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【要約と感想】芹沢俊介『「いじめ」が終わるとき』

【要約】反復継続的な暴力である「いじめ」は、反復継続的に通うことを強制する「学校」という場が引き起こしています。「ひとり」であることに耐えられない子供たちは、特定の一人を標的として分離することで、集団の一員であることに安住します。特定対象への執拗な暴力は、自分が「みんな」の側にいることを固定するために反復継続されます。であるなら、いじめが終わるのは、「みんな」という帰属性を求めず、「ひとり」でいられる力を持ったときでしょう。

【感想】命の危険を感じるくらいなら、学校なんか行かなくていい。そう大きな声で言えるようになったのは、そんな昔の話ではない。著者のような人たちが真剣にいじめ問題に取り組んでいるなかで、そういう認識ができあがっていった。

そもそも「学校」という組織は、産業革命の進行に伴って必要となった「過渡的な形態の組織」である可能性が高く、人間の成長にとって不可欠な役割を果たすかどうかは、極めて怪しい。「教育」が必要かもしれないとして、その役割を「学校」が一元的に独占するのは絶対に避けられないことなのかどうか。あんな狭い空間に人間が何十人も強制的に集められ、毎日顔を合わせることになったら、子供だろうがなんだろうが、万人の万人に対する闘争が勃発し、ある種のリバイアサンが誕生するのは不可避だろう。
いじめが発生するたびに、「学校なんか解散してしまえばいい」と思ってしまう自分がいるが、本書はその気持ちを半分だけ代弁してくれる。いじめをなくそうと思ったら、学校を解散するのがいちばん簡単だ。

もう半分は、それでも学校は必要だという、ある種の感覚。民主主義的な精神を涵養する教育を考えたときに、民間経営の塾ではダメだろうという直感。実は、民主主義的な精神を育てるというのは、「いじめ」が不可避的に発生するような場を敢えて作り、子供をその環境に強制的に閉じ込めた上で、万人の万人に対する闘争を意図的に発生させ、子供の人間関係調整能力を発達させようという、ものすごい過酷な試練なのではないか。

そういう意味でいうと、民主主義的精神を育てようと意図的に構成された学校では、実は必然的にいじめ発生に直面するリスクが高くなる。デモクラシーという目的が放棄されない限り、構造的に「いじめ」を終わらせることは不可能だろう。しかしそのリスクを低めることはできる。リスクを低めるための技術を蓄積することはできる。教師にできることは、その技術を多面的に活用し、万人の万人に対する闘争からリバイアサンを生み出すのではなく、「一般意志」を作り上げることなんだろうと思う。

芹沢俊介『「いじめ」が終わるとき-根本的解決への提言』彩流社、2007年

【要約と感想】加野芳正『なぜ、人は平気で「いじめ」をするのか?』

【要約】日本型いじめの根本的な原因は、集団主義的な社会構造が壊れたにもかかわらず、それに替わる道徳モデルとなるべき個人主義が未成熟な点にあります。「いじめをゼロ」にとか「みんな仲良く」のような思考停止したスローガンでは現実は変わりません。子ども同士の人間関係を本質的に考えることで、いじめを克服する根本的な力を育てることが大事です。

【感想】マスコミが流すいじめ報道には、しばしば「学校や教師や教育委員会を槍玉に挙げておけ」というような、視聴者が喜ぶだけのストーリーに構成するという、いい加減なところがある。で、学生たちの理解を見ていると、ほとんどがマスコミ報道を鵜呑みにしている。そしてそういう誤解を自分の都合のいい教育制度を作るために利用する人たちがいるという。

いじめを受けて苦しんでいる子供を全力で守るのが教師の重要な役割であることはいいとして。でもそれは、いじめをなくすこととは違う。いじめを受けている子も、いじめをしている子も、どうしたら人間的に成長できるかという、もっと本質的な教育学的問題が忘れられてはいけない。そういうことを改めて考えさせてくれるし、読みやすい。「友達なんかいなくていい」と言い切ってくれる教育本は、なかなか少ないような気がする。教師や学生向けには、良い本じゃないかな。

加野芳正『なぜ、人は平気で「いじめ」をするのか?―透明な暴力と向き合うために』日本図書センター、2011年