【要約】自然状態においてすべての人間は平等でしたが、人間は固有の完成能力によって自己を改善した挙句、ついに私有財産を思いついて社会状態に移行します。しかし社会状態においては金がすべての頽廃した世の中となって貧富の差が拡大し、不平等が正当化されます。しかしもう後戻りはできないので、文芸によって徳を保つ努力をするしかありません。
【感想】自然主義の元祖のような本だ。まあ文明社会に嫌気がさして自然に還るという発想は東洋では老子・荘子から見られるし、西洋でも隠遁的修行者や修道会主義など反文明主義的に振る舞う個人・団体は古代から近代まで枚挙にいとまがない。おそらくそういう自然主義的心性の系譜に連なりながらも本書をその元祖的なものに感じさせる理由は、人類学や生物学の洞察を基にした科学的な自然状態の描写(もちろん現在の知見からは素朴すぎるが)と、ホッブズを批判的に継承した法的・政治的な社会状態の描写(もちろん後の社会契約論に比べれば素朴だが)という独創性にあるのだろう。個々のパーツには既視感があるし、全体的なメンタリティについても類似のテキストはいくらでもあるのだが、勃興しつつある資本主義社会の矛盾を(成功しているかどうかはともかく)本質的に抉ろうとする論理構成がユニークだ。ところどころ隙だらけの記述(18世紀当時からツッコミ満載)だが、それを補って余りあるオリジナリティと描写力で、名著に数え入れて間違いない。まあ、反ワクやEM菌の人が読むと大喜びしそうな本ではある。同時収録のヴォルテールの手紙は科学至上主義の人が反ワクの人を揶揄するかのような論調でルソーを批判しているわけだが、人間は300年前からあまり変わっていないようだ。
【要検討事項】本書に展開された人間論については、「尊厳」という概念と関わって、精査を要する。本書の人間論がルネサンス期までの論調と決定的に異なるのは、大航海時代のインパクトが露骨に反映している点だ。南北アメリカ大陸の人類学的知識や、アフリカの類人猿に関する生物学的知見が、議論のそこかしこで極めて重要な役割を果たしている。その新たな科学的知見は、古代以来の宇宙論的ヒエラルキーであった「神/人間/動物」の「地位」を揺るがす。たとえばルソーの論敵であるフィロポリスは、「人間は世界のなかに占めるべき地位の要求するとおりのものなのです」(201頁)と言っているが、これは素直に古代以来のヒエラルキーを踏まえた伝統的な物言いだ。フィロポリスは続けて、人間は「神」とも「オラン・ウータン」とも異なるように造られたと強く主張する。ルソーが古代以来のヒエラルキーに反して人間と動物の境界線を破壊したことを批判しているのだ。ルソーは自然状態における「未開人」について人類学や霊長類学の知見を踏まえて述べたが、それは従来の「人間/動物」の「地位」の区別をないがしろにする姿勢と受け取られた。ちなみにフィロポリスの言う「地位」が原語でdignityだとすれば、それは現代では「尊厳」という意味を持つ。ルソーの主張はフィロポリスからは伝統的な人間の「地位=dignity」を変更しようとする試みと受け取られたが、だとするとそれは同時に人間の「尊厳=dignity」に新たなステージを切り開く試みということでもある。ちなみに「神/人間」の境界線については、既に14世紀エックハルトやクザーヌスなどの神秘主義が「神」の側から切り崩し、15世紀以降はピコやエラスムスが「人間」の側から切り崩し始めている。こういう動きの中から人間の「地位=dignity」が変更され、「尊厳=dignity」の再定義が進行したのではないか。
【個人的な研究のための備忘録】人格
ホッブズと比較したときに、ルソーはほとんど「人格」という言葉を使わない。というか、ロックやスピノザと比較しても、ホッブズだけが突出して「人格」という言葉を頻発する。それ自体が大きな論点になるわけだが、ルソーにも用例がないわけではない。以下にサンプリングしておく。
この用例の「人格」は、責任がとれる法的主体というような意味合いを持つ。「人民」は複数の人間から構成され、「主権者」も君主制以外では複数の人間から成る以上、ここでいう「人格」がある特定個人の身体をイメージさせることはあり得ない。だから現代日本における「人格」の用例(ある特定個人を想起させる)からはそうとう外れていて、法的な意味での「人格」を意識しない人にとっては意味がとりにくい記述になっているだろう。
この用例の「人格」とは、ある特定個人の「道徳的な善悪」という意味合いを持つ。こちらは現代日本の「人格」という言葉の用例と極めて近い響きを持ち、違和感なく理解されるだろう。
【個人的な研究のための備忘録】改善能力
本書を理解するうえで重要なキーワードの一つにperfectibilitéがあり、本書は「改善能力」と訳している。解説では「ルソーは、人間と動物を区別する重要な特徴、つまり人間が社会を、歴史をつくりだす能力の潜在を指摘する。それをルソーは「改善能力」perfectibilitéと名づける。」(273頁)と言っている。
この概念が教育学的に問題になるのは、たとえば教育基本法第一条で言う「人格の完成を目指し」の「完成」という概念に深く関わってくるからだ。また「完全性」という概念は古代プラトンやアリストテレスから中世スコラ学、あるいはニーチェに至るまで「個性」という概念と密接な関連を持つ。そういう概念史を踏まえると、この段階(近代の入り口)でルソーがperfectibilitéという言葉を造語したことは、なかなか奥が深い意味を持つように思えるわけだ。
ただ、スピノザやライプニッツの言う完全性という概念はアリストテレスの「個」に関する議論を引き継いで目的因とかエンテレケイアという概念と響きあうのに対し、ルソーの言うperfectibilitéには目的因とかイデアという観念の色は薄い、というか、ない。だからなのか、本書の訳でも「完全」とか「完成」というニュアンスの日本語ではなく、「改善」というプロセスを前面に打ち出す言葉を選択している。教育学的に「教育可能性」とか「発達可能性」という言葉で言い表そうとしてきた概念に近い印象を受ける。ルソーが他の思想家と異なる特徴を持っているとして、その根本的な要因は実はこのあたりにあるのかもしれない。
【個人的な研究のための備忘録】教育
本書は教育を中心に語ったものではないが、教育に言及しているところはサンプリングしておく。
教育という営みが自然状態に属するものではなく、堕落した社会状態に伴って出現し、不平等を拡大する制度的原因になると批判しているところだ。ルソーの主張するメカニズムが正しかったかどうかはともかく、現代日本において教育が不平等を拡大し、固定し、正当化するものになっていることは間違いない。
また別のニュアンスで「教育」という言葉を使用している。
この「教育」は、先ほどの不平等を拡大する制度としての教育ではなく、道徳的な人格を形成する機能という意味合いで使用されている。スパルタでは大人たちが意図的に関与するという教育で子どもの人格が形成されたのではなく、質実で純朴な「法律」の精神そのものが子どもの人格形成に決定的な役割を果たしたという主張である。おそらくこの見解は、『エミール』においても「もはや現代では不可能な理想的教育」というニュアンスで言及されている。法が教育にとって決定的な役割を果たすという見解はルソーにオリジナルなものではなく、プラトン『法律』やキケローに見られる西洋思想に伝統的な考え方ではあるが、現代資本主義社会では完全に失われた感覚だ。現代では、法律は単なるルールに過ぎず、道徳や教育とは無関係なシステムと理解されている。
【個人的な研究のための備忘録】社会契約論
本書は社会契約論について真正面から考察したものではないが、「自然状態」と「社会状態」を原理的に区別して、その移行メカニズムに言及する以上、必然的に社会が成立する条件について考察せざるを得ない。まずルソーはホッブズを批判する。
ホッブズは「自然状態」をそのまま「戦争状態」と描写したが、ルソーはその認識を批判して「自然状態」こそが理想的な平和を実現していたと主張する。だから「社会状態」についての見解も必然的に異なり、ホッブズは社会状態を必要悪としたが、一方のルソーは端的な堕落状態(つまり悪)と理解した。
そしてルソーの「社会状態」や「契約」の理解について、本書と後の「社会契約論」でどういう関係にあるのかが研究的には大きな論点となる。
解説ではこの文章に触れて「ルソーはここではまだ『社会契約論』の思想に達していない。服従契約の考え方を出ていない。」(240頁)と言っているが、個人的には疑問なしとしない。確かにルソーは「服従契約」に即した記述をしているが、それはただ「深入りしない」で「世の通念にしたがって」「みなす」というふうに、何重にも留保をつけている。そして続く文章で「その中[基本的な法律]の一つは、残りの法律の執行を監視する任務をもった為政者の選択とその権力を規定している」としているので、実はこの時点で『社会契約論』と同じ水準の理解に達していて、本当に単に「深入りしない」だけだったに過ぎない可能性があるように思う。
また社会契約論に関しては、以下の解説の記述も気になる。
ルクレーティウスはルネサンス以降再評価されていて、ホッブズやガッサンディなど社会契約論者も読んでいることが分かっている。ルソーへの影響がどれほどのものだったか、気になるところだ。
■ルソー/本田喜代治・平岡昇訳『人間不平等起原論』岩波文庫、1972年<1933年