【要約】「普遍論争」を縦軸に、ギリシャ哲学(理性)とキリスト教(信仰)を横軸に、西洋中世哲学の論理を、日本語の考え方との比較を織り交ぜながら概観し、現代日本で研究する意義を主張します。
中世哲学はしばしば神の存在証明を試みます。そもそも観察や実験によって物事を「客観的」に主体から切り離して第三者に共有できるような普遍的な真理を三人称で表現しようとする科学に対して、哲学は一対一の対話の場面で共有できる「ことば」を吟味することで主観的な真理を一人称で明らかにしようと努めるものです。中世哲学は、三人称の真理に対して、二人称の「神」を前にした一人称の真理を貫こうとする営為です。
【感想】話の流れの中で思いついたことを言いたい時に言うようなスタイルで、同じ話題が何度も繰り返されたり、論証に必要な前提がすっとばされたりするなど、論点がとっちらかって構造化されておらず、蓄積された研究史の中でどういう意味を持つかも意図的にか言及されないので、「だからなんなの?」と言いたくなるような場面は多いが、まあ、西洋中世哲学の基本的知識を持っていれば「ですよね」というような記述にもでくわして、全体的にはおもしろく読める。あまりにも現代人とは異質な中世人の思考を理解しようとする場合、こういう一人称スタイルの哲学書があってもいいのだろう。
【個人的な研究のための備忘録】人格=ペルソナ
とはいえ、やはり「ことば」は共同主観的に吟味させていただく。著者が言う「人格」と私が考えてきた「人格」とは、どうやら別のものを指しているように見える。
著者が他の著書でも主張している論点だが、個人的には強い違和感を持つ。個人的に研究してきたところでは、近代以降の「人権の思想」を中世からルネサンスにかけての哲学に見出すことは難しいと思っている。ポイントは、おそらく中世法学でlex(自然法)とjus(自然権)が分解していく過程にある。ギリシア哲学ではなく、ローマ法学が肝だ。著者も本文中でキケロに何回か言及しているが、基本的に雑魚扱いで、全体的にローマ文化を軽視している。おそらくその認識が根本的な間違いで、キケロの影響は「哲学」ではなく雄弁術も含み込んだ「法学」に色濃く表れるはずだ。たとえばルネサンス期の「人間の尊厳」概念は、哲学ではなく、雄弁術から立ち上がってくる(ピコ・デラ・ミランドラ)。そんなわけで、著者が「人権」や「人格」の概念の源泉を西洋中世哲学に見出そうとするのは、無理筋に見える。いやもちろん、中世法学は中世哲学と未分化に展開して、簡単に分けられるものではないが。
まずボエティウスによれば、「ペルソナ」personaの語は、劇で使われる「仮面」を意味するラテン語である。それが神のもつ「人格」を指すことばに転用された。「仮面」とはいえ、「表面」的なことだと受け取ってはならない。じっさい、キリスト教の誕生以前、キケロは、「顔つき」vultusは、その人間の「人格」を表すと考えた。また、アメリカ大統領リンカーンは、四十を過ぎたら自分の顔に責任があると言ったという。この逸話は、「顔つき」と「人格」との間の関連が、ヨーロッパ文化の基層にあることを示している。」204頁
哲学の世界では言われがちなこと(坂部恵)で著者の創見ではない記述だが、個人的にはもうこの「仮面」に基づく伝統的な説明が無理筋だと思っている。「法的人格」とは、その個人のあらゆる属性(性別・年齢・地位・財産など)に関わらず、ただルールにのっとって法的責任を果たす一個の主体として認識されるべきものだ。そういう「あらゆる属性を剝ぎ取られた一個の主体」を端的に示すのが「仮面」という表象であり、顔つきとは何の関係もないのではないか。ちなみにヘーゲルも「人格」という言葉を属性を抹消された「点」として認識している。
「じっさい『プロスロギオン』におけるアンセルムスの神の存在証明は、祈る相手である神を、「一個の人格」として見るのではなく、教会に属する人々の「客観的な対象」と見直すことによって、行われたものであった。つまり「神」を、「科学が対象にする客観的なもの」と見て、その存在を論じたものであった。他方、中世スコラ哲学によって、神の三つのペルソナが研究された。すなわち、三つのペルソナに共通に言われる「ペルソナ」という語が、注意深く吟味された。
たどりついた結論は、「人格」(ペルソナ)とは、一個の個別的で完全な理性的主体である、という結論である。それは(1)理性的性格(特徴)をもつが、身体的性格(特徴)をもたない。それは(2)個々の主体(実体)であるかぎり、普遍的に対象化されない。そして(3)理性的主体性をもつゆえに、自発的な意志活動をもつ。これは、ボエティウスに始まり、リカルドゥス、トマスを経て、スコトゥスに至るまでの結論だと理解してほしい。
ところで、自発的意思活動とは、自発的欲求活動であり、それは生命一般に見られる活動である。人間以外の命も、共通的に、個別で主体的な生命活動をもっている。したがって、個々の生命と、人格の違いは、「人格」には「理性」が加わっている、ということがあるだけである。
また、「完全」であるとは、「正しい」ということである。したがって、「完全な理性」とは、「正しい理性」racta ratioである。そして「正しい理性」とは、「真なることばに即して考える力」である。そして正しい理性で考えて行動する人は、正しい行動をする人である。そして正しい行動を取って生きる人は、良く生きる人であり、徳の有る人である。そしてこのことにおいて最高度に完全であるのが、神の人格である。」209-210頁
このあたりは常識的な理解のように見える。ただし三位一体と「人格」の関係を深めたのは、西ローマのカトリックではなく、東ローマ(ビザンツ)のギリシア教父だろう(坂口ふみ)。
これは稲垣良典が「再帰的な一」として詳細に展開したところだ。
哲学的にはそう理解されるところが、法学的には「責任主体としての能力を持つ」という基本的な理解になるだろう。だから近代まで、奴隷や女性や子どもは「理性」があるかどうかを吟味されるまでもなく、人格を持たないことになっていた。哲学的理解の前に、法学的現実があるはずだ。「よく生きる」かどうかは、哲学ではなく、法が決める。ソクラテスもそういうふうに生きた。
稲垣良典もそう主張する。なぜなら、「人格」という概念自体が「神の存在」を前提にできていると考えるからだ。田中耕太郎も前提としているだろうそういう発想自体が、個人的にはもうナンセンスに思える。
■八木雄二『「神」と「わたし」の哲学―キリスト教とギリシア哲学が織りなす中世』春秋社、2021年