【要約】教育機会の平等を追及すると、実は個性の名のもとに不平等が可視化・正当化されるようになります。平等の基盤があって初めて比較・選別が可能になるからです。具体的に19世紀後半から20世紀初頭のアメリカで「知性平等主義」を掲げて教育を通じた社会平等の実現を目指した社会学者ウォードの来歴と思想、および20世紀初頭のハイスクールの展開を検討します。
独学で自分の人生を切り拓き学者となって職業的・経済的に成功したウォードは、人工的に階級が構成されている人間社会では自由放任の社会進化論は機能しないと批判し、階級間格差に関わらず知識を普遍的に普及させる教育介入こそが社会の平等を実現すると楽観的な見通しを示します。これは単にウォード個人の主張というより、共和国の建国理念と無償の公教育制度が整備されつつあった19世紀後半のアメリカ社会の現実を背景として人々の間に広く共有されていた価値観でした。しかしウォードは知性分布の階級間格差や人種・民族間格差は認めずに階級間の知識格差の是正を主張するものの、個人の能力格差についてはあっさりと認めます。
教育介入によって階級間の不平等を解決しつつ、一方で変化が目まぐるしい産業社会に必要な人材を選別・配分するべく、19世紀後半のアメリカでは、古典語学習を基礎として上級学校に進学することを前提としたエリート向け私立アカデミーから、様々な出自の子どもが同じ場所で学ぶ無償・公立のハイスクールへの転換が起きました。19世紀後半のハイスクールは教養主義的にすべての子どもに同じ知識を与えることで教育機会の平等を実現しようとしましたが、20世紀初頭には産業界の多様なニーズと児童中心主義の思想に応えて総合的なカリキュラムによる多様な教育を供給することで教育機会の平等を実現しようとしました。しかし個性を追求することは教育内部に競争と選別(しかも階級やエスニシティ差別に規定された)を生じさせ、教育機会平等(あるいは知性平等主義)の基盤を掘り崩しますが、教育はその矛盾を内部に抱え込んだまま「個性(あるいは自己実現)」というフロンティアに入り込み、終わりのない教育改革へと突き進みます。
【感想】とてもおもしろく読んだ。100年前のアメリカの教育について考えることがそのまま現代日本の教育の問題に直結するという、まあ本編で著者自身が何度も自画自賛しているけれど、構想力の勝利だ。
まあ、本来であれば近代教育における「平等主義」の来歴について考えるのであれば、「国民としての等質性」に基づいた「包摂と排除」という観点(つまりナショナリズム)を無視することはできない。本書にはその視点がひとかけらもないのだが、まあもちろん著者もその程度のことには気がついていて、おそらくあえてバッサリと切り捨てている(そしてアメリカが対象だと切り捨てやすい)ところで、私としても本書の論旨そのものに対して特にイチャモンをつけたいわけではない。とはいえ、自分自身が「平等主義」の来歴と未来を考える際には忘れてはならないというメモのようなものは残しておく。
ということで、本書は「国民国家」の観点を完全に排除した上で、「社会」の観点から近代教育が抱え込んだ「自由と平等」のアポリアに無自覚なこと(特に日本で)を滅多切りする。個人的には近代教育というものが本質的に抱えるアポリアを「自由でないものを自由にする営み」と表現しているわけだが、本書ではそれを森重雄の言う「誰でもないが誰にでもなれる」に代弁させておいて、「平等を追及すると不平等を正当化する」というアポリアの構造と、その無自覚さが生み出す悲喜劇を追及する。まあ、社会移動や階級間格差に対する鈍感さについては、仰る通りだったな、と思う。「個性」や「自己実現」を持ち上げてきた教育学界隈の無邪気さについてはしっかり反省する必要がある。
しかし同時に思うのは、確かに日本には無邪気な学歴信仰がある一方で、真面目なガリ勉を揶揄するヤンキー風立ち回りが喝采を浴びる、イギリスで言う「ハマータウンの野郎たち」的な文化も目立つことだ。そしてそういう反学歴的な空気はアメリカではアメフト・チアリーダー文化として開花し、アイザック・アシモフやブルーナーが苦々しく言及している。そういう無邪気で野蛮なヤンキー信仰は、教育学者たちが醸成したものではないだろう。こういう現象を教育の回路内で理解する(競争の冷却と退却への慰撫)か、それとも教育の手の届かない領域の問題と見る(学校教育の限界)かで、話はずいぶん違ってきそうだ。
【個人的な研究のための備忘録】個性
本書後半は「個性」と「自己実現」という概念が登場する背景を分析している。
「(前略)それまでのハイスクールの教育では、個性を主張する若者たちは、卒業せずに早期に学校を離れていた。それは、個性ある若者が間違っているからではなく、その個性に合わせることのできない学校が間違っているからだ。それとは対照的に、「子ども中心」の教育は、個性を尊重し、個性を豊かにする。そこにおいて尊重され、育まれる個性ある個人に、「共和国」の命運をゆだねることができる。こうした学校をホールは「理想の学校教育」と考えたのである。」246頁
ホール原文「とりわけ、学校において個性(individuality)というものに、共和国という政府の形態にマッチするあらゆる権利を与えるだろう」245頁、原文傍点
ホール原文「個性individualityには、これまでよりもずっと長いもやい綱が必要である。」247頁
まあ、なるほどなあというところだ。
個人的に「個性」概念の立ち上がりを見極めるべく研究を進めていて、ルネサンスや啓蒙主義には見当たらず、さしあたってロマン主義が源流だろうと検討をつけているわけだが、なるほどアメリカで突然変異している可能性も高い。
「「何にでもなれる自分」の起点となる自己のとらえ返しの中で、そうした自己=個性をいかに育むかという課題をも、学校は担うようになった。すでにホールの時代から、個性ある個人を自立した個人と見立て、個性の発見・伸長を学校の主要な役割としていったのである。その結果、教育機会の平等も、一人一人の個性に見合った教育の提供という意味に変容していった。」306頁
誰もが必ず「夢」を持たなければいけないというドリハラの起源である。「個人の内面を発見した」というより、「個人の内面を捏造する」のほうがより正確か。フーコーは教会による告白制度が個人の内面を捏造したと言ったが、近代学校は作文や進路指導によって内面を捏造するということかもしれない。