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教育の基礎理論-1

▼短大栄養科 9/18

授業の目的

・本講義は教員免許(栄養教諭)取得に関わる授業であり、特に「教育の理念並びに教育に関する歴史及び思想」と「教育に関する社会的、制度的又は経営的事項」と「児童及び生徒の心身の発達及び学習の過程」について扱います。
・教育の理念と、代表的な思想家について理解しよう。
・「子ども」に対する見方の変遷について理解しよう。
・「発達」に関する理論について理解しよう。
・「学校」の存在意義について理解しよう。
・様々な学習理論の基礎を理解しよう。
・「公教育」の成立過程と意義について理解しよう。
・「教育基本法」の理念を理解しよう。
・「学校教育法」の理念と学校制度の仕組みを理解しよう。
・教育行政の仕組みと「教育委員会」の意義について理解しよう。

評価

・期末テストと提出課題(全2回予定)によって評価します。テストには、スマートフォンや電子辞書等も含めて、あらゆるものが持ち込み可です。
・出席が足りなかった者には受験を認めません。
・出席はmanabaシステムを利用します。スマホを忘れたものは、紙媒体で出席を取るので、授業後すぐに申し出てください。

教育って何ですか?

・そもそも「教育」とは何でしょうか?
・「知識」とは、先生から生徒へ一方的に与えられるものでしょうか?

教育って何ですか? 東洋古代篇

・私たちが考える「教育」は実はつい最近になってから始まったものであって、昔はまったく違う営みが行われていました。

・そもそも「育」とは何を意味している漢字でしょうか。
・そもそも「教」とは何を意味している漢字でしょうか。

※「教」と「育」という漢字が持つイメージが、大きく離れていることに注意しましょう。そもそも「教」と「育」がつながって「教育」と呼ばれる言葉は、江戸時代までは一般的に使われるものではありませんでした。(例外=『孟子』)。「教育」という言葉は、明治時代になってから、educationの翻訳語として普及することになります。
→孔子の思想:儒教・『論語』

教育って何ですか? 西洋古代篇

・教育とは、先生から生徒に「知識」を授けるものではありません。
・ソクラテスの思想:無知の知産婆術
※無知の知:「知らない」ということを知っている。
※産婆術:対話相手の内部に眠っている知恵を出産させる技術。
→教育とは、自覚していない知恵や才能を引き出す技術です。

復習

・「教育」とは何かについて、古代東洋と古代西洋の考え方を踏まえて、自分のこれまでの常識を捉え直そう。

予習

・自分が「子供」なのか「大人」なのか、考えよう。
・どうしてそう考えたのか、判断の根拠や理由についてもまとめておこう。

【要約と感想】堀江剛著・中岡成文監修『ソクラティク・ダイアローグ 対話の哲学に向けて』

【要約】現場の役に立つ哲学を考えると、それはほぼ「対話」と同じものになります。とはいえ、もちろんただ漫然と話すのではなく、参加者にとって意義のある結果をもたらすために、練り上げられた技法を伴った対話です。そのモデルとなるのは、古代ギリシアの哲学者ソクラテスの実践です。
練り上げられてきた対話のルールとして、本や他人から仕入れた知識ではなく自分の経験に基づいた話だけをする、簡潔に話す、文章として記録する、全員が参加する、誰も置き去りにしない、対話のルールに対する見当の時間も設ける、等々があります。

【感想】新しい学習指導要領では、アクティブ・ラーニングという言葉が消えて、代わりに「主体的・対話的で深い学び」という言葉が踊っている。表面的に言葉が変わっただけではなく、そこそこ中身も変わっている。そんなわけで、教育における「対話」について改めて考え直す機運が(個人的に)高まっている。実際に対話に関する論文も書いてみたり。そういう流れで、「対話の哲学」というタイトルを冠する本書を手に取ったわけだ。残念ながら締切り後の発行のため、自分の論文に参照することはできなかったけれども。

で、事前に予想していた内容とはずいぶん違っていた。そして、とても興味深く読んだ。まあ、これがタイトル買いの醍醐味ではある。

事前に予想していたのは、ソクラテス対話篇のテキストに即して対話の技法を抽出し、実践を再構成するんだろうなという程度だったけど。実際は、対話の論理を具体的かつ実践的に考え抜いた上で、試行錯誤の過程を経て鍛え上げられてきた技術の集成だった。そして現在の技術水準は、本書の報告を見る限り、ソクラテスが実践した哲学的問答法の核心にそうとう近づいているように思う。実践の裏付けが着実に積み重ねられてきていることも、説得力を強烈に担保している。
思わず自分も真似してみようかな、などと思ってしまった。

個人的な研究のための備忘録

ソクラティク・ダイアローグの創始者ネルゾンが言う「教育のパラドクス」の解きほぐし方は、なるほど、一つの知見であると思った。私なんかは教育のパラドクスに居直ってきた類の人間なわけだけど、このパラドクスに真摯に向き合う姿勢は、いやはや、なんだか格好いい。

【教育のパラドクスを踏まえて技法を練り上げる】
「まずネルゾンは言う。ソクラテス的方法とは、哲学ではなく「哲学することを教える」技法であり、哲学に関する授業ではなく「生徒を哲学するようにさせる」技法である。(中略)
哲学的方法が目ざすのは「原理へと遡る」作業を安全・確実にすることである。(中略)
では「原理へと遡る」作業を、どのようにして実現するのか。それは通常の授業によっては実現できない。結果として得られた哲学的な諸真理を伝えるだけでは、単なる哲学の歴史の授業に過ぎない。そうではなく、生徒が「自分で考え、抽象の技法を自ら行なう」授業が求められる。このとき模範となるのがソクラテスである。(中略)
しかし教育は、生徒に対して外的影響を行使することである。外的影響に左右されない人間を、外的影響によって育てる。これは可能なのか。ネルゾンによれば、外的影響の意味を二つに区別することで解決できるという。すなわち、単なる「外的刺激」と「外的決定の根拠」である。外的決定の根拠を教える場合、それは他人の考えを受け入れるよう強制することになる。他方、外的刺激を通して、人間精神本来の「自ら判断し行動する」という活動が呼び覚まされうる。それゆえ、哲学の授業は「哲学的理解を阻む外的影響を計画的に弱め、哲学的理解を促す外的影響を計画的に強める」ことを課題とする。」128-129頁

で、外的影響を二つに区別するとして、教育学は伝統的に「興味」という外的刺激を効果的なものとし、単なる「注入」を悪いものと考えてきた(ヘルバルトとか)。パッと見、ネルゾンの言う「単なる外的刺激/外的決定の根拠」の区別は、伝統的な「興味/注入」という区分とはかなり違うように思える。その違いは、具体的には「技術」の有無にあるように思える。ネルゾンの方には対話を効果的に導く技法への配慮が見える。とはいえ、ヘルバルトも「興味」を放任するのではなく、「教育的タクト」という技術的概念を提出しているわけで、実は本質的なところで重なり合ってくる可能性はある。

堀江剛著・中岡成文監修『ソクラティク・ダイアローグ 対話の哲学に向けて』大阪大学出版会、2017年

【宮城県白石市】片倉小十郎と真田幸村の墓が白石城の西にある

 白石城は、残念ながら100名城には漏れてしまいましたが、続100名城に選出されております。その名に違わず、復元された三重櫓など、たいへん堂々として格好いいお城です。

 三階の花頭窓がとてもオシャレであります。

 大手一の門も復元されていて、奥の三重櫓と並べて見ると、とても格好いいです。
 本丸御殿はありませんが、かつての勇姿はヴァーチャルで復元されております。

 築地塀の中、いっぱいいっぱいの建築物ですね。

 復元された三重櫓は、中に入ることができます。
 江戸時代の図面どおりに復元されており、階段がとても急です。天辺から見下ろすと、白石の町を一望できます。けっこう高いところに建っているのが分かります。

 暑い日でしたが、三重櫓の天辺に吹き抜ける風は清々しかったです。天上の梁の様子も観察できて、大満足です。

 二の丸の方は、現在は公園や野球場として整備されています。

 二の丸には地元の大横綱「大砲」の像が建っています。肩越しに三重櫓の勇姿。

 二の丸から西に向かって20分ほど歩くと、片倉小十郎と真田幸村の墓があります。

 廟所駐車場の入口にある「あたご茶屋」には、各種真田幸村グッズが取り揃えられておりました。ファンが訪れるのでしょうか? 私はソフトクリームとコーヒーをいただきましたが、コーヒーにはオマケで花林糖がついてきました。

 駐車場から階段を登り、墓地の一番奥に片倉小十郎歴代御廟があります。片倉家の歴代当主はみんな小十郎を名乗っているんですね。

 案内板を見ると、白石の人々もやはり明治維新で苦労しているようです。

 諸行無常、静かに合掌。

 片倉家御廟から真田幸村のお墓までは、残念ながら山の中の道は繋がっていません。一度駐車場まで降りて、一般道を西に向かいます。
 幸村のお墓だけあるのではなく、正式には「田村家の墓」の中の一つが幸村のお墓です。

 幸村の娘が田村家に嫁いだ縁で、幸村もこちらで慰霊されることになったわけですね。

 墓所は、けっこう林の奥に踏み入った場所にあります。

 こちらが幸村の墓石です。ほとんど加工されていない墓石の、その簡素さに、むしろ心を打たれます。
 ちなみに墓石の左前方に据えられた石碑には、「二代片倉小十郎重長公後室御父眞田左衛門左源幸村御墓」と刻まれています。左の列は欠けていて読めない文字がありますが、元和元年五月七日戦死とあるのは読めますね。で、「信繁」ではなく「幸村」となっているところが、多少気にかかります。明らかに墓石とは作られた年代が違っているように見えるので、後世、何らかの事情でこうなったであろうことが推測されるところではありますが、詳しい事情はまったく分かりません。

 諸行無常、強者どもが夢の跡、掌を合わせて白石を後にするのでした。
(2018年9月訪問)

【要約と感想】ルクレーティウス『物の本質について』

【要約】神など持ち出すまでもなく、世界を説明することは可能です。雷だろうが、地震だろうが、日食だろうが、なんだろうが、すべて「原子」の振る舞いによって合理的に説明することができます。そうやって神様抜きで物事の本質を捉えれば、迷信から抜けだし、不安が消えてなくなり、平穏で幸福に暮らすことができます。

【感想】エピクロスの教説を、ほぼそのままなぞっている。原子説や、自由意思の発生の根拠や、気象地質学に関する見解や、幸福と倫理に関わる議論や、社会契約論など、基本的にエピクロスからの逸脱は見られない。

 顕著な特徴を挙げるとすれば、繰り返し強調される「宗教」への敵意だろうか。ルクレーティウスによれば、この世の不幸の原因は全て宗教(あるいは宗教による迷信)にある。雷や地震などの自然現象を徹底的に合理的に解釈するのは、宗教による迷信を取り払うためだ。
 とはいえ、彼の自然科学的な説明は、現在の科学水準からすると、思わず笑ってしまうほどトンチンカンではある。が、故に、真空中での物体の落下速度は等しいとか、可算無限の等質性とか、エネルギー保存法則への言及があるところには、けっこう驚く。

【要確認事項】
 個人的に気になったのは、全体的な論調がルソーを思い起こさせるところだ。特に似ているのは、(1)自然科学に対する素朴な信奉、(2)人間の自然状態を根拠とした社会契約論にある。

(1)自然科学の知識に関しては、もちろんルソーの水準はルクレーティウスを遙かに上回ってはいる。また、ルソーは物理学というよりも普遍的な数学理論の方をより本質的なものと見ているようではある。とはいえ、自然科学的な知識を土台として世界を合理的に見ていこうとする姿勢は、極めてよく似ているように思う。

(2)そしてそれ以上に気になるのは、自然状態を根拠とした社会契約論がよく似ていることだ。特に本書の議論は、要所要所でルソー『人間不平等起源論』を直ちに思い起こさせるような言い回しに溢れている。ルソーがエピクロスやルクレーティウスからどの程度の影響をうけているのか、専門家でない私には今のところ見当がつくわけはないが、素人でも明らかに気がつく類似であることは、メモしておきたい。

 その上で、ルソーとの決定的な違いは、ルソーがそれでも最後には神の存在を認めている点と、社会契約論を単なる現状説明で終わらせずに理想の社会を描いている点にあるように思う。

【今後の研究のための備忘録】社会契約説
 本書に見られる社会契約説的な議論は、単にスローガンを掲げるだけのエピクロス教説とは異なり、人間の自然状態の記述から説き起こしており、近代の社会契約説を直ちに想起させるものとなっている。(ちなみにエピクロス本人も、今はすでに失われてしまった書物のなかで社会契約論を詳細に展開していた可能性は高そうだ)

「彼らには共同の幸福ということは考えてみることができず、又彼ら相互間に何ら習慣とか法律などを行なう術も知ってはいなかった。運命が各自に与えてくれる賜物があれば、これを持ち去り、誰しも自分勝手に自分を強くすることと、自分の生きることだけしか知らなかった。又、愛も愛する者同志を森の中で結合させていたが、これは相互間の欲望が女性を引きよせた為か、あるいは男性の強力な力か、旺盛な欲望か、ないしは樫の実とか、岩梨とか、選り抜きの梨だとかの報酬がひきつけた為であった。」958-987行

「次いで、小屋や皮や火を使うようになり、男と結ばれた女が一つの(住居に)引込むようになり、(二人で共にする寝床の掟が)知られてきて、二人の間から子供が生れるのを見るに至ってから、人類は初めて温和になり始めた。なぜならば、火は彼らにもはや青空の下では体が冷え、寒さに堪えられないようにしてしまったし、性生活は力を弱らしてしまい、子供達は甘えることによってたやすく両親の己惚れの強い心を和げるようになって来たからである。やがて又、隣人達は互いに他を害し合わないことを願い、暴力を受けることのないよう希望して、友誼を結び始め、声と身振りと吃る舌とで、誰でも皆弱者をいたわるべきであると云う意味を表わして、子供達や女達の保護を託すようになった。とはいえ、和合が完全には生じ得る筈はなかったが、然し大部分、大多数の者は約束を清く守っていた。もしそうでなかったとしたならば、人類はその頃既に全く絶滅してしまったであろうし、子孫が人類の存続を保つことが不可能となっていたであろう。」1011-1027行

【2022.8.18追記】ルネサンス期への影響
 ルネサンス期の人文主義(フマニスム)を勉強していて、このルクレティウス(およびそれを通じたエピクロス主義)が想像以上に大きな支持を受けていることを認識した。たとえばロレンツォ・ヴァッラ(『快楽について』)、テレジオ、パトリーツィなどがルクレティウスに好意的に言及している。また内容的にはルクレティウスを非難するピコ・デラ・ミランドッラも、雄弁的な観点からはルクレティウスを評価していたりする。実は感心していたのではないか。はたしてルネサンス期にルクレティウスが復活することを通じて、後の自然科学や社会契約説勃興への道ならしが行なわれたなんてことはあるかどうか。

ルクレーティウス『物の本質について』樋口勝彦訳、岩波文庫、1961年

【感想】青年劇場「キネマの神様」

青年劇場の「キネマの神様」という演劇を観てきました。原作は原田マハの小説です。

*以下、ネタバレを含みますので、劇を見たり本を読んだりする予定がある方は、見ないようにしてください。

 

 

見たあと、とても幸せな気分になれる作品でした。それぞれ問題を抱える登場人物たちが、協力して一つのプロジェクトを成功に導いていく過程で、自分自身の問題を解決していくという筋書きです。登場人物たちの問題が複雑に絡み合うため、筋書きそのものは単純ではないのですが、一つのプロジェクトが成功に向かって行く柱が分かりやすく、最後まで作品世界に入りこんで楽しむことができました。

登場人物たちが抱える課題とは、
(1)アラフォーのヒロイン:思い込みが激しい性格が災いして、長く勤めた会社を退職。
(2)ヒロインの父親、ゴウちゃん:ギャンブル依存症で多額の借金を抱えている上に、心筋梗塞で倒れる。
(3)名画座の主:時勢の流れに逆らえず、名画座を畳まなければならないと思い詰める。
(4)映画雑誌の編集長:夫が自殺し、ひきこもりの息子を抱えている。
(5)ひきこもりの息子:ひきこもっている。
という具合なわけですが。

こういう問題を抱えた登場人物たちが、協力して「キネマの神様」という映画評論サイトを立ち上げ、自分の持ち味を存分に発揮していきます。それぞれの持ち味がチームの中でがっちり噛み合って、奇跡的な成功に向かって行きます。きっと誰か一人が欠けただけでも、この成功はもたらされなかっただろうなと思います。一つのプロジェクトを成功させようと全員が真剣に取り組むからこそ、お互いの持ち味を尊重し合い、自分の能力を最大限に発揮して、チームが一つに固まっていくのだなと思いました。

ゴウとローズ・バッドが論争のやりとりの中から友情を紡いでいく過程も、とても刺激的でした。最初はゴウを見下していたローズ・バッドが次第に相手の人格を尊重し始め、最終的にかけがえのない友情を築き上げていく展開には、ついホロリとしてしまいました。
お互いの人格を認め合えないまま相手を罵って一方的に勝利宣言して終わる昨今の不毛なtwitter的論争と比較した時に、なんと奇跡的な「論争」でしょう。こういった論争を成立させるためには、どうしても「映画を愛している」という共通項が存在しなければならないのでしょうけれども。愛している映画の前では、自分のプライドなんて、ちっぽけでつまらないものなわけですから。
ローズ・バッドは、ゴウの映画批評に対して「人間性が表れている」というような意味のことを言いました(正確な表現は忘却)。私も本の感想などいろいろなことを書き散らかしている身ではありますが、ちゃんと私の文章に私の人間性が表れているかどうか。まずは「自分自身に嘘をつかない」という意識を徹底しなければいけないなと、劇を見ながら思った次第です。

要所要所で織り交ぜられる細かいギャグも効果的で、最初から最後まで集中して見られる舞台でした。とてもおもしろかったです。

■青年劇場「キネマの神様