニュ『エセー』第3巻第2章

 本書は、モンテーニュが450年前に書き残した経験的知見を科学的に裏付けたものと言っていいのかもしれない。

【今後の研究のための個人的メモ】
まあ突き詰めれば村井教育学という特異な学統に対する恨み辛みのような気もしないではないのだけれども、教育学に対する批判は記憶しておきたい。

「教育は人間を「よくする」ためではなく、それ以前に「生きるため」「生き延びるため」、そして「命をつなぐため」にうまれたということになります。」(16頁)
「教育の本来の目的は、人格形成といった抽象的な目的や、自分だけのためなのではなく、他者のため、他者と共に生きるためにあるということになります。」(17頁)

さしあたって教育学者として簡単に反論しておくとすれば、「人格形成」という言葉と観念に対する著者の知見は視野狭窄だろうというところか。「人格形成」とは、実質的には最新の脳科学が言う「社会脳=デフォルトモード=自己と他者の区別」を成立させる営みだろう。人間にとって「自己の形成」と「他者との共存」は密接不可分な関係にあり、「人格形成」とはそのような人間性と社会との関係をも含み込んだ弁証法的な概念であったはずだ。単に「抽象的」と切り捨てられると、「え?」となる。まあ、「人格の形成」の掛け声ばかり大きくて中身の伴わない昨今の教育論だけ見ていると、そう思ってしまうのも無理はないかもしれないけれど。

安藤寿康『なぜヒトは学ぶのか―教育を生物学的に考える』講談社現代新書、2018年

個性とは何か? 歴史的・哲学的に考える

個性の定義

ありがちな勘違い

 個性は、「長所」でもないし、「特徴」でもないし、「持ち味」でもありません。「性格」とは違うものですし、ましてや、「奇をてらって人と違うことをする」こととは何の関係もありません。長所や特徴や持ち味がなくても、個性はあります。平凡であることは、個性を持つことと問題なく両立します。
 またwikipediaの記述(2020年8月)は大間違いなので、お気をつけください。wikipediaには「個性とは、個人や個体の持つ、それ特有の性質・特徴」とありますが、極めて薄っぺらい理解です。また「特に個人のそれに関しては、パーソナリティと呼ばれる。」とありますが、一部の業界でしか通用しない特殊な考え方で、常識的な理解ではありません。personalityではなく、individualityです。

個性の定義

 結論から言えば、個性とは「ひとりの人間として存在していること」を表現する言葉です。他人と違った長所や特徴や持ち味があるかどうかは、まるで関係ありません。

 さて、「ひとりの人間として存在していること」なんて、当たり前じゃないかと思う人がいるかもしれません。しかしその「当たり前」のことが極めて重要だからこそ、「個性」という言葉がわざわざ必要になるのでしょう。
 実は、「ひとり」とか「人間」とか「存在」という言葉は、考え始めると、奥が深い言葉なのです。ひとつひとつの言葉を吟味していくことによって、「ひとりの人間として存在していること」がいかに大切なことか、見えてくるかもしれません。

 ということで、このページでは、「個性」とは「ひとりの人間として存在していること」だという定義の根拠を、歴史的・哲学的に説明していきます。

歴史的に「個性」という言葉を考える

個性という日本語は、なかった

 そもそも実は、「個性」という言葉は、もともと日本語に存在しない言葉でした。江戸時代が終わって明治も半ば、明治20年(西暦1887年)頃にindividualityという英語が翻訳されたことで、初めて日本に「個性」という言葉が登場しました。(詳しい事情について知りたい方は、私の学術論文をご参照下さい。「「教育的」及び「個性」-教育学用語としての成立-」)
 つまり逆に言えば、「個性」という言葉は120年程度の浅い歴史しか持っていないということです。そのため、individualityという言葉が本来持っていたニュアンスがしっかり理解されることがないまま、一種の流行語として広がっていくことになりました。その過程で、「長所」とか「特徴」とか「持ち味」というニュアンスが色濃く貼り付いていきます。

 「個性」という言葉がいかに流行語として蔓延していたか、夏目漱石『吾輩は猫である』を読むと、よく分かります。

「前申す通り今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。」
夏目漱石『吾輩は猫である』

 この文章が書かれたのは明治39年(西暦1906年)です。日本に「個性」という言葉が誕生してからまだ20年も経っていませんが、このあと漱石は「個性」に関する多面的な議論を自在に展開し、「個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった」なんてことも言い始めて、「個性」という言葉を完璧に自分の語彙に取り込んだ様子が伺えます。『吾輩は猫である』に書かれた個性論は、多少古風な言い回しを除けば、現代でも通用しそうです。
 しかし一方、もうこの時点で個性という言葉に対して様々な手垢がついていることも分かります。明治時代の後期には、すでに個性という言葉の意味が混乱しているのです。

個「性」なのか、「個」性なのか

 さて、日本語の「個性」という言葉がわかりにくくなってしまったのは、歴史が浅いことに加えて、「個」に重点を置くか「性」に重点を置くかで、捉え方が大きく違ってしまうからかもしれません。現在の「個性」は、「性」のほうに重点を置くような理解が広がっているように思います。

 「性」とは、人や物の性質や性格を表現する漢字です。つまり「性」に重点を置いて読むと、個性とは、「各々の性質」という意味に読めます。そうすると、長所とか特徴とか持ち味などという言葉と近いニュアンスの意味を持つようになります。
 ちなみに「ひとりひとりの持ち味」という意味での「性」については、儒教の中で盛んに議論されています。全ての人間が同様の性を持つのか、それともひとりひとりが異なる性を持つのかという議論です。日本においては、特に江戸時代、伊藤仁斎が興味深い議論を展開しています。仁斎は、ひとりひとりが異なる持ち味を持っていると主張しています。
 また戦国時代には、武田信玄や織田信長なども、部下の持ち味は多様であるべきだという言葉を残しています。異なる特徴を持つ様々な人間がいるということについては、日本人も当然古くから気づいています。

 しかし、そういう「様々に異なる持ち味の人間がいる」ということと「個性」とは、厳密に言えば違う概念です。「個」ではなく「性」と読むことで、違いが明確に見えてきます。

individualは、「個」

 本来「個性」とは、「個」のほうに重点を置き、「性」のほうはオマケとして読むべき言葉でしょう。
 というのは、もともとindividualityという言葉が、individualに-ityという接尾語がついてできた言葉だからです。後ろにくっついた「-ity」は、ふつうは「○○性」というふうに翻訳されます。たとえばrealityなら「現実性」、activityなら「活動性」、productivityなら「生産性」というふうに翻訳されます。ですから、individualityも、「individual-性」というふうにできた言葉です。本体は「individual」にあって、「性」は接尾語としての意味を持つだけです。
 そしてindividualを日本語に翻訳すると、「個」となります。だから「individual-性」は「個-性」となるわけです。ちなみに幕末から明治始めにかけて、individualは「ひとつ」と翻訳されることもありました。となるとindividualityは「ひとつ-性」となるわけですね。

「○○性」の「性」とは何か?

 では、「○○性」というふうに「性」が語尾につくと、何が変わるのでしょうか。具体的に「reality=現実性」について考えてみます。たとえばreal(現実)がどうしてまさにrealなのか、その理由を考えてみて、もしも具体的にこれこれこういう状態で、こういう条件が揃っているからrealに感じるんだとなったとします。としたら、そういう、realを成立させている具体的にこれこれこういう状態や条件のことが、realityと呼ばれています。「この絵、realityあるね」と言ったとき、その絵自体はrealそのものではありえないけれども、人々にrealを感じさせる要件を備えているということを言いたいわけです。このように「realをrealたる限りでrealたらしめているもの」を、哲学ではrealの「本質」と呼んでいます。「○○性」の「性」とは、○○の本質を指し示すために付け加えられる接尾語です。
 individualityも、同様に、「individualをindividualたる限りにおいてindividualたらしめている」という、individualの「本質」を指し示す言葉です。「この絵、individualityがあるね」と言ったとき、その絵自体がindividualそのものかどうかはともかく、人々にindividualを感じさせる本質を備えているということを言いたいわけです。

「個」と「個性」の違い

 realとrealityが異なるものを指しているように、individualとindividualityはそれぞれ異なるものを指し示しています。つまり「個」と「個性」は、それぞれ違うものです。

 「個」とは、ひとつということです。バラバラになっていて、そのうちのひとつということを示す言葉です。「個々」となれば、バラバラになっているもののうち、ひとつひとつという意味です。だから「個を大切にする」と言ったなら、バラバラになっているひとつひとつを大切にするという意味です。

 一方「個性」とは、「個を、個たる限りにおいて、個たらしめている本質」のことです。「個性を大切にする」と言ったなら、それぞれを「個」たらしめている本質を大切にするということを意味します。
 このように、「個を大切にする」ことと「個性を大切にする」ことは、それぞれ意味内容がかなり違っております。
 ちなみに中世スコラ哲学は、「存在者と本質は異なる」という議論を、アリストテレスを引き継いでさかんに展開しています。ここまでの文脈で言えば、「○○」と「○○性」は異なる、という議論です。ということで、「個性=個を、個たる限りにおいて、個たらしめている本質」とはいったい何なのか、哲学的に考えてみましょう。

哲学的に「個性」について考える

「個」であることの本質

 さて、そもそも「個」であることの本質とは何でしょうか? 結論から言えば、それは「存在している」ということです。
 なんだ「存在している」だけなら、何も特別なことじゃないと思う人もいるかもしれません。しかしちょっと考えてみれば、「存在している」ということはとても不思議なことであることが分かります。

 たとえば、私の目の前に眼鏡が存在しています。私は「眼鏡が存在している」と言います。が、どうして「眼鏡が存在している」と言えるのでしょうか?
 なぜなら私は、同じように「二つのレンズが存在している」とも言えるはずです。それなのに、私はどうして「二つのレンズが存在している」と言わずに「眼鏡が存在している」と言うのでしょうか? それは、目の前に見えるものを、「二つのレンズ」ではなく「一つの眼鏡」と認識しているからです。目の前のものを「二つのレンズ」ではなく「一つの眼鏡」と認識しなければ、「眼鏡が存在している」とは言えません。
 しかしどうして私は、目の前のものを「二つのレンズ」ではなく「一つの眼鏡」と認識できるのでしょうか? 私たちが眼鏡を一つと認識するのは、おそらく、眼鏡が一つの「働き」を持っているからです。眼鏡には、「視力を補正する」という一つの「働き」があります。その「働き」をまっとうするために、二つのレンズやツルやブリッジや鼻パッドやネジなど、多数の部品が組み合わされるわけです。レンズやツルやブリッジがバラバラに存在しているだけでは、「視力を補正する」という一つの「働き」を期待することはできません。
 たとえばアプリの数はどうやって数えるのでしょうか? 一つのアプリは、たくさんのプログラムが組み合わさって働きます。しかし、そうやって動いているアプリが、たとえば30個のプログラムの組み合わせでできているとして、「30個のプログラムの束をダウンロードした」とは言うはずがありません。「ひとつのアプリをダウンロードした」と言うはずです。やはり、「働き」というものを一つの単位として、ものを数えているわけです。

 つまり、「ひとつ」であるということは、「働き」がまとまっているということです。そして「眼鏡が存在してる」とか「アプリが存在している」とか言うとき、単にレンズやツルやブリッジが組み合わされていることや、30個のプログラムが組み合わされていることを言いたいわけではありません。眼鏡やアプリがなんらかの「働き」をすると考えているときに、はじめて「眼鏡が存在してる」とか「アプリが存在している」などと言えるわけです。
 つまり「存在している」という理解は、バラバラで多様なものが何らかの「働き」の下に「個」として統一されているときに、初めて生じることになります。逆に言えば、我々が「存在という本質」を掴んだ時に、初めてその対象を「個」として理解することが可能になります。これをまとめると、「個であることの本質は存在していること」ということになります。そして「個であることの本質」のことを「個性」と呼ぶのですから、「個性とは存在していること」、というふうになるわけです。ページ冒頭に掲げた定義の輪郭が、だんだん明確になってきていますでしょうか。

哲学者たちの見解

 そんなわけで、古代の新プラトン派哲学者プロティノスは、「存在」を定義して「一であること」としました。そしてこの「一であること」と「存在」の関係については、プラトンもアリストテレスも徹底的に追究したテーマです。特にプラトン『国家』およびアリストテレス『形而上学』は、全編が「一と存在」について考え抜かれた哲学書と言えます。
 このように古代から鍛え上げられてきた「一」と「存在」の関係について、古代最末期に活躍した哲学者ボエティウスが、明確に言い切っています。

「存続し・継続しようと求めるものはたることを欲する。何故なら、一たることが失はれれば存在といふことも無くなつてしまふのだから。」
ボエティウス『哲学の慰め』岩波文庫、135頁

 この「一」と「存在」の関係に関する見解は、古代から西洋世界で培われてきた思想(新プラトン主義やアリストテレス主義、さらにストア派)のエッセンスを一言でまとめたものと言えます。そしてこの見解は、近代までの西洋哲学の考え方の大前提に据えられ、individuality概念の意味内容に決定的な影響を及ぼすことになるでしょう。

人が「個」であることの本質

 さて、以上、「個」であることの本質が見えてきました。では、人が「個」であることの本質とは何でしょうか?
 私たちは、人間を「一」として数えます。「二つの手と二つの足と二つの腎臓などなどの束」などとは言いません。一つのアプリを「30個のプログラムの束」とは言わないことと同様です。では、人間がどうして「一」であると判断できるのでしょうか? アプリの場合は、「働き」が統一されていたからでした。おそらく人間についても、「働き」が統一されていることに大きな意味があるでしょう。
 そして人間の働きとは、「生きる」ことです。二本の手や二本の足や、心臓や肝臓や腎臓や、その他諸々のバラバラのパーツが、「生きる」という働きの下にすべて統合されているとき、人間は間違いなく「一」です。そして「一」であることは、「存在している」ということでした。このように「ひとりの人間として存在していること」こそが、「個」であることの本質、つまり「個性」ということになるわけです。

われわれは統一されているのか?

 しかし少し考えてみると、われわれはちっとも統一なんかされていないことが分かります。「個」としての条件を満たしていないことが分かります。
 たとえば、頭では「食べちゃだめだ」と思っていても、胃袋は「ラーメンを食べたい」と要求してきます。頭と胃が分裂しているわけですから、人間は統一されていません。「個」の条件を満たしていません。
 このように分裂している人には、個性がありません。相手によって態度を変える人とか、考え方をコロコロ変える人には、個性がありません。「一」である条件が欠けているのです。逆に、どんな立場の人にも同じように現われる人や、考え方が首尾一貫している人には、個性があります。つまり他人とどれだけ違っているかどうかが問題なのではなく、いかに「私自身と一致しているか」が問題になるわけです。もちろん、無理をして他人と違うように振る舞おうとしているとき、私自身を裏切っているわけですから、そこには個性など微塵もありません。

 たとえば18世紀啓蒙期に活躍したルソーは『エミール』の中で、以下のように述べています。

「わたしは、肉体の拘束から解放されて、矛盾のない、分裂のない「わたし」になるときを、幸福であるために自分以外のものを必要としなくなるときを待ちこがれている。」
ジャン・ジャック・ルソー『エミール』岩波文庫、中179頁

 ここで言う「矛盾のない」とか「分裂のない」ことこそ、「一」であるということです。そして「わたし」が「一」であるときがルソーの言う「幸福」であり、これこそ「個性」が実現した状態というわけです。
 またあるいは16世紀ルネサンス期の人文主義者エラスムスも『エンキリディオン』の中でこう言っています。

「精神がその猛烈な謀反によって自分自身と不和になり、そのある部分が他の部分とは別の方向に突き進むことによって、揺り動かされ、分裂され、引き裂かれているような、心の軋轢がいかに恐ろしいか(中略)。理性と自然本性と罪の情欲はそれぞれ別の方向へ呼びかけている。そこから耐えざる苦痛、絶えざる争い、絶えざる戦闘が起こっている。」
エラスムス『エンキリディオン』V-1 70

 ここでいう「自分自身と不和」になって「分裂」して「引き裂かれている」ときが、個性が失われた状態です。18世紀啓蒙期のルソーと16世紀ルネサンス期のエラスムスが異口同音に主張しているこの考えは、西洋思想を遡ると、古代末期のボエティウスやローマ時代のキケロを経て、最終的にギリシア時代のプラトンに突き当たることになります。

本当に人間が「個」であるとは

 改めてルソーとエラスムスの「分裂のない」ような状態を精査してみると、共通点があることに気がつきます。彼らは「分裂」を、手や足の分裂とか心臓と胃の分裂などとは捉えていません。ルソーは「肉体の拘束」を問題にし、エラスムスは「自然本性と罪の情欲」を問題にしています。つまり彼らにとっての決定的で本質的な問題とは、理性と肉体(情欲)との分裂です。肉体が気ままに情欲をとげようとして理性と別の方向に突き進む時が「分裂」です。この分裂状態を避けるには、理性が完璧に肉体を統率するしかありません。逆に言えば、理性が完璧に肉体(情欲)をコントロールしている時、人は初めて「個」であると呼ぶことができるということです。
 そしてこれを最初に主張したのが、プラトン『国家』という本です。プラトンは理性と情欲に「気概」を加えて3つの要素の統合を説き、理性が気概の助けを得て情欲を押さえつけている状態が人間と国家が共通に目指すべき至高の「一」であると宣言しました。エラスムスの言う「理性/自然本性/罪の情欲」の統合は、明らかにプラトン思想の影響を受けています。これが古代ギリシアから16世紀ルネサンスを経て18世紀啓蒙期までヨーロッパに一貫して見られる「個」の思想の柱です。

個性を貫くと、他人に迷惑をかけるのか?

 さて、現代日本(あるいは日本以外)でしばしば聞くのは、個性を貫くことで他人に迷惑をかけてしまうという話です。ここまで来れば、それが完全に「個性」という言葉を誤解した物言いであることが分かります。
 上の引用で、ルソーは「幸福であるために自分以外のものを必要としなくなる」と言っています。もしも他人に迷惑をかけているなら、それは自分以外のものを必要としている状態であり、「一」である条件が欠けている状態です。ルソーが言う個性とは、自分以外のものを必要としないので、もちろん他人に迷惑をかけるわけがありません。
 同じくエラスムスが言いたいのも、個性を失うことは自分自身にとって苦痛であるということです。個性を失った分裂状態は、情欲の無軌道な暴走を招き、他者をも巻き込んで自分自身もろとも不幸に陥れることになるでしょう。
 つまり、個性という言葉の本来の意味からすれば、個性を貫くことは、他人に迷惑をかけることとはまったく関係がありません。個であることは、情欲を完全にコントロール下に置いて、一人の人間として分裂していない状態を意味します。個であること(情欲をコントロールできる)と、ワガママ(情欲が野放し)であることは、まったく正反対の状態です。

まとめ

 以上、個性という言葉について、歴史的・哲学的に考察してきました。まとめると、個性とは他人と比較してどうこうという言葉ではありません。個性が失われている状態とは、他人に良く思われるために無理を重ねるなど、わたしがわたし自身に嘘をつき、騙して、裏切っている状態のことです。わたしがわたし自身と嘘偽りなく仲良くでき、「俺は俺をだますことなく生きている」ような時、他人からどう見えるかどうかは関係なく、間違いなく個性が現われているのです。
 そして、この個性の実際のあり方について考えようとしたら、実は「自己実現」という概念について、改めて吟味する必要が出てきます。「わたしがわたし自身と一致している」という命題は、実質的には「可能性としてのわたし」と「現実としてのわたし」が一致しているかどうかという問題になってきます。あり得るはずだった理想のわたしが、本当に「実現」しているかどうかという話になってきます。「個性」という概念は、「自己実現」という概念と密接に関わってくるわけです。
 まあ、個性については、とりあえずここまでということで。

個性概念を吟味するための参考文献

 手前味噌ですが、個性に関する学術論文を書いております。個性という言葉がどのように登場し、どのように日本社会の中に定着していったのか、さらに調査を続けていきたいと思います。

・鵜殿篤「「教育的」及び「個性」-教育学用語としての成立-」東京大学大学院教育学研究科教育学研究室『研究室紀要』第27号、2001年
・鵜殿篤「個性概念についての一考察」文京学院大学教職課程センター『文京学院大学教職研究論集』第5号、2014年

 教育学の大先輩の片桐芳雄先生が、「個性」概念に関する論文をたくさん発表しています。日本での初出事例の検討など、興味深い内容の論文が多いです。

・片桐芳雄「近代日本の教育学と「個性」概念」人間研究42、2006年
・片桐芳雄「近代日本における「個性」の登場――「個性」の初出を求めて」日本女子大学大学院人間社会研究科紀要12、2006年
・片桐芳雄「近代日本における個性教育論への道:教育雑誌掲載論文の検討を通して」日本女子大学大学院人間社会研究科紀要13、2007年

 教育の世界では、1980年代半ばから、特に臨時教育審議会の答申を受けて、「個性」という概念が急浮上してきます。それを踏まえて、教育学的に個性概念を検討した本です。小浜逸郎、佐藤学、藤田英典、黒崎勲、片桐芳雄という錚々たる諸氏が寄稿しています。20年経っていますが、まだまだ大いに参考になります。

【要約と感想】『エピクロス―教説と手紙』

【要約】快楽主義を推進します。ただし注意してほしいのは、私が言う快楽とは肉体的な欲望を叶えるようなものではなく、精神的に平静をもたらすようなものです。

【感想】本屋で本書を見かけたとき、エピクロスの諸説が単体でまとまっているとはありがたい、などと思ったのだけど、実は内容はディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』10巻をまるまるシングルカットしただけのもので、既に読んでいたものだった。まあ、翻訳の仕方がそこそこ違って勉強になったのでよかったんだけれども。

で、エピクロスの特徴は、プラトンやアリストテレスと比べたとき、(1)唯物論(2)自由意志(3)社会契約論にあるように思う。そして個人的に思うのは、実はヨーロッパ近代思想(デカルトやホッブズ)に直接繋がっていくのは、プラトンやアリストテレスではなくて、エピクロスの思想ではないかということだ。

(1)唯物論に関しては、デモクリトスの原子説などを引き継いで、あらゆる現象を物質一元論で説明する。いま見ると「光」の説明なんかには思わず笑ってしまうわけだけれども、あらゆる現象を唯物的に説明し尽くそうとする姿勢は徹底している。これはプラトンやアリストテレスの体系よりも、近代自然科学の姿勢に親和的であるに思う。

(2)にもかかわらず、自由意志が発生する余地を残しているのも大きな特徴だ。まあ自由意志の源泉も唯物論的に説明しているわけだけれども、倫理が成立する根拠を「自由」に据えているのも間違いない。ここでデモクリトスなど他の唯物論者と一線を画し、自由意志に基づく倫理の世界についての記述が可能となる。
この唯物論と自由意志のスッキリしない関係は、ヨーロッパ近代思想に通じているような気がしてしまう。

(3)個人的に一番の見所は、社会契約論的な論理だ。
ソクラテスの時代に「ピュシス(自然の法)/ノモス(人為の法)」の分裂が問題になり出したことは、様々な論者が指摘している。ソクラテスの時代、ソフィストたちが跋扈して、ピュシス(自然の法)の権威を否定し、現実の正義は所詮はノモス(人為の法)なのだと喧伝し始める。その様子は、プラトンが描写するカリクレスやトラシュマコスの諸説に鮮やかに見出すことができる。
この流れのなか、エピクロスもまたピュシス(自然の法)を否定し、現実の正義はノモス(人為の法)であることを主張する。これは自然科学と倫理を断絶するエピクロスの立場からすれば、必然的な帰結ということかどうか。
そしてこの社会契約論的な発想は、もちろんホッブズに繋がっていく。

ということで、エピクロスが侮れないことを再確認するのであった。

個人的な研究のための備忘録

社会契約論を思わせる論説は、本書の見所の一つである。ただしもちろんこの時点では「自然権」と「自然法」の関係が論理的に整理されておらず、それがホッブズ以降の近代社会契約論との決定的な違いをもたらすように思う。

【個人的備忘録:社会契約論】
(31)自然の正は、互に加害したり加害されたりしないようにとの相互利益のための約定である。
(32)生物のうちで、互いに加害したり加害されないことにかんする契約を結ぶことのできないものどもにとっては、正も不正もないのである。このことは、互に加害したり加害されたりしないことにかんする契約を結ぶことができないか、もしくは、むすぶことを欲しない人間種族の場合でも、同様である。
(33)正義は、それ自体で存在する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互に加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である。」p.83
(36)一般的にいえば、正はすべての人にとって同一である。なぜなら、それは、人間の相互的な交渉にさいしての一種の相互利益だらからである。しかし、地域的な特殊性、その他さまざまな原因によって、同一のことが、すべての人にとって正であるとはかぎらなくなる。
「主要教説」p.84

それから、「個性」に関する発言は、現代にも通じるものがあって、なかなか趣深い。

【個人的備忘録:個性に対する言及】
ちょうどわれわれが、自分自身に特有な性格を――それがすぐれていて、われわれが人々から賞められようと、あるいは、そうでなかろうと――尊重するように、そのように隣人の性格についても、かれらがわれわれに寛容であるかぎり、われわれはこれを尊重すべきである。「断片15」p.89

『エピクロス―教説と手紙』出隆・岩崎允胤訳、岩波文庫、1959年