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【要約と感想】比佐篤『貨幣が語るローマ帝国史―権力と図像の千年』

【要約】ローマ帝国ではギリシアの制度を受け継いで膨大な種類の貨幣が発行されており、その図像の変化を分析することで権力構造の変化を読み解くことができます。縁の神々や英雄を描くことで都市のアイデンティティを主張する図像から、共和政下での選挙活動のための図像へと変化し、さらにローマ皇帝たちが自分の権力を正統化する図像へと変化していきます。地方属州の貨幣からは、地方有力者が自発的にローマ文化に接近した姿を見ることができます。またキリスト教の土台となった「個人の神格化」は、キリスト教の専売特許というわけではなく、ローマ帝政初期から行なわれてきた伝統を素直に受け継いだものと言えます。

【感想】「貨幣」のデザインを通じてローマ史を語るという構想が秀逸で、まず読み物として面白い。それに加えて、わかりにくいローマの行政制度について分かったような気にさせてくれる。個人的に国家の本質は地方行政制度に表われると思っているのだが、その具体相に切り込んでくれるのだ。地元有力者はローマ文化を自発的に摂取することで現地での権威を確保し、ローマは行政官を派遣することなく地方から自発的な服従を調達することができる。文化的接近と自発的服従を象徴するのが現地で発行される貨幣の図像というわけだ。まあ、貨幣は発行していないが、地方行政の構造は基本的には日本の古代とも通じるような気がする。
また一神教が突如発生したわけではなく、普遍化されたローマ世界でセラピス神や太陽神信仰、皇帝の神格化などを通じて徐々に醸成されていったというストーリーは、一つの知見としてなるほどとは思う一方で、眉に唾をつけながら読みたいとも思う。なぜなら中国で一神教が発生しなかったことについて説明できないからだ。今後とも要検討事項。

比佐篤『貨幣が語るローマ帝国史―権力と図像の千年』中公新書、2018年

【要約と感想】小林標『ローマ喜劇―知られざる笑いの源泉』

【要約】演劇とは時代の雰囲気を反映する総合芸術であって、観客の反応を抜きにして語ることはできません。ローマ喜劇とは、外来のギリシア演劇を受容して独自の展開を見せた総合的な芸術運動と把握して初めて理解できるものであって、単にテキストだけを解釈するのでは見失うものが多いでしょう。具体的には、たとえば「プロロゴス」の在り方を見ることによって、ローマ時代の芸術運動の一端を伺うことができます。そしてその時代に寄り添う芸術運動の在り方は、まさに日本の演劇運動を理解する上での参照軸となり得るものです。

【感想】事前に想像していた内容とかなり違っていたのだが、それもまたタイトル買いの醍醐味ではある。ローマ時代の特徴を理解しようと思って手に取ったものの、本書は歴史よりも「演劇」の在り方のほうに軸足を置いていた。史料に即してストイックに語るというより、現代日本の演劇の在り方や演劇運動の意義等と往還しながら、普遍的な芸術精神に訴えつつダイナミックに二千年以上前の演劇の真の姿を再構成しようとしているのだ。実際に演劇運動の渦中にいたであろう人だからこそ、歴史の論理ではなく演劇の論理からかつての在り方を再構成できると確信しているのであろう。素人目にもかなり大胆に見える仮説を、そうとう自信を持って展開している。そんなわけで、ナルホドと思う一方で、「でも仮説だよな・・」と思う私も同時にいる。
あるいは一般的に、情報の受け手の素養が時代の空気を決めるという観点から言えば、演劇に限らず、「表現」全般に敷衍できる話かもしれないとも思った。たとえば、ローマ時代の劇作家がプロロゴス(前置き)において状況をでっちあげて観客の同情を誘う在り方は、インターネット上でのテキストの流通に対しても一般的に見られる現象だ。twitter等で、自分の発言に注目を集めようとしてありもしない状況をでっちあげることは、もはや日常的な光景となっている。われわれは、情報の受け手と想像される得体の知れないものに対して必死になって状況を捏造し続ける「情報の発信者」なのであった。

小林標『ローマ喜劇―知られざる笑いの源泉』中公新書、2009年

【要約と感想】本村凌二『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』

【要約】地中海地域はもともと多神教の世界でした。特にイシス崇拝やミトラス教はローマ帝国各地に広がっていました。が、現在の地中海地域はキリスト教とイスラム教という一神教で覆われています。
一神教へと変化した根本的な原因は紀元前1000年あたりにあります。まず重要な原因は、アルファベットが開発されて多種多様な文字が少数の文字へと収斂していったことです。文字の少数精鋭化は、アレクサンダー大王やローマ帝国がオリエント地域を支配して数々の神が少数の神格へと統合されていく動きと並行して理解することができます。
もうひとつの有用な原因は、危機と抑圧です。アルファベットの発明によって文字文化が拡大し、音声文化が痩せ細ったことによって、それまで人間に聞こえていた神の声が聞こえなくなります。地域や都市固有の神から切り離されてグローバル化した世界で個人化・孤立化した人々は、従来の形式的な儀礼宗教には頼ることができず、内面の救済を強烈に求めるようになります。この内面救済の要求に応えたのがキリスト教でした。

【感想】新書だからこそ書けるような大胆な仮説が繰り広げられて、わくわくしながら読める本だ。逆に言えば、大胆な仮説に過ぎない記述も多いので、眉に唾をつけながら読まなければいけないものでもあるだろう。
たとえばユダヤ教の起源がエジプトのアクエンアテン宗教改革にあるという仮説は、著者ではなくフロイトが言い出したものだが、なかなか刺激的ではある。旧約聖書との記述とも辻褄が合ってしまいそうではあるが、史料に基づいて実証することはできず、なかなか扱いに困る。
それから本書の根幹をなす「アルファベットの発明と神々の習合」の議論については、なかなか刺激的ではあるが、もちろん史料に基づいて実証することはできない。文字体系を合理化しようという志向と神々の体系を合理化しようという志向が、果たして同時並行的に起こるものなのか、まず俄には首肯しがたい。まず単純に言って、日本中世で起こった神仏習合は文字体系の合理化と何の関連もないからだ。とはいえ、明治以降の神社合併と文字体系の合理化が、同じ根から起こっているように見えるのも確かではある。一つの刺激的な仮説として頭に置いておくことについては吝かではない。印刷術の発明が人類史を大転回させた議論等とも関連して、「リテラシー・イノベーションと人類史」の枠組で捉えるべき具体的テーマのひとつではあろう。
それから、宗教的情熱の興隆と性的抑圧の関連についての記述もあって興味深いのだが、あまりにもあっさりとしていて、いまいち具体性に乏しい。まあ、著者の別の本で補完できるので、ないものねだりをするところではないのかもしれない。宗教的情熱の盛り上がりによって性的表現が規制されるというストーリーは分かりやすいのだが、しかし「禁欲」思想はストア派やヒポクラテス由来のものもあるはずなので、そう単純に扱えない気もする。

全体的に、具体的な事実に基づいた実証的な記述を期待する本というよりは、ある観点からのストーリーを俯瞰的に楽しむために読む本だった。どちらも歴史にとっては重要である。が、具体的な記述に期待している向きには、同じ時代と地域とテーマを扱っている小川英雄『ローマ帝国の神々―光はオリエントより』のほうが役に立つかもしれない。

本村凌二『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』岩波新書、2005年

【要約と感想】小川英雄『ローマ帝国の神々―光はオリエントより』

【要約】帝政ローマでは伝統的なギリシアやローマの神々に対する信仰は失われており、ペルシアやエジプトやシリア由来の神々が信仰の対象となっていました。マケドニアやローマ帝国のオリエント侵略以降、人口の移動やローマ帝国の宗教的寛容政策の影響だけでなく、オリエント諸宗教自体の魅力(派手な儀礼等)によって、ローマ帝国内に様々な宗教が流入しました。
具体的には、エジプトからはイシスやセラピス、シリアからはアドニスやユピテル・ドリケヌスやバールベック、小アジアからはキュベレやアッティクス、イランからはミトラス、パレスチナからはユダヤ教やキリスト教やグノーシス主義が流入し、隆盛します。そして熱心な布教活動を行なった排他的な一神教であるキリスト教が最終的には勝利します。

【感想】淡々とした客観的な記述に終始するので一見迫力がないように思ってしまったのだが、よくよく考えると凄いことがさらっと書いてある。世界史の教科書には載っていないことが典拠なしでさらっと書いてあったりするので俄には信じがたいことが多いのだが、実は高校世界史教科書の方があまりにも単調すぎるのであって、本書が描いたような多面的で複雑な世界の方が真実により近いわけだ。雑然とした多神教の世界をいったん受け入れると、むしろそのほうが当然の姿のように思えてくる。日本だって、皇室ゆかりの整然とした神話体系に基づく神社の中に、八幡とか熊野とか稲荷とか得体の知れない謎の神様が平然と同居しているわけだ。アレクサンダー大王やローマ帝国が征服した土地の土着神がギリシア・ローマの神々と習合し、帝国内の人々の移動に伴って、体系化されたりされなかったりしながら雑然と信仰の形がつくられていったのは、おそらく日本と事情が同じなのだろう。
様々なオリエント起源の神々とキリスト教を並列して記述するのは、現在の後知恵的観点から見ると異様ではあるが、当時の発生的現場に立ってみればむしろ多様な価値観が並列している状態のほうが当たり前であることも分かる。キリスト教に特権的な位置を与えずに当時の多様な宗教状況を淡々と記述するスタイルには、派手さはないが、静かな迫力がある。

中二病の人に読ませると様々な創作を行なうインスピレーションの源泉になるかもしれない、なかなか刺激的な本であるように思った。

小川英雄『ローマ帝国の神々―光はオリエントより』中公新書、2003年

【要約と感想】桜井万里子・橋場弦編『古代オリンピック』

【要約】紀元前8世紀から1200年もの間、ギリシア山間の片田舎オリュンピアで競技大会が開かれ続けました。おそらく当初は地方的な祭典に過ぎませんでしたが、次第に全ギリシアを巻き込む一大イベントとして発展します。もともとギリシアに根づいていた競争の文化(アゴン)が要因かもしれません。さらにヘレニズム時代からローマ時代にかけて、ギリシア文化を崇敬するマケドニア王やローマ皇帝の支援を得て、ギリシア地方を超えて国際イベント化します。
隆盛を極めたオリンピックも、西ローマ帝国滅亡の過程で、キリスト教の影響などもあり、西ローマ帝国滅亡後は忘れ去られます。しかし18世紀のグランドツアー流行や19世紀の国民国家興隆に伴って西洋の起源としてのギリシア文化が見直され、オリュンピアの発掘調査が進行するとともに、近代オリンピックが復興します。
しかし近代オリンピックが目指すギリシア文化=アマチュア精神は後世になってから捏造されたものも多く、オリンピックがローマ期になってから拝金主義により衰退したという従来の見方は近代的なバイアスが色濃く反映している疑いがあります。

【感想】とてもおもしろく読んだ。古代オリンピックの歴史を通じて、ギリシアとローマの古典文化や当時の生活の具体的な有り様のみならず、ヨーロッパ近代が抱える認知の歪みまでも見透すような、一点突破全面展開のお手本のような歴史記述だと思った。ギリシア古典期→ヘレニズム→ローマ期の変遷過程についてはけっこう混乱することもあるのだが、オリンピックという具体例を通して見ると、とても理解しやすい。18世紀から19世紀にかけてローマ文化を貶めてギリシア文化を礼賛する傾向にあったのが、最近の研究の成果によって是正されつつあるという報告は、他の領域でも共通して見られる現象で、なかなか興味深い証言だ。
あと、マラソン競技の起源伝説が極めて怪しいという話は小耳に挟んではいたのだが、本書で学術的な根拠を仕入れたので、今後は積極的に発信していきたい。マラソン競技の起源を語る伝説は、デマですよ。

【今後の研究のための参照】

「古代オリンピックは、与えられたものとしてギリシア人が享受していた競技会ではなくて、人々の共同参加によって、分立する諸ポリスを統合する精神的支柱の役割を担うにいたった競技会であった。」15頁

この文章は「コミケ」にも当てはまる気がするね。コミケはいまや分立する諸ジャンルを統合する精神的支柱の役割を果たしているのだった。やはり周期的に発生する「場」というものは人間の団結にとってとても重要なのだろう。

桜井万里子・橋場弦編『古代オリンピック』岩波新書、2004年