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【要約と感想】富松保文『アウグスティヌス〈私〉のはじまり』

【要約】アウグスティヌスは、近代的な意味での「個」の思想が生まれた出発点です。人は、伝統的な共同体から切り離されたとき、はじめて「私とは何か?」という問いに直面します。そしてアウグスティヌスが活躍したローマ帝政末期とは、まさにそういう時代でした。アウグスティヌスはその問いに対して誠実に真正面から取り組む過程で、神と対面することになりました。それは鏡を通して自分の見慣れない不気味な顔と対面するような奇妙で居心地の悪い体験でありつつ、告白の言葉が自分に折り重ねられて内側に向かい、向かい合わせの鏡に映る顔のように何重にも畳み込まれて重層化します。そして「告白」というものが愛する人に対して行なう行為であるように、「私とは何か?」を問う相手は「愛している者」です。だから誰を愛しているかさえ分かれば答えは分かったも同然かと思いきや、「愛する者」と「私」が合わせ鏡にように無限の問いを生み出して、結局「私とは何か?」という問いに答えが出ることはありません。それが近代的な「個」というものの有り様でしょう。

【感想】アウグスティヌスの概説書ではない。アウグスティヌスを題材として切り口に使っているところまでは間違いないが、言っている内容は徹底的に著者本人の興味関心に即している。アウグスティヌスについて情報を仕入れようと思って本書を繙いた人はおそらくガッカリすることだろう。
 が、個人的には非常におもしろく読んだ。というのは、「一」の思想について示唆に富んでいる本だったからだ。そして「一」とは「無限」であり「特異点」でもあることを改めて確認したのであった。「一」を「一」たらしめるためには何らかの「特異点」が絶対に必要になるのだが、その「特異点」が論理必然的であることは「一」そのものからは証明することができず、論理は「無限」のトートロジーに陥るしかない。そしてそれは合わせ鏡に映る景色のようなもので、論理的に無限であることは分かりつつも、有限な人間の身においては無限を見通すことなどできず、実際に認識できるものは有限回のうちに留まる。その認識が有限回で行き着く限界のそのまた先にあるだろうものがいわゆる「神」というもので、理論的には絶対にあるはずなのに、人間の感覚では捉えることが不可能という。しかしまあ、いわゆる「神」と呼ばれている何かが合わせ鏡に映った像の向こう側にある何かであり、そしていわゆる「私」と呼ばれるべきものが合わせ鏡に映った像を認識している何かだとしても、合わせ鏡の中にいる「それ」が何なのかは結局は分からないのであった。いやはや、合わせ鏡の思考実験と比喩はなかなか優秀なように思う。自分でも使っていこう。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 「一」に関する表現サンプルを得た。ありそうでいて、なかなか多くないので、貴重だ。

「そもそも「一」であること、何であれ、およそ何かが「一つ」であるとはどういうことなのか。そういうふうに考えてみると、キリスト教の教理がどうのといったこととは関係なく、問題はあまりにも身近でありふれているとともに、とても不思議な様相を呈してくる。「一つ」であるということは、自明であるどころか、捉えどころのないものに思えてくる。」p.35
「私というものもまた、そのようなありかたをしている。私の一つの身体には、たとえば二本の腕があり、そこにはそれぞれ五本の指があり、ずっととんで細胞レベルまで行けば、身体全体でおよそ60兆もの細胞があるらしく、その各々がまたそれぞれに多を含む。心のなかにはいつもさまざまな思いが去来し、その思いの一つ一つがまた、さらに微細な感情や思い出や期待や欲望を秘めている。一人の私、一つの心とは言っても、それはとりとめようもないほど多くの多からなっており、にもかかわらず、一人のこの私である。」pp.35-36

 まあ、プラトン『国家』やアリストテレス『形而上学』から問題となっていることで、哲学の本丸ではある。が、実はこの本丸にダイレクトに突っ込んでいくような論述は、あまり多くないように思っていたりする。

 また、「告白」に関する言質も得た。ちなみに個人的には、「告白」に関する論述というと、直ちにフーコー『性の歴史Ⅰ』とか柄谷行人『日本近代文学の起源』を想起するところではある。

「考えてみれば、私たちがふつう「告白」と言えば、罪の告白のこともあるかもしれないが、まず素朴に思い浮かんでくるtのは恋や愛の告白だろう。まして「告白」という言葉が賛美の意味を同時に含みもつとすれば、まさに愛の告白こそがそれにふさわしい。そう言えば、罪の告白もまた、刑事や判事といった人たちにではなく、まずは愛する者に対して行なわれるものなのかもしれない。見ず知らずの、信じてよいのかどうかも分からない人たちにではなく、私が信じ、私を信じてくれている人に対してこそ、告白はもっとも切実で偽りのない告白であるだろう。私が信じている人とは、私が愛している人であり、その人が私を愛してくれていると思うからこそ、その人を信じ、その人の言葉を信じてみることができる。私が私について知るために鏡として引き受ける言葉とは、誰の言葉であってもいいわけではない。それはほかでもない、私が愛し、私を愛してくれる人の言葉である。私が私にとって謎となったとき、私が私を問いかけるその相手は、愛する人である。」pp111-112

 先に内面があって後に告白という行為があるのではなく、先に告白という形式的な行為があって後に内面が作られるという、フーコー=柄谷図式とはどう響き合うか。内面があって愛が生まれるのではなく、愛があって後に内面が生じるということかどうか。

富松保文『アウグスティヌス〈私〉のはじまり』NHK出版、2003年

【要約と感想】苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』

【要約】現代教育学は、相対主義に気圧されて臆病になり、なにが「よい」教育なのかという規範を考えられずにいます。しかし、規範を考察するためのロジックを提出することが教育哲学固有の役割だったはずです。ということで規範学としての教育哲学の課題を真正面から引き受け、「よい」教育とは何かを考えました。フッサール現象学とヘーゲル欲望論を土台として考えれば、教育とは「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」であり、「よい」教育とは<一般福祉>に適う教育であると、断言できます。ちなみに「一般福祉」とは、ルソーの言う「一般意志」に基づいた行政が行なう社会政策の規準です。

【感想】様々なインスピレーションを湧かせてくれる、若々しい本だった。いろいろな刺激を受けた。おもしろく読んだ。とても良かった。

【今後の研究のための個人的備忘録】
とはいえ、思うところは、なくはない。いや、たくさんある。
ということで以下、しつこく批判を連ねていくが、もちろん著者個人に物申すという意図から出たことではなく、私個人の研究をより深めるための備忘録だ、ということはあらかじめ言っておいて。

まず著者が結論として示した「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」という言葉が、教育学研究者として、素直には納得できない。根本的な違和感は、問題の核心である「自由」という言葉にある。著者が「人間は<自由>を欲する存在である、という人間的欲望の本質論」(30頁)と言っている論理が、そもそもおかしい気がするわけだ。というのは、個人的な研究史を踏まえて言わせてもらえば、どうせ同じことを言うなら「各人の<人格>および社会における<人格の相互承認>の<ビルドゥング:陶冶=文化>を通した実質化」と言ったほうが、遙かに良いと思うわけだ。
素人から見たら単に「自由」を「人格」と言い換えているだけのように見えるかもしれないが、研究者視点から言えば、これで論理の最終的な射程距離がそうとう変わってくると思うのだ。というのは、スピノザ風に言わせてもらえれば、「自由」とはそもそも「人格」の<属性>に過ぎないからだ。本質である<実体>は「人格」のほうにある。たとえば、仮に本書の中に登場する「自由」という言葉を全て「人格」に変換しても、まったく違和感なく筋が通るはずだ。「人格」が主で「自由」が属だから、属を主に換えても筋は同じままでよいわけだ。
ちなみに属性である「自由」を軸に論理を組み立てても筋が通るのは、たまたま「教育」というテーマが「人格の属性である自由」と実践的に相性が良かったためだ。しかしおそらく他の一般的議論(たとえば芸術論)に展開した場合には、「自由(属)」よりも「人格(主)」のほうが射程が延びるだろう。実際、著者も「自由」という言葉では論旨を通貫できずに思わず「人格」という言葉を持ち出す個所がある。具体的には196頁で「他者を一個の人格として尊重することを学ぶのである。」と言っている。本書の趣旨から言えば、ここは「自由の相互承認」という表現で貫徹してよかったところだ。しかし「自由」という<属性>では表現しきれない何かを言い表したくなったとき、「人格」という射程距離の長い概念が降りてくる。

さらに哲学的に論理を敷衍すれば、「人格」の本質とは「一」である。たとえば本書に出てくる「自由」を全て「一」と言い換えても、論旨は通じる。つまり「自由」とは「一」の<属性>なわけだ。そしてヘーゲル風に言わせてもらえれば、その場合の「一」とは、「無限定の一」から自己矛盾を経て分離した「対自」と「即自」が再び綜合(アウフヘーベン)されて「再帰的な一」となった現実的な「一」だ。この現実的な「再帰的な一」の諸属性の中に「自由」とか「個性」とか「アイデンティティ」といった概念が含まれる。つまりヘーゲルの教育論の本質は、私が理解するところでは、「無限定の一(無邪気な子ども)」が、自己自身を限定=否定することで分裂の危機に陥った後、再び綜合(自分自身に戻る)して現実的な「人格」を完成するという弁証法的なプロセスにある。本書はこれを「自由」の欲望論で記述したわけだが、私の研究史的観点から見ればそれは属性的に付随する話に過ぎず、本質的には「弁証法プロセス=再帰的な一」として描くものだと思う。ちなみにこのプロセスは、ルソーが『エミール』でも描いていたような、「なすこと」と「欲すること」の分離と一致の過程ともオーバーラップする。本書でも「なすこと」と「欲すること」のズレと綜合が「自由」の源泉であるようなことが書いてあったが、本来ならそこでは『エミール』が参照されるべきだとも思った。

また、「再帰的な一」は、本書内で繰り返し登場する「生きたいように生きたい」という再帰的なテーゼを、「自由」という<属性>よりもはるかに本質的な次元で言い表す言葉であるように思う。著者は「私たちは皆どうしても、「生きたいように生きたい」、すなわち<自由>を欲してしまうのだ、というヘーゲルの主張」(28頁)と言うが、私の研究史的観点から考えれば、「生きたいように生きたい」という再帰的な命題は、「自由」ではなく、「わたしが<わたし>でありたい」という「再帰的な一=人格」のほうに本質的に結びつくように見える。いや、確かにもちろんそれは「自由」ではあるのだが、「自由」は<属性>として必然的に付随するだけであって、本質は「再帰的な一」にあるわけだ。
そしてこの「再帰的な一」を、人は「人格」と呼ぶ。こうしてみると、実は旧教育基本法第一条に掲げられた「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」という文言は、筆者の言う「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」以外の何物でもない。ということで、私個人としては、「よい」教育とは「旧教育基本法が目指す教育」でファイナルアンサーのような気がしないでもないのだった。

で、こういうふうに「自由」を<属性>と捉えていくと、実は本書138頁や149頁で語られていることは、けっこう危ういように思える。本書で「教育学のアポリア」について何回か言及されるが、私としてもそれらは擬似問題に過ぎないと思う。しかし本当の意味での「教育学のアポリア」とは、「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」であるところにあると思っている。このアポリアに対して数々の教育哲学者が膝を屈しているときに、本書はそのアポリアをアポリアとも思わず軽々と飛び越している。それは単に「自由」をパッケージ化したことの副産物ではないかとも思う。
本書は、「自由」についての定義をしっかり試みている(第3章)。それ自体の論旨に特に問題は感じない。しかしいったん「自由」のパッケージ化に成功した後は、「自由」は無謬の審級として威力を振うこととなる。無敵な「自由」の前に、立ちふさがるものはない。いや、まさにそれを成立させるための構成になっているから、論理自体に問題があるのではない。ただ、著者に同意せずに「自由」を無敵だと思っていない立場で読むと、「自由でないものを強制的に自由にする営み」というアポリアを「自由のためには許される」という論理でするっと抜けられたとき、「えっ、本当にいいの?」となってしまう。もしもここで論理の底に据える審級が「自由」ではなく「人格=再帰的な一」であったとしたら、筆の運びはまるで違うものになったかもしれない。教育という「自由でないものを強制的に自由にする営み」とは、本当に「再帰的な一」にとって「よい」ことなのか。このあたり、ヘーゲル自身の行論は、なかなか刺激的だったはずだ。具体的にはヘーゲルは次のように言っていた。

「人間はあるべき姿を、本能的にそなえているのではなく、努力によってはじめてそれをかちとることができる。教育されるという子供の権利はこのことに基づいている。家夫長的統治の下にある諸民族もまったく子供と同様であって、この場合人々は、貯蔵庫にあるもので養われ、独立した人間および成人とはみなされない。
だから、子供に奉仕を要求することが許されるのは、奉仕が教育だけを目的とし、教育に関係しうる場合だけである。奉仕が、教育との関係をぬきにして、ただそれだけでなにか重要なことであろうとしてはならない。というのは総じて最も非倫理的な関係は、子供を奴隷にする関係であるからである。
教育の主眼点は躾であり、躾には、たんに感性的で自然的な要素を根絶するために、子供の我意を砕くという意味がある。この場合たんに穏便なやり方で足りると思いこんではならない。なにしろ直接的意志は、とりもなおさず、直接的な出来心と欲望のままに行動するものであって、理由と表象によって行動するものではないからである。
子供に理由を示すということは、その理由を承認するつもりがあるかどうかを子供にまかせることであり、したがっていっさいを子供の気ままな意向にゆだねるということである。そうではなくて、両親が普遍的で本質的なものを成すということ、このことから子供の服従の必要が出てくるのである。おとなになりたいというあこがれを起こさせるところの従属感が子供に養われないならば、生意気とこましゃくれが芽を出してくるのである。」
ヘーゲル『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシック67頁。

これこそが、「子供の我意を砕く」ための「躾」と「服従」こそが、「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」の具体的内容としてヘーゲルが掲げているものだ。ヘーゲルが描いた教育像を「時代的な制約」ということで済ませて大丈夫なのだろうか。ここはヘーゲルの論理に内在する傾向性が率直に現われている描写ではないのか。ヘーゲルに依拠して教育論を組み立てるのであれば、この「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」というアポリアに対して、「どうして強制が許されるのか」という論理構成には、相当本気で取りかかる必要があると思う。

まあヘーゲルについては難しいことがたくさんあるので、もっと勉強しなければならない。さしあたって個人的にはヘーゲルよりもカント倫理学のほうが好きなわけだが、ヘーゲルはさすが『精神現象学』という発達理論をものしただけのことはあって、静的なカントと違って自由の生成過程までダイナミックに踏み込んでくるところは、本書の言うとおりだ。確かにヘーゲルを侮ってはならない。
そして同様に(?)、個人的嗜好から言えば、フッサールよりもヴィトゲンシュタインを採りたい。その理由の論理展開は既にこっち(稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』)に記してある。

あと、私も含めて足を掬われるかもしれないと思ったのは、「社会有機体論」に対する構えが薄いというところだ。本書にはルーマンの名前もちらほら出てきているわけだが、スペンサーなりパーソンズなり、社会有機体論的な発想に対しては、そもそも本書の論理は何のインパクトも与えないだろうと思う。なぜなら本書は徹底的な個人主義に拠って構成されていて(本書が扱う共同体主義も所詮は個人主義の枠内にある論理に過ぎない)、社会有機体論者に響く共通要素は何もないからだ。本書はいわゆるライプニッツの「窓のないモナド」的な世界観を無条件に前提しているわけだが、社会有機体論はその前提自体を共有する必要がないのだ。その世界ではもはやフッサールを持ち出すまでもない。ホッブズ以来の「自由」の展開は、実は資本主義の史的展開によって「窓のないモナド」的世界観の無前提的な共有が広がった結果に過ぎないのかもしれない。モナド的でない世界の見方がいくらでも可能だということには、たぶん気をつけなければ、足を掬われる。私個人は著者のモナド的世界観を無前提に受け入れることができるが、しかし著者(あるいは私)の世界観を共有しない「絶対の他者」は、すぐ隣りにいるのだ。社会有機体論は、そういう対象をも射程に入れてくる、なかなか恐ろしい論理ではある。あるいはヘーゲルも社会有機体論に足を一歩踏み入れているとも言える。たとえばヘーゲル自身はこう言っているではないか。

「諸契機のこの観念性は、さながら有機体における生命のようなものである。生命は有機体のどの点にもあるが、すべての点にただ一つの生命があるだけであり、この生命にたいする抵抗はなく、これから離れたときはどの点も死んでいる。いっさいの個々の身分、権力、職業団体の観念性もこれと同じであって、これらのものがどんなに存続し自存しようとする衝動をもっていようと、そうである。これらのものは有機体における胃のようなもので、胃も自分だけの独立の位置を占めてはいるが、しかしそれと同時に揚棄され犠牲にされ、全体に融合されるのである。」
ヘーゲル『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシック、305-306頁

この表現は時代性のなせるわざだろうか? 私はヘーゲルの内的な論理から必然的に導き出される本質的な帰結だと思っている。ヘーゲルの論理を突き詰めていくと、著者が依拠する無前提のモナド的世界観を超えて社会有機体論へと変質する一点が、きっとある。そしてそれはおそらく「再帰的な一」という概念そのものに埋めこまれた本質的で回避不可能な特異点であり、その「特異点」を自覚しない限り必ず同じ罠にはまる。特異点に吸い込まれて、メビウスの輪のように、表と思っていたものが知らないうちに裏に変わる。畏れなければならない。

まあいろいろ書いたけれども、あくまでも著者に対して難癖をつけているつもりはなく、私個人の研究を深めるための独り言に近い備忘録だ。なにかしらエキサイトしているように見えるとすれば、著者をやっつけようとしているのではなく、私から対自的に分離した私自身の言葉に対して、それを回収して再び「一」に戻ろうとする内的衝動が原因だ。それは私の心の動きを率直に眺めれば感得できる。それは確かに「自由」でもあるが、より本質的には「再帰的な一」であることを求める私の内なる欲望に基づいているのだ。

苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』講談社選書メチエ、2011年

【要約と感想】プロチノス『善なるもの一なるもの』

【要約】「存在」とは要するに「ひとつ」であることです。「ひとつ」とは、「知性」や「精神」や、あるいは「万有」といったものよりも先の何かです。われわれはその「ひとつ」と一体になることによってのみ、本当に存在し、幸福になることができます。しかしその有り様は言葉によって説明することがそもそも不可能な事態であって、実際に経験するしかありません。
ただし、どうして「一」から「多」が生じたのか、という問題に答えるのはとても難しいです。

【感想】プラトンが対話編で具体的に展開した議論を、筋道立てて抽象的な論理にまとめるとこうなるという、新プラトン主義の精髄のような論文だ。そして新プラトン主義の「存在」に対する議論は、キリスト教神学を経由して、近代西洋哲学の土台になっていく。これこそ「同一性の哲学」の核心だ。たとえば、ここに描かれた「一から多への運動」は、そのエッセンスをヘーゲル精神現象学もパクっているんじゃないかと思えたりするし、自己へ還る「ひとつ」という主体の様式の議論は、そっくりそのまま実存主義と重なる。極めて重要な霊感がたっぷり詰まっている論文であるように思う。

一方、訳者の翻訳の仕方にも関わってくるとは思うのだが、とても東洋的なセンスを感じる論文でもある。言葉では伝えられずに経験によって伝授するしかない真実の在り方に関しては禅が言う「不立文字」をどうしても想起せざるを得ないし、あるいは現実の物質的世界を解脱して「ひとつ」と精神的に一体化するという展望は、そのまま仏教の教えと重なる。神と一体化するというよりも歓喜のうちに神自体になるという論理には、東洋的なセンスを感じざるを得ない。

とはいえやはり、最終的には本書は「同一性」の哲学であって、東洋の「空」の思想とは決定的に異なる。この「同」と「異」をどう捉えるかは、西田幾多郎的な課題となる。

【この本は眼鏡論にも使える】
「一と二の関係」を原理的に考察する本書の論理は、もちろん眼鏡論にも多大な霊感を与える。なぜなら、「眼鏡っ娘は一」であるのに「眼鏡と娘は二」という根本的な絶望に対し、論理的な光明を与えてくれるからだ。

「かくて、見るものは見られたものと相対して二つになっていたのではなくて、見られたものと自分で直接に一つになっていたのであるから、相手は見られた者というよりは、むしろ自分と一つになっているものというべきであったろう。」47頁

プロチノスのいう「見るもの」と「見られたもの」との対立は、まさに眼鏡という視線を制御するアイテムが「媒介」するものにふさわしい論理構成と言える。

「ところで、これらの各は一つずつの知性であり、存在なのであるが、これらを合わせた全体は、知性の全体であり、存在の全体なのであって、その場合知性は直知することによって、存在を存立せしめ、存在は直知されることによって、知性にその有様を与え、直知することを得させているのである。とはいえ、直知の原因となるものは別にあるのであって、それはまた存在に対しても原因になっている。つまり両者に対して同時に原因となるものが別にあるのである。というのは、両者は同時に、しかもいっしょにあって、互いに見棄てることのない関係にあるけれども、この知性と存在のいっしょになっている一者は二者なのである。すなわち知性は直知する作用に即してあり、存在は直知されるものの側にある。これはすなわち、異の対立がなければ、直知は成り立たないであろうということなのである」63-64頁

この文章の解釈は困難ではあるが、眼鏡について語っていることは間違いない。「知性=眼鏡」と「存在=娘」を同時に成り立たせる原因である「別のもの=眼鏡っ娘」ということだろうか。さらに研究を深めなければならない。

プロチノス『善なるもの一なるもの』田中美知太郎訳、岩波文庫、1961年

【要約と感想】鍵本優『「近代的自我」の社会学 大杉栄・辻潤・正宗白鳥と大正期』

【要約】明治以降、近代的自我の形成が日本の知識人にとって共通の課題となりました。本書が扱うテーマは、近代的自我形成の在り方が明治と大正とで大きく異なっていることです。明治期には国家独立のための前提として近代的自我の形成を目指していましたが、大正期には資本主義体制下の消費的主体としての近代的自我へと変容しました。注意すべきことは、明治と大正を通じて、生命主義の影響の下で自我を「ひとつ」の何かへと包括・統合しようとする全体主義の傾向が共通していることです。このような日本における近代的自我の形成過程の中、大正期に「ひとつ」への統合圧力から逃れようとする試みが散見されるようになります。その代表として、本書は大杉栄、辻潤、正宗白鳥の苦闘を具体的に扱っています。

【ツッコミ】明治期人格概念研究者(?)の私としては、ツッコミを入れるべき点が2つある。ヘルバルト主義と社会有機体論だ。いちおう先回りしてフォローを入れておくと、著者の主張に問題があると言いたいわけではなく、私自身の発信力不足と怠慢のせいで、熱心な研究者にすら私の研究成果が届かないというところに問題があることを自覚しつつ、私の研究がこの問題領域にどのような形で貢献できるかを確認するための作業だ。

まず著者は「明治三十年代の半ば頃に中等学校修身科教育の内容として姿を現した人格観念」(91頁)と言うが、この記述にはツッコミを入れておきたい。正確には、人格観念は「中等学校修身科」から姿を現したのではなく、時間的にも理論的にもその前に「教育理論」の中に姿を現している。明治20年代半ばにはヘルバルト主義によって「人格」観念が「個性」観念を伴って導入されて、少なくとも20年代後半には教育理論として展開されるようになっているのだ。明治30年半ばの中等学校修身科教育の内容は、ヘルバルト主義理論を土台にして教育理論が展開した末に出てくるものだ。(拙論「日本の教育学説における人格概念の検討-ヘルバルト主義を中心に」および「「教育的」及び「個性」-教育学用語としての成立-」)
大西祝もヘルバルト主義への言及を通じて「個性」観念に触れており、「人格」や「個性」概念に対してヘルバルト主義が果たした影響は、かなり大きい。このあたりは教育史研究者がもっと主張を強めていくべきところなのだが、主張が広がっていないのは我々の怠慢だ。

それから、多様性と一性(=アイデンティティ)の相克について、しかも生命主義と絡めて考えるなら、明治初期の進化論受容から中期の社会有機体論および国家有機体論への展開を無視できない。この論点にもツッコミを入れておきたい。
社会有機体論にしても国家有機体論にしても、「有機体」というからには、もちろん機械のように部分に単純分割できるものではなく、全ての器官が相互依存している生命体が想定されている。生命体の在り方を理論的前提とする有機体論は、生命主義に容易に接続できる。本書が言う「ひとつ」への統合・包括圧力は、社会有機体論と国家有機体論によって理論的に裏打ちされているように思う。具体的には、社会有機体論を理論的に代表するのがスペンサーで、国家有機体論を理論的に代表するのがシュタインなわけだが、明治中期に徳富蘇峰や岡倉天心や三宅雪嶺といった新しい世代がこれらをまともに受け止め、個性と多様性を尊重しながら同時に一性を保つという言論を展開した。これは福沢諭吉や中江兆民といった「天保の老人」には見られなかった傾向だ。新しい世代の論理では多様性(個別性)と一性(普遍性)が生命という相においてのみ両立することが示されており、その基本的な論理構成は大正期の生命主義にも(あるいは戦後まで)引き継がれていくように見える。生命主義を背景とした「ひとつ」への包括統合圧力を描くのであれば、天心や雪嶺など新しい世代に触れつつ有機体論の伝統を踏まえる必要があるのではないかと思った。

【感想】まあ、あらかじめフォローしておいたとおり、著者の主張を否定したいわけではない。自分自身の発信力不足と怠慢を反省しつつ、行うべき仕事について再確認させられるような、たくさんのインスピレーションを与えてくれた本だった。とてもおもしろく読んだ。

とくに「ひとつ」という術語は、著者がその言葉を捻り出した過程を想像するに、とても尊いものだと思いつつ読んだ。従来はそれを「同一性」とでも呼ぶことが多かったわけだが、著者はおそらく「同一性」という術語で記述することに違和感を抱いているのだろう。手垢のついた言葉ではなく、著者が新しく「ひとつ」という言葉を生み出したことは、とても尊い。私もソレをどのように呼ぶべきかについては、ずっと悩ましく思っている。あるいは、著者が「ひとつ」と呼んでいるものについて、どう考えていいのか、ずっと迷っている。
たとえば、「ひとつ」への包括統合圧力が、果たして近代に特有のものかどうかという疑問が拭えない。なにかを「ひとつ」と認識することは、実は人間の認知の所与の在り方なのではないだろうか。たとえば、目の前にある眼鏡を、どうして私は「二つのレンズとひとつのブリッジ」とは認識せず、「ひとつの眼鏡」と認識するのだろう。そして、どうして英語ではそれを「二つのレンズ」と認識するのだろう。なにを「ひとつ」と認識するかは文化によって異なる。日本語では「眼鏡」を「ひとつ」と認識し、英語では「レンズ」を「ひとつ」と認識している。とはいえ、いずれにせよ何かを「ひとつ」と認識する認知の在り方がなければ、人間は「言葉」を持つこともできず、「存在」を認識することもできない。たとえばアリストテレスは、「数」は2から始まるものであって、「1」は数ではないと主張した。
「近代的自我」とは、一人の人間を抽象的に「ひとつ」と認識する認知フレームではある。この認知フレームは、身分制を破壊して、侍だろうが農民だろうが「同じ人間である」というふうに、具体性を剥ぎ取って人間を認識することが可能な社会的条件が揃って初めて作動する。同様に「近代的国家」を抽象的に「ひとつ」と認識するためには、アメリカだろうが日本だろうが北朝鮮だろうが「同じ国家である」というふうに、具体性を剥ぎ取って国家を認識することが可能な社会的条件が揃う必要がある。そういう意味では、確かに「近代的自我」も「近代的国家」も市民革命以後の近代的産物に間違いはない。フロイトやニーチェは、人間を抽象的に「ひとつ」と認識する近代的な認知枠組に対して異議申し立てをしたと言える。人間は「ひとつ」などではなく、もっと細分化されたものに「ひとつ」を設定するべきなのかもしれない。あるいは、もっと大きなもの(たとえば国家とか社会とか人類補完計画とか)を「ひとつ」と設定するべきなのかもしれない。
が、そもそも「なにかをひとつと認識する」という認知の在り方自体は、実は時代に関係なく、人間にとって所与のものである可能性はないのか。前近代は前近代で、なにか別のものを「ひとつ」と認識しており、そこに向けての包括・統合圧力はやはり作動していたのではないか。たとえばそういう「究極のひとつ」、つまり「神」としか呼べないようなものへの憧憬は、後期プラトンの哲学や、アリストテレス『形而上学』や、新プラトン主義の諸々に徹底的に描かれているのではないか。
だとしたら、大正期の生命主義が求めた「ひとつ」とは、求めるべき「ひとつ=神」を持たなかった日本人の認知の空隙を埋めるものとして、大正期の知識人には、どうしようもなく必然的に生じてしまう類のものではないのか。ここまで思い至ると、本書でライトモチーフのように繰り返されるキリスト教の影響と反発というものは、なかなか侮れない。「ひとつ」というものは絶対に必要だと感じているにもかかわらず、キリスト教の言う神は「そのひとつではない」というもどかしい感じ。その「ひとつ」ではない何か別の「ひとつ」を求めざるをえない人間の認知のどうしようもない在り方が、たとえば本書で扱われた3人の苦闘に現れているのかもしれない、というふうに本書を読んだ。

本書で示された「ひとつ」への包括・統合圧力という問題は、そうとう深いように思う。そしてそういう意味で、「ひとつ」という言葉を産みだして問題を記述した本書のセンスは、とてもいい。

鍵本優『「近代的自我」の社会学 大杉栄・辻潤・正宗白鳥と大正期』インパクト出版会、2017年

【要約と感想】板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』

【要約】「私」というものは他者や環境との関係があって初めて生じるものです。人間の幼児には、他者(無生物を含む)の行動に対して合理的な意図や関係性を見出す認知機能が生得的に備わっていて、この機能の発達が「心」の発生(=メンタライジング)に関わります。

【感想】人間は幼児期から「心」を認識している可能性があることを、興味深く読んだ。本書に記述された実験に関する報告を信用するなら、人間は様々な対象に「心」を見出す傾向が生得的に備わっているようだ。実験の妥当性を高めるための工夫がいちいちおもしろく、読み物としても楽しい。

ただ、本書に限ったことではないが、心理学や認知科学に対して一般的に疑問を思ってしまうのは、観察された現象を本当に「心」という言葉で呼ぶのが妥当かどうかということだ。原理的に言えば、観察者が持っていた「心」という概念を観察対象に適用して「心」の存在を証明することは、帰納的な推論ではなく、「循環論法」に陥っているのではないか。たとえば、動物実験で観察されたものを「心」と呼ぶのは、単なる擬人化ではないかとも疑ってしまう。観察で見出された現象は、本当に「心」というカテゴリーで処理するのが一番適切なのだろうか? まあ、そんなことはライル等が既に言っていることだけれども。

具体的には、そこで見出されているものの本質は、「心」と呼ぶより、「一」と呼ぶ方が適切ではないだろうか。あるいは、もっと正確には「生命の単位としての一」と呼ぶべきかもしれない。人間は「私」だけを環境から切り出しているのではなく、様々な「一」を環境から切り出している。あるいは他の動物も。だから、人間が生得的に持っている認知傾向とは、「心」を見出す能力というより、「多」から「一」を切り分ける高度な能力ではないのか。まあ、「心」を見出すから「一」を切り分けられるのか、「一」を切り分けてから「心」を仮託するのか、鶏と卵の関係のようなものではあるが。ともかく、最初から「心」の存在を仮定するのではなく、「一」というものを仮定しても、同じ現象がまったく別の論理で説明できてしまうはずだ。このあたりは後期プラトンやアリストテレスがそうとう厳密に手がけているところではあるが。そして古代哲学の論理によれば、「一」から様々な概念が演繹される。たとえば、首尾一貫性という概念であり、アイデンティティという概念であり、あるいは「存在」という概念だ。プラトンやアリストテレスはそこまで言っていないが、実は「心」という概念も「一」から演繹されるものではないのか。そう考えると、「心」とか「アイデンティティ」とか「首尾一貫性」というものは付属的な属性に過ぎず、本質は「一」であると見なすのが適切ではないのか。そしてそう考えても、本書で示された現象は全部きれいに説明できてしまう。

じゃあ、そもそも「一」とは何だと聞かれたら。そんなものは「認知の特異点」であって、それがあるから他のあらゆるものが説明できる認知の底であって、外部からは説明のしようがない何者かとしか言いようがない。どうして「私」が「一」なのかは、誰にも説明できない。それは目の前の「眼鏡」がどうして「一」なのか説明できない(こんなにたくさん部品があるのに、どうして「一」と呼べるのか?)のと同様のことだ。「私」や「眼鏡」を「一」と認知することで、初めて世界が成り立つ。「私」を認識する前に「一」を認識していなければ、世界は立ち上がらない。人間(あるいは他の動物)の生得的な認知の基礎は、そこにあるのではないのか。アリストテレスも、数字は「二」から始まるのであって、「一」は数字ではないと言った。「一」とは数字を成立させるための「認知の特異点」として特別な対象であって、数字のような形式的操作の対象には納まりきらないということだと承知している。「心」というものも現在では実験など形式的操作の対象となっているが、それを成り立たせる根底にはもっと別の根源的な何か、具体的には「一」というものが前提されねばならず、それこそが人間の認知の基礎的で生得的な条件となっているのではないか。まあ、そんなことはアリストテレスやカントが既に言っているのだが。ただ、AIにできないのは、「心」を持つことよりも前に、「一」を認識することではないか。人間は、自分や他人を「一」と認識できるほか、自分よりも小さなもの(たとえば指とか足とか髪の毛とか)も「一」と認識できるし、自分よりも大きなもの(たとえば「家族」とか「民族」とか「国家」とか「地球」とか「世界」)をも「一」と認識できる。そして「一」と認識したものに対して、頼まれもしないのに「心」を仮託する傾向にある。AIは、「心」を生む前に、まず「一」を認識することができない。ここに「生命」と呼び習わされてきた何かの本質があるのではないか。

まあ、本書を読みながらそんなことをつらつらと考えたのだが、もちろんこれは私の問題であって、本書が扱わなければならない問題ではない。

【眼鏡学に使える】
「視線」に関する記述は、眼鏡学的な観点から、興味深い。

「目は心の窓」。いみじくも古人がこう表現したように、他者の心を最もよく反映するのは、視線かもしれない。「私」が最初に出会う他者の心は、他者の目に凝縮されていると言ってもいいだろう。たとえば、視線は、他者が何を見ているかを単純に示すものである。(126頁)

「視線」を可視化するのが眼鏡というアイテムである。つまり他者の眼鏡を外すという行為は、他人から視線を剥奪することの象徴であり、端的に主体性を否定することを意味する。眼鏡を共有する行為は、視線を共有することの象徴であり、生死を共にする共同体の一員であることを保障することを意味する。この「視線」に関する観点は、マンガ作品分析等で極めて多大な示唆を与えてくれる。

板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』ちくま新書、2006年