【要約】ヨーロッパ文化の本質とは「普遍性」と「合理性」であり、その原型は中世にあります。中世はシャルルマーニュによるローマ復興に始まりますが、政治権力の正統性としてキリスト教と手を結んだことが重要です。キリスト教は現実的な政治権力と親和的です。
11世紀グレゴリウス改革によって、それまで権威的に人々から信仰を集めていたカトリック教会は、官僚組織を備えた実質的権力によって人々を統治するように変化しました。それが世俗国家のモデルとなります。世俗国家は「特殊」的な地域権力として発展していきますが、正当性を獲得するためには何らかの形で普遍と繋がる必要があり、その際に合理性が発揮されます。
しかし教皇が2人以上並び立って教会が分裂し、公会議運動が盛り上がることで中世は終わりはじめ、宗教改革によって決定的に近代に入ります。
【感想】うーん、著者は「合理性」はヨーロッパ(特にキリスト教)に特有のものだと主張するけれど、本書で具体的に言及される合理的なものの例を見る限り、その程度のものなら日本にも中国にもあるようにしか思えない。たとえば豊臣秀吉が関白を名乗る際に平安貴族の養子になってみたり、徳川家康が征夷大将軍になる際に新田氏との繋がりを僭称して源姓を名乗ったのは、本書が言う中世封建国家がキリスト教やローマ帝国の「普遍性」に繋がろうとして発揮した「合理性」と何ら変わりがない。中国では、たとえば歴代皇帝はどうして儒教を保護して「天」との繋がりをあれほど強調するのか。いや日本でも何かあるごとに「天」を持ち出して普遍性を主張したではないか。「政治的「特殊」は特殊のままでは政治的権威・権力としては正当性を獲得することができず、普遍性となんらかの形で関係を持たなくてはならない」(216頁)のは、西欧に限った話ではない。そして、著者はやたらと「歴史」について西欧と日本を区別するけれども、その根拠も薄弱なようにしか思えない。北畠親房や水戸光圀の営為をどう思っているのだろうか。ともかく要するに、本書を読む限り、ヨーロッパ中世に日本中世や中国中世と異なる個性を見出すことはできなかったのであった。まあ、よくある前近代の一つに過ぎない。
一方、西欧における「中世の終わり」は日本や中世とはかなり異なる個性的な出来事のように見えた。やっぱり日本や中国やイスラムになく、ヨーロッパにだけあったのは、「世俗化」の徹底だけだったのではないか。前近代の日本で古事記や日本書紀の虚構性を暴こうとした人はいないし、前近代の中国で「天」に基づく社会秩序を覆そうとした人はいない。
■鷲見誠一『中世政治思想史講義―ヨーロッパ文化の原型』ちくま学芸文庫、2024年<1996年