【要約と感想】上野修『スピノザ『神学政治論』を読む』

【要約】スピノザは聖書(特に旧約聖書)には真実が書かれていないことを次々と実証していきますが、聖書の誤謬を明らかにしたかったのではなく、聖書の内容に真実を読み込もうとする態度自体に何の意味もなく、信憑の形式的な条件を明らかにすることを目指しているのです。聖書とは一般の人々が正義と愛徳の世界で隣人を愛しながら平和に生きていくために「意味」があるものであって、科学的な真実を明らかにするために必要なものではありません。だから聖書が語る「内容」が正しいかどうかを詮索することにまったく意味はなく、預言や信託を語る人が「敬虔」であることに信憑に対する決定的に重要な効果があり、隣人愛を実現するための宗教というものはそれで問題ないのです。同じように、現実の国家政治においても、発言の「内容」の正しさなんてものはどうでもよく(だって人々は多様なのだから)、「形式」として正義と愛徳が実現できていることが決定的に重要です。だからこそ思想と表現の「自由」が尊いのです。
 しかしこのスピノザの真意は当時の人々にはまったく通じず、もちろん教会関係者から弾劾されますが、加えてデカルト的合理主義に与する人々からも非難されました。

【感想】「形式」と「内容」を峻別することでスピノザ(およびその敵対者)の論理を明らかにするお手並みは、お見事だった。そして確か丸山真夫が「形式と内容の峻別こそが近代」と言っていたような記憶があるが、だとすればスピノザこそが近代だ。しかし「実は内容と形式は峻別できない」と分かったのが現代なのだった。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約説
 社会契約説についても興味深い論が展開されていて、勉強になった。「形式」と「内容」を峻別して人々の形式的な自由を確保したとしても、しかし実際には具体的な「内容」が問題となる場合があり、その時に必要となる手続きがいわゆる社会契約説ということになる。しかしスピノザは「社会契約説は理論に過ぎない」とか「自然権は放棄できない」と言っていて、これはつまり「形式」から峻別された「内容」を完全に制御することはできないという洞察を示している。人間が具体的な権力において合意できる(あるいは国家権力が強制力を行使できる)のは「形式」としての自由の確保までで、「内容」については不断の対話の努力によって更新していくしかない。これが本来のリベラルというものなのだろう。

上野修『スピノザ『神学政治論』を読む』ちくま学芸文庫、2014年