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【要約と感想】林竹二『教育の根底にあるもの―決定版』

【要約】日本には教育がありません。学校が子供たちを死に追いやっていることを、教師は自覚すべきです。教師が権力性を放棄しないと何も変わりません。教育とは何かを教え込むことではなく、子供の中に眠っている宝物を呼び覚ますものであり、授業とは自分が成長する実感と喜びを伴ったものでなければなりません。(1983年の講演記録)

【感想】子供たちの写真が衝撃的。授業を受ける過程で、みるみる表情が変わっていく。外在的な知識を与えられているのでは、こうはならない。私の授業では、最初から多くの学生が机に突っ伏して表情すら見えないが。そもそも授業とは、子供の中にある可能性を呼び覚ますものでなければならない。借り物の言葉を溜め込むのではなく、心から本当に分かったと思えるのが、真の授業だ。そうするためには教師は自らの権力性を意識し、廃棄しなければならないと言う。それが難しい。「教えなければいけないこと」は、教師たちの思いとは関係なく、上から降ってくる。教職課程でも「コア・カリキュラム」なんてものが上から降ってきた。そんなことで本物の教育になるのかという反省もなしに。

あと、特殊学校の教育に関する対談の中で、障害児の人間的発達に対する感動的な実践とともに、それに携わった先生に対するカウンセリング的対話が衝撃的だった。なかなか恐ろしい本だ。

林竹二『教育の根底にあるもの―決定版』径書房、1991年

教育概論Ⅱ(中高)-1

▼語学・心カ・教福・服美・表現 9/16
▼栄養・環教 9/19

授業の目的と評価

・最終的な目的は、「教育課程」とは何か?を理解すること。
・前半は「ナショナリズム」について考え、国家が教育に果たす役割について理解する。
・評価は、期末テストと提出課題(全2回予定)によって行う。出席が足りていない者には受験を認めない。
・出席は、基本的にmanabaを利用する。スマホが使えない者は、紙媒体等で出席を取るので、授業後すみやかに申し出ること。
・質問は、120周年記念館11階1110室まで。

教育概論Ⅰのおさらいと反省

・様々な近代教育の形。リテラシーの教育、人格形成の教育、義務教育、産業が必要とする教育。
・様々な矛盾が噴出。「近代」から「現代」への変化に伴って、教育に期待される働きや機能も変化する。近代教育は賞味期限切れなのか?
・近代と現代の境界線については様々な議論があるが、ある特定の年代を想定するわけではない。近代という時代の特徴(市民社会・資本主義・世界史等)を踏まえた上で、その有効性が崩れてきている新たな時代を「現代」と捉える。

(1)メディアと教育

・リテラシーの在りようが根本的に変化する。
・ポストマン『子どもはもういない』1985年。子供のような大人、大人のような子供。秘密のないメディア。大人と子供の境界性の崩壊。
・インターネットの急速な展開。コミュニケーション様式の根底からの変貌。「1×1」→「1×n」→「n×n」。タテマエとホンネの境界線の崩壊。
・そもそも教育にとって学校という形は絶対に必要なものなのか?

(2)自己実現のワナ

・「人格の完成」の有り様が根本的に変化する。
・「自由」は本当にすべての人々を幸せにするのか?
・すべてを自分で決めなければいけないことのつらさ。「夢を持つ」ことの難しさ。「やりたいこと」や「なりたい自分」が見つからないとき。
・たとえば「自由に作文を書け」と言われた時の子供たちの困惑。「内面」の強制的な捏造。むりやりに「やりたいこと」や「なりたい自分」を捏造しなければならない圧力。
・肥大化する自己愛と自己顕示欲。リア充アピール。
・承認の欠如。自分探しの旅と自己啓発セミナー。ひきこもり。
・個人主義の限界。そもそも「何が幸せ」なのか、わかっているのか?
・かといって「絆」とか「愛は地球を救う」などという言葉に信頼を置けるか?

(3)権利としての教育?

・義務教育の有り様が根本的に変化する。
・貧困の再生産。権利を保障されない子供たち。
・単なる再配分機関としての学校。偏差値至上主義。権利を権利と思えない子供たち。学校に期待を寄せるどころか、学校によって希望を奪われる。
・学校化する社会。マンガ家養成校、アイドル養成校等。あらゆる専門知識が学校知に分解・再編成され、パッケージ化され、商品化・市場化される。学校に行けば(金を払えば)必要な知識が手に入る。
・教育は市場化されたサービス(消費財)の一種に過ぎないのか?→「教育と市場」に関わる問題は、教育学Ⅱで詳述。

(4)労働と教育

・産業構造が根本的に変化する。
・分業体制によって、「働く」ということの意味が拡散。生活することと働くことの乖離=疎外。生活することが「消費すること=お金を使うこと」と同じ意味になってしまうと、働くことは生きることではなく単に「お金を稼ぐこと」になる。
・生活の全体性(生きる意味)を取り戻すことはできるか?
・AI(人工知能)への恐怖と期待。仕事を奪われるのか、それとも人間が働くことの意味を取り戻すのか?
・人間だからこそやれることとは、何か?

(5)国家と教育

・国家が教育に果たす役割が大きく変化する。
・内的事項と外的事項の区別は実際に成立しているか?
・個人の人格形成と国家が求める人材養成との関係。
・国家の教育への関与の実際→学習指導要領、教科書検定。

復習

・近代になって成立した「教育」の形を総合的に捉えよう。
・近代教育が崩れかけて様々な問題が生じていることを認識し、これからの教育の姿を構想してみよう。

予習

・「国家」とは何か、「国家が教育に果たすべき役割」とは何かについて、考えておこう。

【感想】ライオンキング

劇団四季『ライオンキング』を観てきました。

歌もダンスも大変な迫力で、見応えがありました。大掛かりな演出にも驚かされるし、細かいギャグなどで笑いも絶えないし、時間を忘れさせる素晴らしいステージでした。役者さんの鍛えられた肉体美を見ているだけでも楽しい。主役以外の人たちも、分厚い胸板に、はち切れそうな太腿。絶え間ない躍動感が刺激的。とても良かったです。(以下ネタバレ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあ、話の内容は、どうかなあという感じ。悪役になってるスカーやハイエナたちが可哀想すぎる。生まれたときに醜いものは更生の余地がない悪であるというようなメッセージに思えて、いたたまれない気持ちになる。彼らも精一杯生きているだろうに。スカーは、虐げられていた弱者であるハイエナに自分と同じ境遇を見ていた気がする。王であるムタファは、醜く汚いハイエナを排除するだけで、彼ら弱者の気持ちを分かろうとはしない。おそらくシンバも。醜い弱者であるハイエナや自分も「愛してもらえる」ような社会にしたいという思いは、そんなに悪いことだろうか? それに、スカーが王を簒奪してからの天候不順は、べつに彼のせいじゃないだろう。シンバが王位に就いたら天候不順は解決するのか? しないだろう。スカーが「愛される兄にあって愛されない自分に足りないものはなんだ」と問うていたけれども。何かが足りてようが足りてなかろうが、そんなこと関係なく、全ての存在に愛される価値がある、そんな世界をスカーは夢見ていたんじゃないか。
主役のシンバもシンバで、乗り越えるべき葛藤が内在的には曖昧なまま、外在的な偶然でうまくいくに過ぎない。父殺しの葛藤は、もっと内在的に熟成させないといかんだろう。本当にあれで成長してるのか? シンバが王座に就いたところで、再びハイエナたちを排除し境界を作るのでは、ただ階級構造を再生産するに過ぎない。ハイエナたちも交えてみんなが幸せに暮らせる社会を作ることで父を超えていく、あるいは父とスカーを止揚するというところを見せないと、成長とは言えない。が、シンバが王になってどんな国になるかは、暗示すらされない。おそらく階級構造再生産に終わるだろうことは容易に想像が付くけれども。
とまあ、脚本の柱に対して思うところはなくはないが、役者さんたちの演技はこの上なく素晴らしかったということで。ひょっとしたら、話の柱に対する私の感想も、スカーの役者さんの演技が素晴らしすぎたということに由来するのかもしれん。ただの悪い奴にはどうしても見えなかった。




【要約と感想】村井実『新・教育学の展望』

【要約】教育学は自律した学問として成立していません。それは教育の本質を学問の土台に据えてこなかったからです。教育の本質とは「よく生きよう」とする人間の姿勢にあります。しかし残念ながらこれを誤解してしまう傾向が人間にはあり、まずその克服をしなければなりません。「よさ」が外部に存在していると思い込む実在的偏向、「よさ」が倫理的なものに限られると思い込む倫理的偏向、「よさ」を快楽と同一視する快楽的偏向です。

【感想】教育学が自律した学問として成立しておらず、隣接諸科学からもさほど敬意を払われていないことは、まあ、肩身の狭い経験をした人なら実感するところではある。それを乗り越えるために、教育学の目的と対象を明確にしようとしたりとか、様々な取り組みはしてきたわけだけど、まあ、そうこうしているうちに人文諸科学全体が同じような肩身の狭い思いをするようになってきている気もする。

そんな中、村井実の我が道を行く独自の教育学体系が存在しているという事実自体に、心強いものを感じる。教育学の自律をこれほど強く求めている人は、国内外含めてなかなかいない気がする。プラトン思想を偏向していると一刀両断できる力強さは、他の人の言葉には求め得ないんじゃないかな。教育学は「雑学」であると居直るのもアリだとは思うけど、愚直に学問としての自律を追究し続ける著者の姿勢には、素直に敬意を感じざるをえない。

村井実『新・教育学の展望』東洋館出版社、2010年