【要約】科学のように物事を三人称で表現しようと試みる道具的なことばに対して、ソクラテスは世間(第三者)の評価が紛れ込むような欺瞞的な「わたしたち」のことばを使わず、私とあなたの一対一の問答を通じて主体的な真理を見出すため、自分の知覚したことを率直に表現する一人称単数の哲学を貫きました。しかし西洋哲学は、スピノザやカントなど少数の例外を除き、不肖の弟子プラトンからフッサールに至るまでソクラテスの姿勢に反し、三人称の真理を追究してきました。しかし「死」に直面した時、人は必ず「わたし」に引き戻され、「命」に向き合う大切さに気がつくはずです。
【感想】著者が主張するところの「一人称単数」(かけがえのないわたし)のコミュニケーションの重要性については、よく分かるつもりだ。でもそれは、詩や小説やマンガなど、さらには絵や音楽やダンスなどの芸術表現で常に行われていたことではないか、とも思う。そういう営みに目を向けず、あえて哲学の世界でそれを追及しようとする試みにどのような意味があるのか、疑問なしとはしない。思い返してみると、たとえばフランシス・ベーコンは、そのあたりまでしっかり射程に入れて「学問」全体の議論をしている。個人的な知覚(直観)に基づいたコミュニケーションや表現は芸術に任せて、哲学は別の仕事をする、ではいけないのか。一人称単数のコミュニケーションを目指すなら、哲学者ではなく文学者になるのではいけないか。ルネサンス期にピコ・デラ・ミランドラが哲学者でなく雄弁家を目指したように。あるいは言語学的な探求ではいけないのか。バンヴェニストのように。ソクラテスがやっていたことは、「知を愛する」ことであって、哲学ではないのだろう。あるいは、ソクラテスがやっていたことだけを「哲学」と呼びたいのであれば、なるほど、副題が「ソクラテスのように考える」となっていることに合点がいく。
【個人的な研究のための備忘録】教育
本書では、著者は現代の学校教育を反ソクラテス的な営みとして引き合いに出してくる。
「ソクラテスが裁判で訴えられた問題の一つは、若者の教育問題であった。訴えたメレトスは、人間の教育は広く社会的になされるものだと主張した。さらに、ソクラテスが『弁明』でさまざまに述べているように、町なかで人を呼び止めて始められる彼の問答は、一人を相手にする一対一の問答であった。」46頁
「現代日本の学校教育は、「みなと同じように考える」ことを教える教育である。これは一様な考えを身に付けた一人の教員によって、多数を相手にできる演説教育である。なぜなら、「一様な考え」を教えることは、つねに「同じこと」を「知るべき知識である」と教えることだからである。しかしこの教育では、そのなかでどんなに「個性の尊重」を唱えても、「自分で考えて世界を変える」個性的判断能力は育たない。」180頁
「人間の一生を支える正しい教育は、「自己」に気づくことができる年齢からの正しい「自己教育」から始まる。なぜなら、「わたし」は、自分が他者とは異なる存在であることを意識していなければ、「自分の知覚」を大切にすることはできないからである。そして、自分の知覚を大切にすることが、すでに述べた理由で、「真理を知る」第一歩である。」183頁
なるほどだ。しかしその程度のことなら200年前にヘルバルトが既に気がついていて、人格の形成と知識の取得を「思想圏の拡大」や「多方の興味」という契機で止揚している。科学的教育学の始祖によれば、客観的な知識の獲得と個性の尊重は、まったく矛盾しないどころか、相互に補完的な関係にある。あるいは古代中国でも、論語が「學びて思はざれば則ち罔し。思ひて學ばざれば則ち殆し」と言っている。知識だけでは個性を失うが、個性だけでは人々を不幸にする。
■八木雄二『1人称単数の哲学―ソクラテスのように考える』春秋社、2022年