「日々随想」カテゴリーアーカイブ

覚え書き:第2回パーソナリティ心理学会コロキウム2「道徳×パーソナリティ」

日本パーソナリティ心理学会主催のコロキウム「道徳×パーソナリティ」(2018年3/30、於東京家政大学)に、教育学代表の話題提供者として出席してきました。以下、ごく簡単な覚え書きとして、私が抱いた感想について記します。

認知発達と進化心理学の観点

話題提供として、私が教育学代表で「教育学における人格概念」についてレポートした他、藤澤文先生(鎌倉女子大学)が認知発達の観点から、川本哲也先生(東京大学)が進化心理学の観点から報告を行いました。

認知発達の点で印象に残ったのは、教員養成における道徳教育の授業に心理学の成果がほとんど反映されていないという現実でした。道徳教育の教科書にはピアジェやコールバーグの発達段階理論は載っているものの、それ以降の心理学領域での発展は反映されません。特に認知科学の領域はめざましい成果を挙げているように思うのですが、道徳教育の実践に反映されないのはとても勿体ないと思います。
まあ、実際に大学の教員養成課程で道徳教育の授業を心理学理論の専門家が担当することは滅多になく、多くの大学で退職校長先生など実務経験者が担当しているという現実においては、最新の心理学の成果は浸透しにくいだろうとは思いますけれども。とはいえ、文部科学省が道徳教育を変えるんだと旗を振っているにも関わらず、しかし大学の授業の中身に最新の心理学や認知科学の成果が反映されていかない現実を見ると、教員養成制度の在り方についていろいろ考えさせられます。
と言いつつ、私自身の認知発達に関する知識だって、ピアジェ、ワロン、ヴィゴツキーあたりで止まっているんですけれども。私自身の勉強不足を認識・反省し、知識をアップデートする必要を切実に感じる良い契機となりました。21世紀スキルについて批判的に理解するためにも、最新の認知発達理論の要所を押さえておく必要があります。勉強しろよ>俺。

それから進化心理学については、25年ほど前に読んだ竹内久美子の本のデタラメさ加減のせいで悪い印象しかなかったわけですが、今回の話題提供を受けて冷静に考えてみれば、デタラメなのは竹内久美子であって、進化心理学そのものはしっかりした学問であるという当たり前のことが分かります。進化心理学が挙げる諸成果は、他の学問からはなかなか出てこないだろうものが多くて、新鮮で興味深いです。とはいえ、Eテレでやっていたダイアモンド博士シリーズ等を見て思ったことですが、進化論から演繹された人間論の体系は、人文科学に携わる者としては素直に受け取れないということは否定しません。以下、川本先生個人に対する批判ではなくて、一般論であることを前置きしまして。生物学の成果を人間論にまで演繹するとして、人間の行動のどこまでを「動物」の範囲で理解し、どこからを「文化」の領域として理解するか、その境界線についての原理的・方法論的な反省が欠けているときには、出てきた成果を「人間論」として全面的に受け入れることには懐疑的でありたいと思っています。この境界線について生物学者が原理的・方法論的に反省を加えている極めて素晴らしい例は、ポルトマン『人間はどこまで動物か』に見られると思っています。(えっと、川本先生に反省が欠けていると言っているわけではなく、あくまで一般論であることについては、繰返し強調しておきますよ。)
その上で、道徳教育がパーソナリティの変容に影響を与えないだろうという進化心理学の成果は、現実の教育に何らかの形で反映していっていいだろうと思います。カリキュラム全体の構想や学校運営の在り方に対して抜本的な反省を加えるための良い素材になると思います。道徳教育なんかやっても何も意味がないという意見は、一部の教育学者や教育関係者などによって昔から現在にかけて途切れることなく主張されてますけれども(それこそ福沢諭吉あたりから)、科学的な根拠があるかないかで説得力はまるで違ってきます。

私の報告についての補足

私は、教育学がどのように「人格」概念とか「人格の完成」を扱ってきたかについて報告しました。パーソナリティ心理学との違いを際立たせようという意図もあって、「人格」の本質は「自由」であり、かつ「個性」と対立するような普遍的概念だとする見解を強調しました。

ただ、いちおう補足しておくと、『教育実践要領』や『期待される人間像』に見られるような、「人格」の本質を「自由」であると強調するような表現は、社会主義に対する警戒心と対抗意識を背景として登場したものであって、実は価値中立的な態度ではないだろうと思います。教育基本法制定に深く関わった田中耕太郎も共産主義に対して露骨な嫌悪を表明しており、「自由」を強調すること自体が実はイデオロギー的な態度であったことは、時代の背景として踏まえておく必要があると思います。(そしてそのイデオロギー性の指摘は、1980年代以降の新自由主義が強調する「自由と自己責任」論にもそのまま当てはまるわけですが)。まあ、「自由」を強調する発言者の意図がイデオロギーに染まっていることが「自由」そのものの価値を損ねるわけではありませんけれども、テキスト読解の際には少々引いた地点から眺める必要があります。ある文書を時代の文脈から切り離して価値中立的なテキストとして理解することには常に危険が伴うわけで、それは教育基本法の「人格の完成」も逃れられない、テキスト解釈の一般論ではあります。教育基本法の「人格の完成」という文言は、その時代の政治・社会・経済・思想的背景の中において、田中耕太郎という個人の想いが込められた、極めて個性的な表現だと思っています。「人格の完成」という文言を金科玉条の如く無批判に受け入れることに対しては、懐疑的であるべきだと思います。あるいは、現代において「人格の完成」という言葉を錦の御旗の如く使用している文章を見つけたら、内容はかなり怪しい主張になっているはずなので、眉に唾をつけて読むべきだと思います。

フロアからの質問にありました、「人格」という言葉ではなく「人間性」という言葉のほうがより適切だったのではないかという指摘は、田中耕太郎という個人の思想を読み解く上で極めて有効な切り口になります。なぜ田中耕太郎は「人間性」という言葉ではなく「人格」という言葉にこだわったのかを掘り下げていくと、教育基本法の言う「人格の完成」が本当に狙っていたものがかなり明瞭に見えてきます。彼は、立法・行政・司法の三権分立に「教育」を加えて四権分立にしようとする理念というか野心というか見通しを持っていました。独立した力としての「教権」を確立する上で、「人格の完成」という言葉は極めて重要な役割を果たすことが期待されているはずです。そしてそこで言われる「人格」とは、パーソナリティ心理学が扱うパーソナリティとは似ても似つかないものであることが見えるでしょうし、そして似せる必要がそもそもないものであることも見えてくるだろうと思います。それは客観的で中立的で科学的な言葉ではなく、国家体制に関わってくることが期待されている言葉です。そういう意味では、「人間性」という言葉のほうが価値中立的でありそうだという見解は、まさにその通りであると思います。

そんなわけで、私の報告は、教育学で言う「人格」が、パーソナリティ心理学の言う「パーソナリティ」とは全然違っていることを強調しましたけれども、それは「教育学のほうが正統なんだから、こっちに合わせろ!」と主張したいわけではありません。むしろ教育学で言う「人格」は時代背景やイデオロギーに規定されて登場してきたものであって、けっして価値中立的なものではなかったことを併せて示そうという意図を込めていたつもりです。上手に説明できたかどうかは、心許なくて、恐縮であります。

国家主義的な価値から社会経済的な価値へ

というわけで、3人の話題提供の範囲はそうとう広がって、指定討論者の渡邊先生がどうまとめるか大変だなあと思っていたら、鮮やかなお手並みで、びっくりしました。全体的にたいへん示唆的な内容でしたが、中でも特に印象に残ったのは、「パーソナリティの価値化:非認知能力の浮上」と「徳性から能力へ:国家主義的な価値から社会経済的な価値へ」というお話しでした。

「パーソナリティの価値化」という点については、当然、企業で使える人材イメージの変化が背景にあるわけです。単に勉強ができるだけの人間が会社で使えないことに多くの人が気がついて、使えるか使えないかは頭がいいかどうかに加えてパーソナリティの在り方にポイントがあると考えられるようになりました。となると、これまでの教育では社会に有能な人材を送り出すために「知能の測定」の確度を上げていけばよかったのが、これからは「パーソナリティの測定」の確度を上げていかなければならなくなったわけです。企業で役に立つ人材を送り出すために、教育では知能や学力の測定に加えてパーソナリティの正確な測定が切実に求められるようになり、それに伴って、パーソナリティ心理学に大きな期待がかかるようになります。企業が求める人材の変化は、文部科学省が言う「学力」の定義の変化にも反映してきています。かつての「学力」は勉強ができるかどうかだけを問題にしていましたが、1990年代以降の「新学力観」は「関心・意欲・態度」というパーソナリティ領域に踏み出しています。この教育の世界で進行した「学力の定義の変化」と、渡邊先生が指摘した「パーソナリティの価値化」は、同じ根っこを持っているように思います。

それから、心理学におけるパーソナリティの意味はもともと法学や教育学と変わりなかったのが、1930年代アメリカの社会経済的な背景でオールポートやキャッテルから変わっていったという指摘も示唆的でした。個人的には、1920年代(30年代じゃなくて)アメリカの社会経済的背景と1960年代日本の社会経済的背景はかなり似ているように思っています。で、教育学における「人格」概念も、高度経済成長後に大きく変化しているのではないかという気がしています。たとえば話題提供でも示した中央教育審議会「期待される人間像」は1966年に出たものですが、ここで示された国家主義的な「人格=自由」観は60年代後半に急速に萎んで、70年代以降は社会経済的な価値へと装いを変えていくように見えます。直感的な感想で、まったく実証的な根拠はありませんけれども。とはいえ、1930年代アメリカの変化と60年代日本の変化の類似を考えることは、何かしらの示唆を与えてくれそうな予感はします。

また、「パーソナリティのリアリティ」という言葉は、なかなか含蓄が深いなあと思って聞きました。「パーソンのリアル」という次元ではなく、「パーソナリティのリアリティ」という次元を扱っているという自覚と、その領域を豊かにすることの意味を考えることが、これからますます重要になるのではないかと。
教育の領域に我田引水すれば、「教育をする」ということに執着するのではなく「教育的である」ことの現実的な意味を考えることの重要性と言いかえることができるかもしれません。道徳教育に関しても、子供に対して道徳教育を施す方法や効果について云々するのではなく、大人自身が「道徳的である」ことの現実的な意味を考える重要性、と言いかえられるかもしれません。

AIによるパーソナリティ予測

せっかくなので、コロキウム3「AI×パーソナリティ」で紹介された「文章によるパーソナリティ予測」をしてくれるサイトに上の文章を入力してみたところ、以下のような結果が出力されてきました。なるほど。

自己主張が強く、協調性が低いのだった。ははは。
これ、実はパーソナリティ診断に使えるだけでなく、文章そのものが人に与える印象を客観的に自己点検するためにも有用なシステムなのではないかと思えてきました。たとえば「この文章、自己増進も変化許容性も弱いのか」って気づきのために使うとか。論文を書いたらちょっと使ってみることにしよう…。

八重洲とディズニーシーの桜

今日は大学の卒業記念パーティーで、ディズニーシーの会場に行き、ミッキーたちと写真を撮ってきました。卒業論文で一人の面倒を見ただけでしたけれども、無事に卒業できて、なかなか感慨深いものがあります。

途中で東京駅を経由するので付近を散歩していたら、八重洲口の桜は既に八分咲きくらいになっていました。

東京駅八重洲口から日本橋二丁目方面を臨むの図。

そしてディズニーシーも、比較的温かいからか、既に3~4分咲きになっていました。

東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ入口付近に咲いた桜の図。

異国情緒の雰囲気の中で咲く桜の花も、綺麗でした。もうすぐ満開ですね。(天気予報では明日から雨が3日続くけれども)

【感想】青年劇場「きみはいくさに征ったけれど」

青年劇場の演劇「きみはいくさに征ったけれど」を観てきました。とても良かったです。

タイトルにある「いくさ」の話がテーマの演劇と思い込んで劇場に入ったけれども、実際のテーマは、現代の若者が抱える様々な葛藤でした。家族関係や学校や進路の問題に直面して「生きる意味」について悩み、多様な人間関係の中で成長していく若者の姿が、真正面から描かれていました。

教育学に関わる者としては、「いじめ」の描かれかたにも注意を惹かれました。主人公の若者は、いじめに遭っていることを家族に訴えることができないのですが、その描かれかたが繊細で丁寧であったように思います。他人の心を思いやる力があり、相手の立場になって考えることができる人間だからこそ、いじめに遭っていることを打ち明けられないという。勇気がないとか、そういう問題じゃないんですね。周りの大人がどうサポートしてあげられるかが極めて重要であるように思いました。

で、周りの大人の代表である先生の描かれ方には、なかなか切ないものがありました。最初に出てきたときは、形式主義的で権威主義的な、単にテンプレの嫌な奴という感じでした。が、中盤以降では血の通った人間として描かれており、見終わった後となっては、いちばん意外なキャラクターとして印象に残りました。先生の人格が丁寧に描かれていたからこそ、主人公の優しさも説得力あるものになっていたように思います。
情熱と理想に溢れていた彼でしたが、臨時任用を6年も続けている間、だんだん知らず知らずのうちに熱意が削れていき、最終的にはいじめを見逃す事なかれ的な対応に終わります。彼本人の資質や能力の問題ではなく、本来持っていたはずの情熱と理想を削り落としてしまうシステムの問題だったわけです。彼が臨時任用を6年も続けているという設定を鑑みて、情熱と理想が削り落とされていく過程がリアルに分かってしまうだけに、とても切ない思いで観ていました。彼が単なる悪者で終わらず、立ち直るきっかけを掴むことができて、本当に良かったです。

幽霊として登場した詩人・竹内浩三のキャラクターは、たいへん魅力的でした。人気があるのもよく分かります。彼のキャラクターが明るくて前向きで、お芝居全体の雰囲気を底から支えてくれるおかげで、深刻になりそうなテーマにも関わらず楽しく観られました。実際に彼の詩を読んでみようと思いました。

見終わった後も、余韻が残るいい演劇でした。ぜひ若い人たちにも観て欲しいと思います。(東京公演自体は明日で終了ですが、各地を回ることになると思います。)

A級順位戦と将棋界の一番長い日

3/2は、将棋の名人戦A級順位戦の最終戦。将棋界の一番長い日でした。
で、衝撃の結果となりました。トップを走っていた豊島八段と久保王将が負け、追っていた3人が全員勝ち、抜け番だった羽生竜王に勝ち星が並んで、史上最大の6人によるプレーオフとなったのです。フィクションでもやらないような胸熱の展開に、びっくりです。
久保王将は終盤でそこそこ指しやすい局面があったように思ったけど、角切りが悪手だったのかな? そこはさすが藤井くんも負かした深浦九段の粘りが凄かったということでしょうか。久保王将が勝っていたら、2002年以来史上2回目の非眼鏡棋士同士での名人戦ということでヒヤヒヤしましたが、まずは阻止されて個人的には良かったです。まあ、まだ久保王将の挑戦の目は残っていますが。
ともかく、6人によるパラマス式プレーオフ、とても楽しみです。個人的には豊島八段の5人抜きが見てみたいけれども、羽生竜王の挑戦になるのも熱い展開です。どうなるにしても、とても楽しみです。

それから、三浦九段の残留と渡辺棋王の降格も印象的でした。三浦九段の攻めを、渡辺棋王が角を上手に使っていったんは切らしたように見えたんですけども。
渡辺棋王は、自分が負けても深浦九段が負ければ残留だったのですが、深浦九段は見事に久保王将に粘りの逆転勝ちを収めたんですね。最終日に三浦九段と渡辺棋王の直接対決が組まれているというのは、なかなかの因縁でした。久保王将と深浦九段も因縁に絡んでいることもあって、なかなか味わい深い結果となりました。

藤井くんの大躍進に始まって、A級順位戦での史上最大のプレーオフになるという、将棋界にとって実にエキサイティングな年度になっております。名人戦がどうなるか、今からとても楽しみです。
やっぱり人間がやるから将棋はおもしろいですね。

日本保育学会「関東地区研究集会」の個人的まとめ

2018年2/11にお茶の水女子大学で行われた日本保育学会「関東地区研究集会」に行ってきました。汐見稔幸先生の講演を聞きましたが、保育だけに限らず、新学習指導要領の背景を理解する上でも有益な内容だったと思うので、私が理解したことを書き留めます。

法令の改定を、世界史的な流れで理解する

研究集会のテーマは、「保育所保育指針」「幼稚園教育要領」「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」(以下、三法令)の改訂に関してでした。そして汐見先生の話は、会場が期待していたような(?)具体的な保育実践に関わるものではなく、抽象的な理論の話でした。が、抽象的な理論の話でなければならなかった本質的な理由があったと思います。三法令改定の意味は、お上が命令するから逐条解釈するのだという姿勢では理解できず、世界史的な背景を踏まえて理解しなければならないというわけです。

この「世界史的な流れ」というのは、具体的には「20世紀型の教育から21世紀型教育へ」という動きです。この大きな流れを把握しておかないと、三法令の改定の意味がわからないということです。そして、この「20世紀型の教育から21世紀型教育へ」という世界史的動向は、いったん「19世紀型教育から20世紀型教育への転換」を振り返ると、分かりやすくなります。この19世紀型から20世紀型への教育の転換のことを、教育史では「新教育運動」と呼んでいます。

新教育運動:19世紀型教育から20世紀型教育へ

新教育運動を推進した人物として、教科書にはデューイ、キルパトリック、モンテッソーリといった名前が登場します。それぞれ個性的な教育を展開しましたが、古典的な教育とは異なる観点が共通して6点ほど挙げられます。
(1)子ども中心主義:興味関心をベースに
(2)活動主義:なすことによって学ぶ
(3)生活主義:生活の充実を目標とし、生活の中で豊かに学ぶ
(4)ホーリズム:人格全体、特に感情や自我の育ちを重視
(5)性善説・向善説:プロテスタンティズムの子ども観を転換
(6)民主主義の担い手育て:自分で自分を統治する教育

しかしこうした新教育運動の試みは、教養中心で主知主義的な19世紀型教育からは疑惑の目で見られることになります。20世紀の教育は、新教育と詰め込み教育が葛藤する100年となります。

20世紀教育の展開と限界

実際の20世紀の教育は、新教育が目指したものにはなりませんでした。現実には、産業化や工業化に必要な人材を大量に養成する教育となりました。産業至上主義に対応して選抜システムが洗練され、知能指数や学歴が信仰されるようになり、主知主義的で知識中心主義の教育が蔓延し、企業の中で駒として有能に働く能力の育成が追求されることになります。
こうした資本主義に適合する教育に対抗して、マカレンコ等の共産主義的教育が登場しましたが、それは結局は全体を優先する集団主義教育に過ぎませんでした。資本主義教育と共産主義教育の対立は、全体を優先して「個」を犠牲にするという意味では、結局は主知主義内での争いに過ぎませんでした。

しかし、20世紀後半に至り、こうした教育の限界が認識されるようになります。たとえば現在では、民間企業が率先して20世紀型教育を批判しています。20世紀型教育は指示された作業をこなす能力や枠に縛られたノウハウを育てることはできるものの、それ以上の価値を創造する力が弱く、民間から不満が噴出しています。国民の側も、不登校やいじめ、失業問題や環境問題等、教育が機能不全を起こしていることに不満を表明しています。同時に、情報機器の発展等によって学校以外の様々な教育機関が進展し、学校の相対的位置が低下しています。

こうして、20世紀型教育の限界が認識され、21世紀型教育への転換が叫ばれるようになっているわけです。

21世紀を見通したときに出てくる課題

さて、21世紀型教育が必要となるのは、これまでの教育では対応できないような課題に人類が直面しているからです。新たな課題は、主に3つあります。
(1)解決策がまだ見つかっていないが、解決していかないと地球自体がもたないという深刻な問題を解決するための力の養成。
(2)価値観の多様化と地球規模で人々が交流する時代にふさわしい知性の涵養。
(3)AI、ロボット、コンピュータがあらゆる生活に入り込んで情報処理をしてしまう社会での人間らしさの涵養。

これらに加えて、日本特有の課題もあります。
(1)日本の教育は、「個の充実」、特に「主体であること」の自覚と能力育成が弱く、組織の一員になるための教育へと偏っている。
(2)市民になる力の涵養、民主主義の担い手としての自覚とその力の教育の弱く、シティズンシップ教育が不足している。

20世紀教育の限界を突破する方策

こうした限界を突破するために、3つの方策が考えられます。
(1)すでに20世紀初頭に議論し実践してきた新教育運動の知恵からもう一度学び、必要な修正をしながら課題に対応する。
(2)この100年の実践、生活主義を引き継いで発展させる。
(3)シティズンシップ教育など新たな課題に対応する。

方策(1)新教育運動の知恵

倉橋惣三らが世界新教育運動から学び取った知恵を、もう一度振り返ってみると、それらが21世紀的教育が求める「非認知能力」や「社会情動的スキル」と通じていることに気がつきます。新教育運動の人格主義的性格は、感情・意志・主体性等の育てを重視しており、これは21世紀教育が追求する「心情、意欲、態度」とリンクしています。社会情動的スキルという考えには、心理学や社会心理学における情動研究の進展が反映しており、これがアタッチメントの再評価に繋がってきています。これらが、三法令改定における「資質・能力」という概念に反映しています。
三法令が言う「資質・能力」という概念は、倉橋惣三の仕事をしっかり振り返ることで、明確になっていきます。倉橋の仕事を学び直し、引き継いで、必要な修正を施しながら発展させていくことが、21世紀型教育の確立に結びつきます。

方策(2)生活主義の引き継ぎ

生活の中で学ぶという考えを精緻にしたのはデューイで、それを日本に紹介したのは宮原誠一の仕事です。倉橋惣三が言う「生活を、生活で、生活へ」も、この考えに共鳴しています。

「生活」とは英語では「life」ですが、「life」とは「生命」でもあり「日々の営み」でもあり「人生」でもあり、それらを串刺しにした概念です。人間は生活=いのちの営みを充実させることで必要な文化を身につけ、教育はそれを手伝い、ときには少しコントロールし、社会に必要な市民として子供を育てる営みと言えます。

生活主義の根底には、子供は自ら育っていこうとする存在だという子ども観があります。それを宮原は「形成」という独特の言葉で総称しました。一方で「教育」のことを、「形成」への関わりであり、その首尾良い具体化のための援助であると定義しました。現代の日本では、形成を具体化するための援助のことを「環境づくり」と呼んで、環境を通じた教育を目指しています。倉橋惣三が言う「保育の四層構造=自己充実、充実指導、誘導保育、教導保育」も同じことを言っているわけです。

方針(3)シティズンシップ教育

新たな教育課題として特に市民教育が挙げられますが、具体的な実現を目指して導入されたのが総合教育でした。前回の学習指導要領改訂では総合教育が後退したように見えますが、今回の改訂は総合教育の再登場であり、さらに言えば乳幼児期からの開始という特徴があります。乳幼児期教育は、シティズンシップ教育という観点から小学校以降の総合教育と結びついていくことで大きな意義を発揮すると言えます。

総合教育を成功させるためには、教育の3つの層の統合を考えなければいけません。すなわち(1)個別知(2)実践知(3)人格知の統合されたものです。この統合を目指すために必要となるのが、「主体的・対話的で深い学び」というものです。これを単に「教える方法」だけに矮小化せず、「目的」そのものであることを理解する必要があります。

保育学会の役割

というわけで、保育という営みを、生涯にわたる教育という大きな枠の中に積極的に位置づけていくことが重要になってきます。保育とは乳幼児教育学に他なりません。この大きな背景を見失っては、具体的な保育の方針も見えてきません。
こういう観点を得ると、たとえば保育の五領域についても考え直していく必要が見えてきます。たとえば具体的には、ニュージーランドの教育指針「テファリキ」等と比較したとき、日本の五領域には将来の市民を育成していくという視点が弱いのではないかと思われます。生涯にわたる学習という視点が乏しいということでしょう。

学会は、そうしたことを議論していく場です。ラディカルな議論をしていきましょう。

そんなわけで、単に三法令の逐条理解なんかしても大した意味はありません。改訂の背景にある時代の流れを大きな観点から理解していかなくてはいけません。その理解を促進するためには、20世紀の新教育が目指したものを振り返って学び直すことが極めて重要になってくるわけです。

個人的感想

学習指導要領本文には、20世紀初頭の新教育運動について振り返るような記述はまったくありません。あるいは、宮原誠一や倉橋惣三が行った仕事をリスペクトしているような記述もまったくありません。だから、学習指導要領だけ読むと、先哲の仕事をいったいどう考えているのか、何を引き継ぎ何を発展させるかという問題意識があるのかどうか、たいへん不安になるわけです。
が、汐見先生の話を聞く限りでは、先哲の仕事を十分に踏まえ、その重要性を理解した上で、さらに新たな課題を見据えて修正し、学習指導要領なり保育所保育指針が構成されているだろうことが伺えます。逆に言えば、こういう話がなければ、学習指導要領や保育所保育指針が本当に何を目指しているかは見えてこないように思います。そういう意味で、この講演の内容は、逐条解説なんかよりも、はるかに本質的な理解に繋がる内容だったと思います。

(以上、あくまでも私が講演を聴いて理解し考えたことを私の観点からまとめたものであって、誤解があった場合は汐見先生の責任でないことは書き添えておきます。)