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【要約と感想】大屋雄裕『自由とは何か』

【要約】自由について、伝統的に「消極的自由」と「積極的自由」など議論が積み重ねられてきましたが、現在は監視テクノロジーの発展によって全く別次元の様相を呈しており、今はアーキテクチャーについて真剣に考えるべき段階にあります。もはや自由意志がフィクションに過ぎないことは明確です。が、著者は近代が夢見たフィクションにまだ期待をかけています。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=法哲学の立場から見て、「自由意志」なり「人格」なりという概念が近代によって構成されたフィクションに過ぎないということが、疑う余地のない明確な形で記述されていた。今後はありがたく乗っかることにする。

【感想】「自由意志」や「人格」がフィクションであるという記述に対して、特に感慨はない。法学なら、それでいいでしょうとしか(「法」自体もフィクションだし)。しかし個人的な関心は、功利的なフィクションに過ぎなかった「人格」というものが過剰な現実性を獲得してしまうメカニズムにあるわけで。そういう関心からすると、法哲学という分野の人々が、あまりにも本質に触れたがらないことに(意図的か無意識かは知らないけれども)、ちょっとした苛立ちは感じる。まあ、そこは彼らの仕事ではないから、唖然としたところで仕方ないことは重々承知だけれども。
ここは、否定神学とか他者という分析装置を駆使して自由意志の前提条件に迫ろうとしている社会学の大澤真幸とか、「郵便的」という概念で過剰さが生じる原因の説明を試みた哲学の東浩紀のほうに、ある種の誠実さを感じるところではある。

また、私が関わる教育学という領域は、著者が投げた地点から始まるという宿命を負った学問だ。著者は「個人を「自由な個人」として作り上げる最低限のパターナリズムを認める方向に解を求めようとしている」と言った上で「その「私の結論」を押しつけることは他者を他者として「自由な個人」として、扱っていないことになるだろう」と立ち止まって「だからここで私は、再び筆を措かなくてはならない」と韜晦するが、教育学はまさにこのアポリアを引き受けた上で、そのアポリアの上に構築されなければならない。「自由を強制することが教育である」という「諦め」からスタートさせられる辛さを、改めて確認させられた。

大屋雄裕『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』ちくま新書、2007年

【要約と感想】大澤真幸『恋愛の不可能性について』

【要約】私とは、共約不可能な唯一的存在である。そして愛する相手も、共約不可能である。だから恋愛は、私の唯一性を否定する経験となる。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=「私」が記述の束に還元できない共約不可能な唯一的存在であることは、固有名詞が具体的記述の束に還元できないのと同じことである。それは「他者」にも言えることであって、だから私と他者はそもそも共約不可能な絶対的差異である。
そのような共約不可能な特異点を作り出す作業として否定神学的な操作(ヘーゲルの言う「否定の否定」など)が行われるわけだが、その形式が様々な領域(貨幣、表現、宗教、合理性など)で「余剰」を生み出す。個人的な関心に照らして、この操作こそが、自然科学や功利主義的構成では説明し尽くすことのできない「人格」や「自由意志」という概念にまとわりつく「余剰」を生み出す普遍的なやりかたなのだと把握した。

【感想】「否定の否定」という形式的操作でもって「無限」を理解可能にするという様式を身につけると、様々な領域に適用可能な分析の武器になることは分かるけれども。しかし直感的には、違和感がつきまとう。違和感を直感的に突き詰めていくと、「排中律」を無節操に運用しているところが怪しいような気がするわけで。「A」でなければ「非A」という「排中律」を前提として「否定の否定」が成り立つわけだけど、前提となっている「排中律」は、本当にあらゆる領域で無前提に使用してよいのだろうか? 本当は、実は「排中律」を成り立たせている「前提」のほうが真の問題を構成しているのではないか。たとえば「宇宙」は「閉じている」ことによって初めて「排中律」が成立するわけだが、仮に宇宙が破れていたりとか、膨張や収縮を繰り返していたりとか、時間軸が捻れていたりとかするとき、実は「特異点」は消失してしまうかもしれない。

【これは眼鏡論に使える】しかしこの否定神学的な思考様式は、眼鏡論を語るときに極めて有効な観点となる。「眼鏡をかけている(同一性)」ことと「眼鏡を外さない(否定の否定)」ことは、まったく違う出来事である。眼鏡っ娘が「過剰」なのだとすれば、その過剰さの産出過程に、きっと眼鏡の否定神学が関与している。

大澤真幸『恋愛の不可能性について』ちくま学芸文庫、2005年<1998年