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【兵庫県丹波篠山市】八上城は明智光秀に兵糧攻めで落とされた

丹波篠山市(たんばささやま)の八上城に行ってきました。

市内には代表的な近世城郭篠山城もありますが、八上城は戦国山城の面影を残しています。国指定史跡の、立派な城跡です。頂上まで約1km、45分の山登りです。

JR篠山口駅で借りたレンタルサイクルを山の麓に置いて、さっそくアタックです。

八上城は、戦国時代には丹波地方の国人領主である波多野氏が治めていました。織田信長の攻撃を何度も跳ね返した堅城です。

しかし最終的には明智光秀と細川藤孝に包囲され、兵糧攻めに遭って、落城しています。

地元の有志が建てたっぽい案内パネルには、明智光秀を卑怯者とディスって、地元国人領主である波多野氏をリスペクトするような文章が達筆で書き付けられております。

春日神社脇の登城口から攻め入ると、まず主膳屋敷跡に出ます。

ここには「八上城主前田主膳正」の供養塔が建っております。

前田主膳茂勝は、波多野氏が滅亡した後に八上城に入りました。関ヶ原では負けた西軍側に立ち、細川藤孝の立て籠もる但馬田辺城を攻めていますが、戦後も領土は安堵されます。ところがその後、発狂して、改易されたとのこと。前田茂勝本人はキリシタンだったようですが、供養塔は伝統的な五輪塔ですね。

1608年、茂勝改易後に篠山に入った松平康重は、近世平城として篠山城を築いたため、中世山城の八上城は役割を終えて廃城となります。
ちなみに松平康重は、家康の親類としての松平ではなく、もともとは「松井」の姓を持っていました。康重の父、松井忠次は、鵜殿長照が籠もる上ノ郷城を攻め滅ぼした武将の一人です。しかし一方、康重の実父は松井忠次ではなく徳川家康本人であったという説もあるようですね。

登山を続けると、下の茶屋丸に出ます。

視界が西側に広く開けていて、東西に長い篠山盆地を東端のほうから一望できます。普通のハイキングとしてもいいところですね。

さらに登ると、右衛門丸に。

石垣の跡が残っています。関東の中世山城にはなかなか見られない光景で、さすが近畿の城だと感心します。波多野氏時代のものでしょうか、その後のものでしょうか。

さらに行くと、三の丸。なかなか険しい傾斜ではありますが、しっかり整備されていてとても歩きやすいです。

続いて二の丸。

上の写真の奥の方に見える丘が、本丸です。

本丸は、面積としてはさほど広くないので、象徴的な意味合いが強かったかもしれません。実質的には二の丸が砦としての機能を担っていたのでしょう。

本丸には、波多野秀治の表忠碑が建っています。

正親町天皇即位の際に献金を行なったため、贈位されているようですね。

本丸にも案内パネルが立っています。

国人であった波多野氏は、管領を放逐したり、守護代を攻略したりと、まさに下克上を体現するような存在だったようです。三好長慶と抗争を繰り広げたり、織田信長が丹波に進出してきた際には明智光秀に従ったふりをした後に反抗してみたり、なかなか曲者のようです。が、一年半の攻城戦の後に光秀に敗れ、安土城下で磔に処せられて果てます。本能寺の変の3年前のこと(1579年)ですが、2020年度NHK大河ドラマ『麒麟がくる』ではどのように描かれるでしょうか。

八上城周辺にはたくさんの砦が築かれています。

篠山は丹波丹後と京都あるいは神戸を繋ぐ交通の要衝にあったため、盆地全体が要塞化されていた感じですね。
現在の篠山は、JR福知山線と舞鶴若狭自動車道が盆地の西端を南北に貫いており、八上城のある盆地東側は要衝から外れている感じもありますが、実は戦国期には盆地を東西に貫いて山陰街道(現国道372号)が通っていましたので、盆地東端にある八上城は京都への出入口を固める極めて重要な地政学的位置を占めていたはずです。

おそらく平時は麓の館に住んでいて、八上城は緊急時の後詰めの城として機能していたような気もします(実際、主膳屋敷跡は山の麓の春日神社周辺にありましたし)。

ところで、マンホールの蓋には各地の個性が出るのですが、八上地区のマンホールもなかなかです。

二匹のイノシシ、松、黒豆、ササユリ、そして山頂に天守閣(おそらく八上城を象徴)というデザインです。が、まあ、中世山城にこんな立派な天守閣が建っていたわけはないんですよね。ツッコミ失礼しました。
(2016年3/25訪問)

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【岐阜県恵那市】明智城の麓には明智光秀の供養塔があるが怪しさ満点、大河ドラマとは違う場所

岐阜県恵那市にある明智城に行ってきました。明智城の麓には、明智光秀出生地の碑と供養塔もあります。
ちなみに、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の舞台となっている明智荘は、同じ「明智」でも、ここではありません。ドラマの方では、同じ岐阜県でも、可児市にある明智(恵那明智から北北西に約40km)が舞台に設定されています。

明智城は、明知鉄道の終点「明智駅」から500mくらいのところにあります。明智には日本大正村もあり、見所が多いところです。
ちなみに大河ドラマの舞台は、同じ岐阜県の明智でも、名鉄広見線の「明智駅」が最寄りです。違う場所です。

明智光秀の供養塔は、龍護寺にあります。

明智光秀公の御霊廟に「おはか」とふりがなが振ってあります。

霊廟に入ると、「明智光秀公出生地」の石碑が立っています。

何度も書きますが、大河ドラマ『麒麟がくる』では、同じ岐阜県でも、こちら恵那市ではなく、可児市の明智のほうを出生地としています。どちらが正解でどちらが間違っているというわけではなく、史料が存在しないため、現時点では確かなことは分かっていません。
ちなみに、可児明智と恵那明智も含め、光秀の出生地と言われている場所は6個所あります。

さて、霊廟内には供養塔が立っています。

「色即是空 明智光秀公供養塔」は、まあいいのですが。

裏に回ると……

「空即是色 敵は本能寺にあり」とありますよ!! 怪しすぎ!
ちなみに、現在の歴史学の水準では、明智光秀が「敵は本能寺にあり」と言ったことは明確に否定されています。大河ドラマでは、このセリフを言うのかどうか。

ところで、この龍護寺には「遠山の殿さんの墓」もあります。

実は、恵那市の明智を領有していたのは明智氏ではなく遠山氏だったんですね。遠山氏は岩村城や苗木城なども領有しており、東美濃一帯を支配する国人領主でした。明智の遠山家の末裔には、「遠山の金さん」として有名な遠山景元がいます。

龍護寺の案内パネルにも、「遠山家菩提寺」とあります。恵那の明智は遠山家が代々領有する地であって、光秀の出身地とするには微妙な感じもします。
ただし、明智光秀が可児明智の生まれではなく、遠山家に生まれて可児明智に養子に出た可能性などもあり、一概に恵那明智が光秀の出生地であることを否定できるわけではありません。恵那と可児の距離や当時の勢力関係から考えても、養子に出ている可能性は低くありません。
文書資料が残されていない以上、確かなことは分かりません。

さて、案内パネルにもあるとおり、龍護寺から明智城本丸までは650mの山道です。15分ほど山登りです。

明知城の案内パネルでも、城主は遠山氏となっていますね。ちなみに漢字は「明智城」ではなく「明知城」となっています。

本丸までの山道はしっかり整備されていて、とても歩きやすいです。

本丸は比較的こじんまりとしている印象ではありましたが、中世山城はこんなものでしょう。

本丸からは明知の里が一望できます。北北西には岩村城も臨めるところです。

地政学的には、恵那明智から明智川を南下すると矢作川に当たり、矢作川を下っていけば豊田と岡崎に出ます。恵那明智は、木曽川水系と矢作川水系を結ぶ中継点になっています。木曽川や矢作川を直接抑える拠点と比較すれば重要度は一歩下がるものの、美濃や尾張の側から見れば、武田家の侵攻を一番最初に食い止めるべき前哨地点として、無視できない要所であることには間違いありません。

明知城には、光秀が学んだ学問所という伝承のある天神神社もあります。果たして明智光秀はどこで生まれ、どう育ったのか。負けたものの史料は時代の流れの中で意図的に失われていき、現在では想像にまかせる他ありません。(2011年8/31訪問)

ブロトピ:国内旅行

【茨城県常総市】平将門一族墳墓之地など関連史跡

 常総市にある平将門関連史跡を訪れました。

 まず平将門公本拠豊田館跡。現在はお寺の脇にちょっとした公園のような感じで整備されていて、モニュメントや説明板が設置されています。

 モニュメントは、将門が主人公となった1976年の大河ドラマ「風と雲と虹と」の放映から10年後に建てられたもののようです。

 平将門の父である平良将が豊田館を本拠としておりました。豊田館は、説明板によると、関東平野の中世城跡に多く見られるような、沼沢地の中に浮かぶ島のような要害であったようです。北方2kmほどのところには、南北朝時代に関東の南朝拠点だった関城や大宝城があります。

 将門の死後、当地は向石毛城として機能したもののようです。佐竹氏との戦いの中で没落していったようですね。

 地図を見ると鬼怒川の河岸段丘に築かれた要害のようですが、現在は宅地として開発が進んでおり、当時を偲ぶ手がかりは残されていません。

 豊田館跡から鬼怒川に沿って南に500mほど行ったところに、「平将門公赦免供養之碑」があります。

 もともとは別の場所にあったものを、鬼怒川河川工事の折に現地に移設したもののようです。

 案内板によると、鎌倉幕府第五代執権の北条時頼が執奏勅免を得て建てたもののようです。タイミングとしては親王将軍が誕生する翌年のことですが、関東の武家政権として将門に対して何か思うところがあったのでしょうか。動機についてはちょっとよく分からないところです。

 さらに鬼怒川沿いに南に行くと、将門の父良将の墓とされる古墳があります。上記の石碑はもともとこちらにあったもののようです。

 が、これはどう見ても前方後円墳で、良将の墳墓のわけがありません。

 とはいえ少なくとも古墳時代にはここまでヤマトの影響が及んでいたことは分かりますね。

 鬼怒川の河畔に近づくと、平将門公一族墳墓の地を示す石碑が建っています。

 堤防から一段下がったところに、石柱と案内パネルが建っています。

 もともとは将門の親族が葬られていたところで、将門本人が葬られているかどうかは伝説にすぎないもののようではあります。

 鬼怒川の堤防に上がると、はるか北のほうに筑波山が見えます。この地から見ると、ちょうど北極星が筑波山の上に見えるような感じになるのでしょうか。
 ちなみに写真を撮った地点のちょうど対岸が、2015年の台風で堤防が切れた地点に当たります。

 訪れた冬の日は、風と雲はあったものの、残念ながら虹は出ませんでした。(2020年2/27訪問)

【長野県上高井郡】小布施は、葛飾北斎と小林一茶と福島正則

長野県の小布施(おぶせ)に行ってきました。

長野駅から長野電鉄で約30分。町並みがとても美しく整備されていて、外国人観光客が非常に多い、インバウンドの町です。

観光の目玉は、まずはなんといっても葛飾北斎です。どれくらい北斎かというと、マンホールの蓋が以下のような感じ。神奈川沖浪裏の波濤ですね。

さて、メインは北斎館。このあたりの町並みは、本当に美しいです。外国人観光客でごったがえしております。さすが世界で最も名前が知られている日本人、葛飾北斎。

北斎は、80歳になってから、4度も小布施に通っています。パトロンの高井鴻山がいたというのが重要だったのでしょう。

北斎というと、一般的には浮世絵で有名です。しかし小布施時代には肉筆画を中心に活動していて、北斎館には貴重な作品がたくさん展示されています。
特に見物なのは、祭りの山車の天井に描かれた肉筆画です。龍と鳳凰、男波と女波、迫力満点で、実に見事です。この手の美術館で入館料1000円は、最初は多少高めに感じましたが、いやいや、ぜんぜん問題ありません。必見です。

そして北斎館から東へ2kmほど行ったところにあるのが、岩松院というお寺(曹洞宗)です。
ここが必見なのは、本堂の大間天井に、北斎の肉筆「八方睨み鳳凰図」が描かれているからです。

山を背負って、山門が構えています。
左右の仁王像が、なかなか愛嬌があります。

仁王様、八方睨みな感じ?

本堂入館料は300円。いやあ、大迫力の天井絵でした。89歳の筆になるものとは思えない迫力です。小布施に来たからには、絶対に寄るべきでしょう。

さて、岩松院には、他にも見所がたくさんあります。まずは福島正則霊廟。

福島正則は、広島藩改易後に信濃国高井野藩に国替えとなり、ここで波乱の生涯を閉じます。上の写真、石段を登ったところにあるのが霊廟です。

もう一つは、小林一茶の「やせ蛙まけるな一茶これにあり」の句で有名な、蛙が相撲をしていた池です。

一茶は文化13(西暦1816)年に岩松院を訪れ、例の句を詠んだということです。しかし最近は、小林一茶というと即座に精力絶倫を連想してしまうという…

さて、こんなふうに小布施に文化が花開いたのは、文化活動に熱心な大旦那たちがいたからです。そのなかでもきわめて重要なのが、高井鴻山です。町の中心部に記念館があります。入館料300円。

自らが文化人でもあった高井鴻山の書・詩・画が展示されています。見所は、愛嬌のある妖怪絵です。一つ目の妖怪がとてもかわいいです。

日本家屋にも入れ、二階にも上がれます。こぢんまりとしながらも、清潔感に溢れる、たいへん良い気分になる建物です。二階から見える景色が、実に「和」。

こういうパトロンたちが日本の文化を根底から支えていたことがよく分かる、たいへん良い博物館です。

小布施は、町の中も綺麗に整備されていて、とても気分が良くなるところです。小さくも丁寧に手入れされた庭園をいくつも回れます。路地の一つ一つの完成度が高いです。

美味しい栗のスイーツに舌鼓を打ちつつ、また訪れたいと思った、素敵な町でした。(2020年1/3訪問)

【熊本県人吉市】城下町も見所たくさん、夏目友人帳聖地とか

人吉城を堪能したあとは、城下町へ。こちらも見所がたくさんあります。

武家屋敷と「ぶけぐら」

「武家屋敷」と「ぶけぐら」は同じ建物で、城の西方にあります。西郷隆盛の顔出しパネルが建っているほうが「武家屋敷」の入口。

「ぶけぐら」は喫茶店なのですが。

店内には夏目友人帳の原画が展示されていたりします。人吉は夏目友人帳の舞台となっており、熱心なファンが聖地巡礼に訪れているようです。

なかなか落ち着いた店内です。名物の米焼酎アイスをいただき、猛暑を和らげるのでした。

隣接する「武家屋敷」は、かつての藩主の御仮屋を移築したものだそうです。なかなかユニークな形をしています。

藩主用の建物なので、2階に抜ける秘密の脱出ルートがあったりして、なかなかおもしろいです。

そしてこちらにも、夏目友人帳のグッズがたくさん展示されています。ここのご主人が作者と親戚だったりなんかするのだとか。

古民具などと夏目友人帳関連グッズが並んで、ちょっと不思議な空間になっています。

青井阿蘇神社

国宝に指定された建物を擁する、歴史ある神社です。城から見て、球磨川の反対川、西方に位置します。

楼門と本殿も国宝に指定されています。茅葺屋根に由緒を感じます。

祭神は、阿蘇神社に縁のある12柱のうちの3柱。どんな神話があるかは、不勉強にも知りません。すみません。

「文化苑」に入る途中の、「むすび回廊」も国宝に指定されています。

うーむ、国宝と思ってみれば、なんとなくありがたく感じる。

文化苑には、高山彦九郞(京都四条の土下座像の人と言ったほうが分かりやすい)も滞在したそうです。

願成寺と相良家墓地

城から見て球磨川の反対側、北東に、相良家墓地と、菩提寺の願成寺があります。

相良家初代当主から37代までの当主や、関係者の墓所になっています。

初代当主の墓は、めちゃめちゃ立派です。

人吉の「相良」は、静岡の相良(江戸時代に田沼意次所領になることで有名)に由来するのですね。

居並ぶ墓石の中には、石田三成の供養塔も混じっています。

相良家は当初西軍に属していたのですが、後に井伊直政や水野勝也(私の出身の刈谷藩の殿様だ)の誘いに乗って寝返ったとのこと。やはり寝覚めが悪いのか、その時に斬った武将と三成の6人の供養塔を立てたようです。

大村平家城

Googleマップに出ていたので、相良家墓所の裏山を登ってみる。

確かに曲輪のようでもあるけれど、公園として整備されすぎていて、なにも手がかりがないのであった。案内パネル等も一切なく、謎のまま下山。

老神神社

大手門からすぐ近くの神社。

祭神は、ニニギ、コノハナサクヤ、山幸彦、トヨタマヒメ、海幸彦、ホスセリノミコトとのこと。ニニギとコノハナサクヤはときどき見るけれど、海幸と山幸が一緒なのは、そんなにない気がします。どうなんでしょう。
また、コノハナサクヤから生まれるのに神話では兄弟と違ってまったく存在感のないホスセリノミコトが一緒に祀られているのが、興味深いところです。

本殿が茅葺き屋根で、なかなか趣深いです。

特急かわせみ

博多へは、特急かわせみで帰ります。

たいへんゴージャスな内装です。天井など、凄いことになっています。

車内販売カウンターもあって、お弁当やコーヒー、お土産を買うこともできます。

熊本の名産も展示。

窓に向かった席では、球磨川の流れを楽しみながらのんびりすることができます。

ということで、車内でよもぎ饅頭をいただきながら、人吉を離脱するのでありました。

ちなみに2日目に泊まったのは「翠嵐楼」で、三種類のお風呂が楽しめる素晴らしい旅館でした。球磨川の清流を眺めながら入る温泉は格別です。そしてロビーにはやはり夏目友人帳全巻が揃っているのでした。

(2019年7月訪問)