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【要約と感想】佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ』

【要約】中世ヨーロッパで、古代ギリシアやローマの身体論を引き継ぎながら、女性に対する差別的な社会的地位の特殊性等が加味されて、独特な禁欲主義が始まりました。自分の中の「欲望」を剔出しようとする意志は、近代的自我発生の論理的前提となります。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=中世ヨーロッパの禁欲主義の源泉として、自分の肉体的欲望(主に性欲と食欲)を抑圧しようとする明確な論理と意志、そして社会的構造があったこと。修道院で決められていた具体的な戒律として、ダイレクトに男性器の状態に関心を寄せているところが、生々しくもあり、微笑ましくもあり。個人的には親鸞の女犯エピソードを思い出してしまう。
ともかく、古代ではそこまで禁欲主義的でなかったヨーロッパが、中世になってから修道院制度の整備に伴って禁欲主義に傾いていく流れは確認できた。

■要確認事項=しかし性的欲望を押さえつけて消滅させようとするのは、なにも中世キリスト教に限ったことではなく、中国や日本の仏教にも(そしておそらく世界的な宗教それぞれに)広く確認されることだ。世界的に広く確認できる普遍的な禁欲主義と中世ヨーロッパのそれとの違いは何なのか、本書だけでは見えてこない。

また一方で、性的欲望を押さえつけるのではなく、むしろ爆発させて無限のエネルギーを抽出し、それを自由自在にコントロールして還元することで肉体的超越および精神的覚醒を遂げようとする発想も普遍的に見られる。仏教の一部宗派とか、道教の一部宗派とか、キリスト教の一部宗派とか、精神分析学の亜種とか、有象無象の様々なカルトとか、SF風味エロ小説とかファンタジー風味エロマンガとか。これは禁欲主義とは一見正反対に見えるが、肉体のコントロールを通じた覚醒という意味では、実は同じコインの裏表に過ぎないと理解してよいのか、どうか。

また、本書では禁欲主義の源泉をギリシャ・ローマの身体論(ヒポクラテスおよびガレノス)というヘレニズムの系譜に見出しているわけだが、ヨーロッパ文化のもう一つの起源であるヘブライズムに対する目配りが少ないのは、どうなんだろう? 本書にあるような禁欲主義の東方起源ということになると、ユダヤ教の禁欲的な戒律主義という伝統は必然的に問題になるべきもののような気がするが。なんとなく、ユダヤ起源を意図的に隠蔽することによって、ルネサンス的伝統を捏造しようとする作為みたいなものすら感じ取ってしまう、そんな構図にはなっている。こういう起源の話をする場合、ギリシャ・ローマの系譜を追うのはとても大事だけれども、同じ程度にユダヤの系譜に目配りするのも必要だよなあと思った。

【感想】性的欲望は、要するに自分の中の「他者」ではある。ありていに言えば、上半身と下半身では考えることがズレているということである。このズレを真摯に見つめることから「個人」の意識が芽生えるというのは、そんなに難しい展開ではない。「私(下半身)なのに私(上半身)ではない」という同一性の危機が訪れて初めて、「私(全身)とはなんだろう?」という同一性に対する自覚が生じる。
おそらくこの意識自体は、人間の身体の生物学的構造に即する限りでは普遍的なものなのだろうが。ヨーロッパだけが自発的に近代化(とりわけ原始的な個人主義思想の剔出)に成功したのは、ヨーロッパだけがこの自覚を制度化(告解制度など)できたから、ということで今のところ納得するしかないか。

佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ – 修道院の起源』中公新書、2014年

【要約と感想】徳善義和『マルティン・ルター』

【要約】ルターは聖書を真剣に読んだ結果、カトリック教会のデタラメに気がついて、真実の信仰と救いを聖書の言葉のなかに求めました。ルターの主張は広い共感と指示を得て、宗教改革に結びつきました。

■確認したかったことで、本書に書いてあったこと=聖書を重要視して教会を批判するという点で、ルターとヤン・フスとの類似性は当時から広く認識されていた。ルター自身もフスとの近似を認めていた。

ルターのドイツ語著作は、書き言葉がマスメディアとしての役目を果たした歴史上初めてのケースだった。ルターの著作はどれもこれもベストセラーとなった。ルターは学生に配布するプリントにも印刷術を有効活用していた。

16世紀初頭は、土地に根ざした農業中心の世の中から、貨幣経済中心へと切り替わりつつあった。ルターを支持した勢力は、こうした新しい貨幣経済の担い手であった。また、ドイツ・ナショナリズムの担い手である領主層も、反教皇・反皇帝という点からルターの支持勢力となった。

宗教改革は、哲学を神学から切り離しただけではなく、絵画や音楽も宗教から切り離した。教会からの発注を期待できなくなった芸術家は、市民の中に新しい市場を見出さなければならなくなった。

■図らずも得た知識=ルターという名前は本名ではない。それは「自由であって僕」という逆説的な意味を持つものとして自覚されていた。この「自由」と「僕」のアポリアは教育を哲学的に考える上で極めて重要な論点なのだが、吟味してみれば、確かにそれは本来は信仰に関わる問題として決定的な論点だ。

■要確認事項=ルターが教育権の思想を述べていること。子供には教育を受ける権利があり、親はその権利を実現する義務を負い、各都市の参事会は親の委託を受けて教育義務の一翼を担うと、ルターは教育義務を理解していた。とすれば、近代的な教育権の思想が既にルターに確立していたこととなる。

また、自分の良心に従うことを明言したルターの発言を、本書では個人の人格や主体性、信念や信条を尊重する近代的意識の先駆けと表現している。本書はさらに踏み込んで、キリスト教的一体世界が崩壊したとして、1517年を中世と近代とを画する時代の転機と表現している。同時期にヨーロッパで起こっていた他の様々な出来事と比較したとき、ルターの重要性をどこまで評価するべきか。

【感想】改めてルターの思想を概観してみると、親鸞の考え方と似ていることに驚く。人間の努力の限界、律法の形式性への不信、人間の弱さの自覚、自力救済の諦め、外部からやってくる救い、信仰そのものへの傾斜。しまいには既存の権威を否定して、結婚して子供をもうけるところまで同じという。もちろん内容は大きく違ってくるけれど、考え方の道筋というか、思考の論理形式は、驚くほどそっくりのように思う。単なる偶然とは思えない。人間本来のあり方に即して救いの問題に直面したとき、洋の東西に関わらず、必然的に導き出される普遍的な結論なのではないか。

徳善義和『マルティン・ルター―ことばに生きた改革者』岩波新書、2012年

【要約と感想】Andrew Pettegree『印刷という革命』

【要約】印刷術の発明によって、世界は決定的に変化した。特に、従来は見過ごされてきたアジビラのような細かい印刷物に着目すると、本質が見えてくる。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=宗教改革に印刷術が深く関わっているという様々な具体例。たとえばヴェネチアにおけるサヴォナローラの成功も、印刷術の力に負っていた。ルターとカルヴァンは天才的な著述家でもあって、ヴィッテンブルクやジュネーヴの印刷業界は彼らの著作がもたらす経済的恩恵で栄えた。宗教改革の対立は、印刷術が可能にしたアジビラの大量印刷によって煽られていった。アジビラは印刷しやすいコンパクトな形態で作られ、各地方の印刷所でで簡単に複製して大量頒布することが可能だった。

最初期の印刷術は、経済的な軌道に乗るまでは大変で、数多くの倒産者が出た。印刷業者が期待していたほどの読者が存在しなかったため、学術出版ブームが一段落してからは、新規の読者層を開拓しなければならなかった。俗語で日常的に印刷物を読む人々が創出されなければ、印刷術は産業として成り立たなかった。これら印刷術の成功を土台から支えるような新しいリテラシーを持つ人々は、宗教改革の論争や、戦争に関するアジビラ、自然災害等のニュース速報、新大陸発見に関する報道、騎士道物語など手軽に触れられるファンタジーなどによって開拓されていった。

活字と並んで、図版の印刷技術も重要な要素だった。具体的には医学の分野における詳細な解剖図、本草学における精緻な説明図、天文学における視覚的な説得力、地理学における正確な地図等、木版印刷や銅版印刷による精密な図版印刷が可能となることによって、印刷物全体への信頼度や期待度が増す。

■図らずも得た知識=クリストファー・コロンブスの息子は、稀代の蔵書家だった。コロンブスは本を読んで西回り航路を思いついて財をなしたりしていて、そういう経験から息子も本の威力というものを実感していたのか、どうか。

愛国主義的なアジビラは、印刷術黎明期から数多く出現していた。宗教改革に関わる争いも、どうやら単純に宗教的情熱に関わっているというよりも、愛国主義的感情と密接に関連してくるらしい。ただ、ナショナリズムの発生と印刷術の関係については、著書は関心を持って記しているわけではない。

■要確認事項=「教育は十六世紀にもっとも急成長をとげた産業のひとつである。」(p.291)と書いてあるが、真に受けて良いのか。ともかく、教科書類の大量印刷、エラスムスの著書の大量出版を学生読者が支えていたことなどは、事実として参照できる。しかしエラスムスの教育論は、基本的には家庭教師向けの私教育について考えられたものであって、学校におけるマス教育を考慮したものではなかった。教育産業の拡大とは、単に、本の流通量の増大と関連して、民衆のリテラシー獲得への要求が高まり、私的な教育機関が自発的に増加したことを意味しているのか。あるいは国家や宗教機関による公教育の展開と結びついてくるのかで、話はまったく異なるわけだが。ともかく、一般民衆がどのようにリテラシーを獲得していたかは、まったくのブラックボックスのまま放置されている。

「ルネサンス」という言葉の内容は、どうなっているのか。本書は、単にギリシャ・ローマの文芸復興に関わる本だけではなく、印刷術の発明に伴って新しく出現した事態も同時に扱っている。たとえばアジビラの大量頒布とか、宗教改革の論争とか。これらもルネサンスという概念に含まれてくるのか。「ルネサンス」という言葉は、思想的な内実を伴わず、単に時間の幅を示しているだけなのか。

【感想】フランクフルトの書籍見本市は、ある意味、現在のコミックマーケットの姿を彷彿とさせて、とても興味深い。たとえばフランクフルト見本市での新刊売り上げがあまりにも突出しているので、著者や出版社も見本市に新刊を間に合わせようとして、実質的に見本市の開催日が締め切りを規定していたりとか。見本市に書籍商たちが隊列を組んで出動する様とか。

そして、人文学に対する風あたりが強いことを嘆く訳者あとがきが、切ない。本文自体も、人間の愚かな行為によって大量の書物が失われていく描写で終わっているし。TSUTAYA図書館に関わる愚行の数々とか、大量の貴重書を捨ててしまった図書館の話などを思い出すのであった。

アンドリュー・ペティグリー/桑木野幸司訳『印刷という革命-ルネサンスの本と日常生活』白水社、2015年<2010年

【要約と感想】Laura Lepri『書物の夢、印刷の旅』

【要約】ルネサンス期イタリア文化人たちの華麗な日常。黎明期の印刷出版の具体的なあり方。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=ラテン語から俗語へと切り替わる際のダイナミックな動きと具体的な問題点。たとえばイタリアにも数々の方言があったわけだが、そこから標準語としてのイタリア語なるものがどのように立ち上がってきたか。イタリアの場合は、既にルネサンス期に意識的な俗語論というものが存在していた。しかし一方で、何を標準語とするかという合意は当然できていなかった。標準語が確立するためには、やはり意識的に俗語を彫琢した権威ある書物が印刷出版されて広く流通する必要がある。イタリア語の場合は、カスティリオーネ『宮廷人』がその役割を果たすようだ。さらに言えば、校正者の果たした役割が極めて大きかった事実が興味深い。印刷術の普及に伴って権威ある俗語が確立していく過程は、ナショナリズムの成立を考える上でも重要。

著者としての自意識の芽生え。海賊版や質の悪い印刷術によって自分の書いたテキストが改変・改悪されることへの嫌悪感がルネサンス期から表明されていた。写本であればおそらくこのような著者としての自意識が生まれることは考えにくい。近代的な自意識が誕生する過程を考えるときに、印刷術がどのようなインパクトを持ったかが具体的にわかる。

ポルノグラフィの影響。印刷術の黎明期から既にポルノまがいの印刷物が出回っていた。それがどの程度のインパクトを持っていたかは本書では分からないが、新しいメディアが普及一般化する際に必然的にポルノまがいの表現が伴うのではないかという疑いは持たせる。しかし特にピエトロ・アレティーノは興味深い人物だ。死因が「笑い死に」だし

【感想】黎明期の印刷術の様相を知ろうと思って読み始めたんだけど、学術的な本というよりも、ノンフィクション時代ものという感じだった。が、だからこそ面白く読めたかも。決定的かつ不可逆的に時代が遷移する境界線上で、それまでにはありえなかった新しい野望を抱いて蠢いていた人々を描くには、主観的な心情記述にも踏み込める本書のような形式のほうが相応しいかもしれない。さすがイタリア人、登場人物の言動と行動がみんないちいちオシャレだし。しかし冒頭に記された「日本の読者へ」という著者のメッセージが、いちばんオシャレだったかも。

ラウラ・レプリ/柱本元彦訳『書物の夢、印刷の旅 -ルネサンス期出版文化の富と虚栄』青土社、2014年

【要約と感想】Alessandro Marzo Magno『そのとき、本が生まれた』

【要約】ルネサンス期ヴェネツィアの印刷業界は、生産性が高いだけでなく、国際的だった。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=印刷術が発明されたのはドイツのマインツだが、印刷出版の中心地はルネサンス期のイタリア、特に貿易で栄えた国際的な都市ヴェネツィアだった。

教科書的にはイタリアのルネサンスはダンテやペトラルカ、ボッカチオ等14世紀から始まったように書かれることが多いが、彼らの本が実際に広い影響力を持ったのは印刷術によって大量に出版されて市場に出回ってからだった。

印刷術の黎明期から既に娯楽に特化した本がたくさん出版されており、売れっ子作家が登場したり、ポルノ小説も16世紀中に出版されて話題になるなどしていた。

■図らずも得た知識=ルネサンス期ヴェネツィア出版業界の実力は、特に際立った国際性にあった。アラビア語のコーラン、ヘブライ語のタルムード、アルメニア語、クロアチア語、ボスニア語の書籍等、輸出を見込んだ上での商業的な印刷業が成立していた。楽譜の印刷もヴェネツィアで始まっていた。

【感想】先にルネサンスの特別な意義を否定するような本を読んだから特に感じるんだろうけれども。ルネサンスを称揚するにしても否定するにしても、いずれにせよ単にヨーロッパを実体化するパフォーマンスに過ぎないな、と。現実の国際都市では、バルカン半島のギリシア正教会や、ユダヤ教や、さらにはオスマン・トルコのイスラム教までも含めて、市場経済の中で蠢いている。ヨーロッパの実体化は、これら異教的要素を全て切り捨てて、純粋なギリシア・ローマ文化(と近代が認定したもの)のみを吸い上げたところに成立するわけで。となれば、どこまで中世とかどこから近代とか議論するよりも前に、まずそもそも「ヨーロッパって何だ」ってところをしっかり反省した上で臨まないと、まともな話にならないと思った、改めて。

日本が近代化する過程では、西洋の純粋な上澄みだけ理想化して追い求めていれば用は足りたので、特に日本人がこんなことを意識する必要はなかったんだろうけれども。しかし他山の石。現代では、日本の歴史を語ろうとするとき、「日本って何だ」ってところは始めにしっかり考えておかないと、噛み合う話にはならない。

アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ/清水由貴子訳『そのとき、本が生まれた』柏書房、2013年